ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

ウトウト と。

2018-03-06 06:25:20 | 日記
日曜日 4日は、敬愛する井上神父さまが帰天されて四周年となる【野の花 命日祭】へ
行って来ました。
昨年は参加できませんでしたので、2年ぶりの東京 四谷。
もう春を通り越して、初夏の様な天候に気持ちもすっかり明るくなって、学生の気分で
歩きました。

『祈りの集い』の後に、
シンポジウム「井上神父とドストエフスキー―東方キリスト教を中心に」 が行われました。
基調トークは、東京大学大学院教授・安岡治子先生。
司会は、ノートルダム清心女子大学教授・山根道公先生。
パネリストの ご三方を交えての集いは、とても勉強になりました。

けれども、私は、途中でウトウトしてしまったのです。
こうしたことは顰蹙モノでしょう。
でも、言い訳がましくなるかもしれませんが、何かを学ぼうとする心がまえの厳しさが、
どこかへ ふんわり と、飛んで行ってしまっていたのです。

9階の会堂のガラス窓からは、穏やかな青空が広がり、新宿のビル群も望めます。
緊張感が無くなってしまい、何かしら温かな安らぎに すっぽり包み込まれてしまって
いたのでした ウトウト と。

もし、あの場所に、井上神父さまが、いらっしゃったら、きっと、
『あぁ そのままでいいよ』
と、仰るのではないかと。

帰りの新幹線の中も、ぼんやりとした懐かしさの中に要るみたいで、やっぱり ウトウトと。
そんなせいでしょうか。
昨日は、ブログのアップもせずに ただ過ごしました。
やってきた ひ孫に 絵本を読み聞かせたりして。

  《生きとし生けるものは、「生きとし生きるものの余白」ともいえるものの力によって
   生かされ在らしめられ、それぞれの場をえさしめられているのであって、それぞれの
   生命と役割を力一杯生きぬくことによって、己れ自らをではなく、己れ自らをもつつむ
   全体を表出していくものなのである。
   そしてこの生きとし生けるものの余白の力をこそ、芭蕉や一遍はこれを「風」ということばで
   よんだのではなかったか。
   イエスがもっとも大切にした「幼子の心」とは、この余白の風に、ふわっと目をつぶって
   委せ切る心に他ならない。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ぼんやり立ち止まってそんなことをとりとめもなく考えていた私は、ふと茶色の枯草の
   間に緑の蕗(ふき)のとうが顔をだしているのに気がついた。
   「春が来ますよ」。そう蕗のとうはさわやかにかたりかけてくれているようであった。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   小さな生命ではあっても、一生懸命に、無心にけなげにも雪の厳しさに耐えて
   でてきた蕗のとうは、ただそれだけで生きとし生けるものの余白を、吹きぬけてくる神の
   愛の息吹を生き生きと語っていたのである。
   何かほのぼのとした思いに包まれて、私は修道院へと足を向けた。
   間もなく富士の山麓にも、春風が吹き桜の咲く春が訪れてくることだろう。》
                          (『余白の旅』 井上洋治 著 より)
コメント (3)
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