散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「吉田ドクトリン」は永遠なり~非核・軽武装・経済大国への道~

2012年10月22日 | 政治
僅か5回で構成したNHK「吉田茂―負けて勝つ」は、対占領軍・米国との交渉、国内政治の軋轢を交互に挟んで、早いテンポで講和条約までを描ききった。永井陽之助は、その間に築かれ、それに沿って復興から歩んだ戦後日本の基本構想・戦略を“吉田ドクトリンは永遠なり”と喝破した(「現代と戦略」(文藝春秋社)1985)。

『安全保障と国民経済』を論じて永井は、「戦後わが国が欧米なみに、軍事支出と武器輸出に依存する軍事ケインズ主義という麻薬に汚染されそうなった最初は、朝鮮戦争の特需ブームにわく1950年代前半だった。この甘い誘惑に抗して、今日の非核・軽武装・経済大国という、特異な国際的地位と繁栄を築いた功績誰か。」と述べる。時、あたかも、ロン・ヤスの日米軍事技術協力の時代である。

井上寿一は近著「吉田茂と昭和史」(講談社現代新書2009年)において、終章「吉田ドクトリンの行方」において、その後の国内状況をレビユーしながら、高坂正堯が「宰相吉田茂」において『負けて、勝つ』の吉田路線に明快な答を出すと共に、正当化したと論じた。更に、「吉田路線は吉田の意図を超えて、しかし「吉田」の名を冠した「ドクトリン」となって、その耐用年数を増していった」述べ、永井の命名を位置づけた。
なお、この著作は文献も豊富に用い、記述も判り易く、新書として良質に感じた。

一方、ブロガー・池田信夫は「吉田茂の呪い」の中で、上記の井上の本の中から、“吉田ドクトリンの矛盾”を引き出し、最近の沖縄を巡る混乱は吉田ドクトリンの「負の遺産」だとする。「呪い」というマイナスの価値を与える表現が、何を意味するのか不明である。しかし、吉田ドクトリンに対する積極的評価でないことは確かだ。これに対して井上は、その矛盾を解く方法が一つだけあると言う。それは日本が再び米国と戦争し、勝利すれば良い。しかし、その決意がなく、あっても勝利の見込みがないのであれば、この矛盾に耐えるしかない、と述べ、永井の宣言は今でも有効とする。おそらく、池田にしても日米戦争は考えていないだろうし、他の解を提案しているわけでもない。

結局、日米同盟は、日本の隣国のなかで米国が最強の国家であるが故に、日本として防衛しなければならない第一優先の国であることの帰結である。すなわち、同盟が最大の防衛になるということだ。永井は「平和の代償」においてもこのことを力説している。
http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/d5bf19e2411c9e77abce18f9546dc1f7
『日本の安全保障の問題で、多くの論者がまったく視野の外においている盲点は、米国に対する防衛の問題である』。50年後においても、この言葉は未だ有効だということを私たちは噛みしめる必要がある。