石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126 成田街道の石造物ー7-

2016-12-11 06:09:25 | 街道

旧道をひたすら東へ。

覆屋があり、中の石仏がこっちを向いている。

「こっち」は東へ歩いているのだから、「西向き地蔵」となる。

◇西向き地蔵(本町2)

この西向き地蔵の場所が、船橋宿の西の入口でした。

宿場の入口には、どこにもお地蔵さんがおわしたが、この西向き地蔵もその一つ。

造立は、万治元年(1658)、施主は念仏講中12人と女人16人。

360年にわたり、往き交う人たちを見守ってきたことになります。

船橋は、江戸から下総・上総・常陸・安房四か国への通路にあたり、人足15人、馬15疋が常時準備されていました。

しかし、道中奉行管轄外で、正式な宿場ではなかったのです。

旧道から再び、千葉街道へ。

 ◇旅籠佐渡屋跡(湊町2-6-33)

船橋宿の旅籠といえば、佐渡屋。

旧道に面したNTTが、佐渡屋の跡地。

 「当村宿駅也。旅の往来、日夜引きも切らず。当領一の繁盛也。旅籠屋凡そ十八九軒。此内、佐渡屋は商人宿也」。(『葛飾誌略』より)

「船橋。佐渡屋早し。海老屋宜し。八兵衛は江戸や、佐倉や」。(『房総三州漫録』より)

佐渡屋では何が早かったのだろうか。

「八兵衛」とは、遊女のこと。

船橋宿の旅籠の飯盛り女は「しべー、しべー」と客を誘った。

往きに、しぺー、帰りに、しべーで「八兵衛」となった。

「成田山には男女二人連れでお参りしないほうがいい」というのは、船橋の八兵衛さんと遊べないから、だそうです。

NTT(佐渡屋跡地)の後方にあるのが、旅館玉川。

◇玉川旅館の船着き場(湊町2-6-25)

上の写真で、玉川旅館の向こうに見える高層ビル群は、みな、昔は海だった所です。

その証拠が、玉川旅館の庭にある。

この石段は、庭から舟に乗る船着き場の跡。

石段を下りて舟に乗る。

宿泊客が釣りなどの舟遊びを愉しんだのでした。

下は反対側からの写真。

つまり、かつては海だった所から撮ったものです。

 

東に向かうと、旧道と千葉街道に挟まれた本町3に寺町があります。

ろくな石造物がないので、個々の寺の紹介はカット。

スポットを当てるのは、不動院だけ。

◇真言宗豊山派・海應山不動院(本町3-4-6)

門前にある大仏は、釈迦如来坐像。

船橋市の文化財に指定されているが、市教委が書いたその指定理由は、以下の通り。

船橋の海は、江戸時代初めころから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する「御菜浦」とされた好漁場でした。
元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、代金納になりました。その後この漁場を巡って、近隣(堀江・猫実・谷津・鷺沼など)の漁師たちと多くの争いが起こりました。
文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いていた時、船橋漁師の占有漁場の船が侵入してきました。その中に、一橋家の幟を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、幟を奪ってしまいました。大きな事件であったことから、船橋の猟師総代3名が入牢させられました。1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。そのため、延享3(1746)の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて行うようになったのです。
大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に行われるようになりました。本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された石造釈迦如来坐像です。供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。大仏の西側には漁師総代2名の供養碑が建てられています。(船橋市教育委員会掲示より)

大仏の台石には、盃状穴がある。

成田街道では、これで3例目。

どこにでもあるものだと再確認する。

 大仏の背後には、犠牲になった二人の漁師の供養塔がある。

台石の「漁〇講中」が、いかにも漁師村の九日市村らしい。

大ぶりな庚申塔に挟まれて立つ六観音石幢の念仏搭が珍しい。

たまたまこちらを向いているのは、千手観音。

女念仏講中によって、元禄14年(1701)に建てられています。

 

旧道に戻る。

千葉銀行の前身は、旅館「桜屋」。

明治天皇は、陸軍の演習視察などで10回ほど桜屋に宿泊している。

だから、「明治天皇船橋行在所」のステンレス製標柱が、銀行の前の一角に道路に面してある。

この界隈は高いビルばかりで、宿場の往時の面影は見られない。

唯一、和菓子の広瀬直船堂と森田呉服店にその片鱗を見るばかり。

店の前を掃除しているのは、森田呉服店の御主人。

昭和34年の船橋本町通りのスケッチを染めた手ぬぐいを販売していたので、一枚購入してきた。

これが半世紀前の町の姿だから、江戸、明治の面影は探してもないわけです。

 

 次回更新日は、12月16日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html