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日々の思いをたまに綴るブログ。

「国家と国民は一体なのか」って?

2007-06-16 23:58:12 | 大東亜戦争
(読み返すとあまりに出来が悪かったので、2007.6.17大幅に改稿した)


 萱野稔人・津田塾大学准教授という人が、6月9日付け『朝日新聞』の「異見新言」というオピニオンコーナーで、《安倍政権の「国」 国家と国民は一体なのか》というタイトルで、安倍首相の国家観を次のように批判している。


《1972年、日本は中国と国交を正常化した。このとき中国の周恩来首相が先の戦争について語った有名な言葉がある。「中国人民は、毛沢東主席の教えに従って、ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民を厳格に区別してきました」というものだ。保阪正康氏によると、この言葉をめぐって、昨年の自民党総裁選における公開討論会のなかで、安倍晋三候補はこう述べたという。「日本国民を二つの層に分けると言うことは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんながそれで理解してはいない。やや階級史観的ではないか」(「月刊現代」06年11月号から)
 ここには安倍首相の国家観がとてもよくあらわれている。国家と国民は一体である、という国家観だ。国家の運営に直接かかわったり、役人や軍人として一定の権限をあたえられたりする人間と、それ以外の国民を区別してはならないという発想に、そうした国家観が具現している。これが沖縄戦での「集団自決」にかんして表明されると、軍の命令という要素をなんとか無化していこうという文部科学省の態度になるのである。
 とはいえ、国家と国民は一体であるという国家観がどこまで妥当なものであるかについては議論の余地があるだろう。というのも、国家は社会のなかでも特殊な存在だからだ。なぜ特殊かといえば、それは国家だけが合法的に暴力をもちいることができるからである。
 たとえば逮捕というかたちで人びとの身柄を強制的に拘束したり、戦争というかたちで武力行使をしたりすることが法的に認められているのは国家だけである。「国家権力」といわれるものはまさに、国家がこのように合法的に暴力を行使できる、というところから生じてくる。暴力の行使という点からいえば、国家と国民の間には明らかな非対称性があるのだ。
 かつてマックス・ウェーバーは「職業としての政治」の中でこう述べた。政治にたずさわる人間に必要なのは、国家がしょせん暴力の行使から切りはなしえない特殊な存在であるということを認識し、そうした特殊性から生じる一切の結果をひきうけようとする態度である、と。
 この点からいうと、国家と国民の一体性を自明視する安倍政権の国家観はあまりにナイーブだ。ウェーバーの指摘は右派にも左派にも当てはまる。つまり、右派だから安倍政権のような国家観から出発していいということにはならない。しかし現実には、その国家観のもとで憲法改正への準備がすすめられている。》


 この批判は、安倍の発言に対して、有効なものだろうか。
 安倍の、
「日本国民を二つの層に分けると言うことは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんながそれで理解してはいない。やや階級史観的ではないか」
という発言をもって、安倍の国家観は、
「国家と国民は一体である」
というものであり、
「国家の運営に直接かかわったり、役人や軍人として一定の権限をあたえられたりする人間と、それ以外の国民を区別してはならないという発想」
だとと言えるだろうか。
 私には、とてもそうは思えない。
 だから、以下長々と続くこの人の文章も、ほとんど言いがかりに近いものだと思える。

 私の記憶では、昨年の自民党総裁選における公開討論会で、この周恩来発言は、たしか谷垣禎一が持ち出したのではなかったか。
 谷垣が、そういった経緯を理由に中国の靖国参拝反発への理解を求めたのに対し、安倍は、外交文書上そのような表現はなく、日本側が公式にそのような中国側の認識に理解を示したのではないと応じたのではなかったか。
 安倍を批判する萱野は、では
「中国人民は、毛沢東主席の教えに従って、ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民を厳格に区別してきました」
という周恩来発言を、日本国民としても支持すべきだと主張するのだろうか。
 たしかに、戦争責任というものを考えるにあたって、指導者層と一般民衆に等量の責任があるとは言えまい。
 しかし、一般民衆もまた大筋では軍国主義路線を支持していたのであり、その行き着いた先が太平洋戦争であり、敗戦だったのではないか。
 「広範な日本人民」は、何ら主体性なく、指導者層に思いのままに動かされただけで、人民には罪はないという論理は、戦前・戦中期の実情に合わないのではないか。
 そういう点で、周恩来発言を上記のように評した安倍の弁は妥当なものだと思う。

 で、この安倍の発言が何故、
「国家と国民は一体である、という国家観」
「国家の運営に直接かかわったり、役人や軍人として一定の権限をあたえられたりする人間と、それ以外の国民を区別してはならないという発想」
となるのか、私には理解できない。
 まず、周発言にしろ、安倍にしろ、「ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民を厳格に区別」することについて論じている。
 「ごく少数の軍国主義分子」も「広範な日本人民」も、ともに日本国民である。
 「ごく少数の軍国主義分子」が国家で、「広範な日本人民」が国民なのではない。
 故に、安倍発言から、「国家と国民は一体である、という国家観」が見い出せるという萱野の主張は不可解である。
 次に、現代の国家とは、基本的には「国民国家(nation-state)」の概念に基づいているのではないか。少なくともわが国においてはそうではないだろうか。
 そういう意味では、国家と国民の一体性というものは存在すると言ってよいのであり、安倍発言を批判しながら周発言には何ら触れない萱野の方が、未だに階級国家論にとらわれているように見受けられる。「ナイーブ」なのはどちらか。

「政治にたずさわる人間に必要なのは、国家がしょせん暴力の行使から切りはなしえない特殊な存在であるということを認識し、そうした特殊性から生じる一切の結果をひきうけようとする態度である」
というウェーバーの主張は正しいと思う。
 だからといって、上記の安倍発言をもって、安倍にそのような態度がないと何故言い切れるのだろうか。
 安倍のこれまでの発言や行動に、そのような態度がないことを推察させるだけのものがあっただろうか。
 たかが周恩来発言批判の一言だけで、このような結論をよく導き出せるものだと、その牽強付会ぶりには恐れ入る。

 
《安倍政権の主要なスローガンのひとつに「戦後レジーム(体制)からの脱却」というものがある。戦後体制はもともと、第2次世界大戦の戦勝国が敗戦国であるファシズム国家をどう管理し、世界秩序を維持していくか、という観点のもとでくみたてられた。国連の安保理常任理事国のメンバーにそれはよくあらわれている。つまり、日本は戦後体制のもとで管理される立場におかれたのである。その立場から管理する側へと移行したい、というのが「戦後レジームからの脱却」に込められた意図である。
 しかし、それは安倍政権が望んでいるほど容易ではない。国際政治の中で「管理する側」にまわるには安倍政権の国家観はあまりにナイーブであるということも、それをいっそう困難にしているだろう。従軍慰安婦問題をめぐって今回アメリカ議会からだされたバッシングも、そうした国家観をもつ安倍政権にお灸を据えたものだとみることができる。
 安倍政権は戦後体制から脱却しようとするまえに、まずはみずからの国家観から脱却しなくてはならないだろう。》


 萱野は、実態はともかく、「ごく少数の軍国主義分子」に責任を押しつけて、「広範な日本人民」は利用されていただけの純粋無垢な存在だったと主張せよというのか。
 たしかに戦後のドイツは基本的にそのような立場をとり、それが周辺諸国にも受け入れられているようだ。
 それが戦前・戦中期の実情にかなうかどうかは別として、便宜上そうしておくべきだ、それが国際政治の場でわが国がとるべきふるまいだとでも言うのだろうか。
 それならば、「ナイーブ」といった批判も理解できる。
 しかし、それが真に過去を反省し教訓とすることになるのだろうか。



元公安調査庁長官宅捜索の報道を読んで

2007-06-15 07:25:09 | 事件・犯罪・裁判・司法
 総聯本部の土地建物売却の報道を読んだときには、総聯と政府間で何らかの手打ちが?と疑心暗鬼にかられたが、どうやら根回しなどのない独走的な行動だったようで、

東京地検、元公安調査庁長官宅を捜索 朝鮮総連ビル巡り(朝日新聞) - goo ニュース

どっちかというと、↑こちらが国策的な動きのようだ。
 そりゃそうだよなあと一安心。
 (記事全文のウェブ魚拓)。

 それにしても、どうにもうさんくさく、また謎めいた話だ。
 この元長官は、在日朝鮮人のために総連は必要だといった趣旨のことを述べているようだが、とてもそれだけで動いているとは思えない。
 今後の報道にも注目したい。



アカン! アカンて!

2007-06-14 23:31:53 | 現代日本政治
 『朝日新聞』朝刊の政治面に時々載っている「論考 集団的自衛権」。
 今日は民主党の前原誠司・前代表のインタビュー。

《私は集団的自衛権の憲法解釈は変えるべきだと考えてきた。〔中略〕「9・11テロ」は解釈変更する千載一遇のチャンスだった。私が首相なら平時には政治の争点にせず、具体的な問題が起きれば1日で変える。具体的な問題が起きないと国民には理解されないからだ。

 この箇所を読んで、思わずタイトルのようなセリフが脳裏をよぎった次第。
 何を言い出すんだこの人は。

 1日で変えて、それが通るのなら、何で安倍がわざわざ懇談会など設ける必要があろうか。
 民主制において、プロセスというものは重要だ。
 ましてや、こんな年季の入った問題については、なおのこと。
 
 それに、「具体的な問題が起き」てからでは遅いのではないのか。
 後手に回るのではなく、先を見通した取り組みを政治家には求めたい。
 
 前原は他の箇所で、

《安倍さんは私が代表幹事を務める安保関係の議連に入っていた。ただ、政策は聞きかじりで観念論的。政治家には現実問題を踏まえた視点が必要だ。》

と述べているが、前原の方がよほど観念論的に思える。
 私は、前原については、次世代のリーダーとして小沢、鳩山、菅よりよほど好意的に見ていたし、あのようなかたちで代表を辞任せざるを得なくなり同情もしていたのだが、その前原にしてこの有様かと、ちょっとショックを受けた。

《安保政策で対立軸はなくていい。英国でイラク戦争を支援したのは労働党政権だ。安保政策の基本は同じ方が国民は安心する。》

 こういう主張には同意できるのだが。

 インタビューの末尾に次のような問答がある。

《――安保政策を軸にした政界再編の可能性は。
 自民党の延命に手を貸せば、末代までそしりを受ける。与党に変わる選択肢がなければ民主主義国家といえない。私はとにかく二大政党制を確立させたい。》

 私も、政権交代のある民主制がわが国に定着してほしいと思う。
 しかし、だからといって現在の民主党にこだわって、政界再編の可能性をつぶしてしまうこともあるまいとも思う。
 2大政党制を確立することが政治家としての目的になってしまってはならないと思う。政治家としてどのような政策を実現するかが最も重要であり、党派的なことはそのための手段であるべきだろう。

熊倉正弥『言論統制下の記者』から(3)

2007-06-13 07:29:42 | 日本近現代史
(1)(2)の続き。

○参議院について

《参議院改革論がたえずくりかえされ、選挙のあり方についての各種の提案が続いている。これらの動きそのものについては、ここでは論じない。ただ、これらの論議のうちに参議院についての歴史的事実を意識的にか、あるいは偏見、もしくは軽率、無知によって「誤解」しているものが、あまりにも多いのにおどろき、その「誤解」を解く必要を痛感するである〔原文ママ〕。
 ――参議院は良識の府となるべきで、そのためには政党色をもってはならず、中立の立場を守り、衆議院の行き過ぎを抑制する目的でつくられたのであった。また、学者、文化人の多かった緑風会がその目的にかなった活動をしていた――。私が問題にするのはこの種の記述であり、いったい何を根拠としてこういうことが書けるのか、不思議でならない。
 これには二つの問題点がある。一つは参議院の性格についてであり、他の一点は緑風会の実情についてである。
 第一点についてみよう。たしかに「良識、中立、抑制」論は当初から相当に根強く存在していた。それは参議院をかつての貴族院の復活とすることを切望した保守派の強い願望であり主張であった。しかし、この考え方に国民大多数の合意があったわけでもなく、自明のこととして一般に承認されていたものでもない。当時の代表的な新聞報道、評論をみればわかる。》(p.250~251)

 朝日の1946年7月21日の社説は、明確に一院制支持の立場をとっているという。

《政府のいふ抑制の意思は、国民の大多数をしめる勤労大衆の政治的意思の進出を恐れる側から出てゐるやうに思はれる》(p.256)
《国民の最高意思は、衆議院に一元的に表明されるのが、正しい民主政治の建設の途であり、最初からこれに抑制の必要ありと考へてかゝるのは間違ひだと思ふ》(同)

 著者は、この社説は当時の進歩派の知識人の見解をほぼ代表しているという。

《緑風会には学者、文化人の議員が多かったというが、何を根拠にこういわれるのか不思議でならない。これは見解の問題ではなく、議員名簿の問題である。こういう説をとなえる人に「学者、文化人は、たとえばだれか」と質問して、五人と挙げ得た人にお目にかかったことがない。「山本有三と田中耕太郎と、ええと」と詰まってしまう。この人たちにあやまった情報を与えつづけてきた評論家、マスコミの責任を問いたい。》(p.261)

 著者は、3ページ近くにわたり、1948年に刊行された本に掲載されている緑風会議員の一覧を挙げ、

《常識的にこの名簿から学者、文化人を拾い出せば、田中耕太郎、山本有三、佐々弘雄、高瀬荘太郎らであり、新聞社社長伊達源一郎、農学博士寺尾博、林学博士徳川宗敬らを加えてもよい。緑風会がその最盛期には九十六名もいたことを考えると、四十五名にすぎない社会党の波多野鼎、木村禧八郎、堀真琴、岡田宗司らに比べて、特に多かったとはいえない。山本、田中という有名人の名につられて(この二人の名はマスコミにはひんぱんに登場したから)文化人、学者が多かったという錯覚を生じたにすぎない。》(p.264)

としている。

 緑風会は山本有三が無所属議員の会派をつくることを呼びかけたのにはじまり、左右両極端を排し、中道主義に立脚することを基本理念としていたが、

《私は政党、政派の行動を評価するためには、若干の法案に修正を加えたというようなことではなく、大多数の法案に、とりわけ世論が二分されたような重大法案や予算案にどんな態度をとったかを見るべきだ、と考えるものである。緑風会の態度は参議院の議決をつねに左右したのだから、特にそうだ。この点からみると、端的にいえば、つねに与党的であり親吉田的であったのである。
 その是々非々主義は名ばかりで、ほとんどが是であり、「中立、抑制」の実をあげたとはいえない。》(p.267~268)

と評している。

○羽仁五郎について

 羽仁五郎も参院議員を務めた。無所属議員十数名でつくった院内交渉団体である無所属懇談会に属していたという。

《羽仁五郎はその著書を読んで敬意を抱いていたが、接すると案外なところがあった。自己中心の考え方が強く、わがままだったと思う。会派を代表して本会議で演説するのは、問題の性質にもよるが、だいたいは順番できまっていたが、彼は他人の番でも重要法案の時は演説したがった。木村や堀は紳士的でおとなしい性格だから、不快そうにしながらも羽仁にゆずることがあった。》(p.271)

 「木村や堀」とは前出の木村禧八郎と堀真琴。一時はこの無所属懇談会に籍を置いていたのだそうだ。
 羽仁の性格が自分本位、わがままであることは、以前彼の晩年の自伝的著作を読んで強く感じていたので、さして意外ではない。

《彼の困る点は、口どめして提供した情報を「朝日新聞のぼくの若い友人から聞いたことだが」などと労組の新聞に平気で書くことであった。悪気はない正直な人だが、坊ちゃん的な性格かもしれなかった。選挙の時期になると慎重な岩波書店は選挙への影響を考えて羽仁の著書を広告からはずす、と落胆したように苦笑していた。山本有三が選挙運動の期間中は彼が原作者である映画『路傍の石』の上映の中止を映画会社に求めたのとは対照的である。どっちがいいというのではなく、性格の相違として私には興味があった》(p.272)

○「中国」の語について

 1950年の日共に対するコミンフォルム批判について論評した朝日の社説について述べた文章に、次のような注がある。

《つづく社説「日本共産党の苦悩」(一月十四日)でも「コミンフォルムの機関誌によって、痛烈に批判されたた『野坂理論』は、占領下における日本共産党の革命方式としては、巧妙に案出された感があつた」が、中共、北鮮の情勢をみても「日本の共産党だけが占領下でいうところの平和革命を達成しうる、などという生温い考え方は許されないものとみられるに至った。こゝに突如落下したのが、コミンフォルム機関誌の痛烈極りない爆弾的批判である」と述べている(注 当時は中国を中共といっていた。天気予報でも「中共の高気圧が」などといっていた。中国という言葉はマスコミでは共同通信がまず使い、新聞では朝日がはじめに使ったと記憶する)。》(p.278)

○ある共産党攻撃について

《保守党の中には共産党をいくら罵倒してもいい、やればやるほど男があがると考えている議員もいた。昭和二十五年十一月、風早八十二議員に日立亀有工場の労働者と名乗る四人の男が会見を求め、議員会館で対談中に「共産党を撲滅する」と叫んで三升入りのペンキのカンから人糞を同議員の頭にかけて逃走した事件があった。これは議員会館の秩序維持、警備の点で本会議で問題になった。その時、院外団出身で、のち政務次官にもなった一議員が、議席にいる風早を指さして、「汚物を頭からかけられる如き不潔なる議員」と非難攻撃したのには、もともとくだらぬ男とは知っていたが、あいた口がふさがらなかった。》(p.281~282)

○議院における懲罰について

《昭和二十六年三月におきた共産党代議士川上貫一の議員除名は、保守政党の共産党憎さの現れだが、その術策の不潔さは記録にとどめるべきものである。
 一月二十七日、川上は吉田首相の施政方針演説に対し代表質問したが、内容が反米的、過激だと自由党が懲罰動議を出し、懲罰委員会に付された。
〔中略〕かりに懲罰にするとしても数日間の登院停止ぐらいが常識的な相場だった。しかし、自、民両党には何とかして除名までもってゆきたい空気があったが、除名は行きすぎで無理だ。そこでひねり出した「名案」がひとまず軽い処分の陳謝にし、川上がそれを拒絶すれば、そのことでまた懲罰にし、院議無視の理由で除名とする、というのである。自、民両党の賛成で、その通りの結果になった。〔中略〕陳謝は登院停止より軽い処分だが、「お騒がせして遺憾でした」というような「陳謝」ではすまない。多数党の作成した「陳謝文」を公開の議場で本人が朗読しなければならない。その陳謝文には、議院として政党人として忍び得ない文言、自己の信念に反する表現が書かれる。拒絶せざるを得ない。そこで一挙に除名である。
 よほど心の曲がった卑劣なやり方だ。だれが推進したか知らないが、椎熊三郎が自慢しているのを見た記憶がある。たが個人でなく、政党全体の責任に帰せられねばならない。そして、深く考えるべきことは、懲罰はつねに多数党のみの有する武器であり、少数派の野党が多数派、与党議員を懲罰にすることは、国会の議決が数による以上はあり得ない、という事実である。》(p.282~284)

 川上の質問の内容、拒絶せざるを得ないという陳謝文の内容がわからないので判断は保留するが、末尾の指摘は重要だと思う。

○紙面の傾向と社説の不一致について

《この社説にみるように、新聞のなかでは朝日がもっとも明快に全面講和論の立場に立っていた。政治部の大勢もほぼこの線にそっていたといってよいだろう。だが、なかには、これは観念的な理想論にすぎず、実現不可能なことをとなえているものとみる空気もあった。世間でふつう想像するのとは違って、新聞社の多くは、編集局で作る紙面の傾向と、論説委員の書く社説とは必ずしも方向が一致するものではないのである。一般論としていえば、記者側では社説を観念的な書生論で現実を知らぬものと考え、論説委員の側では記者の書く評論、解説にたいして、目前の事実に没頭し、理想を忘れたものと考える傾向が多少とも存在するであろう。》(p.316)

(了)

朝鮮総聯本部売却の報道を読んで

2007-06-12 22:15:49 | 事件・犯罪・裁判・司法
朝鮮総連本部、売却 公安庁元長官経営の投資顧問会社に(朝日新聞) - goo ニュース

 今日の『朝日新聞』夕刊でこの記事を読んでびっくりした(記事全文のウェブ魚拓)。

 これは、要するに、元公安調査庁長官が代表取締役を務めるこの投資顧問会社による、総聯に対する救済策と考えていいのだろうか。
 18日に予定されているという、整理回収機構が総聯に朝銀からの融資の返還を求めた訴訟の判決は、おそらく総聯が敗訴するのだろう。
 土地建物の売却益はその返済に充てられるということか。
 そして、総聯本部はこれまでどおりその建物で活動を続けると。

 しかし、その投資顧問会社の代表取締役が元公安調査庁長官、元広島高検検事長だということは、ある種の国策による救済ということだろうか?
 総聯がわが国の政府、あるいはその一部と、何やら妥協して手打ちしたということなのだろうか。
 その代償として、何らかの情報提供を約束するとか、捜査に協力するとか・・・・?
 その投資顧問会社の行動が、全くの独自のものだとは思いがたい。

 そんな印象を覚えた。

 安倍首相は不快感を示したというが・・・・。

元公安調査庁長官に不快感 朝鮮総連の施設売却で首相(共同通信) - goo ニュース


共産党の手法の一例――情報保全隊問題の会見要旨を読んで(2)

2007-06-12 07:24:21 | 日本共産党
承前

 志位はさらに、情報保全隊が国民を調査対象としていることの不当性の根拠として、国会答弁を示している。


《この問題で、二〇〇二年四月四日に、衆院安全保障委員会で、わが党の赤嶺政賢議員が当時の中谷元防衛庁長官に、情報保全隊の任務は何かと質問しています。中谷長官は「任務面においては、従前の調査隊の任務であった各自衛隊の部隊及び機関の保全のために必要な資料、情報の収集、整理強化、明確化に加えて、新たに、職員と各国駐在武官等との接触状況に係る情報収集、また、施設等の機関の長からの要請に基づき、施設等の機関等の組織保全業務の支援を行う」とのべています。ここでも自衛隊の部隊と機関の保全のための業務をおこない、情報の収集もその範囲で必要なものだという答弁がなされています。

 この質疑で重要なことは、赤嶺議員がさらに、「自衛隊員だけでなく、民間人も情報保全隊による情報収集の対象になるわけですね」とただしたのにたいして、中谷長官は「あらかじめ防衛秘密を取り扱う者として指定した関係者のみに限定する」と答弁していることです。

 いまの自衛隊法のどこをみても、自衛隊には、一般の国民にたいする捜査権限は与えられていない、監視権限も与えられていない、調査権限も与えられていないのです。情報保全隊の仕事は、自衛隊の機関や部隊の保全のために必要な情報を集めることにのみ限られることが建前であり、ですから「防衛秘密を取り扱う者しか調査対象にしない」と答弁しているのです。

 ところが、今日明らかにした市民団体などの活動は、「防衛秘密」とはまったく無関係のものです。年金問題にしても、医療費問題にしても、イラク問題にしても、「防衛秘密」には何の関係もありません。ところがそれらをすべて対象にしている。すなわち違法というならば情報保全隊のこうした活動の全体が違法なのです。政府が情報保全隊の「任務」として公に説明してきたことにてらしても、この文書でしめされている国民監視活動はそれをはるかに超えるものであって説明がつきません。その意味で、その全体が違法です。》

 中谷長官が本当にそのような答弁をしているのだろうか。
 この衆院安全保障委員会の会議録を見てみた。

《○中谷国務大臣 そもそも、この情報保全隊を設立した理由といたしましては、平成十二年九月に秘密漏えい事件がありまして、その再発防止の一環として実施をするわけでございます。
 具体的には、組織面からの機能強化につきましては、現在、自衛隊の調査隊において、これまで中央、地方の別個の指揮系統の部隊であったものを、各自衛隊ごとに中央、地方を一つの指揮系統とした情報保全隊に統合することによって、状況の変化に迅速に対応するため、より機動的な運用が可能となるという点と、任務面においては、従前の調査隊の任務であった各自衛隊の部隊及び機関の保全のために必要な資料、情報の収集、整理強化、明確化に加えて、新たに、職員と各国駐在武官等との接触状況に係る情報収集、また、施設等の機関の長からの要請に基づき、施設等の機関等の組織保全業務の支援を行うということで、より中央でこの状況が把握をでき、また運用できるという点を強化して設置するわけでございます。
○赤嶺委員 機密漏えい事件をきっかけにということでありますけれども、実際はまた、その漏えい事件ということを口実に、さきの臨時国会で防衛秘密の新設を盛り込んだ自衛隊法の一部改正が成立いたしました。これが施行されれば、当然この秘密保護というのも情報保全隊の活動目的の一つになると思います。
 防衛秘密は、昨年の議論の中でも、自衛隊員だけでなくて防衛産業労働者やマスコミ関係者など民間人も対象として、漏えいした場合には最高五年の懲役を科すというものです。だから当然、自衛隊員だけでなく民間人も情報保全隊による情報収集の対象になるわけですね。
○中谷国務大臣 この対象につきましては、法律のときに議論をしたわけでございますけれども、あらかじめ防衛秘密を取り扱う者として指定をした関係者のみに限定するわけでございます。
○赤嶺委員 その指定をした者の中に民間人がちゃんと入っていることが問題になったわけですね。
 それで、臨時国会の審議の中で、防衛秘密について、我が党の小池参議院議員が、防衛産業の従業員が防衛秘密に指定されている自分の業務内容を家庭で話してしまった場合、漏えい罪に当たるのかどうか、中谷長官にただされています。その際、長官は、個々具体的に判断されるべきものとして、可能性は全体として否定しなかったわけです。
 情報保全隊がこういうものを対象にして情報収集を行うということになれば、国民の私生活やプライバシー、そういう領域にまで国家が入り込むということになって、基本的人権を侵さないという保証はないと思うんです。いかがですか。
○中谷国務大臣 自衛隊というのは国家防衛のために活動するわけでありまして、いわゆる国家防衛の手段の手のうちを侵略しようとする者が知り得る場合に、国民の生命財産を守り得ないわけであります。
 そういう観点で、この部隊の保全というものは必要でございますけれども、この部隊の保全のために必要な行為といたしましては、自衛隊に対して不当に秘密を探知しようとする行動、基地、施設等に対する襲撃、自衛隊の業務に対する妨害、職員を不法な目的に利用するための行動等がございまして、このような外部からの働きかけなどから部隊の秘密、規律、施設等を防護するために必要な資料及び情報を収集、整理し、所要の部隊に配付をいたしますけれども、そういった保全行為のための必要な活動に当たるわけでございます。

 志位の会見だと、赤嶺議員が
「自衛隊員だけでなく、民間人も情報保全隊による情報収集の対象になるわけですね」
と質問したのに対し、中谷長官が
「あらかじめ防衛秘密を取り扱う者として指定した関係者のみに限定する」
と答弁し、あたかも、それ以外の者は情報収集の対象とはならないと明言したように見える。
 しかし、会議録から前後の関係を考えると、赤嶺が質問しているのは、「情報保全隊の活動目的の一つ」としての「秘密保護」について、民間人が情報収集の対象となるのかどうか、という点ではないか。
 現に中谷も次の答弁で、
「自衛隊に対して不当に秘密を探知しようとする行動、基地、施設等に対する襲撃、自衛隊の業務に対する妨害、職員を不法な目的に利用するための行動等」から「部隊の秘密、規律、施設等を防護するために必要な資料及び情報を収集、整理」する必要があるとしている。
 それもまた情報保全隊の職務であり、そのために反自衛隊活動、あるいは反イラク派遣といった運動を調査対象とすることも何ら差し支えないのではないか。
 中谷の 
「あらかじめ防衛秘密を取り扱う者として指定した関係者のみに限定する」
との答弁をもって、今回問題となっている情報保全隊の活動が違法であるという主張もまた、欺瞞的だと思う。

 監視対象が反自衛隊なのが問題なのではなく、自衛隊が違法行為を犯していたのが最大の問題なのであり、プロ市民相手なら何をしてもよいかのような発言は民主主義の敵だといった左翼ブロガーの記事を見かけましたが、共産党の主張なんてまあこんなもんですよ。素人がちょっと突っ込んで調べたらすぐほころびる程度の。
 眉につばをつけて見ることをお勧めします。



共産党の手法の一例――情報保全隊問題の会見要旨を読んで(1)

2007-06-11 07:23:39 | 日本共産党
 共産党のホームページで、志位委員長による情報保全隊問題についての記者会見での一問一答を読んでみた。


《――盗聴や尾行など明白な違法行為はあるのですか。

 志位 この内部文書の中からは、それら(盗聴や尾行)を確認することはできません。

 ただし、写真撮影は違法です。たとえ、警察が行うものであっても、集会やデモの参加者に対する写真撮影は、個別具体的な犯罪行為が明確な場合をのぞいて、違法となります。一九六九年の最高裁大法廷の判決でも、「何人も、その承諾なしに、みだりにその容貌(ようぼう)・姿態を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容貌等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない」との判断が下されています。

 (犯罪行為にたいする)強制捜査権をもつ警察の場合でもそうした制約があるわけですから、ましてや強制捜査権のない自衛隊が、まったく犯罪と無関係の平和的な団体の集会やデモの参加者に対して写真撮影をおこなうのは、違法行為となることは明瞭(めいりょう)です。》


 盗聴や尾行は果たして明白な違法行為なのだろうか。
 それはさておき、1969年の最高裁判決とは、いわゆる京都府学連事件のことだろう(なぜ事件名を出さないのだろうか)。
 判決文を読んでみた。関連する部分を下に掲げる。


《所論は、本人の意思に反し、かつ裁判官の令状もなくされた本件警察官の写真撮影行為を適法とした原判決の判断は、肖像権すなわち承諾なしに自己の写真を撮影されない権利を保障した憲法一三条に違反し、また令状主義を規定した同法三五条にも違反すると主張する。
 ところで、憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。
 これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。しかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法二条一項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。
 そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法二一八条二項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときで
ある。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法一三条、三五条に違反しないものと解すべきである。》


「次のような場合には・・・・・・許容されるものと解すべきである」と述べている。
「次のような場合に限り、許容される」とは述べていない。
「次のような場合」以外にも、許容される余地はあると解釈すべきだろう。


《これを本件についてみると、原判決およびその維持した第一審判決の認定するところによれば、昭和三七年六月二一日に行なわれた本件A連合主催の集団行進集団示威運動においては、被告人の属するB大学学生集団はその先頭集団となり、被告人はその列外最先頭に立つて行進していたが、右集団は京都市a区b町c約三〇メートルの地点において、先頭より四列ないし五列目位まで七名ないし八名位の縦隊で道路のほぼ中央あたりを行進していたこと、そして、この状況は、京都府公安委員会が付した「行進隊列は四列縦隊とする」という許可条件および京都府中立売警察署長が道路交通法七七条に基づいて付した「車道の東側端を進行する」という条件に外形的に違反する状況であつたこと、そこで、許可条件違反等の違法状況の視察、採証の職務に従事していた京都府山科警察署勤務の巡査Cは、この状況を現認して、許可条件違反の事実ありと判断し、違法な行進の状態および違反者を確認するため、木屋町通の東側歩道上から前記被告人の属する集団の先頭部分の行進状況を撮影したというのであり、その方法も、行進者に特別な受忍義務を負わせるようなものではなかつたというのである。
 右事実によれば、C巡査の右写真撮影は、現に犯罪が行なわれていると認められる場合になされたものてあつて、しかも多数の者が参加し刻々と状況が変化する集団行動の性質からいつて、証拠保全の必要性および緊急性が認められ、その方法も一般的に許容される限度をこえない相当なものであつたと認められるから、たとえそれが被告人ら集団行進者の同意もなく、その意思に反して行なわれたとしても、適法な職務執行行為であつたといわなければならない。
 そうすると、これを刑法九五条一項によつて保護されるべき職務行為にあたるとした第一審判決およびこれを是認した原判決の判断には、所論のように、憲法一三条、三五条に違反する点は認められないから、論旨は理由がない。》


 この判決は、この京都府学連事件のケースについては、「次のような場合」以下の3要件、つまり、
・現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であること
・しかも証拠保全の必要性および緊急性があること
・かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれること
を満たしていることを理由に、違法性はないと述べているにすぎない。
 しかし、仮に、この3要件の一部を満たしていない警察官による写真撮影の事例があったとして、それが違法と判断されうるかどうかは、また別の問題ではないだろうか。
 この判例をもって、志位のように、
「たとえ、警察が行うものであっても、集会やデモの参加者に対する写真撮影は、個別具体的な犯罪行為が明確な場合をのぞいて、違法となります。」
と断じることができるかどうか、疑問に思う。
 さらに、警察でさえ違法なのだから、捜査権のない自衛隊はなおさら違法だとする論法も承服しがたい。
 私人による撮影はどうか。民間団体による撮影はどうか。マスコミはどうか。共産党自身も共産党主催の集会やデモを撮影していると思うが、それらは参加者全員の承諾をとっているのか。
 私人やマスコミの撮影には何ら違法性はないが、公的機関による撮影は違法であると断じるのはおかしくないか。


 志位は、写真撮影が違法というだけでなく、今回問題となった情報保全隊の活動全体が違法だという。


《――盗聴など明らかな違法行為は確認されていないのですか。

 志位 さきほどのべたように、その種の違法行為は、入手した文書のなかでは写真撮影はそれにあたりますが、それ以外は確認されません。

 ただより大きく自衛隊法との関係でいいますと、自衛隊法に根拠がない活動という点では、こうした活動の全体が違法だということがいえます。

 情報保全隊を、二〇〇三年に設置されたさいに、政府はどういう説明をしたか。情報保全隊は、自衛隊法施行令第三二条の「自衛隊の部隊の組織、編成及び警備区域に関し必要な事項は、大臣が定める」という規定にもとづくものとされ、この規定にもとづいて「陸上自衛隊情報保全隊に関する訓令」によって「任務」がきめられています。「訓令」の第三条に「情報保全隊は、……部隊及び機関並びに別に定めるところにより支援する施設等機関等の情報保全業務のために必要な資料及び情報の収集整理及び配布を行うことを任務とする」とあります。

 つまり、自衛隊がもっている情報が流出したり漏えいしたりすることを防止する――情報を保全することを「任務」としてつくられ、そのことのために必要な情報収集は許されるということが建前となっています。》


 この説明には欺瞞がある。
 「訓令」第3条にいう「情報保全業務」とは、志位が言うように、単に
「自衛隊がもっている情報が流出したり漏えいしたりすることを防止する――情報を保全すること」
ではない。
 先の私の記事でも述べたように、「訓令」第2条で、情報保全業務の定義がなされている。


《(用語の意義)
第2条 この訓令において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
(1) 情報保全業務 秘密保全、隊員保全、組織・行動等の保全及び施設・装備品等の保全並びにこれらに関連する業務をいう。》


 「情報保全業務」とは、単なる秘密の保持ではない。

 第3条を根拠として挙げうる者が、第2条に気付かないはずはない。
 共産党は、それをわかった上で、「情報保全業務」という言葉によりかかって、誤った印象を与えようとしている。
 そして朝日新聞も、まんまとそれに乗せられている、あるいはそれを承知で共闘しようとしている。
続く

テレビドラマ「セクシーボイスアンドロボ」9話 感想

2007-06-10 23:33:40 | その他のテレビ・映画の感想
 今回が最終回でも良かったような。
 あと2回あるようだが、何をどうするというのだろう。

 ロボはフィクションの虚しさに気付いたんじゃなかったのか?
 これで元どおりになるんなら、ちょっとなあ・・・・。

 次回予告がなかった。
 スケジュール的に、結構切羽詰まっているのだろうか。
 番組ホームページを見ても、少なくとも余裕があるようには見えない。

 サントラを買ってみた。やはりいい。
 特に「Robo on Fire」がお気に入り。

「釣り」の用法への違和感

2007-06-10 21:37:10 | ブログ見聞録
 ネット上で用いられる「釣り」というのは、自分の真意を伏せておいて、本意ではない、ツッコミどころのある書き込みなんかをして、それに対する人々の反応(批判が殺到したりとか)を楽しむというものじゃないのかな。

 はてなダイアリーには、
《特定の言葉や行為に対し過敏な人々に向かって誘い水を出し、それらの人々が過剰に反応する様を楽しむことを目的とした愉快犯・確信犯的な行為を示す。》
とある。うまく定義づけていると思う。

 あまりよく知らないが、例えば、大規模なものとしては、オーマイニュース日本版の発足当初の事件なんかがそうじゃないのかな。
 小規模なものとしては、こんなのとか。

 ところが、何ということのない反論コメントについて「釣られてくれてありがとう」とか「ああ、釣れてもうたよ・・・」と述べている管理人さんを最近複数見かけた。
 彼らは私などよりブログ歴も長く、人気もある方々なので、大変意外な気がした。
 もちろん、彼らの元の記事は、釣りでも何でもなく、単に普通に述べたいことを述べているにすぎないものだ。
 そういえば、あるブログに反論コメントを投稿して、そこの管理人さんから応答があったのを、別の所で「釣りにかかった!」ってはしゃいでいた人もいたなあ。
 違うでしょ。あなたが管理人さんに相手してもらってるんでしょ。

 いずれにせよ、釣りでも何でもないものを釣れた釣れたと称するのは、何だか自分を偉く見せようとしているみたいでカッコ悪いので、やめた方がいいと思います。
 たぶん、単なる用語の誤認なんでしょうが・・・・・・。

朝日社説「情報保全隊―自衛隊は国民を監視するのか」

2007-06-10 00:57:26 | マスコミ
 6月7日付け『朝日新聞』の社説が、「情報保全隊―自衛隊は国民を監視するのか」と題して、情報保全隊による調査活動を批判している(社説のウェブ魚拓)。
 朝日の社説は通常、1回につき2本掲載される。しかしこの日はこの1本のみが、普段の2本分のスペースで掲載された。それだけ朝日としてはこの問題を重視しているということなのだろう。

 共産党の志位委員長が国会内での記者会見でこの内部文書を公表したのは6日。その記事は6日の夕刊には載っておらず、7日の朝刊に載っていたので、おそらく6日の午後に公表したのだろう。それで7日の社説に通常の2本分のスペースで掲載されるとは、ふだんの報道と社説のタイムラグを考えると、やや手回しが良すぎるような気もする。
 ちなみに、毎日、読売、産経はこの問題を社説では扱っていない。この点でも朝日の反応は異様である。


《自衛隊は国民を守るためにあるのか、それとも国民を監視するためにあるのか。そんな疑問すら抱きたくなるような文書の存在が明らかになった。》


 もう、この冒頭の一節で既に読む意欲をなくしてしまいそうになる。
 国民を守ることと国民を監視することは相反するものだろうか。国民を守るために国民を監視するということもあり得るだろう。国民を監視するということは何も国民全体を敵視するということではない。


《自衛隊のイラク派遣は国論を二分する大きな出来事だった。自衛隊が世論の動向に敏感なのは当然のことで、情報収集そのものを否定する理由はない。

 しかし、文書に記されているのは、個々の活動や集会の参加人数から、時刻、スピーチの内容まで克明だ。団体や集会ごとに政党色で分類し、「反自衛隊活動」という項目もある。

 これは単なる情報収集とはいえない。自衛隊のイラク派遣を批判する人を頭から危険な存在とみなし、活動を監視しているかのようである。》


 いや、これも単なる情報収集ではないだろうか。
「自衛隊が世論の動向に敏感なのは当然のことで、情報収集そのものを否定する理由はない。」
 朝日もこの点については認めている。私もそう思う。
 ならば、反自衛隊、あるいはイラク派遣反対を唱える人々がどの程度の人数で、どういったメンバーで、どのような主張や活動をしているかを把握するのもまた必要なことではないだろうか。
 

《情報保全隊の任務は「自衛隊の機密情報の保護と漏洩(ろうえい)の防止」と説明されてきた。ところが、その組織が国民を幅広く調査の対象にしていたのだ。明らかに任務の逸脱である。》


 今回共産党が公表した内部文書は、陸上自衛隊の東北方面情報保全隊と、同じく陸上自衛隊の情報保全隊本部が作成したとされるもの。
 陸自の情報保全隊については、平成15年3月24日付け陸上自衛隊訓令第7号「陸上自衛隊情報保全隊に関する訓令」が根拠法令であるらしい。
 その第3条に次のようにある。

《(情報保全隊の任務)
第3条 情報保全隊は、陸上幕僚監部、陸上幕僚長の監督を受ける部隊及び機関並びに別に定めるところにより支援する施設等機関等の情報保全業務のために必要な資料及び情報の収集整理及び配布を行うことを任務とする。》

 その「情報保全業務」とは何か。
 第2条にこうある。

《(用語の意義)
第2条 この訓令において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
(1) 情報保全業務 秘密保全、隊員保全、組織・行動等の保全及び施設・装備品等の保全並びにこれらに関連する業務をいう。》 

 したがって、朝日社説の言う「情報保全隊の任務は「自衛隊の機密情報の保護と漏洩(ろうえい)の防止」」は、正確ではない。
 「隊員保全、組織・行動等の保全及び施設・装備品等の保全並びにこれらに関連する業務」もまた情報保全業務なのだから。
 そのために、反自衛隊活動、あるいはイラク派遣反対運動などの情報を収集することもまた必要なことなのだろうと私は思う。
 少なくとも、これが任務の逸脱や違法行為であるとは思えない。

 自衛隊を監視対象とするはずの組織が国民を監視対象としていた、違法であり違憲であるとの共産党の主張は強引にすぎるものであり、朝日以外の大手紙が重視していないのもうなずける。