(承前)
○日本再建連盟、社会党入党を図る
岸は占領軍にA級戦犯として捕らえられるが、起訴されないまま、東京裁判の判決後に出所する。公職追放中であったため政治には参加できない。1951年に三好英之ら戦中からの岸系の政治家が「新日本政治経済研究会」を結成し、これは翌年、文化団体「日本再建連盟」に改組される。「岸新党」の母胎と見られた。
《岸 〔中略〕その年の八月か九月に解散があったんです。私は反対したんだけれど、再建連盟に属している連中が立候補するという。それには単純な国民運動ではいけない、政治団体にしなければならんという議論が出てきた。私はその説には反対で、もう少し国民運動として根を生やしてやるべきだと言ったのだが、予期しない解散のために、再建連盟が政治結社になってしまった。ところが選挙の結果は、私はもちろん立候補しなかったけれど、武智君だけが当選して、三好君を初めみな落ちてしまった。
私は三輪君と話をして社会党へ入れてくれないかという話をしたことがあるよ。
――岸さんがですか。
岸 うん。三輪君はまじめに考えて、まじめに考えてというのは、私は社会党といっても従来の既成政党にあきたらない新しい政党をつくらなきゃいかんと考えていた。三輪君もいろいろ社会党のほうに当ったんですよ。ところがね、岸を入れるわけにはいかんという結論だったらしい。》(p.99)
武智君とは武智勇記。
三輪君とは三輪寿壮。社会党右派の長老格。大政翼賛会、産業報国会の指導部に加わり、戦後1950年まで公職追放を受けていた。
○二大政党論
保守合同に関連して。
《岸 私は、民主政治をうまく運営していくためにはやはり二大政党制が一番望ましいと思っていた。ちょうどイギリスの保守党と労働党みたいにね。ところが当時の日本では、保守党同士が選挙で喧嘩などしていて、それが人身攻撃だったりする。政治の本筋でないことを闘っているわけで、これは政治を毒するものだ。だから政策論争というものを主にして、国民がいずれの政党を支持するかということを決めるには二大政党が一番望ましいので、それが私の政治に対する基本的な考え方だった。
〔中略〕自由党や改進党のあり方に批判的であったことはもちろんですが、本当に脱皮した保守政党が二大政党の一つとしていかにあるべきかについてはずっと考え続けていた。一方は社会主義政党はアンチ共産主義でなければならず、しかも資本主義の考え方とは違った政党、まあ現在の民社党のような政党が望ましい。そうすればこの二大政党によって政権が民主的にスムーズに交替できるだろう。私は今でもそう思っているんですがね。》(p.107~108)
○重光葵
《岸 日本再建連盟を起すときに、その総裁に重光になってもらうということで、私との間でちゃんと話ができていたんだ。それにもかかわらず大麻なんかに引っ張られて改進党の総裁になったんでね。あのときの重光の行動はちょっと理解できなかったですよ。》(p.99)
《矢次 あの時は私と安岡正篤が、絶対に政界に出てはいかん、出るならば自ずから時期があるということを、重光さんの家に言いに行ったんだが、別室には綾部健太郎と大麻唯男が控えていて、私らが帰るとすぐ重光さんを説き伏せたという経緯がある。だからこっちにも重光はけしからんという感情がずっと残ったんだ。
その後外務大臣になったり、政治活動をいろいろしたけれど、政治家としての経歴は彼にとってプラスになっているとはいえない。綾部は同郷だし、鎌倉から重光を引っ張り出した責任者だから、自らの選挙地盤を譲って重光を押し出し、終始助けたわけだけど、その綾部が重光の理解力のなさ、もののわからなさをしばしばこぼしていた。私も、戦前の重光外相の経歴と、戦後、巣鴨から出てきて重光のやったことを比べると、人間が違ったような印象を受けましたね。》(p.116)
○三木武吉
《――民主党あるいは鳩山内閣ができる段階で岸さんのもとで一番活躍したのは誰ですか。
矢次 三木武吉だろうな。
岸 三木さんは相談相手ではあるけれども、私より先輩です。
矢次 けれども、一時文句を言っていたことがあるが、広い意味の岸派だった。私は三木武吉が東京市会議員の時から知っているから、三木が岸さんに対してもっていた感情が強かったり、弱かったりする時代をずっとみているけれども、初め三木は官僚嫌いで、岸さんは好かれていなかった。しかし後には、吉田は歴史的役割は終わった。鳩山は健康がだめだ、そのあと、俺がやるわけにはゆかないよ、俺はドンブリ飯みたいな男だとか、床の間に置ける人間と置けない人間がいて、自分はその器ではないし柄でもないとよく言っていた。彼とはずいぶん思い出に残る話をしているけれど、結局、煎じ詰めると、岸君しかいないということを私は三木から聞いている。彼は役人嫌いだったが、最後は岸さんの支持者になったんじゃないかと思う。
岸 亡くなる前には、あたかも親父が息子に接するような仕方で遇してくれましたよ。》(p.121)
○大野伴睦
《――いま、お話に出た大野伴睦という人はどうですか。
岸 川島だとか益谷、林譲治なんかに一種共通したものがあると同時に特殊なものがある。伴睦さんが一番若くて院外団をやっていたから筋金もあるし、ある意味では雑草のような趣きがあったね。
矢次 私が文春に書いて怒られたことがある。岸さん、石井さんが総裁選挙やったときの話で、「肥担桶に金のたがはめても床の間には置けない」と書いた。匿名で書いたんだけれども伴睦が読んで怒ったね。
岸 しかし、肥担桶ちゅうのは、ずいぶんはやった。》(p.126)
原文では「たが」に傍点。
○河野一郎、松村謙三
《岸 私はそれまで河野君という人をあまり知らなかったんだ。それでその二日間いろいろ話をしてみると、世間ではずいぶん押しの強い強心臓の男のようにいうけれど、非常に神経質で気の小さい人間なんです。世の中には偽善者というのがあるけれど、河野君は悪人ではないのに妙な格好をして、どちらかというと偽悪者だ。
矢次 一見すると傲岸不遜だけれど、小心翼々のところがある。傲慢のところしかつきあっていない人は反感をもつし、小心なところをみると違った印象をもつ。もっともあのくらいの年になると、性格は三つ四つと分裂してもおかしくないんだが・・・・・・(笑)。
岸 私は性格的に松村謙三さんとはあまり合わなくてね、松村さんもそう思われたでしょうが、私もどうもぴたりこなかった。ところが、私が総理の時に、なんかの問題で新聞記者の諸君がやってきて、河野君のことを非難したんで、私はこう言ってやったことがある。君たちは河野君のことを悪くいうけれども、彼はそんな男じゃないよ。悪人の巨頭みたいにいうが、根は正直で、むしろ気の小さい男だ。政界には諸君からみると、まるで聖人君子みたいに見える人がいるが、実際は腹黒くて、いやな人間がおるよ、とね。そうしたら記者の中ですぐ松村さんのところへ飛んで行って、岸がこういうことを言っていた、と報告したのがいたんだ(笑)。
矢次 岸さんと松村さんのことを考えてみると、昭和十五年の新体制運動の頃、岸さんは軍部の支持があったけれど、片方は民政党で政党解消に追いつめられた。いろんなものがからんでいるんだろうが、松村さんはその頃から岸さんには相当反感をもっていたな。
――それは民主党をつくるときに、松村さんあたりから反発される理由になってくるわけですね。それ以降も対立関係にあるわけですね。
岸 やっぱり亡くなるまで・・・・・・。いまでも松村さんの系統だった三木にしたって古井、宇都宮にしたって、みんな松村的だな。》(p.134~135)
三木はもちろん三木武夫。古井は古井喜実のことだろうか。宇都宮は宇都宮徳馬だろう。
○高野実
《矢次 社会党の統一については私も関係していたからよくわかるけど、三輪寿壮も西尾末広も保守合同については横目で見ていた。それで統一問題について一番強いショックを与えたのは高野実なんだ。彼が保守党の混乱に乗じて、社会党が重光を総理候補として擁立させようとした。その時に三輪君が、かくの如き権謀術数を社会主義政党が使うことは恐るべきことだ、断じて阻止しなければならん、それには社会党が一緒になっていなければならないと言って、頑迷といわれた西尾君を口説いたわけです。共産主義者が権力闘争に手段を選ばないということは心得ていたいたけれど、高野君が死んでから、秘密党員だったことがわかって、一層その感を強くしたね。》(p.140~141)
秘密党員とは日共のそれか。
○緒方竹虎
《岸 緒方さんは私が政界に復帰してはじめてつきあいができたのでその前は知らないですね。でも私が戦後あった政治家では立派な政治家として印象に残っていますね。一度総理になって三年か四年、日本の政治を担当してもらいたかった人の一人だろうなあ。重光氏には総理になってもらおうとは思わないがね、いや、ほんとに(笑)。だけど緒方さんにはそう思うな。
――あのとき亡くならなかったらその可能性があったということですか。
岸 あった。ありました。》(p.142)
○日ソ関係
《――保守合同の時に、歯舞、色丹プラス南千島、国後、択捉の無条件返還、そのほかは国際会議によって解決するという両党の了解ができた。最初の全権委員の松本俊一さんはその回想録『モスクワにかける虹』で、これで領土問題で枠がはまってやりにくくなったと書いておりますが、旧自由党系の反対の姿勢というか、日ソ交渉に対してものすごく消極的だというのはどういう意味なんでしょうか。
岸 吉田さん自身が消極的だったですね。これはサンフランシスコ条約以来の考えなんでしょうが、それと鳩山さんが積極的だから、反鳩山の意味において反対という二つの側面があった。
――松本さんによれば、首相の鳩山さんが積極的で、外務大臣が消極的なのはずいぶん妙なことであるということで、重光については歯切れの悪いことを書いていますが、重光が消極的だというのはどういうことですか。
岸 領土問題についてソ連は譲らない、しかも枠をはめられたんでは交渉しても意味をなさないという考えだったろうと思う。とにかく日ソ交渉を成立せしめるには、領土問題に関する日本の主張を捨てろという考えを重光君は最後に唱えていますからね。
――これも松本さんに言わせると、重光が突如軟論に転ずるのは理解しがたいところだ、というわけですね。
矢次 あの前後の重光という人はよくわからんね。》(p.146~147)
《――交渉再開になり、重光全権がモスクワへ行き、初めは強いことを言って周りを唖然とさせ、最後にはもうこれでだめだから、歯舞、色丹二島返還だけで条約を結ぼうというふうに急変し、それを請訓もしないで調印してしまおうというので、皆大変あわてたということですが、日本国内でも相当びっくりされたんじゃないですか。
岸 結局、二島返還ということでソ連から請訓してきて、これには皆びっくりした。その時絶対いかんという意見があり、一方割合に軟論を唱えたのが河野君です。まあ軟論というよりも、当時の日本の実力では、ソ連は歯舞、色丹しか返さんぞ、だからとりあえず二島だけとって、あの近海で漁業するだけで得である、ということですね。ところが党内では、絶対に四島一括返還でなければならんという意見が多くて、次に鳩山さんが行くについてもですよ、その点は絶対譲らないということを党議で決定しろということだった。
――ただ平和条約を結ぶという方式をとれば、領土問題でデッドロックに乗り上げることは、この時点でわかるわけで、最終的にに共同宣言方式でやるということになったけれど、その点党内ではあくまでも平和条約方式でいけという議論もあったわけですか。
岸 ありましたね。
――それでは交渉が決裂しますね。
岸 決裂させるのが目的で、どちらかというと旧吉田派の連中のなかにその議論があった。
――平和条約も結ばないし、共同宣言もやらないというと、どういうことになるか・・・・・・。
岸 形式上戦争状態が続くけれども、別に戦争を実際にやるというわけではないのだから、もう少し時期を稼いで、国際情勢の変化を待ってやったほうがいいという議論なんだ。ただ将来に対する見通しがきちんとしていたわけではない。それと実際的な外交上の議論というよりも、根に反鳩山の感情がからんでいるんですよ。》(p.148~149)
(続く)
○日本再建連盟、社会党入党を図る
岸は占領軍にA級戦犯として捕らえられるが、起訴されないまま、東京裁判の判決後に出所する。公職追放中であったため政治には参加できない。1951年に三好英之ら戦中からの岸系の政治家が「新日本政治経済研究会」を結成し、これは翌年、文化団体「日本再建連盟」に改組される。「岸新党」の母胎と見られた。
《岸 〔中略〕その年の八月か九月に解散があったんです。私は反対したんだけれど、再建連盟に属している連中が立候補するという。それには単純な国民運動ではいけない、政治団体にしなければならんという議論が出てきた。私はその説には反対で、もう少し国民運動として根を生やしてやるべきだと言ったのだが、予期しない解散のために、再建連盟が政治結社になってしまった。ところが選挙の結果は、私はもちろん立候補しなかったけれど、武智君だけが当選して、三好君を初めみな落ちてしまった。
私は三輪君と話をして社会党へ入れてくれないかという話をしたことがあるよ。
――岸さんがですか。
岸 うん。三輪君はまじめに考えて、まじめに考えてというのは、私は社会党といっても従来の既成政党にあきたらない新しい政党をつくらなきゃいかんと考えていた。三輪君もいろいろ社会党のほうに当ったんですよ。ところがね、岸を入れるわけにはいかんという結論だったらしい。》(p.99)
武智君とは武智勇記。
三輪君とは三輪寿壮。社会党右派の長老格。大政翼賛会、産業報国会の指導部に加わり、戦後1950年まで公職追放を受けていた。
○二大政党論
保守合同に関連して。
《岸 私は、民主政治をうまく運営していくためにはやはり二大政党制が一番望ましいと思っていた。ちょうどイギリスの保守党と労働党みたいにね。ところが当時の日本では、保守党同士が選挙で喧嘩などしていて、それが人身攻撃だったりする。政治の本筋でないことを闘っているわけで、これは政治を毒するものだ。だから政策論争というものを主にして、国民がいずれの政党を支持するかということを決めるには二大政党が一番望ましいので、それが私の政治に対する基本的な考え方だった。
〔中略〕自由党や改進党のあり方に批判的であったことはもちろんですが、本当に脱皮した保守政党が二大政党の一つとしていかにあるべきかについてはずっと考え続けていた。一方は社会主義政党はアンチ共産主義でなければならず、しかも資本主義の考え方とは違った政党、まあ現在の民社党のような政党が望ましい。そうすればこの二大政党によって政権が民主的にスムーズに交替できるだろう。私は今でもそう思っているんですがね。》(p.107~108)
○重光葵
《岸 日本再建連盟を起すときに、その総裁に重光になってもらうということで、私との間でちゃんと話ができていたんだ。それにもかかわらず大麻なんかに引っ張られて改進党の総裁になったんでね。あのときの重光の行動はちょっと理解できなかったですよ。》(p.99)
《矢次 あの時は私と安岡正篤が、絶対に政界に出てはいかん、出るならば自ずから時期があるということを、重光さんの家に言いに行ったんだが、別室には綾部健太郎と大麻唯男が控えていて、私らが帰るとすぐ重光さんを説き伏せたという経緯がある。だからこっちにも重光はけしからんという感情がずっと残ったんだ。
その後外務大臣になったり、政治活動をいろいろしたけれど、政治家としての経歴は彼にとってプラスになっているとはいえない。綾部は同郷だし、鎌倉から重光を引っ張り出した責任者だから、自らの選挙地盤を譲って重光を押し出し、終始助けたわけだけど、その綾部が重光の理解力のなさ、もののわからなさをしばしばこぼしていた。私も、戦前の重光外相の経歴と、戦後、巣鴨から出てきて重光のやったことを比べると、人間が違ったような印象を受けましたね。》(p.116)
○三木武吉
《――民主党あるいは鳩山内閣ができる段階で岸さんのもとで一番活躍したのは誰ですか。
矢次 三木武吉だろうな。
岸 三木さんは相談相手ではあるけれども、私より先輩です。
矢次 けれども、一時文句を言っていたことがあるが、広い意味の岸派だった。私は三木武吉が東京市会議員の時から知っているから、三木が岸さんに対してもっていた感情が強かったり、弱かったりする時代をずっとみているけれども、初め三木は官僚嫌いで、岸さんは好かれていなかった。しかし後には、吉田は歴史的役割は終わった。鳩山は健康がだめだ、そのあと、俺がやるわけにはゆかないよ、俺はドンブリ飯みたいな男だとか、床の間に置ける人間と置けない人間がいて、自分はその器ではないし柄でもないとよく言っていた。彼とはずいぶん思い出に残る話をしているけれど、結局、煎じ詰めると、岸君しかいないということを私は三木から聞いている。彼は役人嫌いだったが、最後は岸さんの支持者になったんじゃないかと思う。
岸 亡くなる前には、あたかも親父が息子に接するような仕方で遇してくれましたよ。》(p.121)
○大野伴睦
《――いま、お話に出た大野伴睦という人はどうですか。
岸 川島だとか益谷、林譲治なんかに一種共通したものがあると同時に特殊なものがある。伴睦さんが一番若くて院外団をやっていたから筋金もあるし、ある意味では雑草のような趣きがあったね。
矢次 私が文春に書いて怒られたことがある。岸さん、石井さんが総裁選挙やったときの話で、「肥担桶に金のたがはめても床の間には置けない」と書いた。匿名で書いたんだけれども伴睦が読んで怒ったね。
岸 しかし、肥担桶ちゅうのは、ずいぶんはやった。》(p.126)
原文では「たが」に傍点。
○河野一郎、松村謙三
《岸 私はそれまで河野君という人をあまり知らなかったんだ。それでその二日間いろいろ話をしてみると、世間ではずいぶん押しの強い強心臓の男のようにいうけれど、非常に神経質で気の小さい人間なんです。世の中には偽善者というのがあるけれど、河野君は悪人ではないのに妙な格好をして、どちらかというと偽悪者だ。
矢次 一見すると傲岸不遜だけれど、小心翼々のところがある。傲慢のところしかつきあっていない人は反感をもつし、小心なところをみると違った印象をもつ。もっともあのくらいの年になると、性格は三つ四つと分裂してもおかしくないんだが・・・・・・(笑)。
岸 私は性格的に松村謙三さんとはあまり合わなくてね、松村さんもそう思われたでしょうが、私もどうもぴたりこなかった。ところが、私が総理の時に、なんかの問題で新聞記者の諸君がやってきて、河野君のことを非難したんで、私はこう言ってやったことがある。君たちは河野君のことを悪くいうけれども、彼はそんな男じゃないよ。悪人の巨頭みたいにいうが、根は正直で、むしろ気の小さい男だ。政界には諸君からみると、まるで聖人君子みたいに見える人がいるが、実際は腹黒くて、いやな人間がおるよ、とね。そうしたら記者の中ですぐ松村さんのところへ飛んで行って、岸がこういうことを言っていた、と報告したのがいたんだ(笑)。
矢次 岸さんと松村さんのことを考えてみると、昭和十五年の新体制運動の頃、岸さんは軍部の支持があったけれど、片方は民政党で政党解消に追いつめられた。いろんなものがからんでいるんだろうが、松村さんはその頃から岸さんには相当反感をもっていたな。
――それは民主党をつくるときに、松村さんあたりから反発される理由になってくるわけですね。それ以降も対立関係にあるわけですね。
岸 やっぱり亡くなるまで・・・・・・。いまでも松村さんの系統だった三木にしたって古井、宇都宮にしたって、みんな松村的だな。》(p.134~135)
三木はもちろん三木武夫。古井は古井喜実のことだろうか。宇都宮は宇都宮徳馬だろう。
○高野実
《矢次 社会党の統一については私も関係していたからよくわかるけど、三輪寿壮も西尾末広も保守合同については横目で見ていた。それで統一問題について一番強いショックを与えたのは高野実なんだ。彼が保守党の混乱に乗じて、社会党が重光を総理候補として擁立させようとした。その時に三輪君が、かくの如き権謀術数を社会主義政党が使うことは恐るべきことだ、断じて阻止しなければならん、それには社会党が一緒になっていなければならないと言って、頑迷といわれた西尾君を口説いたわけです。共産主義者が権力闘争に手段を選ばないということは心得ていたいたけれど、高野君が死んでから、秘密党員だったことがわかって、一層その感を強くしたね。》(p.140~141)
秘密党員とは日共のそれか。
○緒方竹虎
《岸 緒方さんは私が政界に復帰してはじめてつきあいができたのでその前は知らないですね。でも私が戦後あった政治家では立派な政治家として印象に残っていますね。一度総理になって三年か四年、日本の政治を担当してもらいたかった人の一人だろうなあ。重光氏には総理になってもらおうとは思わないがね、いや、ほんとに(笑)。だけど緒方さんにはそう思うな。
――あのとき亡くならなかったらその可能性があったということですか。
岸 あった。ありました。》(p.142)
○日ソ関係
《――保守合同の時に、歯舞、色丹プラス南千島、国後、択捉の無条件返還、そのほかは国際会議によって解決するという両党の了解ができた。最初の全権委員の松本俊一さんはその回想録『モスクワにかける虹』で、これで領土問題で枠がはまってやりにくくなったと書いておりますが、旧自由党系の反対の姿勢というか、日ソ交渉に対してものすごく消極的だというのはどういう意味なんでしょうか。
岸 吉田さん自身が消極的だったですね。これはサンフランシスコ条約以来の考えなんでしょうが、それと鳩山さんが積極的だから、反鳩山の意味において反対という二つの側面があった。
――松本さんによれば、首相の鳩山さんが積極的で、外務大臣が消極的なのはずいぶん妙なことであるということで、重光については歯切れの悪いことを書いていますが、重光が消極的だというのはどういうことですか。
岸 領土問題についてソ連は譲らない、しかも枠をはめられたんでは交渉しても意味をなさないという考えだったろうと思う。とにかく日ソ交渉を成立せしめるには、領土問題に関する日本の主張を捨てろという考えを重光君は最後に唱えていますからね。
――これも松本さんに言わせると、重光が突如軟論に転ずるのは理解しがたいところだ、というわけですね。
矢次 あの前後の重光という人はよくわからんね。》(p.146~147)
《――交渉再開になり、重光全権がモスクワへ行き、初めは強いことを言って周りを唖然とさせ、最後にはもうこれでだめだから、歯舞、色丹二島返還だけで条約を結ぼうというふうに急変し、それを請訓もしないで調印してしまおうというので、皆大変あわてたということですが、日本国内でも相当びっくりされたんじゃないですか。
岸 結局、二島返還ということでソ連から請訓してきて、これには皆びっくりした。その時絶対いかんという意見があり、一方割合に軟論を唱えたのが河野君です。まあ軟論というよりも、当時の日本の実力では、ソ連は歯舞、色丹しか返さんぞ、だからとりあえず二島だけとって、あの近海で漁業するだけで得である、ということですね。ところが党内では、絶対に四島一括返還でなければならんという意見が多くて、次に鳩山さんが行くについてもですよ、その点は絶対譲らないということを党議で決定しろということだった。
――ただ平和条約を結ぶという方式をとれば、領土問題でデッドロックに乗り上げることは、この時点でわかるわけで、最終的にに共同宣言方式でやるということになったけれど、その点党内ではあくまでも平和条約方式でいけという議論もあったわけですか。
岸 ありましたね。
――それでは交渉が決裂しますね。
岸 決裂させるのが目的で、どちらかというと旧吉田派の連中のなかにその議論があった。
――平和条約も結ばないし、共同宣言もやらないというと、どういうことになるか・・・・・・。
岸 形式上戦争状態が続くけれども、別に戦争を実際にやるというわけではないのだから、もう少し時期を稼いで、国際情勢の変化を待ってやったほうがいいという議論なんだ。ただ将来に対する見通しがきちんとしていたわけではない。それと実際的な外交上の議論というよりも、根に反鳩山の感情がからんでいるんですよ。》(p.148~149)
(続く)