田安門から皇居西側を回って桜田門までのコースは、桜満開の4月第1週、大勢の花見客に混じっての散策となった。
止まることもままならない人ごみで、散策とはいえそうもなかったが・・・。
花見客が入らない写真を撮ることが難しい。
地下鉄「九段坂下駅」を出ると、左に田安門がある。
寛永13年(1636)建造の、江戸城で最も古い門。
国の重要文化財です。
門を入った北の丸公園の西側は、吉宗の次男が興した田安家の敷地でした。
田安門両側の石垣の石は濃淡があり美しい。
桜越しの内濠は一年で最も美しい景色です。
行列に並んで進むとすぐ見えるのが、「常灯明台」。
明治4年(1871)、靖国神社正面、つまり現在地点の道路の向こう側に建てられたもの。
上部が洋風なのは、当時の西洋かぶれの現れだそうです。
建設時は、東京湾を航行する船の灯台の役割を果たしていたというから、隔世の感があります。
続いて銅像が、2基。
手前が品川弥次郎子爵、奥が大山巌公爵像だが、興味がないので、パス。
子爵と公爵、どっちが「おえらいさん」なのかも知らない。
右手に靖国神社を見ながら、行列に従って左の千鳥ヶ淵遊歩道へ。
インド大使館では「さくらフエスティバル」中。
インドの物産とグルメで賑わっていた。
閉鎖的な大使館としては、珍しくオープンなイベント。
千鳥ヶ淵の幅は広い。
北の丸側は石垣ではなく土塁だが、これだけ濠が広く、土塁が高ければ、要塞として十分だろう。
手前に首都高、その奥に濠と北の丸が見えると千鳥ヶ淵も南のはずれ。
お濠の上の高速道路を、江戸城の景色を台無しにするものと見るか、新旧の対比鋭い、いかにも現代東京らしい光景と見るか、議論が分かれそう。
今は、内堀通りから北の丸へと代官通りが伸びているが、昔は千鳥ヶ淵と半蔵濠とは繋がっていた。
代官通りから半蔵門までの遊歩道は、幅が広がって人通りもややゆったりしている。
公園の幅があるから花見のブルーシートが多い。
会社の花見だろうか、場所取りの男が一人ぽつねんと座っている。
中国人観光客がシャッターを切っている。
現代日本を表わす格好の被写体、なかなかのセンスだと感心した。
ところどころに石碑がある。
近寄って見たら「第一東京市立中学校発祥之地」とある。
帰宅して調べたら、九段高校の前身で大正年間ここにあったのだとか。
他にもいくつか公共施設の跡地表示がある。
半蔵門は、天皇家の通行門。
「半蔵」の名は、この門を警固した服部半蔵に由来したもの。
甲州街道の始点でもあります。
下の写真は、半蔵濠から半蔵門の土橋を見たもの。
水面からの高さがかなりのものであることが分かります。
防御の観点からすると必要な高さだったのでしょう。
半蔵門で桜並木は終わり。
歩道はジョギングの人が通り過ぎるだけに。
春色の土手の緑とお濠のブルーが相まってとても都心とは思えない光景が広がる。
このあたりは、江戸城構築の際、谷筋だったものをそのまま利用したものだとか。
土手下の水面近くに一本の柳。
歩道際の説明板によれば、「柳の井戸」で、江戸時代、通行人ののどを潤す湧水として有名でした。
浮世絵に描かれた名水の井戸は、この「柳の井戸」の、道路をはさんで反対側にもある。
「桜の井戸」。
加藤清正の屋敷で清正が掘ったというのだが、殿様が井戸を掘るものか。
その後井伊家の屋敷となったので、井伊大老はこの井戸のそばを通り、桜田門へ向かう途中襲われたことになります。
「桜の井戸」から右手に国会議事堂を見ながら、長い横断歩道を2度渡るとそこが地下鉄「桜田門駅」。
膝痛の私としては、これだけ歩くのが精いっぱい。
2番出口からホームへ。
今日は、これでお終いとします。
1週間後、「桜田門駅」3番出口を上る。
出た所が、桜田門の真ん前。
振り返ると桜田通が伸びているが、日本橋が起点になる前は、桜田門が東海道の起点だった。
桜田門は江戸城の城門のなかでも大きい方だが、高麗門そのものは間口が狭い。
高麗門から中を覗くと右に巨大な渡櫓(わたりやぐら)が見える。
門の上の黒っぽい帯状のものは、銃眼。
高麗門を入った侵入者は、ここから一斉射撃されることになる。
井伊大老もここまで逃げ延びれば、一命をとりとめたに違いない。
高麗門があり、渡櫓があるから枡形門なのだが、風変わりなのは、高麗門の正面に石垣がないこと。
石垣は、桜田濠の向こう、西の丸にある。
敵が高麗門を入っても、はるか向こうの高みから攻撃をすればいいわけで、石垣の必要がないのです。
桜田門の石垣は美しい。
江戸城石垣の大半は伊豆の安山岩だが、ここには花崗岩も使用されてて、石のグラデーションが見事。
田安門といい勝負です。
渡櫓をくぐり、直進すると内堀通りにぶつかる。
そこに「特別史跡江戸城跡」の看板。
史跡でも「特別史跡」となると別格。
全国でわずか61か所しかない。
東京都では、3か所、江戸城の他は、浜離宮、小石川後楽園だけです。
内堀通りを右折するとすぐに祝田橋。
祝田橋
祝田橋のネーミングは、明治39年(1906)、日露戦争の勝利を祝う凱旋パレードのために造られたから。
ちなみに祝田橋の西側、桜田門を望む濠は凱旋濠です。
凱旋濠
歴史にちなんで濠の名前をつけるのなら、祝田橋の東側は日比谷濠だが、その突当りには第一生命ビルがあるのだから、「GHQ濠」とか「マッカーサー濠」とでもすればいいのに。
「凱旋濠」に対抗して「敗戦濠」でもいいかも。
日比谷濠(マッカーサー濠?)
晴海通りを銀座方向に進む。
左は日比谷濠で、右は日比谷公園。
日比谷公園には外濠の跡があるが、それについては、NO62「石で知る江戸城②外濠を歩く」で触れたので、ここでは取り上げない。
ここは、外濠と内濠が最も近接していた地点だった。
日比谷交差点でお濠沿いに北へ進む。
右に帝国劇場を見ながら行くと馬場先門跡。
今は標柱があるのみ。
門の奥に馬場があったから馬場先門。
写真を見れば分かるように現在は濠がここで切れているが、江戸時代は橋が架かっていた。
日露戦争後に橋が埋められ、枡形門も撤去された。
千代田区観光協会のブログでは「日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出たため、明治39年(1906)に枡形は撤去されました。現在は石垣の一部だけ残っています。」と書かれている。
馬場先濠沿いに北に進むと行幸通りにぶつかる。
東方向を見ると正面に小さく東京駅。
はるか向こうの様に見えるがわずか300mに過ぎない。
道路の短さに比べ、横幅が73mと広いのは、中央に天皇が行幸の際に通行する専用道路が走っているから。
わずか300mの道路だが、レッキとした都道で、正式名称は「東京都道404号皇居前東京停車場線」。
濠に面して立つコンクリートの建築物は、何だろうか。
行幸通りが関東大震災後に造られたことを考慮すると、守衛所、と断じてよさそうだ。
それぞれのお濠に1羽か2羽の白鳥がいる。
飛べない様に翼を切ってある、と聞いたことがある。
行幸通りを過ぎると和田倉橋はすぐそこ。
和田倉の「倉」は、江戸城建設の際、物資の貯蔵倉庫があったから。
日本橋へとつながる道三堀の起点でもあった。
橋は、木橋。
江戸城内濠に架かる橋としては、平川橋とこの和田倉門橋が今に残る木橋です。
江戸時代の雰囲気が出ています。
橋を渡ると枡形門。
建物はないが、石垣の配置でそれと分かる。
枡形門には珍しく左サイドの渡櫓をくぐるとそこに和田倉噴水公園。
今上天皇ご成婚記念に造られたもの。
木蔭に人影が3人。
喫煙所だった。
外国人旅行者が日本に来て驚くスポットの一つが喫煙所だという。
外国人でも主として中国人かも知れないが。
和田倉濠は、日本生命ビルに沿って左折している。
ビルとお濠の間に道はないので、日比谷通りを北上する。
次の交差点を左折するが、この道は日本橋や茅場町を通り永代橋へつながる永代通り。
左折した突当りが大手門になる。
大手門からの光景。手前が内堀通り、縦に伸びるのが永代通り。
いわずもがな、江戸城正面だから、大手門。
諸大名の登城口だったから、混雑した。
殿の下城を待つ家来ども相手の屋台も出ていたらしい。
大手門の内側は、現在、皇居東御苑として開放されている。
城内石垣も一見に値するが、今回は内濠編なのでパス、回を改めて紹介する。
大手門の南側は桔梗濠、北は大手濠と分かれている。
桔梗濠 大手濠
凱旋濠、日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠と皇居外苑を取り巻く形の濠は、パレスホテルと内堀通りに遮断されて、ジ・エンド。
内堀通りの向こうは、桜田濠、二重橋濠、蛤濠とつながる桔梗濠になっている。
大手濠沿いに北へ。
三井物産ビル、東京消防庁、気象庁とかなりの距離を歩く。
所々、県の花のタイルがある。
散り遅れた桜の下で写真を撮っている人たちがいると思ったら、小さな緑地公園だった。
桜をバックに銅像が立っている。
和気清麻呂像。
ネット検索によれば、勤王の忠臣で、昭和16年(1941)ここに建立されたとのこと。
清麿像の前のイチョウは、表皮がはがれ、木肌がむき出しになっている。
樹齢150歳、関東大震災の火災の中唯一生き延びた「震災イチョウ」だとのこと。
緑地公園を出て、前方を見やると横たわっているのが、パレスサイドビル。
次の目的地、平川門は毎日新聞が入るパレスサイドビルの前にある。
和田倉門と同じように、平川門も木橋。
銅製の擬宝珠(ぎぼし)には、「寛永元年甲子八月吉日 長谷川越後守」と刻されています。
平川門の構造を文章で伝えることは難しい。
写真でなら分かりやすいものだが、写真でも分かりにくい。
上の写真は、平川橋から西の竹橋方向を望んだもの。
左手の石垣が平川門から竹橋に向かって伸びている。
石垣の向こうは城内と誰もが思う、それが落とし穴。
帯曲輪(おびくるわ)という幅の狭い城郭が平川濠を斜めに竹橋まで横切っているので、帯曲輪の向こう側も濠なのです。
パレスサイドビル9階のレストランから見下ろすと全体の情景が分かるのだが、生憎、日曜日で閉店。
案内図で全体図を把握してください。
平川橋を渡る。
普通は、高麗門が正面にあるのに、ここでは橋を渡って右に門がある。
門を入ると右にあるはずの渡櫓が左にあるのも珍しい。
渡櫓の右端にも門があるが、これが有名な不浄門。
平川門の構造を複雑にしたのが、この不浄門です。
不浄というのは、城内の糞尿をこの門から出していたから。
余計なことを付け加えれば、当時、糞尿は畑の肥やしとして有用でした。
死人や罪人もこの不浄門から出されたから、浅野内匠頭や絵島もここを通ったことになります。
渡櫓をくぐって右を振り返ると濠があって帯曲輪が見える。
右のこんもりした茂みが帯曲輪、奥が竹橋、左の石垣は江戸城石垣
ここで初めて、平川濠の中に帯曲輪が通っていることが分かります。
平川門を出て、竹橋方向へ。
橋のたもとに枝を広げた樹木がある。
その枝の下に、江戸城石垣用石材が三個積み重ねられている。
上の石には刻文がある。
「太田道灌公追慕之碑」と題して、顕彰文が一面を覆うが、注目すべきは次の1行。
「この石材は江戸城虎之門枡形の遺材にして、道灌公当時のものにはあらざるも、因縁深きものにして特に本碑材に選定することとせり」。
平川橋から竹橋は指呼の間。
竹製の橋だったから、竹橋と云う説が有力。
白鳥が何かをつついている。
何かと思ったら、死んだ鮒だった。
つついて遊んでいるのであって、食べるのではない。
1mはある鯉も見かけた。
竹橋から平川濠を振り返る。
正面奥に平川橋。
その右に枡形門。
右の石垣が帯曲輪。
このあたりは、外堀(日本橋川)が内堀に最も近接している場所。
外堀の一ツ橋門を敵が突破すれば、そこは内堀、本丸はすぐそこです。
敵の攻撃が本丸に直接及ばない様に、帯曲輪(細長い城郭)を濠の中に設けた、そう解説する向きもあります。
竹橋を過ぎると途端に人通りが少なくなる。
ジョガーは皆、北の丸公園へと消えてゆくようだ。
清水門は内濠にかかる門の中で、最も観光客が少ないのではないか。
私も初めて訪れた。
内堀通りから清水門への道は、土橋。
左は清水濠。
右は、牛が淵濠。
牛が淵濠の土塁の上に武道館の屋根が顔をのぞかせている。
高麗門と渡櫓の枡形門のスケールが大きくて、ゆったりしている。
手前の扉が高麗門、右奥が渡櫓。
なにより素晴らしいのが、渡櫓をくぐってUターンする形の雁木坂。
江戸時代そのままの石段だそうで、歴史がにじみ出ている。
雁木坂を上がると左にベンチサイト。
清水門が一望できる絶景ポイント、お勧めです。
雁木坂の上から北の丸公園に入り、武道館の前を通って、田安門へ向かうこともできるが、今回のテーマは「内濠一周」なので、来た道をもとへ戻り、内堀通りへ出る。
ここから九段坂下交差点までは、ビルに遮られて濠は見えない。
九段会館
交差点を左折、昭和館のベランダホールから内濠が一望できる。
土塁の下に石垣を組むスタイルは「腰巻石垣」というのだそうだ。
いいネーミングだが、腰巻を知らない日本人も多いようだから、そのうち注釈がつくようになるのだろうか。
濠の突当りの上に白壁がチラリと見えるのが、田安門。
これで江戸城内濠一周は、ゴール。
約8キロ弱か。
このシリース名は「石で知る江戸城」。
だが、石造物があまりにも少なく、タイトルを偽ったようで気が引ける。
次回は、江戸城内跡地へ入ります。
私のネタ本は、黒田涼『江戸城を歩く』。
殆ど丸写し、盗作の誹りを免れない。
黒田さん、ごめんなさい。
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