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「国家と国民は一体なのか」って?

2007-06-16 23:58:12 | 大東亜戦争
(読み返すとあまりに出来が悪かったので、2007.6.17大幅に改稿した)


 萱野稔人・津田塾大学准教授という人が、6月9日付け『朝日新聞』の「異見新言」というオピニオンコーナーで、《安倍政権の「国」 国家と国民は一体なのか》というタイトルで、安倍首相の国家観を次のように批判している。


《1972年、日本は中国と国交を正常化した。このとき中国の周恩来首相が先の戦争について語った有名な言葉がある。「中国人民は、毛沢東主席の教えに従って、ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民を厳格に区別してきました」というものだ。保阪正康氏によると、この言葉をめぐって、昨年の自民党総裁選における公開討論会のなかで、安倍晋三候補はこう述べたという。「日本国民を二つの層に分けると言うことは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんながそれで理解してはいない。やや階級史観的ではないか」(「月刊現代」06年11月号から)
 ここには安倍首相の国家観がとてもよくあらわれている。国家と国民は一体である、という国家観だ。国家の運営に直接かかわったり、役人や軍人として一定の権限をあたえられたりする人間と、それ以外の国民を区別してはならないという発想に、そうした国家観が具現している。これが沖縄戦での「集団自決」にかんして表明されると、軍の命令という要素をなんとか無化していこうという文部科学省の態度になるのである。
 とはいえ、国家と国民は一体であるという国家観がどこまで妥当なものであるかについては議論の余地があるだろう。というのも、国家は社会のなかでも特殊な存在だからだ。なぜ特殊かといえば、それは国家だけが合法的に暴力をもちいることができるからである。
 たとえば逮捕というかたちで人びとの身柄を強制的に拘束したり、戦争というかたちで武力行使をしたりすることが法的に認められているのは国家だけである。「国家権力」といわれるものはまさに、国家がこのように合法的に暴力を行使できる、というところから生じてくる。暴力の行使という点からいえば、国家と国民の間には明らかな非対称性があるのだ。
 かつてマックス・ウェーバーは「職業としての政治」の中でこう述べた。政治にたずさわる人間に必要なのは、国家がしょせん暴力の行使から切りはなしえない特殊な存在であるということを認識し、そうした特殊性から生じる一切の結果をひきうけようとする態度である、と。
 この点からいうと、国家と国民の一体性を自明視する安倍政権の国家観はあまりにナイーブだ。ウェーバーの指摘は右派にも左派にも当てはまる。つまり、右派だから安倍政権のような国家観から出発していいということにはならない。しかし現実には、その国家観のもとで憲法改正への準備がすすめられている。》


 この批判は、安倍の発言に対して、有効なものだろうか。
 安倍の、
「日本国民を二つの層に分けると言うことは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんながそれで理解してはいない。やや階級史観的ではないか」
という発言をもって、安倍の国家観は、
「国家と国民は一体である」
というものであり、
「国家の運営に直接かかわったり、役人や軍人として一定の権限をあたえられたりする人間と、それ以外の国民を区別してはならないという発想」
だとと言えるだろうか。
 私には、とてもそうは思えない。
 だから、以下長々と続くこの人の文章も、ほとんど言いがかりに近いものだと思える。

 私の記憶では、昨年の自民党総裁選における公開討論会で、この周恩来発言は、たしか谷垣禎一が持ち出したのではなかったか。
 谷垣が、そういった経緯を理由に中国の靖国参拝反発への理解を求めたのに対し、安倍は、外交文書上そのような表現はなく、日本側が公式にそのような中国側の認識に理解を示したのではないと応じたのではなかったか。
 安倍を批判する萱野は、では
「中国人民は、毛沢東主席の教えに従って、ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民を厳格に区別してきました」
という周恩来発言を、日本国民としても支持すべきだと主張するのだろうか。
 たしかに、戦争責任というものを考えるにあたって、指導者層と一般民衆に等量の責任があるとは言えまい。
 しかし、一般民衆もまた大筋では軍国主義路線を支持していたのであり、その行き着いた先が太平洋戦争であり、敗戦だったのではないか。
 「広範な日本人民」は、何ら主体性なく、指導者層に思いのままに動かされただけで、人民には罪はないという論理は、戦前・戦中期の実情に合わないのではないか。
 そういう点で、周恩来発言を上記のように評した安倍の弁は妥当なものだと思う。

 で、この安倍の発言が何故、
「国家と国民は一体である、という国家観」
「国家の運営に直接かかわったり、役人や軍人として一定の権限をあたえられたりする人間と、それ以外の国民を区別してはならないという発想」
となるのか、私には理解できない。
 まず、周発言にしろ、安倍にしろ、「ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民を厳格に区別」することについて論じている。
 「ごく少数の軍国主義分子」も「広範な日本人民」も、ともに日本国民である。
 「ごく少数の軍国主義分子」が国家で、「広範な日本人民」が国民なのではない。
 故に、安倍発言から、「国家と国民は一体である、という国家観」が見い出せるという萱野の主張は不可解である。
 次に、現代の国家とは、基本的には「国民国家(nation-state)」の概念に基づいているのではないか。少なくともわが国においてはそうではないだろうか。
 そういう意味では、国家と国民の一体性というものは存在すると言ってよいのであり、安倍発言を批判しながら周発言には何ら触れない萱野の方が、未だに階級国家論にとらわれているように見受けられる。「ナイーブ」なのはどちらか。

「政治にたずさわる人間に必要なのは、国家がしょせん暴力の行使から切りはなしえない特殊な存在であるということを認識し、そうした特殊性から生じる一切の結果をひきうけようとする態度である」
というウェーバーの主張は正しいと思う。
 だからといって、上記の安倍発言をもって、安倍にそのような態度がないと何故言い切れるのだろうか。
 安倍のこれまでの発言や行動に、そのような態度がないことを推察させるだけのものがあっただろうか。
 たかが周恩来発言批判の一言だけで、このような結論をよく導き出せるものだと、その牽強付会ぶりには恐れ入る。

 
《安倍政権の主要なスローガンのひとつに「戦後レジーム(体制)からの脱却」というものがある。戦後体制はもともと、第2次世界大戦の戦勝国が敗戦国であるファシズム国家をどう管理し、世界秩序を維持していくか、という観点のもとでくみたてられた。国連の安保理常任理事国のメンバーにそれはよくあらわれている。つまり、日本は戦後体制のもとで管理される立場におかれたのである。その立場から管理する側へと移行したい、というのが「戦後レジームからの脱却」に込められた意図である。
 しかし、それは安倍政権が望んでいるほど容易ではない。国際政治の中で「管理する側」にまわるには安倍政権の国家観はあまりにナイーブであるということも、それをいっそう困難にしているだろう。従軍慰安婦問題をめぐって今回アメリカ議会からだされたバッシングも、そうした国家観をもつ安倍政権にお灸を据えたものだとみることができる。
 安倍政権は戦後体制から脱却しようとするまえに、まずはみずからの国家観から脱却しなくてはならないだろう。》


 萱野は、実態はともかく、「ごく少数の軍国主義分子」に責任を押しつけて、「広範な日本人民」は利用されていただけの純粋無垢な存在だったと主張せよというのか。
 たしかに戦後のドイツは基本的にそのような立場をとり、それが周辺諸国にも受け入れられているようだ。
 それが戦前・戦中期の実情にかなうかどうかは別として、便宜上そうしておくべきだ、それが国際政治の場でわが国がとるべきふるまいだとでも言うのだろうか。
 それならば、「ナイーブ」といった批判も理解できる。
 しかし、それが真に過去を反省し教訓とすることになるのだろうか。