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らんかみち

童話から老話まで

カマドンは男のロマンだ

2012年07月15日 | 陶芸


 窯出しの日、出てきた小窯ちゃんは一見すると無傷なのだが、煙突の内側とかにひび割れがあった。そして最も懸念していた部分は大きくひび割れていたが、元々穴を開けてある部分なのでむしろ好都合か。まあとにかく、爆発だけは免れていたわけだ。

 これを作った土は耐熱土鍋土というもので、初めて使ってみて驚いた。作って乾燥させるまでほとんど縮まなかったのだ。勘違いじゃないかと思ったけど、焼き上がっても全くといっていいほど収縮していない。
 窯ぎりぎりの大きさに作り、乾燥したら余裕で窯に収まるだろうと思っていたのに、大きすぎて窯の扉に当たるのでサンドペーパーで削らなくてはいけなかった。

 20kgの土を全て使って焼き上がったら16kgだった。20パーセントの水が抜けたのにサイズの変化が無かったということは、この陶器を顕微鏡的に見た構造はスカスカということになる。(だから爆発しなかった?)釉薬を掛けてないから、これに水を注いだら恐らく漏れてしまうだろう。

 すっぽん鍋というのは食ったことないけど、あれに使う鍋に水を入れたら、最初はじゃじゃ漏れするらしい。すっぽん屋さんはその鍋を高熱で焼きながら鍋を育てるのだそうだ。
 すっぽん鍋も構造がスカスカだから鍋がすっぽんの味を吸い込み、やがて水漏れが止まって使い込むほどに鍋からすっぽんの味が染み出してくるという。

 本当の話かどうか知らない、というか汚らしい気もするけど、すっぽん屋さんの付加価値としては面白い話だと思う。ぼくのピザ窯もスカスカだろうから、ピザを焼き続けることによって窯がピザの味を吸い込み、やがてピザに味が染み出して美味しく焼けるって寸法だ。 
 500度まで温度を上げるんだから、んなわけないだろっ! といった無粋なことじゃなく、ロマンでんがな、ロマン。

 男のロマンを一身に背負う窯は、名付けて”カマドン壱型”とする。どこぞの国の人工衛星と称する飛翔体を彷彿させる名前だが、なるほど、今は亡きかの国の将軍様もアレにロマンを託したのだね。

自家発電を考えるきっかけ

2012年07月13日 | 陶芸
 小窯ちゃんの焼成は、200度あたりでパキリという音がして、あっ、多分あそこが剥がれ落ちた! 窯に入れるときに手が当たり、少し破損したのを修復した所だと思う。覚悟はしていたのでどうってことないし、大きな爆発音は聞こえなかった。

 途中どしゃ降りになって、ここで停電したらどうすんだ! 灯油窯とはいえ電気がないと燃料を送れないし点火もできない。温度計も熱電対式の電光表示となっている。
 幸いなことに停電はしなかったが、計画停電があることを知らずに焼いていたら慌てたことだろう。生産の現場に立って初めてこの夏の危うさに気が付いた。そうだ、これからは発電機を用意して窯焚きをやろう。

小窯プロジェクトのラストスパート

2012年07月12日 | 陶芸


 小窯ちゃんの写真を見た人から「お宅の小窯ちゃん、セクシーでんな、ウへへへへ」というメールをいただいたことがある。しかし作者としては、これはどこか違和感がある、何かが違っている、小窯がこんなものであるはずがない、とウジウジ悩んでいた。
 ある日、もしかしたら屹立する煙突に問題があるのではないかと、煙突だけ壊して後方に曲げてみたところ、これだ、これぞぼくの小窯ちゃんだ! 

 胸にストンと落ちるものがあってから2か月近くが経過したろうか。作ること自体は数日だったけど、乾燥させるのに時間がかかったのだ。これほど大きいものを作るのは初めてなので、どれくらいの時間をかけて乾燥させて良いか分からなかったというのが正直なところ。

 乾燥の過程でひび割れすることはなかったけど、焼成で爆発する蓋然性は高い。上下を別々に作ってくっつけたから、接合部分に空気が閉じ込められていると思う。その空気は焼いているときに膨張して弾けてしまうだろう。そうなったら材料費の4000円はもとより、この2か月の努力が全て水の泡となる。そればかりか、使い道のない陶器の塊の処分に困ること必至だ。



 諸々の散財も悲しいが、2か月も付き合ったら小窯ちゃんに愛着を感じるようになって、こいつが爆発して出てくるのを見るに忍びない。ということで窯に入れる前と入れた後に写真を撮ってみた。
 今日1時間ほど窯に火を入れて130度まで加熱して更に乾燥させ、明日の本焼きに臨む。無事に焼けた暁には「カマドン壱型」と命名するつもりである。

美味しく感じる酒器ってある

2012年05月22日 | 陶芸
 地元の陶芸家から丁寧な詫び状をいただいたのは 昨年のちょうど今時分だったろうか。それから半年して、お詫びしないといけないのは、ぼくの方だったと気が付いた。未遂に終わったけど、先生に恥をかかせたかもしれないのだ。

 お詫びにお伺いしたものやら、それとも古傷には触れない方が良いのかと悩んでいたけど、お伺いして良かった。わだかまりといったものは元より無いが、事の顛末をかいつまんで説明して分かり合えたと勝手に思っている。

 罪滅ぼしというわけじゃないが、先生の作品を買わせていただいた。ぐい飲みと題されてはいたけど、一目でぐい飲みでも湯飲みでもないと直感した。今これを書きながら飲んでいるんだけど、先生はお酒を召し上がらない方に違いない。



「茶を飲まない者は茶器を作るな、酒を飲まない者は酒器を作るな」という教えは、我が陶芸クラブのご意見番であらせられる要釉斎先生の口癖であるが、全くもってその通りだと再認識させられる。
 傲岸不遜であるがゆえに付き合いたくないアマチュア陶芸家のロクロ子先輩などは、自身が大酒飲みということもあって酒器を作らせたらポイントを心得ている。

「あたしの器をくれてやるから酒を飲んでみんかい、どんだけあたしが凄いか!」と、小銭を地べたにバラ播くような態度でくれた酒器で飲む酒は、口惜しいけど美味い。
「目をつぶって飲んだら酒の味にかわりはあるまい」といわれたらそうかもしれないが、一度不味いと思った酒器は、いくら使っても馴染めない。自分で酒器を作れるようになった今でも、実は理解できていない部分がある。

 今日買ったぐい飲みは「練り込み」という高度な技法で作られていて、決して安くはないのだが、これで酒を飲みたいとは思わない。精神的にも1年以上支払い続けた、高い授業料だったなぁ。


良い作品が売れるとは限らない

2012年05月19日 | 陶芸
 バラ祭り初日、陶芸の作品を販売して得た収入の半分をクラブに納めて運営の資金にしないといけないのだが、このところ別件で忙しくて作品が出来ていない。昔の作品を出品するしかないので、陶芸公募展を主催したときのサクラ作品を出してみた。自分的には失敗でぞんざいに扱った作品なのだが、バラ祭りが始まる前に売れてしまった。

「子持ち水琴」と題した作品、たとえ器量が悪かろうが我が娘には違いない。嫁に行かれたら寂しいのが男親ってものらしく、ぼくもその例に漏れず落ち着かない。心の空洞を満たそうと、昔の写真など引っ張り出して往時を偲んでみたりする。



 それにしても不思議なのは、自分としては不細工だと思っても、他人から見たら器量好しに見えることがあるということ。それはクラブ内でも同じことで、あるメンバーが「失敗作だから100円で売り飛ばす」作品でも、他のメンバーにとっては喉から手が出そうになったりするのだ。

 同じシリーズの作品を大量にこしらえている人もいるが、失敗作の方が良く売れたりする。これは何年やっても分からないものらしく、陶芸技術の上手下手とも関係が無さそうだ。分からないことは、価値観の多様ってことにして、見て見ぬ振りを決め込むとしよう。



小窯ちゃんのゴールは遠い

2012年05月14日 | 陶芸


 小窯ちゃんはどうにか組み立てることに成功したものの、これくらいの大きさになると乾燥が進めば割れる可能性が高い。といっても今の外径は47cmくらいだから、陶芸窯には余裕で収まる。本来ならギリギリの大きさにしたいところだが、20kgの土を全て使っても足りなかった。

 これを陶芸窯で1180度まで温度を上げて焼く。普通の土は1250度程度だから70度ほど低いだけなのだが、ここが大事なポイントらしい。これ以上で焼結すると、膨張係数がずれた耐熱土になってしまうのだ。つまり急熱、急冷で割れやすくなってしまうということ。

 釉薬を掛けようかとも考え、ペタライトとリチウム化合物の釉薬は手に入れたけど、素焼きは省略するので、水に弱い耐熱土鍋土に生がけする度胸はない。。
 乾燥が上手くいったとしても、手びねりは窯の中で爆発する危険もある。継ぎ足し継ぎ足しした部分に空気が残っていることが多いのだ。焼き終えて炉から出してみるまでは予断を許さないのだ。それもそうだが、あと2日で乾燥できるかってのが目下の心配事である。


楽しい時期が長いと成長しない

2012年05月10日 | 陶芸
 陶芸クラブの新人さんたちが本焼きをすると聞いて、窯焚きを教えた先輩がまともなこともできないのに、勉強をしていない彼らにできるわけがないだろう、と頃合いを見て窯場に顔を出した。

 窯を焚いている人がチャレンジャーなのは評価するけど、「窯焚き一生」というくらい難しい行程なのだ。案の定、ぼくが目を離した隙に調整を誤った。煙突から業火とともに黒煙が吹き出したので、たぶん還元がかかってしまったんじゃなかろうか、調整はしてあげたけど……。

 窯に入っているのが、ぼくみたいに自分の作品だけならまだしも、失敗したら仲間の作品も一蓮托生なんだよね。仲間に対する責任もさることながら、自分の作品群に対する責任感ってのは無いのだろうか。
 適当にやって楽しければ良い、というのは理解しないワケじゃないが、その結果が失敗作の山だったとしても楽しいのだろうか。

 陶芸に正解というものは無いそうだから、余計な口出しをして彼らのインスピレーションを殺ぐのは気が咎めるので、ぼくは説教などしない。がしかし、「あの連中に、『駄作の山をこしらえるな』と助言してやりなさい」と、クラブの風紀委員長であらせられる要釉斎先生のお沙汰があったらしい。

 指示を受けた先生のしもべが、そのお言葉を新人さんたちに伝えたかどうかは知らないが、作るだけで楽しい時期が長いと、成長は阻害されると思う。この点では要釉斎先生のシンパなんだが、高い壁を目の前に築いたら、乗り越えずに迂回しそうな人たちなんだよねぇ……。

今のうちなら失敗しても体勢に影響なし

2012年03月08日 | 陶芸


 新聞記者さんが取材に来られたのは良いとして、メインコンセプトの不明なことに恐れをなして2時間余り話し込んで帰られた。
 なんなの、ここわぁ! みたいな気分になるのは、入ってすぐに陶芸作品が展示されているせいだろうか。写真は有名なプロの作品だが、我々陶芸クラブ員の作品も常設展示されていたりするし、パッチワークの作品とかも並ぶボーダレスな空間に戸惑うのだろう。
 しかしこれくらいで戦いてはいけない。いずれ生鮮野菜コーナーも設ける予定だし、ピザ窯(石窯)建立の暁にはピザのトッピングコーナーまで用意することになろう。今のうちなら、何でもありってところか。

 午後からは陶芸指南に行ったのだが、こちらの方々は自分たちの経営する喫茶店で使う食器を作るのに一生懸命。たかだか2か月ほど教わったくらいで「電動ロクロでコーヒーカップ作る」などと片腹痛いことを宣うが、目標とそれに向かっての努力、やがて完成というプロセスがあってこその達成感だろう。
 だから、「あんたら、こんなものを焼くつもりかね?」という、クラブの先達であらせられる要釉斎先生の有り難いご助言も無視させていただく。「限界を超えて転んでみないことには限界がどこにあるのか分からないよね」と、巣立ちを促したのが吉と出るか凶と出るか。

「コーヒーカップのみならず、陶芸作品には常識というものがある。しかるにこの作品たるや……」と、例によって要釉斎先生の講義は続くのだが、非常識な作品を産み出し続ける先生のお言葉に説得力はあるのだろうか。
 こういった先生のお言葉は4年前ほど前にぼくも散々聞かされ、サジェッションを納得した上で、せっかくこしらえた作品を土に返したものだ。同じことを彼女たちに強要するのは意外に勇気の要るもんで、「要釉斎先生の言葉は間違っていないのだよ」とはいいつつゴーサインを出す。どのちみ、彼女らの人生設計にとんでもない影響が出るとは思えないから、今のうちは何でもありってことで……。


エピキュリアンたちの忘年会

2011年12月08日 | 陶芸
 キリギリスじゃないけど、我が陶芸クラブは「山陰カニ食い放題旅行」で遊蕩三昧した結果、忘年会を開く資金に事欠くありさま。かくなる上は自分たちで持ち寄った食材に腕をふるい、これを持って忘年会に代えることと相成りました。



 メインはハンタさんのプレゼントである猪肉を使ったボタン鍋。肉のスライスと味付けを担当した、というより皆さんが逃げ腰なので仕方ない。地元の麦味噌、信州風味噌、麦の赤味噌などをブレンドしたけれど、飯屋の豚汁にはどこか及ばない。

 その何かが不明なまま皆さんに供したところ「いけるじゃないか」と好評を博しはしたが、ぼく的には納得いかぬままハンタさんの登場を待ちました。教わったレシピ通りではないけど、ハンタさんに味見をしてもらったら、「おお、この味はワシの味付けにかなり近いぞ」とお墨付きを頂きました。

 

 サブとしてメンバーがそれぞれに趣向を凝らした料理を持ち寄ってくれたので、食べきること叶わず持ち帰りました。しかしアルコールの無い忘年会なんて、宴会というよりキリギリス的反省会の趣が漂い、「来年はアルコールのある忘年会をやろうよ」と提案。
「バカを言っちゃいかん。今を楽しまずして、どがんするんぞ!」と、老い先の長さを計算できるエピキュリアンばかりなので、さてどうなりますことやら……。

陶芸にも大人の事情が

2011年11月25日 | 陶芸
 久々の陶芸ネタってことは、いかに陶芸を疎かにしているかってことですよね。中学生たちの作品作りにクラブ員が協力したのは昨日ですが、ぼくは出られなかったので要釉斎先生の下、バツゲームのように作品の高台削りをやりました。



 他のクラブ員は皆さんカニ食い放題、温泉付きツアーの真っ最中です。要釉斎先生が一人ぼっちなのは、たまたま慰安旅行と予定が重なったからですが、先生の下でやりたくない、という大人の事情があるのも否定はしません。

「中学生の思い出の作品なんだから、修正しまくるのはいかがなものか。彼らが作りたかったように、あるがままにすべきではないか」というのが協力したくない理由に挙げられてますが、湯飲みなどは箸にも棒にもかからない作品があり、修正する以外に手はないのです。

 お皿は問題ないので、十数個の湯飲みをぼく一人が電動ろくろを回して手直ししたところで大した労力ではない。けど、この作業は先生のライフワークなので、手伝うのは良いけど取り上げることは出来ないのです。
 しかも電動ろくろを使うと、いかにも買ってきたような作品になってしまい、それがまた先生のお気に召さない。なので頃合いの仕上がりにして、先生の手がほんのわずかだけ必要な状態にしておく。自慢じゃないけど、これが思ったより難しいんです。

 それにしても、彼らが作ったお皿の中に、ぼくが作って販売したのとそっくりなのがあるじゃないですか。この事実は、ぼくの発想が中学生並みに柔軟であるということか、それとも陶芸を3年も学んだ甲斐がなかったということでしょうか。どちらにしても、子どもたちの作品が無事に焼き上がりますように。