遅咲き八重桜の「関山」が満開でした。(4月19日)
ソメイヨシノと比べると、これが同じ桜の種類なのかと驚きます。すごい重量感があります。
少し色の薄い「泰山府君」。いすれも花びらが重いので下を向いて咲いています。
「鬱金」、ショウガのウコンのような薄い色です。
「サトザクラ展」が開かれていました。園内にて育成している各種の桜の枝を切ってフラスコに挿して展示しています。
「里桜」というカテゴリーは、人工的な品種改良にて作られた桜の種類をさします。野山に自生するサクラは「山桜」です。
日本に自生するサクラ属は10種だそうですが、サトザクラは600以上もの品種があると記されています。
奈良時代に「花見」といえば梅の花であったと思いますが(脚注参照)、桜の花見が盛んになったのは平安時代、さらに江戸時代には町民が桜の下での宴会が盛んになったようです。落語にもありますね(長屋の花見)。
桜についての和歌を多く残している西行法師は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人なので、その時代から変化が始まったのでしょう。豊臣秀吉の「醍醐の花見」は桃山時代。
さくら草の展示会もありました。これも品種が多い。
花びらがギザギザで、しかも縞模様です。
ユズリハ(楪)。
ルピナス。ニュージーランドでは、野生で咲いていました。ここやここ。
シャクナゲ(石楠花)が開花していました。滋賀県の県花です。
滋賀県日野町鎌掛谷シャクナゲ自生地の記事(2014年5月)はここ。
シバザクラ。
アケビの花はこんな色形です。
ポピー。
京都を代表する植物といえば、、、「葵」。
植物園の散歩はとても楽しい。
~~ 脚注 ~~
引用始:(出典:http://www1.edogawa-u.ac.jp/~tokim/hanami.html 強調文字は筆者)
第1章 花見の歴史
1.梅から桜へ
かつては梅、桃、桜草、山吹、藤、つつじ、牡丹、萩、菊など、季節を代表する花は皆、広い意味での「花」見の対象だったが、中でも外来植物である梅は、中国唐代の詩文で花を代表するものとされた影響で、奈良朝の貴族にとっても、花を代表するものとなっていた(白幡、2000)。ところが本居宣長が『玉勝間』(18世紀末)で「ただ花といひて桜のことにするは、古今集のころまでは聞こえぬことなり」と述べているように、『万葉集』には梅を詠ったもの118首に対して桜は36首、逆に『古今集』では桜53首に対して梅29首と逆転する。梅に替わって桜の花見が、貴族の重要な行事になったのは平安時代なのである。そして「花の雲鐘は上野か浅草か」と詠まれたように、俳句歳時記でも花といえば桜をさすまでになったというわけである。
2.貴族と農民の行事から大衆の花見へ
他方農民の間では、古くから花の咲き始める頃に、飲食物を持ち、近くの山、丘、河原、野原、池のほとりなど、見晴らしの良いところに登り、春の軟らかい日差しを浴びながら、酒を酌み交わし、鳥たちの声を聞き、桜やつつじの花を眺め、山菜採りを楽しんだりした春山入り、春山行き、野遊びなどと呼ばれる行事があった。これは冬を支配していた神を山に送り返し、春の芽吹きをもたらす田の神を迎える宗教行事とされる。また桜の咲き具合によって、稲の出来具合を占う農事とも考えられる(吉村、1986)。
貴族的な行事から離れ、農耕儀礼からも切り離されて、それ自体を楽しむ独立した娯楽としての花見が生まれるのは中世である。その後京都で、郊外の花見が富裕な階層に広まり、江戸時代には更に大衆化して、多くの人々の娯楽としての年中行事になっていったのである(白幡、2000)。こうして貴族文化と農民文化の二つが、元禄期の都市文化の形成と結びついて大衆化したのが、現在につながる花見、というわけである。
引用終:
ソメイヨシノと比べると、これが同じ桜の種類なのかと驚きます。すごい重量感があります。
少し色の薄い「泰山府君」。いすれも花びらが重いので下を向いて咲いています。
「鬱金」、ショウガのウコンのような薄い色です。
「サトザクラ展」が開かれていました。園内にて育成している各種の桜の枝を切ってフラスコに挿して展示しています。
「里桜」というカテゴリーは、人工的な品種改良にて作られた桜の種類をさします。野山に自生するサクラは「山桜」です。
日本に自生するサクラ属は10種だそうですが、サトザクラは600以上もの品種があると記されています。
奈良時代に「花見」といえば梅の花であったと思いますが(脚注参照)、桜の花見が盛んになったのは平安時代、さらに江戸時代には町民が桜の下での宴会が盛んになったようです。落語にもありますね(長屋の花見)。
桜についての和歌を多く残している西行法師は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人なので、その時代から変化が始まったのでしょう。豊臣秀吉の「醍醐の花見」は桃山時代。
さくら草の展示会もありました。これも品種が多い。
花びらがギザギザで、しかも縞模様です。
ユズリハ(楪)。
ルピナス。ニュージーランドでは、野生で咲いていました。ここやここ。
シャクナゲ(石楠花)が開花していました。滋賀県の県花です。
滋賀県日野町鎌掛谷シャクナゲ自生地の記事(2014年5月)はここ。
シバザクラ。
アケビの花はこんな色形です。
ポピー。
京都を代表する植物といえば、、、「葵」。
植物園の散歩はとても楽しい。
~~ 脚注 ~~
引用始:(出典:http://www1.edogawa-u.ac.jp/~tokim/hanami.html 強調文字は筆者)
第1章 花見の歴史
1.梅から桜へ
かつては梅、桃、桜草、山吹、藤、つつじ、牡丹、萩、菊など、季節を代表する花は皆、広い意味での「花」見の対象だったが、中でも外来植物である梅は、中国唐代の詩文で花を代表するものとされた影響で、奈良朝の貴族にとっても、花を代表するものとなっていた(白幡、2000)。ところが本居宣長が『玉勝間』(18世紀末)で「ただ花といひて桜のことにするは、古今集のころまでは聞こえぬことなり」と述べているように、『万葉集』には梅を詠ったもの118首に対して桜は36首、逆に『古今集』では桜53首に対して梅29首と逆転する。梅に替わって桜の花見が、貴族の重要な行事になったのは平安時代なのである。そして「花の雲鐘は上野か浅草か」と詠まれたように、俳句歳時記でも花といえば桜をさすまでになったというわけである。
2.貴族と農民の行事から大衆の花見へ
他方農民の間では、古くから花の咲き始める頃に、飲食物を持ち、近くの山、丘、河原、野原、池のほとりなど、見晴らしの良いところに登り、春の軟らかい日差しを浴びながら、酒を酌み交わし、鳥たちの声を聞き、桜やつつじの花を眺め、山菜採りを楽しんだりした春山入り、春山行き、野遊びなどと呼ばれる行事があった。これは冬を支配していた神を山に送り返し、春の芽吹きをもたらす田の神を迎える宗教行事とされる。また桜の咲き具合によって、稲の出来具合を占う農事とも考えられる(吉村、1986)。
貴族的な行事から離れ、農耕儀礼からも切り離されて、それ自体を楽しむ独立した娯楽としての花見が生まれるのは中世である。その後京都で、郊外の花見が富裕な階層に広まり、江戸時代には更に大衆化して、多くの人々の娯楽としての年中行事になっていったのである(白幡、2000)。こうして貴族文化と農民文化の二つが、元禄期の都市文化の形成と結びついて大衆化したのが、現在につながる花見、というわけである。
引用終: