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『岸信介の回想』から(1)

2007-06-24 18:36:35 | 日本近現代史
 岸信介、矢次一夫、伊藤隆『岸信介の回想』(文藝春秋、1981)を読んだ。

 岸信介(1896-1987)は、言わずとしれた元首相であり、安倍現首相の祖父。
 矢次一夫(やつぎ・かずお)(1899-1983)は政界の「浪人」、「昭和最大の怪物」と称される、一言で説明しがたい人物。
 伊藤隆(1932-)は、当時東大教授。昭和史研究者。
 本書は、雑誌『中央公論』に連載された、岸及び矢次へのインタビューが元になっている。岸の回顧録的な書物はこれが初めてだったらしい。
 官僚時代の書簡、商工大臣時代の演説、巣鴨での日記などの資料も収録されている。
 興味深い箇所を書き留めておく。
 なお、「――」で示される質問は伊藤によるものと思われる。「思われる」というのは、伊藤による「はしがき」と矢次による「あとがき」で、本書成立の経緯についての記述が若干異なるから。
 伊藤の「はしがき」によると、
《私が聴き手になり、岸氏に語っていただき、矢次氏が補充してくださるということで、六月からインタビューが開始された。最初十回、補充がほぼ同数、併せて二十回程度のインタビューを行なった。途中で、昭和五十四年九月号の『中央公論』から連載をはじめ、翌五十五年六月号の第十回で完了した。その後文藝春秋からまとめて刊行するということになり、五十五―六年に四回補充のインタビューを行なった。従って全体で二十四回のインタビューを行ったことになる。その速記を整理したものを岸、矢次両氏に手を入れていただいたのである。》
 矢次の「あとがき」によると、
《たまたま、岸氏との間でこのような話〔注・回顧録〕が進んでいるときに、幸運というべきであろうか、知人を介して中央公論社から「岸回想録」連載についての申し入れがあった。そこで岸氏とも相談の上で、私が聞き役になり、昭和五十四年九月号から、同五十五年六月号までの十回に亙り、雑誌「中央公論」に連載することを得た。〔中略〕
 岸回想録が出ると、予想以上に好評であり、十回で完結すると、一冊にまとめて出版せよとの要望が、各方面から強く寄せられた。そこで出版するということであれば、私として故池島君との約束〔注・岸との対談記事の要望〕を忘れるわけにはいかない。出来得ることならば、出版の場合は文藝春秋社に依頼したいと考えた私は、中央公論社の諒解を得た上で、東大の伊藤隆教授〔注・ここで初めて伊藤の名が出てくる〕を煩わして交渉の結果、文藝春秋社から出版の快諾を得たのである。書き遅れたが、岸氏と私との対談を行うに当り、対談の進行や記録の整理等全般に亙って、伊藤教授の御協力を得たことを、特記して謝意を表さなければならぬ。さらに、この対談が長期にわたった為、記録類や資料の蒐集、校正等に多大の努力を要したが、国策研究会〔注・矢次の団体〕の吉田弘君が終始熱心に手伝ってくれたことは、まことに好都合であった。》
 矢次のニュアンスだと伊藤は協力者にすぎず、本書成立において矢次や国策研究会が果たした役割も大きいかのようである。
 どちらが真実に近いのか、判然としない。
 ただ、本書の内容からは、岸と矢次の対談ではなく、伊藤と岸・矢次コンビの対談という印象を受ける。


○ソ連(ロシア)・中国観

《岸 私は子供の時から、特に山口県当たりに育ったものとして、北からの脅威というものに敏感なのですよ。明治維新の村田清風などというのも、西北からの風を防ぐような備えをしなければだめだという議論で、当時からロシアに対する警戒心が強い。伊藤(博文)公にしても、日露戦争などによって、常に意識的ではないにしても、ロシアに対しては一種の恐露、あるいは反露感情があった。だから、そういうものが子供のときからしみこんでいますから、同じ共産主義であっても、中国に対してはそういう反露的な感情みたいなものはないんですよ。共産主義そのものに対してはソ連も中国もなく、私は反対だが、国として、中国は日本に脅威を与えるとは感じない。ところが、ソ連は帝政ロシアの時代と共産主義ソ連とを問わず違いはなく、日本にとって一つの脅威であるという感じを、私は根本的にもっているのです。》(p.18)


○辻政信

《――片倉さん〔注・片倉衷〕は経済的・産業的なことはよく勉強してわかっていたわけですか。
 岸 よくわかっていた。彼は今も健在ですが、東條さんと似ているところがある。事務処理が整然としていて、ものの考え方も整然たるものだった。そして軍人としては分をわきまえていて、たとえば、出てはならないところでは、決して埒外に出ない。ひどかったのは当時大尉で、戦後参議院議員にもなった辻政信・・・・・・。
 矢次 辻はちょっとアブノーマルな人物だった。しかし頭も良いし、勘の鋭い男ではあったね。私は少佐で参謀本部時代の彼しか知らないが、彼についての一番の問題は、関東軍参謀時代に起したノモンハン事件ですね。この事件は彼が中心でやったといってもよいくらいです。上官だった磯谷廉介や、師団長だった小松原中将などは、惨敗したあとも辻をかばってはいたけれど・・・・・・。
 ――岸さんは辻政信とは接触するような場合があったのですか。
 岸 辻政信は産業問題に特に関心があったわけではないけれど、あの男は何にでも口を出すのですよ。いろんな会議に顔を出して、とにかく大きな声でね・・・・・・(笑)。
 ――一言あるわけですか。
 岸 一言も二言もある。しかも一言あるだけならいいけど、何かあると根にもって、やっかいなんです。》(p.30~31)


○東條英機

《矢次 〔中略〕ことに東條さんという人は、戦後は評判の悪い人物だけれども、私はよく知っていて、いいところもある人物です。人に惚れっぽいところがあって、岸さんのような人物をみると惚れる。その代り愛憎が激しいから、彼に嫌われた人間は気の毒なくらい嫌われる。東條さんに好かれた人で、彼を恨む人はないけれど、憎まれ嫌われた人は、そのへんに立っていられないほどひどい目にあうのです。》(p.34)


○革新官僚、阿部内閣、企画院事件

《矢次 国防国家が全体的な国策にはなっていなかったけれど、そういう方向へもっていこうと考えていたグループはありましたね。当時の企画院の秋永月三、毛里英於菟、迫水久常といった、いわゆる革新官僚たちです。彼らは岸さんが帰ってきたというので、歓呼して迎えた。その頃は支那事変がだんだん泥沼に深入りして、にっちもさっちもゆかなくなってきている。それにどう対処するかということで皆手探りしている時に岸さんが帰ってきた。それと十四年の秋には陸軍の武藤章が北支参謀副長から軍務局長になって帰国している。そこで岸さんを中心に何かやろうではないかというので、私もその一人だったけれど、秋永とか、陸軍省の軍事課長・岩畔豪雄、大蔵省の谷口恒二、農林省の重政誠之、鉄道省の柏原兵太郎といった連中が十数人集まって月曜会という革新官僚の会をつくった。ここで月曜日に政策論議がたたかわされ、翌火曜日が閣議の日なのです。ですから月曜会の議論が、あるものはストレートに閣議の席で出て、だいぶ問題を起したことがある。
 そしてこの連中が結集したようなかたちで活発に動いたのが、阿部内閣に対するものだったと思う。特にこの内閣が、行政改革をスローガンとしたことで、これを実現させようという意気込みだった。しかし間もなく阿部では何もできないということになって、早期退陣を求める方向に動いたのです。そうすると、革新官僚はアカじゃないか、岸はアカじゃないかという批判が財界などから出始めた。そういう騒然とした時代があったということは、岸さんを語る場合はずせない。企画院事件(昭和十三年から十六年にかけて左翼運動という理由で企画院の革新官僚が検挙された事件)が起こったのもそういう社会的背景をみる必要がある。この事件では和田博雄(当時農政課長)や勝間田清一(同企画院事務官)らの諸君が捕まえられたけれど、狙いは岸さんを捕らえることにあったと思う。》(p.38~39)

《――経済新体制の場合、中心になって立案するのは企画院ですね。企画院の毛里、迫水といった方々と岸さんは一体になっておやりになったわけですか。
 岸 だいたいそうですね。
 ――和田さん、勝間田さんが捕まったということは、どういうふうにごらんになりましたか。
 岸 和田、勝間田は同じ官僚で、企画院にいたけれども、迫水、毛里とは違うんですね。私は農商務省時代から和田君とは親しかったんですが、彼はわれわれと違って左のほうだった。
 矢次 企画院事件は狙いは新経済体制で、元兇は岸だというので、岸さんを引っ張ろうとする計画がたしかにあった。美濃部、迫水といった諸君が何かの口実で警視庁に呼ばれ、当時私は両君から話を聞いたけれども、私自身も狙われて、いつ引っ張られるかというところまでしばしばいった。もともとこれは陸軍の内紛とも関連するんです。武藤軍務局長対田中隆吉兵務局長、そして平沼内相のもとにいる橋本清吉警保局長対内閣にいる富田健治書記官長の大きな暗闘が昭和十五年に渦巻いた。そして橋本・村田五郎保安課長のコンビで企画院事件が起る。経済新体制派官僚に対する弾圧が計画される一方では田中が武藤排斥をやる。橋本は富田排斥をやる。当時伝えられた話では、橋本が書記官長を狙い、田中が軍務局長を狙っているということだった。岸グループを一網打尽にするという計画と、私は富田・武藤と親しいというので、私を引っ張れば何か出るだろうということだった。だから、昭和十五年は毎日不愉快だったね。》(p.46)


○小林一三

《岸 ところが小林さんというのは面白い人で、私が大臣室に挨拶に行くと、いきなり、岸君、世間では小林と岸は似たような性格だから、必ず喧嘩をやると言っている。しかし僕は若い時から喧嘩の名人で、喧嘩をやって負けたことはない。また負けるような喧嘩はやらないんだ。第一、君と僕が喧嘩して勝ってみたところで、あんな小僧と大臣が喧嘩したといわれるだけで、ちっとも歩がない。負けることはないけれども、勝ってみたところで得がない喧嘩はやらないよ。これが次官を呼んでの大臣就任の初対面の挨拶だった(笑)。私もそれは大変結構な話で、そういうことなら仲よくやりましょうと答えたけれど、言識をなすというが、後に私が小林さんと喧嘩するようになってしまったことを思うと、実におかしなことですよ。》(p.42~43)

《岸 ところが近衛さんは各種の新体制を作ったでしょう。その中の経済新体制の問題で私は小林さんと意見が衝突してしまった。小林さんは大臣に就任するとすぐ、蘭印交渉のため蘭印に行かれた。その留守に産業統制に対する案である「経済新体制確立要綱」が企画院でできていて、それで私は、帰ってこられてから小林さんのお留守にこういうことになりました、ですが、これは重大なことだからご報告いたしますと言ったら、小林さんは、その話は聞かんぞ、わしにはわしの考えがある、ということで私の説明を聞こうとしない。ところが数日後に工業倶楽部で、小林さんは、経済新体制の考え方、あれはアカの思想である、役人の間にアカがいるという話をしたのですね。
 そこで私は小林さんのところにねじ込んだ。アカの思想とはどういうことだ。一私人小林一三がアカの思想だといわれようと何をいわれようと問題はない。が、あなたは商工大臣だ。国務大臣として民間にそういう発言をされたとなるとこれは大変だ。一体アカの思想の根拠は何で、誰がアカなのか。あの決定をしたのがアカだというのなら、それは企画院でただでは納まりませんよ、とまあこういった具合です。》(p.43)

《矢次 岸さんと小林の喧嘩のことでいえば、小林の方は役人はびしびし追回して使えばどうにでもなるという気持があって、次官は自分の会社の一支配人と違わないと考えていたでしょう。一方岸さんら役人の方からいうと、自分たちは宝塚の女の子と違うぞというところがあった。そういう雰囲気が盛り上がったところで、例の衝突が起ったという見方があっていいのじゃないですか。というのは、藤原銀次郎が商工大臣の時に、私は用事があって、予算委員会に入っていた。質問が出て、藤原さんが、私の考えによれば・・・・・・という答弁を何回かしている。すると予算委員長が、藤原君にご注意申し上げます、藤原君個人のご意見ではなく、商工省の考えをご答弁願いたいと注意した。つまり藤原さんは役人である椎名や美濃部の諸君の渡す答弁メモを握りつぶして、私の考えによれば、とやっていた(笑)。ですから財界の中には役人のロボットになどなるかという雰囲気が、小林さんだけでなく藤原さんの時にもあったということでしょう。》(p.44~45)

《――岸さんからご覧になって、伍堂、藤原、小林の三代の商工大臣をどう評価されますか。
 岸 私は藤原さんに一番傾倒しますね。人格の問題もあるけれど、考え方も一番無理がなかった。小林さんはなかなか鋭いけれど、たとえば電気の問題でも、この電信柱は背が高すぎるから切ってしまえとか、電気の本質そのものを問題にするのではなくて、それに関連のある問題について、すぐ処置するという傾向があった。そこへゆくと藤原さんは長年、財界の中で苦労された人であるだけに、われわれの意見もある程度柔軟に聞いてくれましたね。
 ――岸さんと小林さんの対立は、大きくみて従来の自由主義経済体制でやっていこうというのと、経済の再編成をやっていこうということの対立といっていいんでしょうか。
 岸 そうですね。小林さんは自由主義経済の最も徹底したものであったが、情勢からいって、自由な経済は許されない。制限しなきゃならんし、統制を加えなきゃならんし、国家が経済に干渉するというのが、経済新体制の考え方であったわけです。》(p.45)


○商工次官辞任

《――次官をお辞めになったのは、企画院事件の責任をとらされたからですか。
 岸 そうです。その時、近衛さんというのはやはり政治家だな、政治家とはこういうものかと思ったことがある。小林さんを商工大臣に決める時に、近衛さんは、大臣は小林さんに頼みますが、実は君を本当は大臣にしたかったのだよ、自分の心持ちからいえば、君が大臣だと思っている、しっかりやってくれと言う。こちらは大いに感激したわけだ。
 それで、いよいよ小林さんから次官を辞めろという話があった時、いや、私は辞めてもいいけれど、相談すべき人があるからすぐには駄目だと答えて、かつて激励を受けた手前、近衛さんに断らずに辞めるのも悪いと思い、近衛さんにお目にかかりたいと言うと、総理は会ってくれない。電話で話をしたわけです。実はこういうことで小林さんから辞めろといわれた。しかし組閣の時に総理のお言葉もあったし、ご意見を聞かないで勝手に辞めるわけにもいかないと思う。すると、近衛さんは、そうですね、やはり大臣と次官が喧嘩をしてもらっては困りますから、そういう場合には次官に辞めてもらうほかないでしょう(笑)。それで、かしこまりました、ということで辞表を出したのですよ。政治家というものはこういうものか、俺はやはり若いのだなとしみじみ感じたことがある。》(p.44)
 微苦笑を誘うエピソードである。

(続く)