泥沼化し、小保方晴子氏を初め、誰も抜け出すことが出来そうも無い。
悪意はなくとも、改ざん、捏造はできる。それが白日のもとに晒された研究の世界の実像だ。特段の悪者はいない。それはハンナ・アーレントによって描写されたアイヒマンとナチスドイツの最終的解決のアプローチを彷彿とさせる。
結果として、研究手続的な誤りは明白であり、STAP細胞の存在を証明したことにはならない。勿論、STAP細胞そのものは闇の奥に存在するかもしれない。
「理研調査報告(2014/4/1)」は2点の研究不正行為を指摘した。
『小保方氏は、科学的に許容しがたいプロセスによる2枚の異なるゲルのデータの切り貼りや条件が異なる実験データの使用など、到底容認できない行為を重ねて行っている。』
一方、小保方晴子氏は「調査報告書に対するコメント(2014/4/1)」を公表する。
『理化学研究所の規程で研究不正の対象外となる悪意のない間違いであるにもかかわらず,改ざん,ねつ造と決めつけられたことは,とても承服できません。』
法的に法廷の場で決着をつけるのか、それとも理研での両者の対決がうやむやな妥協を生むのか、判らない。小保方氏には主張する権利があるからだ。しかし、常識的にみて、単なる間違いとは云えない状況と考える。
理研の指摘と、対する小保方氏の反論を並べて、ハンナ・アーレントが「エルサレムのアイヒマン」において、彼の人物像を描いた箇所を想い起こした。
「…自分の昇進に恐ろしく熱心だったという他に彼には何らの動機もなかったのだ。…彼は愚かではなかった。完全な無思想性―これは愚かさと決して同じではない―…。無思想性と悪とのこの奇妙な相互関連…。」
『ハンナ・アーレント(4)~アイヒマンとは、映画鑑賞の手引131126』
ナチスドイツの時代には無思想性が行政的殺戮に結びついた。一方、今回の事件では、無思想性が研究手続における「省略・飛躍・解除」に結びついている様に思える。その共通点を抽出すれば“効率”に突き当たる。
研究の競争的環境、その成果の誇大な宣伝的表現などは個々の研究(者)の多大なプレッシャとして働く。この中に巻き込まれた若き研究者は「卵」の段階から効率的研究を学ぶ。博士論文の前段でのコペピはその典型例であろう。努力なしで得られる効率化の手法に取り憑かれたとき、無思想性が励起されるのかもしれない。当然、悪を伴うエスカレートを防ぐバリヤは何もなくなる。
以下、理研の報告と小保方コメントを対比しよう。これらを読んで本記事の題名を思いついた次第だ。
理研評価
(1-2)「論文1Figure 1i」の電気泳動像においてレーン3が挿入→改竄に相当
「…小保方氏には、このような行為が禁止されているという認識が十分になかった…データの誤った解釈へ誘導する…危険性について認識しながらなされた行為であると評価せざるを得ない。…その手法が科学的な考察と手順を踏まないものであることは明白である。」
小保方反論
「…Figure1i から得られる結果は,元データをそのまま掲載した場合に得られる結果と何も変わりません。…見やすい写真を示したいという考えからFigure1i を掲載…。」
理研評価
(1-5)論文1:Figure 2d, 2e において画像の取り違えがあった点。これらの画像が小保方氏の学位論文に掲載された画像と酷似する点。→捏造に相当
「…この2つの論文では実験条件が異なる。酸処理という極めて汎用性の高い方法を開発したという主張がこの論文1の中核的なメッセージであり、図の作成にあたり、この実験条件の違いを小保方氏が認識していなかったとは考えがたい。…このデータはSTAP細胞の多能性を示す極めて重要なデータ…小保方氏の行為はデータの信頼性を根本から壊すもの…その危険性を認識しながらなされた…」
小保方反論
「私は,論文1に掲載した画像が,酸処理による実験で得られた真正な画像であると認識して掲載したもので,単純なミスであり,不正の目的も悪意もありませんでした。」
悪意はなくとも、改ざん、捏造はできる。それが白日のもとに晒された研究の世界の実像だ。特段の悪者はいない。それはハンナ・アーレントによって描写されたアイヒマンとナチスドイツの最終的解決のアプローチを彷彿とさせる。
結果として、研究手続的な誤りは明白であり、STAP細胞の存在を証明したことにはならない。勿論、STAP細胞そのものは闇の奥に存在するかもしれない。
「理研調査報告(2014/4/1)」は2点の研究不正行為を指摘した。
『小保方氏は、科学的に許容しがたいプロセスによる2枚の異なるゲルのデータの切り貼りや条件が異なる実験データの使用など、到底容認できない行為を重ねて行っている。』
一方、小保方晴子氏は「調査報告書に対するコメント(2014/4/1)」を公表する。
『理化学研究所の規程で研究不正の対象外となる悪意のない間違いであるにもかかわらず,改ざん,ねつ造と決めつけられたことは,とても承服できません。』
法的に法廷の場で決着をつけるのか、それとも理研での両者の対決がうやむやな妥協を生むのか、判らない。小保方氏には主張する権利があるからだ。しかし、常識的にみて、単なる間違いとは云えない状況と考える。
理研の指摘と、対する小保方氏の反論を並べて、ハンナ・アーレントが「エルサレムのアイヒマン」において、彼の人物像を描いた箇所を想い起こした。
「…自分の昇進に恐ろしく熱心だったという他に彼には何らの動機もなかったのだ。…彼は愚かではなかった。完全な無思想性―これは愚かさと決して同じではない―…。無思想性と悪とのこの奇妙な相互関連…。」
『ハンナ・アーレント(4)~アイヒマンとは、映画鑑賞の手引131126』
ナチスドイツの時代には無思想性が行政的殺戮に結びついた。一方、今回の事件では、無思想性が研究手続における「省略・飛躍・解除」に結びついている様に思える。その共通点を抽出すれば“効率”に突き当たる。
研究の競争的環境、その成果の誇大な宣伝的表現などは個々の研究(者)の多大なプレッシャとして働く。この中に巻き込まれた若き研究者は「卵」の段階から効率的研究を学ぶ。博士論文の前段でのコペピはその典型例であろう。努力なしで得られる効率化の手法に取り憑かれたとき、無思想性が励起されるのかもしれない。当然、悪を伴うエスカレートを防ぐバリヤは何もなくなる。
以下、理研の報告と小保方コメントを対比しよう。これらを読んで本記事の題名を思いついた次第だ。
理研評価
(1-2)「論文1Figure 1i」の電気泳動像においてレーン3が挿入→改竄に相当
「…小保方氏には、このような行為が禁止されているという認識が十分になかった…データの誤った解釈へ誘導する…危険性について認識しながらなされた行為であると評価せざるを得ない。…その手法が科学的な考察と手順を踏まないものであることは明白である。」
小保方反論
「…Figure1i から得られる結果は,元データをそのまま掲載した場合に得られる結果と何も変わりません。…見やすい写真を示したいという考えからFigure1i を掲載…。」
理研評価
(1-5)論文1:Figure 2d, 2e において画像の取り違えがあった点。これらの画像が小保方氏の学位論文に掲載された画像と酷似する点。→捏造に相当
「…この2つの論文では実験条件が異なる。酸処理という極めて汎用性の高い方法を開発したという主張がこの論文1の中核的なメッセージであり、図の作成にあたり、この実験条件の違いを小保方氏が認識していなかったとは考えがたい。…このデータはSTAP細胞の多能性を示す極めて重要なデータ…小保方氏の行為はデータの信頼性を根本から壊すもの…その危険性を認識しながらなされた…」
小保方反論
「私は,論文1に掲載した画像が,酸処理による実験で得られた真正な画像であると認識して掲載したもので,単純なミスであり,不正の目的も悪意もありませんでした。」