トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

『岸信介の回想』から(2)

2007-06-25 23:30:24 | 日本近現代史
承前

○美濃部洋次、椎名悦三郎

 東條内閣で商工大臣に就任してからの話。
《――商工省の人事の刷新を相当厳しくおやりになったということですが・・・・・・。
 岸 大臣になってすぐ、私は局長以上を集めまして、今は非常時である、自分は死を決して大臣を引き受けた、それで私の先輩もあるいは同僚の人も、私のそういう決意に対して助けてやろうという気持はあるだろうけれど、私の方からいえば、どうしても先輩や同僚には遠慮が出てしまう、だから自分がそう思う人には全部やめてもらって、後輩だけで、遠慮なく命令できる体制をつくりたい、こう言ったわけです。それで、先輩二人に同僚三人、全部辞めてもらった。
 ――岸さんは若くして大臣になったから、そういうことになったのでしょうね。
 岸 そう、私は四十五歳だった。
 矢次 あの頃、四十代で閣僚になったのは、岸さんと、井野碩哉、賀屋興宣の三人だけでしょう。
 ――人事刷新という面からすれば慣例じゃないんですか。
 岸 慣例じゃないんだよ。それだけに表面的には非常時なんだと。一番の理由は椎名悦三郎を次官にしたかった(笑)。椎名君を次官に抜擢すると同時に、思う存分やってもらいたいということだった。椎名君は、その後私が軍需省の次官になっていったときも総動員局長になってやってもらった。
 矢次 当時の岸派の四天王といわれたグループの一人だよ。
 ――四天王とはだれなんですか。
 岸 椎名、神田、美濃部、もう一人は・・・・・・。
 矢次 小金、途中で脱落したんだよ。みんな官僚でね、商工次官あたりからはっきり岸さんのグループだった。
〔中略〕
 岸 〔中略〕官僚として優秀なのは、やっぱり美濃部だね。
 矢次 長生きすれば、国会に出ているはずだ。早く死んだからね。都知事になった美濃部亮吉とはいとこ同士だ。亮吉は洋次の親爺の兄貴の子供だからね。
 岸 官僚らしからざる男で、政治家的なんだよ。なかなか勉強しておったし、最も信頼しておった官僚だった。機械局長やらしたり、繊維局長をまかしても間違いはなかった。
 ――将来は大臣になるだろうな、とお考えになったこともありますか。
 岸 うん、その意味では椎名君だった。あれは事務官よりは上になるほど、その特色をあらわした。事務官じゃ、有能な事務官じゃない(笑)。局長にしてみるとなかなか部下の使い方もうまいし、ユーモアもあってね。総理にするとおもしろいところがあったと思うんだな。
〔中略〕
 ――さっき出ました事務官らしいとか、らしからぬというのはどういうところでしょう。
 岸 事務官として有能といえば、やっぱり法律、その関係法律なんかも心得ていて文章をつくらしてもきちんと抜け目のないように、理論的にできる、それも速やかにできる、そういう人物ということになる。
 矢次 行政官という点では椎名君より美濃部のほうが上でしょう。椎名というのはときどき情緒的なところがある。踊りも踊るし歌もうたう。感覚にまかせてズバッと相手の肺腑をつくようなところがある。美濃部君は物を合理的に、論理的に言うしね。
 岸 官僚としてやっぱり理想的な一人といえば美濃部だろうね。》(p.51~52)


○星野直樹

 東條内閣の内閣書記官長を星野直樹にしたことについて。
《矢次 軍務局長のところで作った組閣名簿のなかでは、岸さんは内閣書記官長になっていた。それをもって東條さんのところへ行ったけれども、軍務局長は陸軍大臣の幕僚長ではあるが、内閣総理大臣の幕僚ではないという東條流の理屈で、おまえは黙っていろということで、握ったまま追い出されたという経緯があります。満州国の星野を書記官長、組閣参謀長にするという。その時に武藤が東條のところにねじこんで、陸軍省としては絶対に星野は反対だと言ったんです。これが後に武藤が追い出される一つの原因になっているんだけれども、東條さんは、お前の言うように星野が書記官長としてだめだということがわかったら、その時はお前の言ったとおり入れ替える。それまではいったん決めたことだから、俺にまかせろ、ということだった。それで結局星野を書記官長にした。しかし星野書記官長反対論が各方面から起ったんです。その最大の反対者として出てくるのは徳富蘇峰なんです。
 徳富蘇峰の家の隣に偶然、星野のお父さんが住んでいて、少年星野直樹はおんぶをしてもらったことがあるそうです。ところが星野のお父さんはクリスチャンで、混血でしょう。星野家は日本人ではない。そこで、この民族大変のときに。血純血ならざるものをこの衝に当てるべからず、という激しい手紙を蘇峰さんが東條さんに出したということがある。》(p.49~50)
 最近敗戦後の日記が公刊されて蘇峰を再評価する動きがあるらしいが、蘇峰とはこの程度の人物である。


○中野正剛

《――中野正剛が昭和十七年、岸さんと戦時統制経済についてだいぶ激論したということですが・・・・・・。
 岸 記憶があります。要するに中野君は自由経済論者なんだ。私も本来は自由経済論者で、恒久的な統制経済論者ではない。恒久的な統制経済をやろうとすれば、共産主義の国と同じで、そういう全体主義的なものは私はとらない。ただ、戦時経済を一時的に運営するには国が統率力をもってやらなければならないというのが私の議論で、それに中野さんは反対した。私の印象では、官僚の統制はけしからんというのですね。》(p.61)


○軍需次官、遠藤三郎、大西瀧治郎

《矢次 航空生産の遠藤三郎、海軍からきた大西滝治郎、この二人は手に負えなかったでしょう。
 岸 大西にしろ遠藤にしろ、相当の侍だったからね。しかし戦後、遠藤がどうしてああなったかわからない。大西君は腹を切るところまでいったから立派だったけれど・・・・・・。》(p.63)
 後の箇所で、遠藤は左傾化した(岸)、新北京派になった(矢次)と述べている。


○『細川日記』の記述、政治資金

《――最近岸さんはよく論評されますが、その際いつも細川護貞氏の『細川日記』に、伊沢多喜男の情報として、「岸は在任中数千万円、少し誇大に云へば億を以て数へる金を受取りたる由。而もその参謀は皆鮎川にて、星野も是に参画しあり。結局此の二人の利益分配がうまく行かぬことが、内閣瓦解の一つの原因であつた」という記述が引用されていますが、この点いかがですか。
 岸 どういう根拠で言っているのか、訳がわからないですね。東條さんとの関係においても、金銭的に東條さんを援助したこともぜんぜんありませんし、また東條さんから、金をもらったこともありませんしね。
 戦後のような政治資金として、大臣になったらいろんなところに金をくれてやるということはなかった。飯を食うとかいうくらいの金は自分で出しているしほんとうのことを言うと、ずいぶんご馳走になったほうが多いんでね。
 矢次 代議士だって今の代議士のようにガツガツしていないね。
 岸 私が懇意だった三好英之君は米子の大金持、一里くらいの道を他人の土地に踏み込まずに中学校へ行ったという。その彼が死んだときは井戸塀になってしまって全部財産をつぶしてしまった。それが政治というものだった。最近は若いのが二回くらい代議士をやると、大きな家をつくったりするが、昔はまるで違うんだ。いまは国会対策や選挙で、金が要りますが、そういう金はあの当時はほとんど必要なかったですよ。いろんな人と会合したり、その人と同志として一緒にやるという場合特に金が必要ということはなかったね。
 ――もうひとつ岸さんを論じる場合いつも出てくるのは、政治資金は濾過器をとおったきれいなものを受けとらなければならない、と岸さんが言ったという点ですが。
 岸 利権に結びついた金を政治資金としてもらってはいけない、と若いのには言っているんです。政治資金は要るんだから、その場合にはきれいな金でなければいけない。ところが戦後はたとえばすぐ現金取引をやるから、これはいかんと私は言うんです。平生この人の世話をしているということから、こっちが要る場合に、あなたのほうで選挙費の一部に使ってください、と献金されるなら受けろ。これは利権と結びついていないんだ。それを現金取引のようなことをするから、いけない。戦前はそうじゃない。われわれも長い間役人をしていて、いろんな事業の世話をしたということがあり、いざ選挙に出る場合、世話した人が、お世話になったし、お入用でしょうからといって、お金を出してくれる。それならもらいなさいと私は言っている。そういう意味においてきれいな金でなけりゃいけない。》(p.66~67)


○東條との反目

《――昭和十九年、サイパン陥落が近づいてくるという状況になる前は、東條さんとはいい関係だったわけですか。
 岸 それがだんだん悪くなっていったのは、東條さんは軍需大臣だけれども、軍需省にはほとんど来ずに、私にまかせてやっておったわけです。ところがね、いろんなところで、なかなか計画通りの生産ができない。石炭が思うように出ないとか、あるいは製鉄の量が不足であるとか、造船が予定どおりにゆかないという事態がどんどん起ってきた。それに対して一番やかましい議論になったのは、軍需省内において鉄だけについて、次官のほかに鉄管理の大臣をつくるといって、藤原銀次郎さんをそれに当てたんです。私はその時に辞意を表した。というのは一つの役所に大臣の資格をもった者が二人も三人もいるということでは、とてもやっていけない。藤原という人が適任とお考えなら、藤原さんを軍需次官兼国務大臣になさい。私は辞めさせていただきますという申し出をしたのが、そもそも東條さんと意見が衝突するはじめの段階ですよ。
 ――東條さんはそれに対してどうお考えでしたか。
 岸 お前はわれわれと一緒に開戦の際に陛下の前で、将来の軍需生産に対しては全力をあげて、ご奉公申しあげるということをお答え申しあげているじゃないか。それを途中で逃げ出すとはけしからんというわけです。それで私は、そうおっしゃってる途中で逃げ出す訳ではなく、たくさんの人を使ってやる役所の仕事は責任関係が明確でないとかえって混乱を招く。そういうことをすることによって結果は逆になると思う。しかし総理が御親任になる人が全責任をもってやるということは当然のことで、それでおやりになったらいいじゃありませんかと答えたのですが、それがどうしても許されなかった。ところがこんどは半年も経たないうちに、私に辞めろという話になったわけですよ。
 ――昭和十九年(一九四四)の七月に東條内閣が倒れた一つのきっかけが、岸さんの単独辞職拒否によるものだったわけですが、岸さんは最終的にはどういうことから東條とうまくいかなくなったのですか。
 岸 私が東條さんと最終的に意見が合わなくなったのは、要するにサイパンを失ったら、日本はもう戦争はできない、という私の意見に対して、東條さんは反対で、そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるかというわけです。しかし実際にサイパンが陥落したあとでは、B29の本土への爆撃が頻繁に行なわれて、軍需生産が計画通りできなくなるし、私は軍需次官としての責任は全うできなくなった。だからもうできるだけ早く終戦する以外に道はないと思ったけれど、軍はなお沖縄決戦までもっていってしまったわけです。
 矢次 岸さんが自覚していたかどうかは別だけれど、昭和十九年に入ると、政界の表には出ないものの、反東條の気運は相当強くなっていましたね。山崎達之輔、三好英之、船田中という親軍派と思われた代議士のなかから、サイパン陥落以後東條ではいかんという雰囲気が高まって、有志代議士会を開いて、当時としては大胆な東條内閣不信任の決議をやっている。》(p.68~69)

 辞職を拒む岸はずいぶん憲兵につけ回されたという。
《岸 最後には大臣の官邸に四方憲兵隊長がやってきて、軍刀を立てて、東條総理大臣が右向け右、左向け左と言えば、閣僚はそれに従うべきではないか、それを総理の意見に反対するとは何事かという。それで私は、黙れ兵隊! お前のようなことを言う者がいるから、東條さんはこの頃評判が悪いのだ。日本において右向け右、左向け左という力をもっているのは天皇陛下だけではないか。それを東條さん本人が言うのならともかく、お前たちのようなわけのわからない兵隊が言うとは何事だ、下がれ! と言ったら、覚えておれとかいって出て行った。その後は私の家のに出入りする人を憲兵隊がみな調べるようになったですね。
 矢次 それは岸さんだけではなく、現職の大臣の家の電話は盗聴されるという始末です。
 岸 私の家の前には盗聴どころか公然と憲兵のボックスを作った。で、ちっとも人が来なくなってしまったよ(笑)。》(p.69~70)


○護国同志会、安倍寛

《岸 護国同志会は委員長を井野君がやったけれど、実際に動かしていたのは船田中君です。私は国会に議席をもっていなかったから表面に出ず、いわば黒幕的な存在で、いろんな相談を受けていたのです。しかし、意欲としては、岸新党といわれる一つの政治的な考えで護国同志会が結束していたことは事実だった。
 ――護国同志会では、ずいぶんいろんな方がおり、岸さんと関係の深い方が多いですね。中谷武世さんという人は。
 岸 あれは大学の興国同志会からの同志でね。中谷君が代議士に出たのは翼賛選挙のときからだ。もともと北一輝や大川周明派、とくに大川派だな。ずっとつきあっているけれども彼は一種の思想運動をやっていたし、護国同志会では活動家だったですよ。
 ――赤城さんも入るのですか、その関係は。
 岸 あれは満州へ行く少し前ぐらいに、十年頃かな、議席をもっていたと思う。それから安倍寛がいた。彼は安倍晋太郎の親父で、三木にしても赤城にしても彼の子分だよ。この安倍寛は〝今松陰〟と称された気骨のある人で、ただ結核で五十くらいで亡くなった。とにかく三木、赤城は彼の子分だ。だから三木武夫が総理のときもわざわざ安倍の親父の墓参りまでしてくれたよ。
 ――船田中さんがここで出てくるわけですが、例の商工委員の関係で?
 岸 あれは高等学校のときから、剣道の大家でだいぶ頭を叩かれた(笑)。政界の方では船田のほうがずっと先輩だ。
〔中略〕
 ――船田さんとは戦後のご関係は?
 岸 戦後はあんまりつきあいはなかった。
 ――小山亮、この人は?
 岸 小山は商工次官時代までは知らない。その後は代議士、社会党から・・・・・・。それから汽船会社をやってたな。この人の一番の傑作は戦時中に学生援護会というのを作ったことだ。
 ――護国同志会の中に三宅正一、川俣清音といった人がいたし、他にも岸さんは旧社会大衆党の人たちとも交渉があったようで、ちょっと意外なのですが・・・・・・。
 岸 他の人たちもびっくりしていたけれど、ほとんど私が商工大臣の時、議会の商工委員だった人です。それにしても商工省出身の一官僚が、そういう与野党の代議士諸君と幅広い交際をしているというのは、やはり変り者だったのでしょう(笑)。
 矢次 それとだね、当時は社会主義者といっても今のように人間的に偏狭ではなく、イデオロギーは違っても、時局認識の上でも、気持の上でも共通性がありましたよ。》(p.71~72)

続く