彫刻の展覧会としては、半年に1度あるかないかの非常に興味深いものだった。
タイトルは「くびてん」と読む。
彫刻家は頭部像のことを「首」と呼ぶのだ。
1970年代以降、彫刻という概念は著しく拡散してしまったが、それ以前は、イタリアを本場とする近代彫刻の世界が確実に存在しており、そこでは、全身像やトルソとならんで、首は重要な表現手法であった。だから、今回も、道内のベテラン・中堅彫刻家たちが、基礎に立ち返ったような作品を出してくるのではないかと、予想していた。
その予想は、いい意味で裏切られた。
佐藤忠良「群馬の人」のような20世紀半ばの首はほとんどなかった。
近代彫刻が達成した成果を踏まえつつも、現代的であるにはどうしたらよいのか。各作家なりの回答が並んでいたといえるかもしれない。
冒頭画像、手前は伊藤幸子「葉の波 I」「葉の波 II」。
ことし、札幌芸術の森野外美術館などで開かれた Sprouting Garden の出品作と同じ路線の作。
異なるのは、葉のような下敷きが、首と床の間に置かれていることだ。
彫刻の台座は、絵画の額縁にも似た、古来の制度として、20世紀以降は排される傾向が強まっているといえるのだが、機械的に首の作品から台座を取り払うと、生々しさが前面に出てきて、鑑賞者をぎょっとさせる恐れがある。生々しさの軽減は、今回の出品者の多くが、陳列にあたって頭を悩ませたところのようだ。
手前は長谷川裕恭「構造」。壁にデッサン「構造をとらえる」。
長谷川さんは一貫して、チープな素材を用いて彫刻が成立するか、という問題意識を持って制作に取り組んでいるようだ。
この作品も段ボールなどが素材で、へなへな感があるが、しかし構造は考慮して作っているという。
絵画の構図と同様、彫刻を成り立たせている重要な要素なのだろう。
ちなみに、顔は鉄腕アトムからの引用。
直接関係ない話だが、アトムは2本の角を持つが、漫画ではどんな角度からアトムの頭部を描いても絶対に重ならない。手塚治虫本人が述べていた。立体のリアルさと平面のそれは異なるのだろう。
奥は、北村哲朗「熱風 I」「熱風 II」。
Iはシナ、カツラに着彩。IIはヤチダモという、木彫の首。
ヤチダモを彫刻の素材にするのは、珍しいのではないか。表面はけばだち、平滑さとはほど遠い。ある種の絵画が「もの」性をあらわにするのと同様、空間との摩擦をあえて表現することで、「ものとしての彫刻」の性格が露呈しているようでもある。
首イコール人間という固定観念を打ち破ってくれた桂充子「雪原」(同題2点)。
イヌの頭骨のように見えるが、特定の種をモティーフにしたのではなく、近い種の公約数的なかたちをしているといえそう。
もうひとつ。動物の首は、人間ほど正面性がはっきりしない。それもおもしろい。
奥には、武藏未知(藏は蔵の正字)「こもりく」。
ほおづえをついて、たばこをくわえているのがめずらしい。
中央は丸山恭子「KAO」。その横の「学生」は普通の首だが「KAO」は巨大だ。
高さ30センチの全身像があったとして誰もこびとの像だと思わないのに、実物の倍以上在る顔が転がっていると、なんだか、違和感というか、現実離れした感覚を抱いてしまうのはおもしろい。
山田吉泰「女の首」「風」。
本展覧会の最年長。全盛期のイタリアで彫刻を学んだ山田さんだが、意外にも首をつくるのは久しぶりとのことであった。
右の「風」は、女性の髪がデフォルメされている。以前、2002年の個展の際、山田さんは目に見えない風を表現しようとしているのではないかと、筆者は書いたことがあったが、まさにそういう作品だと思う。
中央は藤田尚宏「未知の現象」。
クスノキ、ナラによる自刻像である。
藤田さんは道教育大在学中に道展でデビューしたときから石の抽象彫刻を制作しているから、これは非常に驚いた。
藤田さんに限らず、かつてのイタリア現代彫刻までの時代には認められなかったのに、今はかなり広がっている手法に「彩色」がある。
彫刻に色をつけると、彫刻というより「人形」のようになってしまうのだ。
しかし、研究が進むにつれ、日本の古代・中世の仏像にも、兵馬俑やギリシャ彫刻にも、どうやら色が着いていたことがわかってきた。
古くて色がはげおちてしまった彫刻を見て、近代の人たちは「これこそ彫刻だ、こうあるべきだ」と思い込んでいたに過ぎないようなのだ。
たしかに、現実の人間を模して作るものに、色を塗らないのはおかしなことともいえる。
とはいえ、色をつけることにより、失われる何かがあるようにも思う。
秋山知子、安住賢一、園田陽子の3氏に触れることができず、すみません。
作品のデッサンも同時に展示し、製作過程を示したことも含めて、おもしろい展覧会だった。
2015年1月8日(木)~13日(火)午前10時~午後7時(最終日~午後5時)
アートスペース201(札幌市中央区南2西1 山口中央ビル5階)
タイトルは「くびてん」と読む。
彫刻家は頭部像のことを「首」と呼ぶのだ。
1970年代以降、彫刻という概念は著しく拡散してしまったが、それ以前は、イタリアを本場とする近代彫刻の世界が確実に存在しており、そこでは、全身像やトルソとならんで、首は重要な表現手法であった。だから、今回も、道内のベテラン・中堅彫刻家たちが、基礎に立ち返ったような作品を出してくるのではないかと、予想していた。
その予想は、いい意味で裏切られた。
佐藤忠良「群馬の人」のような20世紀半ばの首はほとんどなかった。
近代彫刻が達成した成果を踏まえつつも、現代的であるにはどうしたらよいのか。各作家なりの回答が並んでいたといえるかもしれない。
冒頭画像、手前は伊藤幸子「葉の波 I」「葉の波 II」。
ことし、札幌芸術の森野外美術館などで開かれた Sprouting Garden の出品作と同じ路線の作。
異なるのは、葉のような下敷きが、首と床の間に置かれていることだ。
彫刻の台座は、絵画の額縁にも似た、古来の制度として、20世紀以降は排される傾向が強まっているといえるのだが、機械的に首の作品から台座を取り払うと、生々しさが前面に出てきて、鑑賞者をぎょっとさせる恐れがある。生々しさの軽減は、今回の出品者の多くが、陳列にあたって頭を悩ませたところのようだ。
手前は長谷川裕恭「構造」。壁にデッサン「構造をとらえる」。
長谷川さんは一貫して、チープな素材を用いて彫刻が成立するか、という問題意識を持って制作に取り組んでいるようだ。
この作品も段ボールなどが素材で、へなへな感があるが、しかし構造は考慮して作っているという。
絵画の構図と同様、彫刻を成り立たせている重要な要素なのだろう。
ちなみに、顔は鉄腕アトムからの引用。
直接関係ない話だが、アトムは2本の角を持つが、漫画ではどんな角度からアトムの頭部を描いても絶対に重ならない。手塚治虫本人が述べていた。立体のリアルさと平面のそれは異なるのだろう。
奥は、北村哲朗「熱風 I」「熱風 II」。
Iはシナ、カツラに着彩。IIはヤチダモという、木彫の首。
ヤチダモを彫刻の素材にするのは、珍しいのではないか。表面はけばだち、平滑さとはほど遠い。ある種の絵画が「もの」性をあらわにするのと同様、空間との摩擦をあえて表現することで、「ものとしての彫刻」の性格が露呈しているようでもある。
首イコール人間という固定観念を打ち破ってくれた桂充子「雪原」(同題2点)。
イヌの頭骨のように見えるが、特定の種をモティーフにしたのではなく、近い種の公約数的なかたちをしているといえそう。
もうひとつ。動物の首は、人間ほど正面性がはっきりしない。それもおもしろい。
奥には、武藏未知(藏は蔵の正字)「こもりく」。
ほおづえをついて、たばこをくわえているのがめずらしい。
中央は丸山恭子「KAO」。その横の「学生」は普通の首だが「KAO」は巨大だ。
高さ30センチの全身像があったとして誰もこびとの像だと思わないのに、実物の倍以上在る顔が転がっていると、なんだか、違和感というか、現実離れした感覚を抱いてしまうのはおもしろい。
山田吉泰「女の首」「風」。
本展覧会の最年長。全盛期のイタリアで彫刻を学んだ山田さんだが、意外にも首をつくるのは久しぶりとのことであった。
右の「風」は、女性の髪がデフォルメされている。以前、2002年の個展の際、山田さんは目に見えない風を表現しようとしているのではないかと、筆者は書いたことがあったが、まさにそういう作品だと思う。
中央は藤田尚宏「未知の現象」。
クスノキ、ナラによる自刻像である。
藤田さんは道教育大在学中に道展でデビューしたときから石の抽象彫刻を制作しているから、これは非常に驚いた。
藤田さんに限らず、かつてのイタリア現代彫刻までの時代には認められなかったのに、今はかなり広がっている手法に「彩色」がある。
彫刻に色をつけると、彫刻というより「人形」のようになってしまうのだ。
しかし、研究が進むにつれ、日本の古代・中世の仏像にも、兵馬俑やギリシャ彫刻にも、どうやら色が着いていたことがわかってきた。
古くて色がはげおちてしまった彫刻を見て、近代の人たちは「これこそ彫刻だ、こうあるべきだ」と思い込んでいたに過ぎないようなのだ。
たしかに、現実の人間を模して作るものに、色を塗らないのはおかしなことともいえる。
とはいえ、色をつけることにより、失われる何かがあるようにも思う。
秋山知子、安住賢一、園田陽子の3氏に触れることができず、すみません。
作品のデッサンも同時に展示し、製作過程を示したことも含めて、おもしろい展覧会だった。
2015年1月8日(木)~13日(火)午前10時~午後7時(最終日~午後5時)
アートスペース201(札幌市中央区南2西1 山口中央ビル5階)