散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「戦後日本」のノーベル平和賞受賞の可能性~「EU」からの連想~

2012年10月16日 | 国際政治
「ヨーロッパを争いの地から平和の地へと変えた」という受賞の理由は、第二次世界大戦終了後、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が構想から僅かな年月で実行へ移されたことがポイントだ。ここから「戦後日本」の受賞を考えるのは飛躍だろうか。

非核・軽武装・平和憲法」のもとでの経済復興から経済成長への道のりは、アジア諸国に大きなインパクトを与え、韓国、台湾、香港、シンガポールの台頭に対して良き目標となった。平行して、米国と同盟を組み、講和条約、沖縄返還、日中国交回復を進め、国連中心の外交路線を推進している。

現在では更に中国、東南アジア諸国との貿易及び生産施設の建設等の民間レベルの交流は当然、人的交流を飛躍的に拡大させ、平和の基盤となる国家間での相互理解をもたらしている。

一方、冷戦下で、朝鮮戦争、ベトナム戦争という熱戦が行われ、日本は一方の当事者である米国と安全保障条約を結び、一方の側に立って協力した。しかし、冷戦にしても、熱戦にしても日本そのものが当事者ではない。また、歴史的にみれば、真珠湾攻撃によって米国をアジア・太平洋地域に引きずり出したのは日本とも言える。太平洋を挟んで相対峙した日米が、必然的な理由があったとはいえ、同盟を結んだことは、それだけで、アジア・太平洋地域に一つの平和の構造を与えたと言っても良いのではないか。

従って、ヨーロッパにおける仏独の戦争を封じこめた「欧州石炭鉄鋼共同体」がサンフランシスコ講和条約に象徴される「日米同盟」であったと言える。これには軍事的側面が日米安保条約として存在するのは確かだが、一方、ドッジ構想から進められた自由主義経済政策の展開が重要であろう。米国進駐軍に豊かな社会の片鱗を感じ、軍事支出を抑え、米国に追いつけ、追い越せを目指した処に民生・福祉中心の経済体系が出来てきた所以であろう。

国民経済と安全保障を論じて永井陽之助は『吉田ドクトリンは永遠なり』と喝破した(「現代と戦略」P47講談社(1985))。日本人が無意識のなかに感じた終戦直後の実感こそが日本を「軽武装・経済大国」という人もうらやむ特異な国家を築いたことの源のはずだ。改めて世界に対してアピールしても良いはずだ。その意味で佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞したのは、ピント外れと言わざるを得ない。改めて、ヨーロッパの知性が日本の地位を見直すことを期待したい。

         

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