山内清男(Sugao YAMANOUCHI)[1902-1970][大場磐雄(1971)「山内さんの思い出」『人類学雑誌』第79巻第2号より改変して引用](以下、敬称略。)
山内清男は、1902年1月2日に、東京市下谷区(現・東京都台東区)で、素行と多真喜の間の長男として生まれました。山内家は、関 素行と野島多真喜が夫婦養子として継いだそうです。父親の山内素行は、東京帝国大学出身の国文学者で、宇都宮中学校や早稲田中学校で教鞭をとっていました。
山内清男は、父が勤める早稲田中学校を卒業後、以前から親交のあった鳥居龍蔵[1870-1953]の勧めで、1919年に旧制高等学校には進学せずに東京帝国大学理学部人類学教室の選科に進学します。この選科とは、卒業しても学士号がもらえない制度で、人類学教室の選科生としては4番目の学生でした。この選科生時代は、鳥居龍蔵について、各地の貝塚を発掘したりして先史人類学に興味を持っていましたが、当時はそれよりも遺伝学に強い興味を持っていたそうです。1922年に、山内清男は東京帝国大学理学部人類学教室の選科を卒業しました。しかし、1923年6月に恩師・鳥居龍蔵は、松村 瞭[1880-1936]の学位論文を巡る事件で東京帝国大学を辞職してしまいます。鳥居龍蔵は、「僕の教え子は、山・甲・八の三君のみ」と発言していたそうで、「山」とは「山内清男」・「甲」とは「甲野 勇」・「八」とは「八幡一郎」のことを指します。この3人は、全員が東京帝国大学理学部人類学教室の選科を卒業しています。
1924年秋、山内清男は、東北帝国大学医学部解剖学教室で長谷部言人[1882-1969]の元で副手に就任します。この人事は、父親の友人を介してのことだったと言われています。一説には、山内清男は、東京帝国大学を不本意に辞職した鳥居龍蔵に殉じたとも言われています。ところが、ここで問題が起きました。遺伝学をきわめたいと希望していた山内清男に対して、長谷部言人がその研究を認めなかったのです。長谷部言人は、この頃、東北地方の貝塚を発掘調査しており、山内清男にはその先史学的研究を希望していました。長谷部は、貝塚出土人骨の年代が知りたかったのです。山内清男は、何度も職を辞そうとしたそうですが、そのたびに父親や小金井良精[1859-1944]等に説得されて辞職を思いとどまりました。
それからの山内清男は、土器をテーマとした先史人類学の研究に邁進し、土曜日と日曜日は東北地方の貝塚を発掘したそうです。その頃の弟子には、後に東北大学教授となる考古学者の伊東信雄[1908-1987]・古代学協会の角田文衛[1913-2008]・東京大学教授となる考古学者の斎藤 忠等がいました。この東北大学時代の1931年、山内清男は、土器に縄文をつける方法を解き明かしています。しかし、その発表は、1958年まで待たなければなりませんでした。1933年、山内清男は、東北帝国大学を辞職します。この頃、東京帝国大学理学部人類学教室選科修了の「三羽ガラス」と呼ばれていたのは、八幡一郎[1902-1987]・甲野 勇[1901-1967]・中谷治宇二郎[1902-1936]の3人で、教室の先輩である山内清男は含まれていませんでした。年齢もほぼ同じだった山内清男は、焦っていたのかもしれません。
上京した山内清男は、日本初の横書き原稿用紙を売って生活することをもくろみ、岡書院社長の岡 茂雄[1894-1989]に相談すると、有望だと言われます。そこで、パピルス書院を立ち上げて、原稿用紙販売を始めましたが、すぐに経営が息詰まってしまいました。それでも、その頃「原始文化研究会」をそして1937年には「先史考古学会」を組織して、雑誌「先史考古学」を刊行しています。但し、この雑誌も3号で廃刊となりました。この間、山内清男は、父親が教科書の印税から得た収入を仕送りして生活していたと言われています。その後、1943年には古巣の東北帝国大学医学部解剖学教室助手に復職しています。対立した長谷部言人は、1938年に東京帝国大学理学部教授に就任し、人類学科を創設していました。
戦後の1946年、山内清男は東京帝国大学理学部人類学教室の非常勤講師に就任し、1947年には専任講師に昇任しました。これは、八幡一郎が戦後抑留されたためと言われています。この専任講師に推薦したのは、対立していた長谷部言人だったそうです。意外に、二人は仲が良かったと指摘する研究者もいます。
1962年3月31日、山内清男は「日本先史土器の縄文」により、京都大学から文学博士号を取得しました。この日をもって、山内清男は東京大学を定年退官します。翌日からは、成城大学教授に就任しました。しかし、成城大学在職中の1970年8月25日に、肺炎のため68歳で死去しています。
山内清男は、当初、生体学や遺伝学を研究することを希望していましたが、様々な理由から先史人類学を研究し、日本国内の縄文土器の体系を作り上げ、「縄文学の父」とまで呼ばれるほどになりました。ここで、「先史学」と書かずに「先史人類学」とした理由は、山内清男は、文学部の考古学教室で教育を受けたのではなく、理学部の人類学教室で教育を受けたからです。実際、山内清男は、人類学出身で先史学を研究した研究者は考古学出身の研究者とは異なると生前、発言していたそうです。
*山内清男に関する資料として、以下の文献を参考にしました。
- 大場磐雄(1971)「山内さんの思い出」『人類学雑誌』、第79巻第2号、pp.101-104
- 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、思索社
- 大村 裕(2008)『日本先史考古学史の基礎研究』、六一書房