(承前)
さて、前回の更新からだいぶ間隔が開いてしまったが、2019年2月24日に開かれた写真フォーラムの後半は「北海道・歴史・写真を捉えなおす」をテーマにパネルディスカッションが行われた。
パネリストは、前半の基調講演を行った道立近代美術館学芸企画課長の大下智一氏と、北広島出身の写真家大友真志氏、詩人で批評家の明治大学理工学研究科総合芸術系教授の倉石信乃氏の3人。
モデレーターを、主催の北海道開拓写真研究協議会の中村絵美代表が務めた。
以下、雑ぱくにまとめますが、文責はもちろん梁井にあります。
話題は、会場のロビーで開かれている「長万部写真道場」展、大下さんが基調講演であまりくわしく触れられなかったアイヌ民族との関わり、1968年前後に高く評価された田本研造の写真についてなど、多岐にわたった。
68年前後といえば、翌69年に全国の大学写真部でつくる全日本学生写真連盟のメンバーが道内入りし「北海道101(イチマルイチ)」と銘打って集団撮影行動を展開したことが、近年再評価されている。
この運動について、中村さんは、指導的立場にあった写真評論家福島辰夫の言葉を引きつつ「(写真には)写っていないけど、あるんだ、みたいな、歴史を否定して歴史をつくっていくみたいなところがある」と形容すれば、大下さんが「<無名性>と<集団撮影>という方法論があった。明治100年、開拓100年で浮かれていた時代だけど、開拓の負の側面、すなわち民衆は(先住民族に対する)加害者であり、被害者でもあるという面をとらえていた」と総括し「『101』の全体像はまだ紹介されていない」と付け加えた。
倉石さんは「今日の作家性というくくりではとらえられない<無名性>が写真の条件として生起してくる。作者というものがゆらいでくることを、中平卓馬も内藤正敏も自分の問題として引き受けたのではないか」と、68~70年当時の問題意識に寄せて発言していた。つまり、システムや既製のものへの疑問が大きく浮上した、いわば「すべてを疑え!」という時代であったのだ。
同時に倉石さんは「68年世代が見落としていたのは、アイヌの人たちへの抑圧だった」と指摘。「北海道101や福島辰夫の言説はその例外だった。中平や内藤はイデオロギー的に汚染されていない純粋なドキュメンタリーを理想として求めていたと思うし、芸術表現の主体そのものを疑ったあの時代にふさわしい思考だったとは思うが…」と話した上で、長万部写真道場の営為が、中平や森山大道の考えていたひとつの理想形として、いわばこともなげに達成されていたーと高く評価した。
さらに倉石さんは、田本研造が公共事業などを撮った開拓写真について「暴力的な意味で国土が『発見』され、歌枕とは違うふうに見いだされた、それが風景写真の出現と結びついている。田本研造の写真には、自然に人為の一撃が加わって変貌するまでのつかの間の時間が写し取られている」とその意義を述べた上で
「完璧なきれいさではなく、むしろ風景の連続性が途切れたところに写真家は食いつく。すべての風景写真は、開拓の次元をはらんでいるーと言っておきます」
とも語り、客席をうならせていた。
…と、ここまで書いてきて、この「1970年と風景の再発見」については、ちゃんと稿を改めて論じないと、読者が誰もついてこないなと思った。
個人的にはすごく興味深いんだけど。
あと、この流れとは直接関係ない話で、大下さんが、写真師以降の時代の北海道内の写真について話し、函館でもピクトリアリズム(絵画を意識してプリントを仕上げた19世紀末から20世紀はじめにかけての潮流)の流行やアマチュア写真家による函館のマチのスナップ、函館高等水産(北大水産学部)の疋田豊治教授によるガラス乾板写真などを挙げていたが「客席に私よりも詳しい人がいるので、どうも話しづらい」と汗をかいていたのがおもしろい。
そして「函館は戦前のサロン写真を引き継いでいたところがあって、(戦後の)カメラ雑誌への登場は意外と少ない感がある」とも付け加えていた。
これはもちろん、土門拳らの影響下にあったリアリズム指向の投稿欄のことを指しているのだろう。
また、倉石さんは、デジタル写真やSNSの発達といった環境変化に伴い、アーカイブ化が簡単にできるようになったことを踏まえつつ
「それでもアーカイブは場所を持つことが重要。こうやって長万部に多くの人が集まっているのは、それを確認したいから」
と述べていた。
□長万部写真道場 http://occ-lab.org/
□北海道開拓写真協議会 http://hsp-web.jpn.org/
さて、前回の更新からだいぶ間隔が開いてしまったが、2019年2月24日に開かれた写真フォーラムの後半は「北海道・歴史・写真を捉えなおす」をテーマにパネルディスカッションが行われた。
パネリストは、前半の基調講演を行った道立近代美術館学芸企画課長の大下智一氏と、北広島出身の写真家大友真志氏、詩人で批評家の明治大学理工学研究科総合芸術系教授の倉石信乃氏の3人。
モデレーターを、主催の北海道開拓写真研究協議会の中村絵美代表が務めた。
以下、雑ぱくにまとめますが、文責はもちろん梁井にあります。
話題は、会場のロビーで開かれている「長万部写真道場」展、大下さんが基調講演であまりくわしく触れられなかったアイヌ民族との関わり、1968年前後に高く評価された田本研造の写真についてなど、多岐にわたった。
68年前後といえば、翌69年に全国の大学写真部でつくる全日本学生写真連盟のメンバーが道内入りし「北海道101(イチマルイチ)」と銘打って集団撮影行動を展開したことが、近年再評価されている。
この運動について、中村さんは、指導的立場にあった写真評論家福島辰夫の言葉を引きつつ「(写真には)写っていないけど、あるんだ、みたいな、歴史を否定して歴史をつくっていくみたいなところがある」と形容すれば、大下さんが「<無名性>と<集団撮影>という方法論があった。明治100年、開拓100年で浮かれていた時代だけど、開拓の負の側面、すなわち民衆は(先住民族に対する)加害者であり、被害者でもあるという面をとらえていた」と総括し「『101』の全体像はまだ紹介されていない」と付け加えた。
倉石さんは「今日の作家性というくくりではとらえられない<無名性>が写真の条件として生起してくる。作者というものがゆらいでくることを、中平卓馬も内藤正敏も自分の問題として引き受けたのではないか」と、68~70年当時の問題意識に寄せて発言していた。つまり、システムや既製のものへの疑問が大きく浮上した、いわば「すべてを疑え!」という時代であったのだ。
同時に倉石さんは「68年世代が見落としていたのは、アイヌの人たちへの抑圧だった」と指摘。「北海道101や福島辰夫の言説はその例外だった。中平や内藤はイデオロギー的に汚染されていない純粋なドキュメンタリーを理想として求めていたと思うし、芸術表現の主体そのものを疑ったあの時代にふさわしい思考だったとは思うが…」と話した上で、長万部写真道場の営為が、中平や森山大道の考えていたひとつの理想形として、いわばこともなげに達成されていたーと高く評価した。
さらに倉石さんは、田本研造が公共事業などを撮った開拓写真について「暴力的な意味で国土が『発見』され、歌枕とは違うふうに見いだされた、それが風景写真の出現と結びついている。田本研造の写真には、自然に人為の一撃が加わって変貌するまでのつかの間の時間が写し取られている」とその意義を述べた上で
「完璧なきれいさではなく、むしろ風景の連続性が途切れたところに写真家は食いつく。すべての風景写真は、開拓の次元をはらんでいるーと言っておきます」
とも語り、客席をうならせていた。
…と、ここまで書いてきて、この「1970年と風景の再発見」については、ちゃんと稿を改めて論じないと、読者が誰もついてこないなと思った。
個人的にはすごく興味深いんだけど。
あと、この流れとは直接関係ない話で、大下さんが、写真師以降の時代の北海道内の写真について話し、函館でもピクトリアリズム(絵画を意識してプリントを仕上げた19世紀末から20世紀はじめにかけての潮流)の流行やアマチュア写真家による函館のマチのスナップ、函館高等水産(北大水産学部)の疋田豊治教授によるガラス乾板写真などを挙げていたが「客席に私よりも詳しい人がいるので、どうも話しづらい」と汗をかいていたのがおもしろい。
そして「函館は戦前のサロン写真を引き継いでいたところがあって、(戦後の)カメラ雑誌への登場は意外と少ない感がある」とも付け加えていた。
これはもちろん、土門拳らの影響下にあったリアリズム指向の投稿欄のことを指しているのだろう。
また、倉石さんは、デジタル写真やSNSの発達といった環境変化に伴い、アーカイブ化が簡単にできるようになったことを踏まえつつ
「それでもアーカイブは場所を持つことが重要。こうやって長万部に多くの人が集まっているのは、それを確認したいから」
と述べていた。
□長万部写真道場 http://occ-lab.org/
□北海道開拓写真協議会 http://hsp-web.jpn.org/
(この項続く)