トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

熊倉正弥『言論統制下の記者』から(2)

2007-06-09 22:46:00 | 日本近現代史
(承前)

○「革新」という用語について

《政治について、「革新」の語が現在のような意味で使われはじめたのは昭和二十一年だったように思う。戦前には「革新」は右翼政治勢力、または統制経済推進派の官僚などについて使われた言葉であった。「現状」を革新するので、この場合の「現状」とは「親英親米の重臣たち」であったり、「腐敗せる既成政党」であったり、「財閥本位の自由主義経済制」であったりした。ナチズム、ファシズムを讃え、第一次大戦後のベルサイユ体制を否定するのが革新であり、議会政治を否定し、クーデター的「昭和維新」を叫ぶのも革新であった。無産政党のなかには「革新」の立場で右翼政治勢力、反議会主義軍部と提携する者が多かったのである。その流れをくむ人は現在の政党にもいる。
 この言葉が戦後しばらくの間は姿を消していたのは当然であった。これが使われ始めたのはある日の朝日の政経部の会合からだったというのが私の記憶である。次長の増田寿郎が次のような意味の提案をした。「社共両党や労組やある方面の文化団体などを新聞で進歩派などと書いてきたが、これは考えものではなかろうか。進歩とは、良い、という意味をもっている。客観的な報道の用語としては、そういう価値判断にたった言葉は適切ではない。そこで、戦前とは違った意味で、これを革新と呼んでみてはどうか」
 それはよかろう、ということになった。この言葉が朝日の紙面にあらわれると、間もなく各紙にも使われはじめ、世間一般も使いだした。かつては右翼を意味したこの言葉を「左派」について使うことに、ほとんど抵抗感はなかったようだ。そして、当然のように「保守」の用語も定着した。
 〔中略〕それまでは「進歩勢力」「民主団体」などと書いていた。「民主戦線」の結成もとなえられていた。進歩に対しては「反動」である。さすがに反動政党という表現はなかったと思うが、反動勢力というたぐいの言葉はしばしば使われていた。「進歩」が「革新」になり、「民主勢力」という用語もほとんど使われなくなるとともに、「反動」の文字は一般の新聞からは姿を消し、早くから使われていた「保守」のみになったように思う。》(p.169~171)

○貴族院について

 著者は、戦中及び戦後に貴族院の取材を担当している。
 1945年12月10日付けの朝日に載った貴族院に関する著者の記事を紹介した上で、次のように述べている。

《私はこの時はじめて委員の着席順が公侯伯子男(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の順)、ついで勅選議員であることを知った。多額納税議員は末席であったように記憶する。公侯爵あたりがいかにも無気力な感じであった。私は華族については知識がなかったので、公爵などというのは西園寺公望ぐらいしかいないように想像していたのだが、委員会ではじめて生きた人間としての公爵をみて、公爵というのは何人もいたんだなと感じたのであった。これはすこぶる風采のあがらぬ小さい男で、ほとんど居眠りをしており、たぶん無能な人物にちがいあるまいと私は失礼な観察をしていた。一言も発しなかったから何とも判断はつかなかったが、特権階級にうまれて育って無風状態にいるとこうなるものかな、と思わせるようなところがあった。
 〔中略〕この一週間ほどの間に私が目撃したのは貴族院のほんの一断面、しかも、もっとも低調なつまらぬ一断面にすぎないだろう。この印象によって貴族院をどうこう批判することはもちろん出来ない。だが私は戦時中も貴族院の事務局にも多少は接触していて、その人たちの口ぶりから推察していたこともあり、この小断面も貴族院の実態にはちがいないということを痛感したのである。
 貴族院には論客もあり策謀家もいる。政府にとって手ごわい敵手もいた。貴族院を語る人はそういう指導的な人々について語っていることが多い。その他に、俗な失礼な言葉でいえば、ぼんくら議員も相当に存在したにちがいないのである。》(p.177~178)

○浅沼稲次郎について

 参議院議長を務めていた松平恒雄から聞いた話として。

《社会党の浅沼稲次郎がはでに活躍して、新聞にも好意的な記事がよく出た。ある時、松平がふとこういうことを言った。「浅沼君も今はああやっているが、戦前の排英運動が盛んなころ、デモが私の家の前まで押しかけてどなったり石を投げこんだりした時には、タスキをかけてその先頭にいたもんですよ。無産党なんて、そんなもんでした」》(p.207)

 松平恒雄(1877-1949)は会津藩主松平容保の4男。戦前に外務次官、駐米大使、駐英大使、宮内大臣を務め、戦後は初代参議院議長となり、在任中に死去した。

○国鉄について

《片山内閣の時、私は運輸省の記者クラブにいた。大臣は苫米地義三で、廊下の立ち話だったが、「国鉄の役人は赤字がいくらあっても平気でいる。幹部が責任を感じてあわてるわけでもない。民間の会社なら大変だが」とぐちをこぼした。次官の佐藤栄作に、苫米地の名は出さずに、こんな感想を抱く人もいるようですね、というと、フンといった表情で、「国鉄はその辺の肥料屋とは違うからな」といった。苫米地は日本化学工業の社長だった。
 国鉄のある幹部が私にこういった。「鉄も石炭も紙、電線、木材、砂利など国鉄の消費は膨大で、日本一の消費者だ。その国鉄が赤字でつぶれて資材の購入費が払えなくなったら日本のパニックだ。そんな状態に国がするはずがない」》(p.211)

○松本治一郎について

 カニの横ばい事件との関連で。

《ただ、この事件とは関係なく、松本ぎらいという気分は「朝日」の内部にもあった。
 彼の解放運動への貢献については、だれもが敬意をはらっていたと思う。彼に対する敵意と反感は、社会党の幹部ではあるが彼のやっている松本組という会社は社会主義的どころか右翼的であり、横暴な行為があるではないかという説があったり、彼自身がボス的存在すぎるという批判があったりする点にあった。同じ福岡県を選挙地盤とする緒方竹虎が朝日の大先輩であることも、一つの原因であったように私は感じている。
 社会党右派の松本に対する悪感情の影響もあったかもしれない。資金力もあり、また命がけで松本の身辺を守ろうという勢いの青年たちがいて、敵しがたい一種の圧力をもっていたことも反感の一つであろう。》(p.245)

続く

熊倉正弥『言論統制下の記者』から(1)

2007-06-08 21:55:53 | 日本近現代史
 熊倉正弥『言論統制下の記者』(朝日文庫、1988。『新聞の死んだ日々』(朝日ソノラマ、1982)を増補したもの)という本を読んでみた。
 著者は、1915年生まれ、慶大卒。1939年朝日新聞社に入社。論説委員などを務めたという。
 興味深い記述がいくつも見られたので、書き留めておく。

○中野正剛の「戦時宰相論」について

《何が彼をそうまで怒らせたのであろうか。「戦時宰相論」を通読しても、特に東条攻撃が行われているとは感じられない。発禁になったあとで読めば、いかにも東条攻撃のようにも感じられるのだが、元旦の朝、この一文に目を通した読者のうち、はたしてどれだけの人がこれを東条批判、攻撃したものと感じたであろうか。私はこれを疑っている。
 私は東京第一陸軍病院から退院して自宅療養中で、元旦の紙上でこれを読んだ時には特別な感銘は受けなかった。紋切り型の内容の空疎な美文と思っただけである。》(p.37)

《東条が発禁を命じたのは午前九時か十時だったという。検閲当局が全国の各府県に差し押さえの指令を出したのは午後一時ごろだった。すでに読者に配布ずみであり、後の祭りに近い。警察の手によってもほとんど没収できなかった。地方への指令のおくれは、検閲課が首相の命令に反発して、せめてもの抵抗としてサボタージュしたためである。もしもこの実情を東条が知ったら、大変なことになったろう。
(中野の伝記のうちには「発禁の方が朝日新聞社に達したとき、居合わせた社員は一斉に『万歳』を叫んで歓呼したという。いわばレジスタンスの爆発であった」と記述したものもあるが、これは誤りだ)
 この事件は、その後の政府、憲兵による中野への圧迫、そして中野の自決があり、また朝日の緒方が中野と五十年にわたる親交があり、中野の葬儀に政府が妨害、威圧を加えたときに緒方がすすんで葬儀委員長となったということもあって、朝日の関係者には一種の悲壮な印象を強く与えている。
 そのために、中野を美化し、ときには反戦の士のように解することさえ見られる。この点は若い人たちが認識を誤ることのないように希望する。》(p.39~40)

 検閲課とは、情報局検閲課。情報局とは、1940年に第2次近衛内閣が設けた内閣直轄の組織。戦時体制の下での報道統制や宣伝を担った。米国の中央情報局(CIA)のような諜報機関ではない。
 新聞記事の事前検閲は法令上の根拠はないが、行われていたという。その事前検閲をパスして発行された新聞記事が、東條の命により発禁となったため、検閲課の面目は丸つぶれとなり、反発も激しかったという。

○『朝日新聞』縮刷版について

《朝日新聞の縮刷版にはこの「戦時宰相論」はのっていない。発売禁止になったのだから、縮刷版には、むろんこの記事は収録できない。一月一日の新聞に「戦時宰相論」があった場所には、〔中略〕が収録されている。これらの記事、写真は、実際に発行された一月一日付の朝日新聞にはなヵったものである。この点に注意していただきたい。
 単純にいえば、縮刷版では「戦時宰相論」のあった場所を空白とし、そこへ発禁処分になったから削除し空白とした旨の注を書いておけばよいはずだ。しかし、取り締まりはそういう方法をとることを許さなかった。「どういう記事が、どういう理由で発禁になったか」を報道すること自体が不可とされていたからである。翌二日の朝日新聞にもこれについては何の説明の記事もない。
 朝日新聞の縮刷版は資料として有益かつ便利だが、右のようなしきたりがあったことを参考までに述べておく。
 厳密にいうと「縮刷版にある記事だから実際に発行された朝日新聞にもあった」はずとはいえず、同時にまた「縮刷版にのっていないから実際に発行された朝日新聞にもそのニュースはのっていなかった」はずともいえない。こういう例はきわめてまれだし、たまにあっても一段か二段程度の小さい記事であって、あまり気にすることもないが、新聞史を詳細に研究する人のために一言しておく。》(p.41~42)

○新聞記者の仕事ぶりについて

《このころを題材にしたテレビ映画などを見ると、どうも実際と離れたつくりものの気がする。登場する新聞記者を見て、跳びあがるほどおどろいたことがある。大新聞の論説記者が同僚とおでん屋でいっぱいやって弁じている情景であったが、「実に君、東条政治というものはだな」などとしゃべっているからである。こんなことを、他人のいる場所で口にすることなどはあり得ないはずである。こういう演出をしては困る。またその論説記者はよほどの愛煙家とみえて、話をしながら半分ものんでいないタバコを灰皿で押しつぶし、次から次と新しいタバコに火をつけていたが、こういうタバコののみ方など絶対にあるはずはなかった。私はこういうものを見ると、一事が万事で、ストーリー全体がつくりものに思われてくる。事実というものがいかに多正しくは伝えられないか、という例にはなるだろう。》(p.60)

○「原子爆弾」の言葉が禁じられたことについて

《各新聞社は、すぐに外国のラジオが「英首相は、米大統領が原子爆弾を投下したと声明した」と放送したのを知った。これによって情報局は広島に投ぜられた爆弾が原子爆弾であることを信じ、この旨を一般に発表しようとし、外務省もこの方針に賛成した。だが、軍部側は原子爆弾であることを信じたがらなかった。「敵側は原爆使用の声明を発表したが、これは虚構の謀略宣伝かもしれない。従って原爆とは速断できない」と主張した。そこで情報局は「敵側は原子爆弾であると称して発表した」と報道するという妥協案を提出したが、軍部はこれにも反対し、内務省も軍部に同調した。
 〔中略〕結局、政府は報道には原子爆弾の文字を使うことを禁止し、「新型爆弾」と呼ぶこととなったのである。こうして、被爆国の日本の国民だけが、戦争終結まで、公式には原爆であることを知らされなかったのである。
 原子爆弾という文字は、新聞紙上には十一日にはじめて現れたが、それは、トルーマン米大統領が米国民にたいして行った演説の中の「原子爆弾」という言葉を、外電によって報じたものであった。
 朝日の十四日の社説「敵の非道を撃つ」のなかで「この原子爆弾は相当の威力をもつものに違ひない」と、原子爆弾の文字を使っている。》(p.111~112)

○東京裁判について

《私はニュルンベルク裁判のシュペールのことを考える。〔中略〕軍需相その他の要職についていたが、アウシュビッツの残虐行為などには無関係の穏健派であった。だが彼は「残虐行為は知らなかったが、もし知ろうとすれば知り得る地位にあった」として有罪をみずから認めた。ニュルンベルク裁判で有罪を認めたのは彼一人であった。》(p.169)

 ニュルンベルク裁判で有罪を認めたのは彼1人なのか。ならばゲーリング、ヘス、ローゼンベルグ、リッベントロップらは無罪を主張して争ったということか。
 私は丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」(1946)の有名な一節、
「土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する。」
や、同じく丸山が「軍国支配者の精神形態」(1949)で示した日独指導者の比較の印象からか、ナチス幹部は有罪を認めるのにやぶさかではなかったのだと思っていたのだが、そうではなかったということだろうか。
 ニュルンベルク裁判についても、いずれ調べてみたいと思った。

(続く)

脱北者のニュース評について

2007-06-04 23:13:46 | 韓国・北朝鮮
脱北の4人、韓国移送へ…両親・兄弟と確認(読売新聞) - goo ニュース

 この脱北者に関するニュースについて、私が普段見ている複数のブログで、

・どうぞ、韓国へ行ってください
・進路、目的地は工作員に聞いてきたんじゃないかな。
・あんなボロ船でよくたどりつけましたね。哨戒レベルの調査にきた工作員だったりして(笑)
・まさかと思うけど・・・見つかった工作員じゃないよね?
・僕は工作員の可能性が高い、と思っています。日本語が話せる時点で、普通ではありませんし、一般市民なら日本帝国には来ないでしょう。
・どうにも怪しいところはいっぱい有りますからね・・・高齢の女性が含まれているようですが、工作員ではない事を示す為の偽装工作ではないかとすら疑ってしまいます。大体、一般市民がこんな船をもてるんですかね・・・

といった、脱北者に対する冷淡な記事やコメントが載っていることに大変驚いた。

 これらのブログの管理人さんやコメンターさんは政治的には概して保守系の人たちだと思っていたのだが、そういった方々にしてこの感覚とは。
 かの国の体制への嫌悪感がなせる業なのかもしれないが、それにしても、脱北者に罪はないだろうに。
 それとも、韓国・朝鮮人一般に対する嫌悪感なのだろうか。

 今回の亡命成功(まだ完全に成功したわけではないけど)により、日本海ルートが脱北手段の一つとして定着しないものだろうか。
 大規模な脱北により、体制を揺るがせないものかと夢想したりする。東独のように。
 北朝鮮に攻め入ることができないわが国は、むしろそうした面に助力すべきではないだろうか。

 しかし、ベトナムのようなケースもあるからなあ・・・・。


大沼保昭の護憲論批判

2007-06-03 23:53:34 | 日本国憲法
 5月20日の『朝日新聞』に、同紙が5月3日の憲法記念日に発表した「提言 日本の新戦略 社説21」についての専門家の意見を紹介している。
 その中で、大沼保昭・東大教授が、興味深いことを述べている。

《「最近、護憲派が9条を論じるときに、いわゆる『大人の知恵』を前面に出していることに少し違和感を覚えています。今回の提言にもそれが感じられます」
 ――「大人の知恵」とはどういうことですか。
 「憲法9条の規範と国際政治の現実が乖離していることはよくわかるが、9条の盾があったから米国の圧力をかわしてうまくやってきた。それでいいじゃないか、という主張です。『大人の知恵』は現実主義のひとつの形ですが、シニシズム(冷笑主義)に流れやすい。『建前と本音の使い分けは結構じゃないか』という日本社会に支配的な発想にすりよってしまう恐れがあります」
 ――大沼さんは、護憲的な立場から、その乖離を埋めるために改憲を訴えてきました。
 「『建前と本音』の使い分けで国民のシニシズムをこれ以上強めるべきではないと考えるからです。かつて護憲派は、理想主義の担い手でした。憲法の理念を固守してそれを世界に発信する、それが日本の道義的基盤でした」
 「護憲の主張は、9条の規範に合わせて現実の日米安保体制を変えていこうということでした。その護憲派が『大人の知恵』を唱えることは、シニシズムにのっかること。そういう形でいいのか、気になります」
 「私は、護憲論に十分意義を認めますが、どんな憲法も永久に改正されないということはないわけです。その点から、積極的な、護憲の理念に立つ改憲論を主張しています。今回の朝日の提言は護憲論の最終段階なのかなあと思います」》

 『大人の知恵』論とは、例えば、私が以前取り上げた、平川克美の9条論や、これに近い内田樹の見解などを指すのだろう。
 こうした主張への違和感は私もかねがね抱いていたので、その点では大沼の見解に同意する。

 大沼の専攻は国際法。日本の戦争責任、戦後補償問題に関する著作、発言が多い。80年代に外国人労働者の受け入れが問題になった際には積極論を唱えた。「保守論壇に乗り込んで堂々と論陣をはれる、いまや数少ない進歩的文化人の一人であろう。」と評される。単純な理想主義者ではなく、現実を踏まえた上で理想を追求しようとしているからだろう。
 大沼の護憲的改憲論とは、このようなものであるらしい(これも参考に)。賛同できない箇所もいくつかあるが、少なくともシニシズムへの危惧という点では強く共感する。

 しかし、朝日の記事で、続けて次のように述べている点には同意できない。

《――改憲にすぐに取り組むべきですか。
 「いいえ、現在の安倍政権のもとでの改憲には反対です。私の護憲的改憲論は、日本が戦争責任を正面から認めて、アジア諸国との和解を明確に進めつつ改憲するなら、日本国民、アジア、世界の利益になるというものです。残念ですが、今の政権が歴史に真剣に向き合うとは思えない。現政権での改憲は、9条を捨てたというイメージを世界に発信するだけになりかねない。歴史に正面から向き合う政権が改憲に取り組むべきです」
 「そういう政治の現実を考えると、影響力の大きい朝日新聞が、護憲の最後の段階を主張することは、新聞のあり方としては理解できます。でも、たとえば5年後に朝日が次の提言を出すときは、具体的な条文案を持った護憲的改憲論に踏み込んでほしいですね」》

 これでは、実質的に、『大人の知恵』論と変わらないのではないか。
 「歴史に正面から向き合う政権が改憲に取り組む」までは、9条と現実との乖離を放置しておいてもかまわないと言うのだから。
 このあたりに、大沼の限界を見る思いがした。