散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

『負けて、勝つ』の間にあるもの~マッカーサー・戦後改革の上に立つ吉田茂~

2012年09月17日 | 現代史
今頃何でNHKが吉田茂を取り上げるのか?我が国を鼓舞するときに使われるネタは「明治維新・日露戦争」と決まっている。しかし、橋下徹・大阪市長が率いる「維新の会」が国政への進出を決めた今、イシン、イシンと言えないので、急遽!代替が必要になったからか?『負けて、勝つ』の第1回をみながら、穿った見方が先ず頭に浮かんだ。

実は正月、40年振りに高坂正堯『宰相吉田茂論』を読み、以下の記事を書いた。
宰相吉田茂の残したもの~哲学と現実の間~』(2012/1/9)。ドラマの表題「負けて、勝つ」は高坂が強調した吉田の言葉「戦争で負けても外交で勝った歴史はある」から取ったものだ。

しかし、戦後改革の主役はまぎれもなく、マッカーサーであって、日本人ではない。それは、第2回の憲法制定時の経緯に示される。上から、横からの民主主義に代表される“奇妙な革命”は占領軍の絶大な権威によってのみ可能であった。その基盤の上に、高坂の表現を借りれば、吉田の『商人的国際政治観』が展開されたのだ。その意味で吉田の言葉は負け惜しみを含んでいる。

「すべてを失った終戦後、日本の命運は一人の男に託された―誇りを失わず日本を再生に導いた男・吉田茂の激動の日々!」とは、ドラマのキャッチコピーである。しかし、正確に言えば、「すべてを失った終戦後、マッカーサー革命によって“復興の基盤”が作られた、日本の命運は…」になるはずではないか?この欠落したNHK史観のなかに日本の今の混迷の根幹が潜んでいるならば…。

マッカーサーは、日本の政治家に意思決定の意識が欠落していることを冷ややかに指摘している。それは単なる史実として描かれているだけで、作者・坂元裕二と制作者集団が自覚的に表現している様子は窺われない。結局、“復興の基盤”の最大の問題、憲法制定は、天皇の地位のみに焦点が当てられる。

吉田は、その後の復興の仕事において成果をあげ、外交で勝ったとうそぶいた。しかし、戦争は「国家間の総力戦」であり、無条件降伏もあり得る。一方、外交は「国家間の関係の調整」になり、限定的な妥協の世界である。この言葉の綾をどのようにドラマは表現していくのだろうか。

        

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