小谷野敦が、こんなことを述べている。
《若いころ呉を読んでいた時、私は、左翼(=戦後民主主義)を批判しながら、保守派知識人をも批判する呉の「自由人」的なスタンスに、まあ「しびれた」。》(『バカのための読書術』(ちくま新書、2001)p.124)
昔は、私も大いにそうだった。
しかし、前にも書いたことだが、最近の呉には、以前ほどの魅力を感じない。
これは、一つには、私が年をとって、呉の主張に慣れて、飽きてしまったためだろう。
また、呉の主張は本当に正しいのか、ある種の極論で世間を驚かせているだけなのではないか、あるいは、面白さを優先するあまり正確性に欠けることが多いのではないかという疑問を強く覚えるようになったためでもある。
さらに、これは呉による啓蒙の成果なのかもしれないが、呉の近代主義批判、民主主義批判、大衆批判といったものは、多少なりとも物事を考える人々にとっては、もはや共通認識になっているようにも思われるということもある。
だからといって、近代主義を廃して、呉の言う「封建主義」に復帰するわけにもいかない。結局は近代主義を地道に改良していくしかあるまい。
呉にもその程度のことはわかっているはずだが、それでも、古くからの読者には手垢の付いた感のある、年来の主張を繰り返しているだけのように思える。
本書は、そんな呉の最新刊。『産経新聞』の名物コラム「断」をはじめ、近年の様々な新聞や雑誌に掲載された文章が収録されている。
呉が長年主張してきた、「すべからく」の誤用の指摘や、「支那」は差別語ではないといった論説が本書にも見られる。
呉は還暦を迎えたという。今後も「すべからく」や「支那」を語り続けて、評論家としての一生を終えるのだろうか。これまでの呉の活動を考えると、どうもそんな気がする。
それでも、いくつか注目すべき箇所はあったので、書き留めておく。
○「オカルトまみれの産経新聞」と題する文で、
・2004.9.6付け同紙の「正論」欄に、村上和雄・筑波大学名誉教授による「人の思いは遺伝子の働きを変える」との主張が掲載された
・2005.1.28付けの同欄では、女性実業家吉川稲美の、近年の災害は「人間のエゴが引き起こしているように思えてなりません」という主張が掲載された
・2005.3.23付け同紙では、「子供の三割が胎内記憶を持ち、二割が誕生時の記憶をもっていると、六段抜きの大記事を載せている」
ことを挙げ、
《保守反動が概してオカルトと結びついていることは興味深い。同時に前引村上和雄の「人間は、素晴らしい可能性を誰もが持っている」という発言に見られるような民主主義・人権思想まる出しの思想が現代オカルティズムの土壌になっていることも、これまた興味深い》(p.159)
と述べている。
○「断」の「マンガな日本語」で、小池一夫が代名詞に必ず傍点を付すこと、「ん」を全て「ン」としていることを批判。
これは、多くの人が気付いているのだろうが、正面からの批判はあまり目にしない。
呉は、単行本化に伴い付けられた補注で、
《小池一夫が斯界の超大物であるため、編集者は誰もこのおかしさを指摘できないのかもしれない。小池の原作原稿は一字一句の修正も許されないといった話も聞いたことがある。》
《どうも、小池一夫は字音という概念を理解していないようだ。》
とも述べている。
○岩中祥史『中国人と名古屋人』(はまの出版)という本は、内村鑑三が中国人と名古屋人の類似性を指摘していることを前提に、両者を比較して書かれたもの。しかし、内村の言う中国人とは支那人ではなく本州西部の「中国」人、つまり山口人・広島人であるのにもかかわらず、岩村はこれを支那人のことと勘違いして本一冊を書いてしまったという。
(この話は、以前にも聞いたような・・・・)
○2004年に刊行された宮嶋博史、李成市、尹海東、林志弦の共著『植民地近代の視座―朝鮮と日本』(岩波書店)という本の広告の「近代とは、すべからく植民地近代である」というアオリに噛みついている。
《こうもぬけぬけと植民地主義を賛美した書物を私は知らない。近代国家は、近代人は、義務として植民地主義の道を歩まなければならないと言うのだ。》(p.154~155)
《近代という時代では植民地主義が当然であり、義務であるなどと臆面もなく主張して、よく歴史家を名乗れるものである。〔中略〕宮嶋、李、尹、林らの植民地主義賛美には、開きなおった近代国家主義しか感じられない。岩波書店も落ちるところまで落ちたものである。》(p.156)
これは「myb」という雑誌に載ったエッセイだそうだが、「断」でも同趣旨のことを述べている(p.232)。
これらを読んだ読者のうち、呉の主張に慣れ親しんでいいない人、あるいは注意深く文章を読まない人は、この本は植民地主義を当然であり、義務であるとし、賛美するものなのか、岩波書店は右派出版社に転向したのか? と誤解するのではないだろうか。
しかし、呉の本意は、単に、上記の「近代とは、すべからく植民地近代である」の「すべからく」は誤用であるということにある(呉の主張も含め、「すべからく」について、はてなダイアリーにわかりやすい解説がある)。
この広告のアオリを考えた人は、おそらく「すべからく」を「すべて」の高級表現だと考えているのだろう。しかし、「すべからく」とは、「すべからく・・・・・・すべし」といったかたちで、「○○するのが当然」「○○する必要がある」といった意味で用いられるべきものだ。「近代とは、すべからく植民地近代である」という言葉は、「近代とは、すべて植民地近代である」ではなく「近代とは、植民地近代であるべきである(あらねばならない)」といった意味になってしまう。呉は、その誤用を逆手にとって、この本の著者や岩波書店を植民地賛美者だと揶揄しているにすぎない。本気で彼らがそうだと論じているのではない。イヤミである。現に、呉は本の内容には全く触れていない。
しかし、このエッセイ中、「すべからく」の誤用についての説明はないので、呉という人物やその主張を知らない人や、「すべからく」の意味に通じていない人が読んだら、上記のように本書を植民地賛美の書と誤読するのではないかと、私は思う。
これは、読者をミスリードするものではないだろうか。呉は、結果的にそうなってもかまわないと考えているようにも思える。
こういう点も、私が近年の呉の言説に対して強く違和感を覚える理由の一つだ。
小谷野は、呉の『読書家の新技術』を、十年近く座右の書としていたという。
《だが、私も、呉が『読書家の新技術』を書いた年齢になった。私なりに、呉の勧めるやり方への疑問も生まれる。初版刊行から十七年たって、やはり知的状況も変わってくる。相撲の世界では、稽古を付けてくれた別の部屋の先輩力士に本場所で勝つことを(同部屋の兄弟子には本場所では当たらないので)「恩返し」という。もうそろそろ、呉に「恩返し」してもいいのではないか、と思ったのである。》(前掲『バカのための読書術』p.18)
そういう思いで書いたのが、『バカのための読書術』であるらしい。
私は、プロの物書きでも何でもない。小谷野を引き合いに出すなどおこがましい限りだが、かつて呉を愛読していた私にも同様の思いはある。微力でも、少しずつでも「恩返し」していきたいと思う。
《若いころ呉を読んでいた時、私は、左翼(=戦後民主主義)を批判しながら、保守派知識人をも批判する呉の「自由人」的なスタンスに、まあ「しびれた」。》(『バカのための読書術』(ちくま新書、2001)p.124)
昔は、私も大いにそうだった。
しかし、前にも書いたことだが、最近の呉には、以前ほどの魅力を感じない。
これは、一つには、私が年をとって、呉の主張に慣れて、飽きてしまったためだろう。
また、呉の主張は本当に正しいのか、ある種の極論で世間を驚かせているだけなのではないか、あるいは、面白さを優先するあまり正確性に欠けることが多いのではないかという疑問を強く覚えるようになったためでもある。
さらに、これは呉による啓蒙の成果なのかもしれないが、呉の近代主義批判、民主主義批判、大衆批判といったものは、多少なりとも物事を考える人々にとっては、もはや共通認識になっているようにも思われるということもある。
だからといって、近代主義を廃して、呉の言う「封建主義」に復帰するわけにもいかない。結局は近代主義を地道に改良していくしかあるまい。
呉にもその程度のことはわかっているはずだが、それでも、古くからの読者には手垢の付いた感のある、年来の主張を繰り返しているだけのように思える。
本書は、そんな呉の最新刊。『産経新聞』の名物コラム「断」をはじめ、近年の様々な新聞や雑誌に掲載された文章が収録されている。
呉が長年主張してきた、「すべからく」の誤用の指摘や、「支那」は差別語ではないといった論説が本書にも見られる。
呉は還暦を迎えたという。今後も「すべからく」や「支那」を語り続けて、評論家としての一生を終えるのだろうか。これまでの呉の活動を考えると、どうもそんな気がする。
それでも、いくつか注目すべき箇所はあったので、書き留めておく。
○「オカルトまみれの産経新聞」と題する文で、
・2004.9.6付け同紙の「正論」欄に、村上和雄・筑波大学名誉教授による「人の思いは遺伝子の働きを変える」との主張が掲載された
・2005.1.28付けの同欄では、女性実業家吉川稲美の、近年の災害は「人間のエゴが引き起こしているように思えてなりません」という主張が掲載された
・2005.3.23付け同紙では、「子供の三割が胎内記憶を持ち、二割が誕生時の記憶をもっていると、六段抜きの大記事を載せている」
ことを挙げ、
《保守反動が概してオカルトと結びついていることは興味深い。同時に前引村上和雄の「人間は、素晴らしい可能性を誰もが持っている」という発言に見られるような民主主義・人権思想まる出しの思想が現代オカルティズムの土壌になっていることも、これまた興味深い》(p.159)
と述べている。
○「断」の「マンガな日本語」で、小池一夫が代名詞に必ず傍点を付すこと、「ん」を全て「ン」としていることを批判。
これは、多くの人が気付いているのだろうが、正面からの批判はあまり目にしない。
呉は、単行本化に伴い付けられた補注で、
《小池一夫が斯界の超大物であるため、編集者は誰もこのおかしさを指摘できないのかもしれない。小池の原作原稿は一字一句の修正も許されないといった話も聞いたことがある。》
《どうも、小池一夫は字音という概念を理解していないようだ。》
とも述べている。
○岩中祥史『中国人と名古屋人』(はまの出版)という本は、内村鑑三が中国人と名古屋人の類似性を指摘していることを前提に、両者を比較して書かれたもの。しかし、内村の言う中国人とは支那人ではなく本州西部の「中国」人、つまり山口人・広島人であるのにもかかわらず、岩村はこれを支那人のことと勘違いして本一冊を書いてしまったという。
(この話は、以前にも聞いたような・・・・)
○2004年に刊行された宮嶋博史、李成市、尹海東、林志弦の共著『植民地近代の視座―朝鮮と日本』(岩波書店)という本の広告の「近代とは、すべからく植民地近代である」というアオリに噛みついている。
《こうもぬけぬけと植民地主義を賛美した書物を私は知らない。近代国家は、近代人は、義務として植民地主義の道を歩まなければならないと言うのだ。》(p.154~155)
《近代という時代では植民地主義が当然であり、義務であるなどと臆面もなく主張して、よく歴史家を名乗れるものである。〔中略〕宮嶋、李、尹、林らの植民地主義賛美には、開きなおった近代国家主義しか感じられない。岩波書店も落ちるところまで落ちたものである。》(p.156)
これは「myb」という雑誌に載ったエッセイだそうだが、「断」でも同趣旨のことを述べている(p.232)。
これらを読んだ読者のうち、呉の主張に慣れ親しんでいいない人、あるいは注意深く文章を読まない人は、この本は植民地主義を当然であり、義務であるとし、賛美するものなのか、岩波書店は右派出版社に転向したのか? と誤解するのではないだろうか。
しかし、呉の本意は、単に、上記の「近代とは、すべからく植民地近代である」の「すべからく」は誤用であるということにある(呉の主張も含め、「すべからく」について、はてなダイアリーにわかりやすい解説がある)。
この広告のアオリを考えた人は、おそらく「すべからく」を「すべて」の高級表現だと考えているのだろう。しかし、「すべからく」とは、「すべからく・・・・・・すべし」といったかたちで、「○○するのが当然」「○○する必要がある」といった意味で用いられるべきものだ。「近代とは、すべからく植民地近代である」という言葉は、「近代とは、すべて植民地近代である」ではなく「近代とは、植民地近代であるべきである(あらねばならない)」といった意味になってしまう。呉は、その誤用を逆手にとって、この本の著者や岩波書店を植民地賛美者だと揶揄しているにすぎない。本気で彼らがそうだと論じているのではない。イヤミである。現に、呉は本の内容には全く触れていない。
しかし、このエッセイ中、「すべからく」の誤用についての説明はないので、呉という人物やその主張を知らない人や、「すべからく」の意味に通じていない人が読んだら、上記のように本書を植民地賛美の書と誤読するのではないかと、私は思う。
これは、読者をミスリードするものではないだろうか。呉は、結果的にそうなってもかまわないと考えているようにも思える。
こういう点も、私が近年の呉の言説に対して強く違和感を覚える理由の一つだ。
小谷野は、呉の『読書家の新技術』を、十年近く座右の書としていたという。
《だが、私も、呉が『読書家の新技術』を書いた年齢になった。私なりに、呉の勧めるやり方への疑問も生まれる。初版刊行から十七年たって、やはり知的状況も変わってくる。相撲の世界では、稽古を付けてくれた別の部屋の先輩力士に本場所で勝つことを(同部屋の兄弟子には本場所では当たらないので)「恩返し」という。もうそろそろ、呉に「恩返し」してもいいのではないか、と思ったのである。》(前掲『バカのための読書術』p.18)
そういう思いで書いたのが、『バカのための読書術』であるらしい。
私は、プロの物書きでも何でもない。小谷野を引き合いに出すなどおこがましい限りだが、かつて呉を愛読していた私にも同様の思いはある。微力でも、少しずつでも「恩返し」していきたいと思う。