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日々の思いをたまに綴るブログ。

島田裕巳『公明党vs.創価学会』(朝日新書、2007)

2007-06-30 19:39:17 | 現代日本政治
 著者は宗教学者。元日本女子大教授。たしか、オウム真理教を擁護している、あるいはカルト宗教に対する見方が甘いなどとして猛烈な批判を受け、教授辞任を余儀なくされたのではなかったか。
 しかし、当時の私の印象では、地下鉄サリン事件以前は、統一教会などの問題は知られていたにしろ、カルト宗教に対する世間の視線は、今日ほど厳しいものではなかった。
 島田のカルトへのアプローチに興味本位のウォッチャー的な面があったとは思うが、それにしてもあれほどのバッシングは異様だと感じていた。
 例えば、同じ宗教学者であり、その著作がオウムに影響を与えたとも言われ、なおかつサリン事件の時に「もっと犠牲者が多かった方が、事件の意味があった」(うろ覚え)といった趣旨の発言を内輪でしていたということが暴露された中沢新一の方が、はるかに問題があると思っていた。
 しかし、中沢は、批判は受けたものの、職を失うことはなかった。
 その後の島田の活動はよく知らなかったが、最近では『創価学会』(新潮新書、2004)や『創価学会の実力』(朝日新聞社、2006)と創価学会関係の本を出している。
 また、今年、中沢新一批判の本も出しているという。内容は知らないが、おそらく、中沢は安泰なのに何故自分がとの思いがあるのではないだろうか。

 「鶴タブー」という言葉も未だにあるようだが、創価学会に関する本は、島田の著作以外にも、『別冊宝島 となりの創価学会』(1995)、朝日新聞アエラ編集部『創価学会解剖』(朝日文庫、1999)、『別冊宝島Real 池田大作なき後の創価学会』(2007)などいくつかあり、それを論じること自体は、近年では必ずしもタブーとは言い難いように思える。
 しかし、公明党についてはどうだろう。島田は本書で次のように述べている。
《公明党について、あるいは公明党とその支持母体である創価学会との関係について、研究はほとんど進んでいない。公明党について専門に研究している人間は皆無であり、学術論文が書かれることもない。以前なら、とくに言論出版妨害事件が起こるまでは、ジャーナリストや研究者が公明党について、比較的客観的な立場から論じることはあった。
 しかし、一九七〇年代以降は、公明党や創価学会のスキャンダルを暴こうとする、徹底して批判的な書物しか書かれなくなった。かつては、選挙戦で公明党と鍔迫り合いを演じてきた共産党や共産党系の研究者、ジャーナリストが公明党、創価学会の分析を進め、批判を展開していた。だが、共産党が退潮するなかで、そうした試みも少なくなってきた。》(p.10~11)
 そのとおりだと思う。Amazonで「公明党」で検索してみるとよい。古川利明、平野貞夫、乙骨正生の著作が上位に並ぶが、これらは 島田の言う「徹底して批判的な書物」 だろう。しかも、公明党イコール創価学会として、本質的には後者を批判しているのだろう。
 政党としての公明党を正面から論じているものとしては堀幸雄『公明党論―その行動と体質』(南窓社、1999)があるが、これは青木書店から1973年に刊行されたものの再刊で、内容的にはいささか古い。
 本書は、そのような公明党研究の現状を塗り替えるものとなるだろう。

 本書の帯には「公明党と創価学会は本当に一体なのか。」とある。
 島田は、両者は必ずしも一枚岩ではないことをわかりやすく説明していく。
 池田大作の「デージン」発言や、安倍晋三が首相就任直前に池田と会談していたことなどから、池田は公明党を通じて政治的に巨大な影響力を行使しているかのような印象がある。しかし、島田が論じるように、公明党の一挙一動を池田が指示しているという関係にはないことは確かなようだ。
 言論出版妨害事件を機に、政教分離が唱えられて、両者は別組織とされた。それまでは公明党の議員は創価学会の幹部を兼務しており、まさに公明党は学会政治部の色彩が強かったという。しかし、両者が別組織となったことが、公明党を躍進させる上で有利に働いたと、島田は、ライバルである共産党と比較して説明する。

《共産党の場合は、候補者と支持者は同じ組織に属しており、組織が一体となって選挙戦にあたる。それに対して、公明党と創価学会は組織が分離されており、自動的に一体となって活動を展開するわけではない。
 公明党の側は、直接創価学会の会員を動員することはできない。会員が動くのは、創価学会の組織の意向が定まったときで、個別の選挙でどの程度エネルギーをかけるかは、支援長などの判断で決まり、それが一般の会員に伝えられる。ワンクッションおかなければならない点で、共産党の方がはるかに効率的に思える。〔中略〕
 しかし、現状においては、公明党と創価学会が別組織であることが、かえってエネルギーを生むことに結びついている。創価学会の方は、公明党議員の選挙活動を担う代わりに、議員の活動を監視し、コントロールできるからである。
 〔中略〕公明党の議員は、個人で選挙の心配をすることがない代わりに、支援者である学会員の要望を実現していくという役割を負っている。学会員にとっては、公明党議員の活動があってこそ、自分たちの生活を充実させることができる。〔中略〕いつでも住民相談に応じてもらえる体制ができていることは、学会員の生活の安全、安心を保証している。
 こうした体制ができあがっているために、公明党の議員も、創価学会の会員も、自分たちの役割を果たすために懸命に活動しなければならない。それも、公明党と創価学会が組織としては対等で、そこに上下関係がないからである。
 共産党のような、あるいはかつての公明党、創価学会のような一体の組織では、議員と一般の支援者とは上下の関係になり、支援者は上の命令で動かされているという構図になってしまう。それでは、エネルギーが生まれないし、支援者が議員から厚く感謝され、ねぎらわれることもない。》(p.171~172)

 島田は、自民党と公明党との連立は、民主党と公明党が連立する場合に比べて、相性がよいと主張している。民主党と公明党はともに都市部を基盤としている。公明党が都市部において弱い自民党を支援することにより自民党は大勝することができたが、民主党との連立ではこのような効果を発揮することは難しいという。
 また、政策面でも、公明党は自民党より民主党に近い。しかし自民党と連携することにより、公明党はその独自性を発揮することができる。民主党との連携では、埋没しかねないという。それに、政権に参加することにより、その政策を実現することもできる。島田は、
《自民党も、連立が続くなかで、福祉政策にかんしては、公明党に依存するようになってきた。》(p.200)
とまで言う。

 終章で島田は、創価学会会員の多様化により、学会員の公明党支持が薄れる可能性、さらにポスト池田の問題にも触れ、公明党の将来の不透明性にも触れている。
 そして、劇場型政治の現代において、政治を盛り上げ、公明党の存在感を示すため、公明党はもっと自民党に対して異議申し立てをすべきだと説く。たとえ両党間で激しい議論が展開されても、もはや連立の枠組みが壊れることはあり得ない。2大政党制の中、そのような役割が公明党には求められていると島田は説く。

 いくつか異論もあるが、総じて冷静な筆致には好感が持てる。
 公明党の歴史と現状を把握するのにうってつけの好著。 
 島田には、ぜひ本格的な公明党史を書いていただきたいものだ。

『岸信介の回想』から(4)

2007-06-30 14:25:21 | 日本近現代史
承前

○吉田茂は憲法改正論者

《岸 〔中略〕立候補して当選したら、吉田さんが私を呼んで憲法調査会の会長をやれと言う。しかし私は獄中を通じて、新憲法はいかんと考え、改憲論者になっているけれど、その私に憲法調査会長をやれというのはどういう意味かと問うた。すると吉田さんは、お前の思うようにやったらいい、俺も今の憲法は気にくわないけれど、あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかんと言う。それで私は会長を引き受けた。
〔中略〕
 岸 吉田さんは憲法改正論者だったんです。しかも占領軍がいる間に改正しないと、できなくなると言っていた。その意味で私に思うようにやれと言ったのですよ。
 矢次 吉田さんが憲法改正論者だったということは世間にあまり知られていない。》(p.102~103)


○鳩山一郎の後継総裁選(1956年12月)について

《――岸さんを推す勢力としては河野一郎のほか、佐藤栄作派、大麻唯男派といったグループで、それに対し石井光次郎のほうはもっぱら旧自由党系ですね。石橋湛山は混成軍ということなるんでしょうが、石橋がひょっと浮び上がってきたというのは・・・・・・。
 岸 それを工作した一番の中心は石田博英君でしょう。
 矢次 もっぱら石田君です。彼は石橋さんとは東洋経済とか、日本経済新聞とかの関係があって、突如として担ぎ出したわけだ。
 岸 石田君は三木武夫、松村謙三さんらを主力として石橋さんを担いだ。
〔中略〕
 岸 石井さんを支持した旧自由党系のなかでも、たとえば北海道出身の篠田弘作君などの緒方さん直系の石井派ですが、第一回の選挙で一位のものを決戦では支持すべきだ、といって二回目は私を支持してくれた。
 ――旧自由党系は分裂したわけですね。
 岸 そう。石井首脳部と石橋首脳部との間には、二、三位の連携工作があったわけだけれど、旧自由党系は池田勇人君と弟の派が二対一ぐらいで割れたんじゃなかろうか。それで池田派は二回目に石橋さんを応援したわけだ。》(p.156~157)


○石橋湛山

《――岸さんの石橋湛山観はいかがですか。
 岸 まあ石橋さんの経済に対する発言は、日本経済の進展の上に功績があったと思いますが、人柄としては、私は三木武吉に感心していたようなものは感じなかったし、そうかといって、松村さんに対するような反発する気持もない。
 矢次 石橋さんは淡々とした人で、民間人であったけれど党人ではない。政治的、権力的な欲のない人で、一言で言うとジャーナリストです。》(p.158)


○小選挙区制

《岸 私はね、小選挙区制を、自民党が国会で三分の二の勢力を確保するという目標で考えたのではない。そもそも私は二大政党論者で、政党が小さく分裂するというのは議会制民主主義を行っていく上において望ましくはない。ところが小選挙区制にすれば二大政党になる傾向が助長されるんです。というのは仮に小選挙区制になれば、自民党は現役優先にせざるを得ないから、若い人で出ようとする人は自民党から出られなくなる。そうするとね、社会党は人物がいないから、彼らは社会党に入りますよ(笑)。その結果社会党の性格は変ってくるし、二大政党として、政権を民主的に交替できる政党になると思う。
 それと私の体験からいっても、同じ選挙区で、同じ党に属する兄弟が争うなどというのも意味をなさない(笑)。〔中略〕結果として最初は自民党が有利かもしれないが、ある年限をもってして、社会党が政権交替能力のある政党になるには小選挙区制でしかあり得ない。今の中選挙区では社会党は何年やっても伸びっこない。だから私は小選挙区制にすることが、日本の政党政治を健全に発展させる基礎であると信じているんです。
 ――社会党育成論ですね。少し後に、石田博英さんが今日のような調子では何年後かに、社会党が第一党になるという予見を『中央公論』だったかに書いたことがありますが。
 岸 私は逆だ。今では社会党の中でも、私の考えのように小選挙区制を採用しなければだめだという議論をする人がいる。亡くなった片山哲さんもそうだった。私が小選挙区をやろうじゃないかと言ったら、憲法改正をやらないということをはっきりすれば小選挙区制をやってもよい、という話をされたことがある。》(p.161~162)


○浅沼稲次郎

《――浅沼さんについての感想はどうですか。
 矢次 岸さんとしては幹事長、書記長という関係だろうな。個人的に知っているという点ではぼくのほうだ、大正十年からだからね。
 岸 浅沼君は社会党を代表するし、私は民主党、自民党の幹事長ということですよ。ただ私の感じでは磊落そうでなかなか神経が細かかったと思いますよ。風貌や態度からすれば常識的な人でしょう。
 矢次 日本の社会主義運動には二つあるんです。大学でいうと東大の新人会をスタートにする流れ、河上、麻生、赤松、三輪。もう一つは早稲田の建設者同盟の浅沼、三宅。そのなかで浅沼だけ浮きでる理由がひとつあるけれども、東大派、早稲田派との長い歴史のなかで比較的うまくいった時代は麻生。麻生が親方で浅沼が番頭、三輪が世話女房、河上は賢夫人、このチームワークが昔の社会大衆党なんだ。麻生が死んでばらばらになる。三輪・浅沼のコンビは両方とも周密、細心で情が深い。浅沼がアメリカ帝国主義は日中両国の共同の敵とかどえらいことを言うのもぼくらは理解できる点があるけれども、とにかく、すっとんきょうなことを言う。そこが憎めない。〝沼〟さん、と簡単な言葉でだれからも好かれる。彼は理論的政治家ではなくて情緒的政治家ですよ。
 岸 そのとおりだ。浅沼君を批評するのに情緒的政治家というのは名言ですよ。》(p.193~194)

 さらに「共同の敵」発言について。
《矢次 しかしあの時の中共の雰囲気は、浅沼をしてああいうことを言わしめるような厳しいものだったようだ。浅沼君の演説を聞いた毎日新聞の随行記者が私の所で報告したことがあるが、その話では、中共側は激しく岸内閣を批判するのはもちろんだが、社会党に対してもかなり厳しい批判を加えたんだね。それに浅沼が社会民主主義の立場で話をしているというのが変になまぬるい印象を与えた。それでは少し強いことを言わなければいかんというので、なにげなく浅沼がポカッと発言したというのが真相で、深く思うところがあっての発言ではない。だからなにげなく投げたのが爆弾だったから、本人もびっくりした(笑)。》(p.216)


○清瀬一郎

《矢次 清瀬議長は警官導入の前、十七日に党籍を離れている。彼は前々から議長は党籍を離脱すべきだという原則論をもっていましたね。それでこれがチャンスだというので自民党から離脱したけれど、そうしないと警官導入が党から指図を受けてやったと誤解されかねない。議長の権威に傷がつく、清瀬という人はそう思ったでしょう。
 岸 あの人はそういう人ですよ。
 矢次 清瀬一郎は、戦前だれもやらないような志賀義雄の共産党事件の弁護を引き受けてみたりする、昔流の本当の自由主義者なんだ。》(p.241)


○安保闘争について

《――〔中略〕全学連問題についてはどういうふうにお考えでしたか。
 矢次 全学連はマスコミでは大きく書かれたけれども、政府が当面したものとしては大きなものではなかったんじゃないかな。
 岸 そうね。全学連が安保改定阻止、反対の中心勢力とは考えていなかった。
 ――羽田事件もたいしたものではなかったという感じですか。
 岸 そうですね。たいしたことではなかった。》(p.236~237)

《私は樺美智子さんが亡くなったということは、単純な一人の人間が何かの関係で死んだということではなしに、警備力の最終的責任者として、デモを規則正しく行なわしめることができなかったという責任を感じました。だから警備ということを考えて、アイクの日本訪問を断ったんですが、あの頃警察官はほんとうに疲れ果てていた。機動隊の数も少なく、装備も悪いし、訓練もしていない。近頃のデモをみると、実にうまく暴れ出させないよう自然に流してやっているし、国賓が来ても、飛行場からヘリコプターで連れてくるでしょう。当時はまずそういうことは考えなかったから、陛下自身がお迎えに行かなければいけない。そういう警備を考える時、これはできない、もし何かの間違いが生じたら、総理がほんとうに腹を切っても相済まない。それで私としてはどうしても警備に確信がもてないと思って断ったんです。》(p.242)

《岸 自衛隊を出すべしという議論がありましたね、でもあの騒ぎは内乱でも革命でもないし、それに自衛隊に発泡させれば強いけれど、警備ということになれば警官の方が専門家だから、それはだめだ。むしろ出動させれば自衛隊の権威を失墜せしめるだけだ、赤城君はそういう意見でしたよ。
 少し極端な言い方だけど、私に言わせれば、一部の者が国会の周りだけを取り巻いてデモっているだけで、国民の大部分は安保改定に関心をもっていない。その証拠に国会から二キロと離れていない銀座通りでは、いつものように若い男女が歩いているし、後楽園では何万人の人が野球を見ている。日本が内乱的な騒擾だと受けとった外国もあるようだがこんな内乱や革命があり得るわけがない。》(p.243)
 自衛隊の出動を要請したのは岸自身もまたそうではないのだろうか。なんだか人ごとのような言い方だ。


○岸の後継総裁選(1960年7月)について

《――〔中略〕岸さんが池田を推された理由は何ですか。
 岸 私は何といっても三人のうちでは、池田君が総理として適任だと思った。
 矢次 そういってしまうとそのとおりだが。
 岸 過去の因縁からいえば、石井さんは岸内閣の主流派の一部、藤山さんは岸さん自身が連れてきたということでかなり義理もある関係なんですが。
 岸 安保の問題があります。藤山君には今回は立つな、自重して次の機会を待て、と。なにしろ安保の外務大臣だし、私が辞めた理由とかさなることも話したんだけれどもね。〔中略〕
 矢次 岸さんが藤山さんをとめる前に川島幹事長がかなり厳しくとめている。岸さんが一番藤山さんから恨まれているのは、岸派から藤山派に行っていた者を選挙の時に全員引き揚げさせて、池田派に流すべしという措置をとったことだな。川島がやったことかもしれないが。
 岸 いや、私がやったんだ。川島君はぐずぐずしていたけれども、私の派で、池田のほかに藤山君、大野君のところへ行ったのを、いよいよ最後の時に全部引き揚げて、池田をやれと言ったんだ。それで藤山君にも大野君にもひどく恨まれたんだ。
 矢次 総裁公選で負けた晩、藤山さんが私の飲んでいるところへ来て岸さんは冷たいよ、としみじみ言う。私は弱ってしまって、しかし藤山さん、それは岸さんが冷たいんじゃなくて政治というものの非情さじゃないか、と言ったことを覚えている。》(p.245)


○佐藤内閣、三木外相

《岸 弟のことを人事の佐藤というが、これは大嘘で、あのくらい人事のまずいヤツはいないよ(笑)。
 たとえば三木君を外務大臣にしたでしょう。私は反対したんだ。他の大臣ならいいが、日米安保条約改定の最後の決定の時に、彼は議場を退席した男だ、アメリカはそれを知っている。〔中略〕そうしたら、弟は、兄さんの言うことは、当時の党内の派閥抗争からきている問題であって、そういうことにいつまでもこだわっているのはまずい、と言ってね。ところが半年も経たないうちに、三木君の外務大臣に自分で反対しだした。そらみろというんですよ(笑)。》(p.252)


○椎名裁定

《岸 〔中略〕椎名君は椎名裁定で三木内閣をつくったけれども、その椎名君自身が一年経つか経たないかで、三木おろしの先頭に立ったように、あの裁定はおかしなものだった。
 矢次 その通りで、椎名君は個人的に三木という人間を知らないでしょう。
 岸 私の想像ですが、椎名君が三木君を知っていたかどうかというよりも、椎名君は福田君に対して好意をもっていなかったことが、あの裁定になったんだと思う。あの時はだれが考えても総理は福田君で、まだ大平君ということでもなかった。
 矢次 無遠慮に言うと、川島、椎名、福田はみなかつての岸派で、椎名にすれば、自分こそが商工省、満州時代を通じて岸さんの弟分だと思っているから、その中から岸さんの跡を継いだのが福田だということについて、不満をもっていた。その長年の不満が積り積って、反福田ということになったんだね。》(p.253~254)

続く