葛羅の井から国道14号に戻る。
宝成寺を通り、京成線にぶつかったら、線路沿いに左折、正延寺による。(地図では+をワンクリックすると寺名が出る)
◇真言宗豊山派・山野山正延寺(西船3-3-4)
寺のすぐ前を京成電車が走っています。
境内には、石造物が溢れている。
まず目につくのは、四国八十八か所のミニチュア。
弘法大師がすっくと立つ巨岩石を88本の札所の石柱が取り囲んでいます。
1周するのに10秒もかからない。
それで八十八霊場のお砂踏みをし、参拝したことになるのだから、有難い限り。
現地を回った巡拝記念碑も、当然、ある。
傍らに、十九夜塔の如意輪観音が5基、ずらりとならんでいる。
「全国的には二十三夜塔が多いが、千葉県では、十九夜塔が圧倒的に多く、船橋市も例外ではない。88基の十九夜塔を数える。うち83基は如意輪観音半跏思惟像で、その大半は女人講による造立。十九夜講の普及は、女性の娯楽の場の増大を意味し、如意輪観音像造立は女性の経済力を示している。
そして、十九夜塔が女人講として定着した時、女性に最も大切な出産・育児という現世利益を求め、如意輪観音に乳児を抱かせて子安観音なる仏を創作し、子安講へと移行したわけである」(『』船橋市の石造文化財 船橋市史資料(1)」より)
四角錐の無縁塔の上部には、地蔵が取り囲むように三界萬霊塔が立ち、さらにその上に地蔵菩薩が立つという念の入れよう。
墓域に、寛文期の墓標に挟まれて、元和四年と寛永十一年を刻する舟形地蔵菩薩がおわします。
元和期の石仏は極上のレアもの。
宝くじに当選したような気分です。
正延寺を出て、線路沿いに左へ。
◇踏切横の慰霊碑
遮断機のある踏切を渡ったところに、お地蔵さんがおわして、その隣には「無縁横死者霊」なる石碑。
昭和18年(1943)、踏切事故で13歳の少年が亡くなった。
その死を悼んで、平成18年、兄弟が建てた慰霊碑のようだ。
千葉街道の国道14号に着いたら左へ。
約1キロほど何もない。
のたのたと東へ歩を進める。
前かがみで小股に靴を道に引きずるように歩くから、「のたのた」という表現がぴったり。
次の目的地、「龍神社」に近づくと、下手な歌が聞こえてくる。
神社の前の町会の集会場で、老人会のカラオケ大会が行われていた。
真昼の、しらふの耳には、どの歌もまぬけな雑音でしかない。
◇龍神社(海人6-2-28)
集会場の入口の横に角柱道標がひっそりとたっています。
左が集会場、道標は、「龍神社」石柱と松の木の間にある。
正面「難陀龍神宮 弘法大師/加持石芋/かたはよし道」
右「歳▢▢天保九(1839)年十一月吉日」
龍神社は、海上守護の神社で、社殿は海に向かって建てられていた、と資料にはあるが、海に面していたことが今は信じられない。
かつて行徳街道からの参道が、ここまで伸びていたという。
境内には、柵で囲われ、ネットに覆われた池がある。
石芋の伝説の池は、この池と思われる。
「昔、弘法大師が、この池で芋を洗っている老婆に一ついただきたいと願ったが、これは固くて食えないからと老婆は断った。翌日、芋は石になって本当に食えなくなった」。
「神塚」なる珍しい石塔がある。
太平洋戦争中、大日本国防婦人会が、出征兵士の無事帰還を祈って奉納した髪を祈念する石塔。
日本民俗では、女性の髪には、男性に豊穣と幸運を与える霊力があると信じられてきたのです。
再び、国道に戻って、東へ。
国道14号と旧街道の分岐点に、赤門の寺がある。
◇真言宗豊山派・龍王山海蔵寺大覚院(海人6-1-9)
院号より寺号が先にくるの例を初めて知った。
神仏混合の時代、龍神社の別当だったから、山号に「龍」がある。
「赤門」の前には出羽三山塔。
出羽三山のうち、羽黒山は聖観音、月山は阿弥陀如来、湯殿山は大日如来を主尊とするが、江戸時代は湯殿山中心で「湯殿山 月山 羽黒山」の文字碑が標準でした。
出羽三山塔は、船橋では、江戸時代に33基、明治以降に78基建てられていますが、昭和に入ってからも42基建てられていて、歴史的には、新しい石塔になります。
門前には、廻国供養塔も2基あります。
廻国塔は、法華経を全国六十六か所の霊場に納めるために廻国し、その目的達成を記念する石塔。
2基の内、左がこの目的達成記念廻国塔。
右は、旅をして回る六十六部行者に宿を提供するなどした援助者の記録。
「五千人供養」は、五千人宿泊させたという意味。
「百番巡礼」の文字があるが、これは西国、坂東、秩父百観音霊場のこと。
船橋宿の通過は、坂東二十九番千葉寺、二十八番滑川観音と十三番浅草寺との往還か。
境内には、ミニ四国八十八か所が設けられています。
中央の弘法大師をぐるっと回るように石畳の道が敷かれ、その石の一つ一つに書かれている数字が札所の番号で、これを踏んで回ればお砂踏みをしたことになる、というシステム。
大覚院の先、塘路の右の小路を入ると「入日神社入口」の看板が。
◇入日神社(海神3-7-8)
「入日神社」とは、また、優雅な名前だが、実はこの神社は、船橋大神宮(意富比(おほひ)神社)の元宮で東の意富比(おほひ=大日)に対して、西の入日神社と云われています。
なんとヤマトタケル東征伝説とも関わりがあって、船橋の沖合で苦戦していた尊が、舟に八咫鏡そっくりの鏡を見つけ、勇気百倍忽ち賊を討つことができたので、この鏡をこの入日神社に奉納した。鏡は、後に意富比(船橋大神宮)に移したから、意富比神宮の元宮は、入日神社だということになるというお話。
だからか、句碑が1基あって、句頭に「意富比神社」を、句末に作者の俳名「秋身庵光年」を読み込んだ、ちょっと風変わりで、凝った句碑です。
意富比神社を 意に叶ふ月を迎ふや里の秋
冠り吾が俳号を 富貴さは花の余徳か桜の実
踏み四季の五章 比隣みな羽子の睦みや松の庵
に赤心を表わして 神前の冴や御留守も灯の光
社篭りのかかりのあとや去年今年
最近、ボケを自覚するのは、地図を見て目的地を探せない時。
若い時にはなかったことが、しばしば起きるのです。
次の念仏堂も地図だけでは到達できず、3人もの人に聞いてやっとたどり着いた始末。(6000字)
◇浄土宗・念仏堂(海神1-17-16)
念仏堂への道の左側に石仏群。
なぜか阿弥陀さんよりお地蔵さんが、圧倒的に多い。
一番手前は、宝永六年(1709)の地蔵座像。
その隣の延命地蔵2体は、両方とも享保4年(1719)の造立。
持参資料によれば、六地蔵のうちの2体だそうで、仲間の3体は、次に寄る地蔵院にあるのだとか。
お堂は、二つあって、念仏堂は奥。
手前のお堂は、観音堂。
その観音堂の前にあるのが、市内最古の道標。
元禄7年(1694)の駒形道標で、行徳街道が成田街道に合流する三叉路に立っていたが、道路拡張でここに移転されたもの。
刻字は読めないので、説明板の写真を載せておきます。
◇真言宗豊山派・勝軍山地蔵院(海神1-21-22)
墓地への入口の右、本堂前の一画に石仏が集められている。
十九夜塔が2基。
いずれも「女人講」の文字が読み取れる。
後列で窮屈そうに身を縮めている宝篋印塔は、元文3年(1739)のもの。
念仏堂にあった六地蔵の残りの3体を探すが見つけられなかった。
どうでもいいことですが、ちょっと気がかりです。
次回更新日は、12月11日です。
≪参考図書とwebサイト≫
〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年
〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年
〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年
▽「成田街道道中記」
http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html
▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html
▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」
http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html