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熊倉正弥『言論統制下の記者』から(1)

2007-06-08 21:55:53 | 日本近現代史
 熊倉正弥『言論統制下の記者』(朝日文庫、1988。『新聞の死んだ日々』(朝日ソノラマ、1982)を増補したもの)という本を読んでみた。
 著者は、1915年生まれ、慶大卒。1939年朝日新聞社に入社。論説委員などを務めたという。
 興味深い記述がいくつも見られたので、書き留めておく。

○中野正剛の「戦時宰相論」について

《何が彼をそうまで怒らせたのであろうか。「戦時宰相論」を通読しても、特に東条攻撃が行われているとは感じられない。発禁になったあとで読めば、いかにも東条攻撃のようにも感じられるのだが、元旦の朝、この一文に目を通した読者のうち、はたしてどれだけの人がこれを東条批判、攻撃したものと感じたであろうか。私はこれを疑っている。
 私は東京第一陸軍病院から退院して自宅療養中で、元旦の紙上でこれを読んだ時には特別な感銘は受けなかった。紋切り型の内容の空疎な美文と思っただけである。》(p.37)

《東条が発禁を命じたのは午前九時か十時だったという。検閲当局が全国の各府県に差し押さえの指令を出したのは午後一時ごろだった。すでに読者に配布ずみであり、後の祭りに近い。警察の手によってもほとんど没収できなかった。地方への指令のおくれは、検閲課が首相の命令に反発して、せめてもの抵抗としてサボタージュしたためである。もしもこの実情を東条が知ったら、大変なことになったろう。
(中野の伝記のうちには「発禁の方が朝日新聞社に達したとき、居合わせた社員は一斉に『万歳』を叫んで歓呼したという。いわばレジスタンスの爆発であった」と記述したものもあるが、これは誤りだ)
 この事件は、その後の政府、憲兵による中野への圧迫、そして中野の自決があり、また朝日の緒方が中野と五十年にわたる親交があり、中野の葬儀に政府が妨害、威圧を加えたときに緒方がすすんで葬儀委員長となったということもあって、朝日の関係者には一種の悲壮な印象を強く与えている。
 そのために、中野を美化し、ときには反戦の士のように解することさえ見られる。この点は若い人たちが認識を誤ることのないように希望する。》(p.39~40)

 検閲課とは、情報局検閲課。情報局とは、1940年に第2次近衛内閣が設けた内閣直轄の組織。戦時体制の下での報道統制や宣伝を担った。米国の中央情報局(CIA)のような諜報機関ではない。
 新聞記事の事前検閲は法令上の根拠はないが、行われていたという。その事前検閲をパスして発行された新聞記事が、東條の命により発禁となったため、検閲課の面目は丸つぶれとなり、反発も激しかったという。

○『朝日新聞』縮刷版について

《朝日新聞の縮刷版にはこの「戦時宰相論」はのっていない。発売禁止になったのだから、縮刷版には、むろんこの記事は収録できない。一月一日の新聞に「戦時宰相論」があった場所には、〔中略〕が収録されている。これらの記事、写真は、実際に発行された一月一日付の朝日新聞にはなヵったものである。この点に注意していただきたい。
 単純にいえば、縮刷版では「戦時宰相論」のあった場所を空白とし、そこへ発禁処分になったから削除し空白とした旨の注を書いておけばよいはずだ。しかし、取り締まりはそういう方法をとることを許さなかった。「どういう記事が、どういう理由で発禁になったか」を報道すること自体が不可とされていたからである。翌二日の朝日新聞にもこれについては何の説明の記事もない。
 朝日新聞の縮刷版は資料として有益かつ便利だが、右のようなしきたりがあったことを参考までに述べておく。
 厳密にいうと「縮刷版にある記事だから実際に発行された朝日新聞にもあった」はずとはいえず、同時にまた「縮刷版にのっていないから実際に発行された朝日新聞にもそのニュースはのっていなかった」はずともいえない。こういう例はきわめてまれだし、たまにあっても一段か二段程度の小さい記事であって、あまり気にすることもないが、新聞史を詳細に研究する人のために一言しておく。》(p.41~42)

○新聞記者の仕事ぶりについて

《このころを題材にしたテレビ映画などを見ると、どうも実際と離れたつくりものの気がする。登場する新聞記者を見て、跳びあがるほどおどろいたことがある。大新聞の論説記者が同僚とおでん屋でいっぱいやって弁じている情景であったが、「実に君、東条政治というものはだな」などとしゃべっているからである。こんなことを、他人のいる場所で口にすることなどはあり得ないはずである。こういう演出をしては困る。またその論説記者はよほどの愛煙家とみえて、話をしながら半分ものんでいないタバコを灰皿で押しつぶし、次から次と新しいタバコに火をつけていたが、こういうタバコののみ方など絶対にあるはずはなかった。私はこういうものを見ると、一事が万事で、ストーリー全体がつくりものに思われてくる。事実というものがいかに多正しくは伝えられないか、という例にはなるだろう。》(p.60)

○「原子爆弾」の言葉が禁じられたことについて

《各新聞社は、すぐに外国のラジオが「英首相は、米大統領が原子爆弾を投下したと声明した」と放送したのを知った。これによって情報局は広島に投ぜられた爆弾が原子爆弾であることを信じ、この旨を一般に発表しようとし、外務省もこの方針に賛成した。だが、軍部側は原子爆弾であることを信じたがらなかった。「敵側は原爆使用の声明を発表したが、これは虚構の謀略宣伝かもしれない。従って原爆とは速断できない」と主張した。そこで情報局は「敵側は原子爆弾であると称して発表した」と報道するという妥協案を提出したが、軍部はこれにも反対し、内務省も軍部に同調した。
 〔中略〕結局、政府は報道には原子爆弾の文字を使うことを禁止し、「新型爆弾」と呼ぶこととなったのである。こうして、被爆国の日本の国民だけが、戦争終結まで、公式には原爆であることを知らされなかったのである。
 原子爆弾という文字は、新聞紙上には十一日にはじめて現れたが、それは、トルーマン米大統領が米国民にたいして行った演説の中の「原子爆弾」という言葉を、外電によって報じたものであった。
 朝日の十四日の社説「敵の非道を撃つ」のなかで「この原子爆弾は相当の威力をもつものに違ひない」と、原子爆弾の文字を使っている。》(p.111~112)

○東京裁判について

《私はニュルンベルク裁判のシュペールのことを考える。〔中略〕軍需相その他の要職についていたが、アウシュビッツの残虐行為などには無関係の穏健派であった。だが彼は「残虐行為は知らなかったが、もし知ろうとすれば知り得る地位にあった」として有罪をみずから認めた。ニュルンベルク裁判で有罪を認めたのは彼一人であった。》(p.169)

 ニュルンベルク裁判で有罪を認めたのは彼1人なのか。ならばゲーリング、ヘス、ローゼンベルグ、リッベントロップらは無罪を主張して争ったということか。
 私は丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」(1946)の有名な一節、
「土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する。」
や、同じく丸山が「軍国支配者の精神形態」(1949)で示した日独指導者の比較の印象からか、ナチス幹部は有罪を認めるのにやぶさかではなかったのだと思っていたのだが、そうではなかったということだろうか。
 ニュルンベルク裁判についても、いずれ調べてみたいと思った。

(続く)