ブルターニュのダンスを楽しむ会もありました。
講演会として「ミシュラン」社員さんのお話。私的には、大変にトリビアルで面白かったので、メモを記録しておきます。
「先ほど、カメラマンの方から『へぇー、ミシュランはタイヤも作っているのですか!?!』と質問されました」と、話が始まりました。
もちろん、タイヤメーカーです。世界のタイヤメーカーのビッグ3は、ブリジストン(日本)、ミシュラン(仏)、グッドイヤー(米)です。
タイヤ製造企業の市場シェアの円グラフが映写されました。
フランス語では、円グラフのことを「カマンベール」とも言うそうです。
ミネラルウォーター「ヴォルビック」が採れるフランスの真ん中にあるあまり大きくない町(クレルモン・フェラン)に本社があります。しかし今は国際企業となっていて、社員の3/4はフランス人以外だとか。
ミシュラン・タイヤは、かつて日本で販売されていなかったが、東京モノレール(浜松町・羽田空港)が東京オリンピックにあわせて建設された時、その車両のタイヤとして国産品は強度が不足した。三井物産が外国の例を調べて、パリ、NYの地下鉄に使われていたタイヤを見つけた。それがミシュランだった。
もともとのミシュランは、クレルモン・フェラン(オーベルニュ県)で農機具屋を営んでいた。跡継ぎの兄弟がいて、弟はパリの国立美術学校で学び優等生であったが、学内コンクールで3位しかとれず画家になることをあきらめた。たまたま、英国の獣医ダンロップが空気入りタイヤを発明して自転車に付けたことを知った。兄も、パリで錠前屋を開き技師をしたが、弟からこの話を聞いて空気入りタイヤの将来性を感じてパリの店を売り払い、故郷の町で自転車タイヤの製造販売を開始。当時ダンロップのタイヤは、パンクすると修理に長い時間がかかった。それをミシュラン兄は15分で修理できる方法を考案をした。
そんな特長をどうやって顧客に知ってもらうか。兄弟が考えたのは、パリ・ブレスト往復自転車レースへの出場だった。現在の「ツールド・フランス」のルーツ。
しかし話は簡単ではない。実力ある有名レーサーは、無名タイヤメーカーなど信用しない。そこで、年をとってもう使ってもらえない昔のレーサー「シルル・テロン」を雇って、出場した。
2位と8時間の差をつけて、ぶっちぎりの優勝!
次のマーケティング・チャレンジは、辻馬車(当時のタクシー)への空気タイヤ売り込み。以前の車輪は鉄の輪なので、空気タイヤにすると乗り心地は格段に良いのだが、売れない。
ミシュランの地元で、荷馬車にまず提供した。すると、
『オーベルニュでは、ブタでもタイヤに乗る』
というキャッチコピーが生まれた。
実際、鉄輪からタイヤにすると同じ馬が3倍も長い距離、荷物を引けた。つまり経済性で優れることが実証された。
次のターゲットは、登場し始めた自動車。
自転車レースでの成功にならってカーレース出場を狙った。が、ふたたび誰もタイヤを採用してくれない。自動車メーカーも協力してくれない。
そこで、やむなく自分の工場で自動車を作った。「エクレア号」(=いなずま、という意味)。エンジンだけはベンツ社から購入。
一応5台完成して、レース出発地のパリに向かったが、故障せずに到着したのは1台だけ。車名のとおり、右に左にと稲妻のように蛇行した。
パリ・ボルドー往復自動車レースでは、第8位。45台出場して、完走が8台。(1895年)
それから約100年後、1989年のフランス革命200年記念の式典では、自動車メーカーのプジョーとメルセデスベンツが、ミシュランの往時の偉業を祝してくれた(和解)。
「ビバンダム」の誕生。積み上げたタイヤを人間に見立てたシンボル。ミシュラン兄弟のユーモアから生まれ、このポスターにより一躍有名になった。
引用:Wikipedia
当時のタイヤゴムは、白かった。まだ炭素による強化剤が発明されていなかったため。
1900年、パリ万国博覧会。この年、自動車旅行のための実用ガイドとして、Guide Michelin が創刊された。
講演会として「ミシュラン」社員さんのお話。私的には、大変にトリビアルで面白かったので、メモを記録しておきます。
「先ほど、カメラマンの方から『へぇー、ミシュランはタイヤも作っているのですか!?!』と質問されました」と、話が始まりました。
もちろん、タイヤメーカーです。世界のタイヤメーカーのビッグ3は、ブリジストン(日本)、ミシュラン(仏)、グッドイヤー(米)です。
タイヤ製造企業の市場シェアの円グラフが映写されました。
フランス語では、円グラフのことを「カマンベール」とも言うそうです。
ミネラルウォーター「ヴォルビック」が採れるフランスの真ん中にあるあまり大きくない町(クレルモン・フェラン)に本社があります。しかし今は国際企業となっていて、社員の3/4はフランス人以外だとか。
ミシュラン・タイヤは、かつて日本で販売されていなかったが、東京モノレール(浜松町・羽田空港)が東京オリンピックにあわせて建設された時、その車両のタイヤとして国産品は強度が不足した。三井物産が外国の例を調べて、パリ、NYの地下鉄に使われていたタイヤを見つけた。それがミシュランだった。
もともとのミシュランは、クレルモン・フェラン(オーベルニュ県)で農機具屋を営んでいた。跡継ぎの兄弟がいて、弟はパリの国立美術学校で学び優等生であったが、学内コンクールで3位しかとれず画家になることをあきらめた。たまたま、英国の獣医ダンロップが空気入りタイヤを発明して自転車に付けたことを知った。兄も、パリで錠前屋を開き技師をしたが、弟からこの話を聞いて空気入りタイヤの将来性を感じてパリの店を売り払い、故郷の町で自転車タイヤの製造販売を開始。当時ダンロップのタイヤは、パンクすると修理に長い時間がかかった。それをミシュラン兄は15分で修理できる方法を考案をした。
そんな特長をどうやって顧客に知ってもらうか。兄弟が考えたのは、パリ・ブレスト往復自転車レースへの出場だった。現在の「ツールド・フランス」のルーツ。
しかし話は簡単ではない。実力ある有名レーサーは、無名タイヤメーカーなど信用しない。そこで、年をとってもう使ってもらえない昔のレーサー「シルル・テロン」を雇って、出場した。
2位と8時間の差をつけて、ぶっちぎりの優勝!
次のマーケティング・チャレンジは、辻馬車(当時のタクシー)への空気タイヤ売り込み。以前の車輪は鉄の輪なので、空気タイヤにすると乗り心地は格段に良いのだが、売れない。
ミシュランの地元で、荷馬車にまず提供した。すると、
『オーベルニュでは、ブタでもタイヤに乗る』
というキャッチコピーが生まれた。
実際、鉄輪からタイヤにすると同じ馬が3倍も長い距離、荷物を引けた。つまり経済性で優れることが実証された。
次のターゲットは、登場し始めた自動車。
自転車レースでの成功にならってカーレース出場を狙った。が、ふたたび誰もタイヤを採用してくれない。自動車メーカーも協力してくれない。
そこで、やむなく自分の工場で自動車を作った。「エクレア号」(=いなずま、という意味)。エンジンだけはベンツ社から購入。
一応5台完成して、レース出発地のパリに向かったが、故障せずに到着したのは1台だけ。車名のとおり、右に左にと稲妻のように蛇行した。
パリ・ボルドー往復自動車レースでは、第8位。45台出場して、完走が8台。(1895年)
それから約100年後、1989年のフランス革命200年記念の式典では、自動車メーカーのプジョーとメルセデスベンツが、ミシュランの往時の偉業を祝してくれた(和解)。
「ビバンダム」の誕生。積み上げたタイヤを人間に見立てたシンボル。ミシュラン兄弟のユーモアから生まれ、このポスターにより一躍有名になった。
引用:Wikipedia
当時のタイヤゴムは、白かった。まだ炭素による強化剤が発明されていなかったため。
1900年、パリ万国博覧会。この年、自動車旅行のための実用ガイドとして、Guide Michelin が創刊された。
タイヤ会社がガイドブックを出しているのは、知っていましたし、よく利用させてもらいましたが、ここまでくるのに、こんなに苦労があったのですね。おもしろい話を教えて下さってありがとうございます。