散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

体罰と云うリンチ(私刑)~近代日本の宿痾が残る学校生活での部活動~

2013年01月19日 | 現代社会
大阪市桜宮高校バスケット部における顧問教師による特定の生徒への体罰は、その生徒の自殺を導いた。罰であるなら罪があるはずだ。近代組織としての学校の生活での罪とは規則、広くはその組織において試行錯誤の中で作られた「行動様式・基準」に対する違反行為であろう。

しかし、今回の事件は、罪は勿論なく、単にその顧問の意に沿った活動ができなかった、それもおそらく名目だけ、ことに対する一方的な暴力であった。従って、その暴力行為はリンチ(私刑)と呼ぶ以外の何ものでもない。反社会行為であると共に法治国家日本では許されず、法の下で処置されるべき問題だ。

一方、文部科学省の義家弘介政務官(衆院議員)は「教育的な目的から、ミスをしたらコートを十周しろというのはありうる体罰」と指摘した(1/15付け読売新聞)。しかし、ミスは罪ではなく、学びとして克服されるべき努力の対象だ。算数の授業で計算間違いをしたら「教室の後に立たせる」のと変わりは無く、教育の目的からは逸脱だ。橋下市長も教育委員会、学校に対して厳しい発言をしているが、その認識においては義家氏と似たり寄ったりのようだ。

問題は、学校という公的な組織において、罪は無く、かつ、立場の弱い人に対する強制力の行使が、何故、暴力行為と区別され、体罰と称して正当化されているのか、である。ここに、日本の近代における宿痾が色濃く残っている。学校教育は、子育てと違って明治維新以降の産物だからだ。先ず、この認識が重要だ。

子育ては、オーバーに云えば人類史始まって以降、連綿として私達の生活の中で続く“人間の営み”としての文化である。近世日本では「逝きし世の面影」(渡辺京二(平凡社)初出1998)に描かれるように、子どもの楽園であった。しかし、見事のまとめられた外国人の観察は、子育てを含めて旧き慣習であって、近代国家建設のため、多くは近代化政策の中で打ち壊されてきた。

一方、近代的組織の運営においても学校教育のような学校生活を含む「人間の営み」がある。では、それは子どもの楽園として運営されるのか?全国的規模での学校教育は、近世の寺子屋・塾とは断絶し、近代官僚体制の下での組織活動として実施される。効率を重んじる近代組織は、学校生活であっても全体を統率し、即時的効用を求める。そこで、子どもの楽園的な考え方は排除され、日本的長幼秩序のオブラートに包まれた暴力を含む強制力を背景にした運営が行われた。

本来、試行錯誤の中から新たな「行動様式・基準」を創り出す必要があった。それが政治学で云う“制度”であり、「慣習の束」になる。安定した組織の継続・再生産には必須であるが、それを構築するには時間が掛かる。そこで、軍隊生活の借物の長老秩序に包んだ制裁と云う方法で済ませたのであろう。軍隊は、一般国民に対する最初にして、最重要の組織であるから、学校の組織運営も軍隊をお手本にせざるを得なかったと考えられる。

学校教育は戦後の教育改革によって一新されたように見える。しかし、筆者の小学校生活(1955ー1960)を振り返ると、朝礼の「前に倣え」では厳しい整列、行進では「揃った足踏み」、全体止まれでは「イッチ、ニ」でぴたりと止まる等の軍隊的習慣の名残にみえる指導を受けていた。テレビに映る北朝鮮の軍隊行進を笑うことができないのだ。このように、軍隊を真似した生徒指導は“人間の営み”だけに、簡単には消えずに、生き残っていた。

同じように、長幼秩序に包まれた強制力を背景にした学校運営は、部活動の中に生き残った。高校の部活動の顧問による生徒への体罰とは、近代日本での軍という閉鎖空間から受け継いだ組織運営の方法が「高校―部活動」という二重に閉鎖的空間に引き継がれ、昨今のプロスポーツ化、オリンピックでのメダル獲得賛美などの現代的成果主義と混じり合い、形を変えて根付いている。

更に、政治家は罪と罰との関係から体罰を論理的に否定すべきだが、先の義家政務官の発言にあるように出来ないで曖昧にする。これは体罰を是認する人たちも一定の層として存在することを示している。従って、今回の事件は決して他人事ではなく、今後も身近な問題として起こり得ること認識せざるを得ない。

西欧社会においては、宗教教育を背景とした厳しい「エリート教育」の伝統があり、特にイギリスのパブリック・スクールにおける古典学習、スポーツ訓練などのムチ的教育はよく知られている。このような厳しい風土によって、優れたトップエリートが育成される。

しかし、日本は宗教教育の伝統を持たず、理念を持つこととも無縁な風土である。そのため却って、単純に厳しさを強調し、成果を誇示する教育に対して無防備になり、内容を理解できないままに容認しがちである。教育に即効薬を求めず、普段の観察と対話によって、一歩一歩、認識を新たにしながら「行動様式・基準」を創っていくことが、急がば回れ、になるはずだ。