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日本の人類学者40.中谷治宇二郎(Jiujiro NAKAYA)[1902-1936]

2012年10月21日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Jiujironakaya

中谷治宇二郎(Jiujiro NAKAYA)[1902-1936][中谷治宇二郎(1985)『考古学研究への旅:パリの手記』、六興出版の口絵より改変して引用](以下、敬称略。)

 中谷治宇二郎は、1902年1月21日、石川県加賀市で中谷卯一・てるの間に次男として生まれました。ちなみに、長男の中谷宇吉郎[1900-1962]は、東京帝国大学理学部物理学科で寺田寅彦[1878-1935]の弟子となり、後に北海道帝国大学理学部で雪の結晶を研究したことで有名です。父親の中谷卯一は、1913年に35歳の若さで死去しました。

 中谷治宇二郎は、旧制小松中学校の頃に小説を書き、それが菊池 寛[1888-1948]の目にとまり、さらに芥川龍之介[1892-1927]もその才能を褒めて「一人の無名作家」という文章を書いているそうです。

 1920年に小松中学校を卒業すると尋常小学校の準訓導心得となりますが、1921年に退職して金沢新報社に入社しました。なお、一家は、中谷宇吉郎が東京帝国大学理学部に入学した際に、上京しています。1922年には東洋大学に入学し印度哲学を学んでいましたが、病気となり東洋大学は中退しました。

 1924年4月、東京帝国大学理学部人類学教室の選科生となりました。これは、兄の中谷宇吉郎が入学した東京帝国大学理学部に出入りする内に鳥居龍蔵[1870-1953]の知遇を得たからだと言われています。人類学教室の選科生には、合計10名が入学していますが、中谷治宇二郎は8番目でした。ただ、その鳥居龍蔵は、後任となる松村 瞭[1875-1936]の学位論文を巡る事件で1924年6月に辞任しました。中谷治宇二郎は、この人類学教室に在学中、主に東北地方の縄文時代遺跡を調査しています。

 中谷治宇二郎は、1927年3月に東京帝国大学理学部人類学教室の選科を修了しました。この年、4月には、東洋大学で知り合った菅原セツと結婚しています。菅原セツはこの時、東京帝国大学文学部美学科の聴講生でした。1928年には、東北地方の石器時代(縄文時代)遺跡の調査を行いました。この調査には、後に成城大学教授となる今井冨士雄[1909-2004]が同行しており、青森県つがる市の田小屋野貝塚を調査したことが有名です。今井冨士雄は、中谷治宇二郎が亡くなるまで親交を続け保存されていた書簡も約80通に及びました。

 1927年、『注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布』が東京帝国大学理学部人類学教室研究報告第4編として出版されました。この時のいきさつは、岡書院を経営していた岡 茂雄[1894-1982]によるエッセイ・『本屋風情』に書かれています。ちなみに、岡 茂雄は、著名な民族学者の岡 正雄[1898-1982]の実の兄です。ある日、東京帝国大学理学部人類学教室に松村 瞭を訪ねた岡 茂雄は、松村に最近研究報告が出ていない理由を尋ねると、松村は出版費用が無いと告げます。原稿はあるのかと岡が聞くと、あると松村が答えたので、お金はこちらが何とかするから出しませんかと伝え、この報告が出版されたそうです。

 岡 茂雄は、その後も中谷治宇二郎の才能に惚れ込み、1927年に『日本石器時代提要』を、また1930年に『日本石器時代文献目録』を岡書院から出版しています。しかし、後者の出版時は、出版費用がなかったために、渋沢敬三[1896-1963]に資金援助をしてもらったと書かれています。中谷治宇二郎は、岡書院から出版されていた雑誌『ドルメン』にも多く寄稿しました。岡 茂雄に対する、感謝の意味もあったのでしょう。

 やがて、中谷治宇二郎に転機が訪れました。1929年7月2日に、単身でフランスに留学したのです。シベリア鉄道経由で渡仏し、1929年7月17日にパリに到着しています。動機は、フランスの先進的な先史学を学ぶためでしたが、1928年にロンドンに留学していた兄・中谷宇吉郎の妻・藤岡綾子が日本でジフテリアのために急病で亡くなったため傷心の兄を慰めたい気持ちもあったそうです。

 このフランス留学では、大学・博物館・各地の先史遺跡を訪問しています。中谷治宇二郎は、語学の才能があったようで、渡仏して2ヶ月もするとフランス語で講演ができるまでになったと、兄の宇吉郎が書いています。この留学時代には、考古学者・森本六爾[1903-1936]との親交も行いました。ちなみに、森本は、1931年4月1日に東京を出発しシベリア鉄道でヨーロッパに留学し、1932年3月9日に神戸に帰国しています。しかし、森本六爾は1936年1月22日に、32歳の若さで死去しました。さらに、フランス滞在中は、著名な数学者の岡 潔[1901-1978]夫妻と親しく親交したことも知られています。岡 潔は、1929年から3年間パリに留学していました。

 しかし、フランス留学中に中谷治宇二郎に病魔が忍び寄ります。微熱が続いた中谷治宇二郎は、1931年7月、スイス・ローザンヌのサナトリウムに転地療養することになりました。その後、トノンの貸し別荘に転地しましたが、この間、岡 潔夫妻が世話をしたと言われています。1932年4月1日、中谷治宇二郎はフランス留学を切り上げ、5月3日に神戸へ帰国しました。この帰国には、岡 潔夫妻も同行しています。中谷治宇二郎は、当初、約1年半の留学予定でしたが、結局、その約2倍の期間留学していたことになります。岡 潔は、中谷治宇二郎の世話をするために、自身の留学期間も1年延長したと伝えられています。二人は、終生、友情で結ばれていました。

 中谷治宇二郎が生前に書いた主な著作は、以下の通りです。

  • 中谷治宇二郎(1927)「注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布」『人類学教室報告第4編』、東京帝国大学
  • 中谷治宇二郎(1929)『日本石器時代提要』、岡書院
  • 中谷治宇二郎(1930)『日本石器時代文献目録』、岡書院
  • 中谷治宇二郎(1935)『日本先史学序史』、岩波書店

 中谷治宇二郎は、1932年5月に帰国すると、妻子が待つ家ではなく大分県の由布院温泉に行きます。この由布院温泉には、伯父の中谷巳次郎が経営する「亀の井別荘」があり、中谷治宇二郎はここで静養します。恐らく、結核を家族にうつしたくないという配慮があったのかもしれません。1936年3月22日、中谷治宇二郎は心臓病を併発して、34年の生涯を閉じました。あまりにも早すぎる死でした。親友の森本六爾は、この年の1月22日に32歳で死去しており、中谷治宇二郎は1936年2月3日付けで「パリと森本君と私」という追悼文を雑誌『考古学』第7巻第3号に投稿し、3月に出版されています。その追悼文が出版された3月に、中谷治宇二郎はこの世を去りました。この年、1936年は、日本考古学にとって貴重な人材を相次いで亡くしたことになります。

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中谷治宇二郎(1985)『考古学研究への旅:パリの手記』表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

*中谷治宇二郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 中谷治宇二郎(1985)『考古学研究への旅:パリの手記』、六興出版
  • 法安桂子(2011)「父・中谷治宇二郎」『明治・大正期の人類学・考古学者伝』、板橋区立郷土資料館

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