石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

59 石で知る江戸城(1)外濠を歩く(飯田橋ー市ヶ谷ー四谷ー赤坂)

2013-07-16 05:47:34 | 石で知る江戸城

 東京に住んでいながら、江戸城についてはほとんど知らない。

江戸城を少しでも知りたい、というのがこのブログのきっかけです。

それも石を介して。

誤解しないでほしいのですが、したり顔で断言しているからと云って、その事柄に熟知しているわけではありません。

これは個人的な勉強のまとめであって、初めて知ったことばかりなのです。

このことは、今回だけに限らず、「石仏散歩」の全ての記事について言えることなのですが。

 

江戸城シリーズを水道橋から始めるのは、格別な意味があるわけではありません。

地下鉄三田線の利用者として、それが手っとり早いからです。

地下鉄「水道橋駅」からJR「水道橋駅」へ向かう。

橋の途中に銅のレリーフがあります。

地名の由来となった水道管(懸樋)を渡す橋、水道橋を描いた江戸名所図会が浮き彫りにされています。

レリーフの、これが元絵。

神田上水は江戸最古の水道で、現在の江戸川橋付近で取水され、ここで神田川をまたいで、城中と日本橋、神田方面へと流れ込んでいました。

木製の橋の上を走る懸樋は、番屋で守られていました。

その再現模型が江戸東京博物館にあります。

模型ではない、神田上水の実物大復元石樋も、東京都水道歴史館で見ることができます。

石樋は幅1m50㎝、石垣の高さ1m50㎝。

厚さ30㎝の蓋石が被せられていました。

神田上水は家康の江戸入府とともに開削されました。

江戸城周辺では井戸を掘っても塩水で、飲料水確保が緊急課題だったからです。

水道橋駅の南は、三崎町ですが、三崎=岬、家康入府の頃はここらまで海辺でした。

当然、現在のように深い神田川はここには流れていませんでした。

神田川からのお茶の水橋は見上げるばかり。

両岸は切り立った崖のようですが、これは人工的に掘削された川なのです。

お茶の水橋、橋の下に駅のホームが見える

 神田川(左土手上は順天堂病院)

 神田川掘削の目的は、三つ。

①大雨の度、氾濫し、江戸城本丸前を水浸しにしていた平川(小石川方面から飯田橋経由で日比谷入江に流れ込んでいた)の流れを変えて、隅田川に注ぐようにする。

②平川の流れをストップすることで、大手町あたりを洪水から解放すると同時に、掘削した大量の土砂を日比谷入江の埋め立てに利用する。(現在の日本橋、大手町、日比谷など東京の中心地は、この造成工事で出現したもの)

③江戸城北側の本郷台地には外堀がない。神田川を江戸城防備のための外堀とする。

完成したのは元和6年(1620)。

工事を担当したのは、仙台藩。

江戸城を北から攻めるとすれば、それは伊達政宗しかありえなかったわけですから、神田川掘削をすることで政宗は幕府に忠誠心を示したことになります。

 

水道橋に戻って、200メートルほど上流へ。

神田川へ出っ張った所が、市兵衛河岸。

                   市兵衛河岸

河岸とは、物資輸送のために水際に作られた物揚げ場で、江戸湾や利根川から隅田川経由の荷舟がここ市兵衛河岸から神楽河岸(飯田橋)あたりまで頻繁にやってきました。

市兵衛河岸は、現在、防災時の船着き場になっていて、平常時は施錠されていて入れません。

外堀通りを飯田橋方向へ。

飯田橋ハローワークを右折すれば、すぐ小石川後楽園です。

用があるのは、庭園ではなくて、外壁。

築地塀の下の石垣が注目ポイントです。

旧都庁舎近くの鍛冶橋で発掘された外堀の石垣を再利用したもので、石に刻まれたマークは工事担当大名家の印(しるし)です。

「山」印は山崎甲斐守、右端真ん中の双葉マークは、豊後佐伯の毛利家 の刻印。

各大名家は工事範囲を決められていました。

他家と接する所も石垣ですから、直線的に分けることは不可能で、必然、石が組み合わさった形になります。

その組み合わさり、重なり合った石がどちらの藩のものか明示するのが刻印の役割でした。

それと盗難防止。

石は、各藩が伊豆から苦労して運び込んだもの。

工事現場は各藩が入り乱れていたから、印のない石はすぐ盗まれる。

採石後、その場で刻印されて、江戸に持ち込まれていました。

伊豆の採石場跡地では、各藩の刻印石材が今でも転がっています。

 

再び、外堀通りに戻って、飯田橋へ。

神田川は飯田橋交差点下を急激に右折します。

 飯田橋から右折、江戸川橋方向へ伸びる神田川

首都高の真下が川の流れだと思えばいいでしょう。

隅田川からきた荷舟は、ここで右折することなく、直進。

そこが行きどまりの牛込揚場で、飯田濠でした。

町名変更で由緒ある地名がどんどん消滅してゆく中、新宿区だけは昔の町名が残っています。

今は暗渠となり、親水公園となった飯田濠の西側は「揚場町」、東は「神楽河岸」という町名ですから、すばらしい。

 飯田濠跡の親水公園

ただし、神楽河岸の人口はゼロ、町名だけです。

親水公園を過ぎると左手にこんもりとした茂みの一角。

封鎖されていて、中にはいれません。

29年前の、文字の消えかかった説明板によれば、「昭和47年(1972)、飯田濠を埋め立てる際、濠を一部保存のため復元したが、この茂みの石垣は江戸時代のまま」だそうです。

信号「神楽坂下」を左折、飯田橋駅西口出口の手前にRAMRAへ入る橋があります。

   RAMRAへの橋

この橋から下の眺めも江戸時代と変わりません。

 

 左はJR飯田橋駅 外濠から水が       鹿鳴館秘蔵写真帖(明治元年)橋の左が牛込見附。

 流れ込んでいる

落差も水量もほぼ同じ、違うのは流れ込むのが飯田濠ではなく、暗渠だということでしょうか。

 

飯田橋といえば、巨大な石組の牛込見附は見逃せません。

「見附」は「見つける」の意。

見張り番が常駐する門のことで、江戸城三十六見附と云いますが、この場合の三十六はManyの意味です。

敵の侵入を防ぐ防御施設ですから、堅牢であることは勿論、簡単に通り抜け出来ない構造になっていました。

その構造は「枡形」門。

内枡形の概観(上から見た図)

HP「城」http://www.hat.hi-ho.ne.jp/moch/castle/castle_klg03.htmより無断借用。

四辺を石垣で枡のように囲い、直線的には通り抜けられないようになっていました。

飯田橋駅西口前の通りの両側に聳える石垣は、枡形門の相向かう2辺。

現地に立つ千代田区の説明板が分かりやすい。

オレンジ色線が江戸時代の牛込見附。

神楽坂方面から向かうと道路を塞ぐ形で石垣があったことが分かります。

下の写真でいえば、道の両側に立つ建物を繋ぐ形で石垣がそそり立っていました。

この枡形は明治35年(1902)撤去されましたが、その石垣の一部が交番の横に転がっています。

側面下部に「阿波の守」とあるのは、この枡形門を建造したのが阿波藩であったことを物語っています。

牛込見附門が建造されたのは、寛永13年(1636)。

江戸城構築の総仕上げとしての最後の天下普請でした。

阿波藩では、牛込門建造に必要な石材の切り出しに、前年の寛永12年、伊豆へ数百人の人夫を国元から送りこみ、切りだした石を江戸へ送り始めます。

普請費用の借金を京都の商人に申し込む一方、石積みの技術に長けた穴太(あのう)石工の確保に努めます。

こうした周到な準備の上、普請は寛永13年1月8日にスタート、40日と云う短期間で完成しました。

藩主蜂須賀忠英自らが現場で陣頭指揮を取るという藩をあげての一大イベントでした。

天下普請は、諸大名にとって徳川家への忠誠心を表す格好な場でした。

巧名は、普請の出来栄えにかかっていましたから、諸大名は資金と労力を惜しみなく投じました。

牛込枡形門の石の大きさ、精緻な石組に阿波藩の心意気が読みとれます。

幕府からすれば、天下普請に参加、競合させることで諸大名の財力をそぐという目的をなんなく達成したことになります。

 

外濠を右に見下ろしながら市ヶ谷方面へ土手を進みます。

この辺りは、牛込濠。

ここから、新見附濠、市ヶ谷濠、真田濠、弁慶濠と外濠は続きます。

かつては14キロありましたが、現在、外濠の長さは4キロ。

法政大学を過ぎるとまもなく市ヶ谷。

市ヶ谷にも枡形門がありましたが、その痕跡は皆無です。

しかし、意外な場所に石垣が残っています。

市ヶ谷と云えば、釣り堀。

 

 手前が釣り堀 その奥が外濠

外濠の釣り堀を駅のホームから見たことのある人は多いでしょう。

この釣り堀へ下りる道の右側の石垣は、江戸時代のままです。

注意して見るといくつもの異なった藩の刻印が見えるはずです。

 

意外な場所といえば、市ヶ谷にはもう一か所石垣が見える場所があります。

東京メトロ南北線市ヶ谷駅構内の「江戸歴史散歩コーナー」。

    江戸歴史散歩コーナー

地下鉄工事で出土した外濠の石垣を移築再現するとともに、築城工事の記録や絵図を解説とともに多数展示しています。

 

 再現された石垣 藩の刻印もある      石を切り出す際に穿たれた矢穴

巨石の運搬風景など興味深い屏風絵などもありますが、照明が暗くてよく見えないのが残念。

 石曳図屏風(箱根町指定文化財) 修羅で巨石を運んでいる

床に広がる江戸古地図の上を、女子高生がキャッキャッいいながら飛び跳ねていました。

自分たちの学校の場所を見つけたんでしょうか。

 

四谷駅に向かいます。

市ヶ谷駅を出た時は、外濠には満面の水がありました。

 

 市ヶ谷駅を出たところ 右端が市ヶ谷橋

それが四ツ谷駅に着くと、いつのまにか水はありません。

   四ツ谷駅東の橋から市ヶ谷方向を望む

もう一度、市ヶ谷駅に戻り、Uターン。

濠の水がなくなる瞬間を狙ったのですが、木の茂みが邪魔をして、撮れません。

 

 右端に緑の水面が見える            左の写真の一枚前 茶色のビルの前には
 上の茶色のビルに注目              満面の水 ビルを過ぎると水はなくなるようだ

その名も「外濠公園運動場」が見える時は、電車も濠の中を走っています。

四ツ谷駅は、すっぽりと濠に包まれた形で存在しています。

      四ツ谷駅 向こうのビルは上智大学

 四谷見附の枡形門は、皇居に向かってJR四ツ谷駅の左側の道路を塞ぐ形でありました。

 

         四谷見附門                右のドームが四ツ谷駅 左の茂みが門の石垣

その石垣の一部が、主婦会館の前に残っています。

   四谷見附枡形門の石垣

これまで、牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠と外濠沿いに西に向かってきました。

見た目では分かりませんが、それぞれの濠の水位は異なっているのです。

牛込濠が一番低く、市ヶ谷濠が一番高い水位なのです。

この地形からすると、四谷駅を含め上智大学グランドがある真田濠が市ヶ谷濠よりも高いことは当然でしょう。

(水位の高さは、牛込濠3.4m、市ヶ谷濠10.9m、真田濠19.0m)

水位が高いということは、海抜が高いということです。

この海抜が高いということから、四谷門には、江戸城内で不可欠なものを配給する重要施設が置かれていました。

城内で不可欠ななものとは、水。

ポンプがない時代、水は高い地点から低い地点へと傾斜を利用して行き渡らせていました。

標高が一番高い四谷門が、水道網の根幹だったのは、地形からして当然のことでした。

 このブログ冒頭に、懸樋を渡す水道橋のレリーフを紹介しましたが、あれは神田上水を城内に導くものでした。

しかし、やがてこの神田上水だけでは城内の水需要を賄いきれないようになります。

そこで手を付けたのが、玉川上水。

多摩川の羽村から延々約40キロの導水路を、2年の突貫工事で承応2年(1653)に完成させます。

 

 四谷大木戸跡碑 ここに水番所があった 敷地の四谷区民センター裏には玉川上水を偲ぶ水の流れがある

玉川上水は、上が開いた水路で、四谷大木戸まで到達し、そこからは木や石で造られた水道管で地下を走り、四谷に流れつきました。

 

水道本管石枡(清水谷公園)   左の石枡から上の木樋を通して水が分配されていた(東京都水道歴史館)

四谷門で水道は細かく枝分かれして城内各所に配給されてゆきます。

地中深くに網の目のように水道管が走り、要所要所で桶状に囲われた井戸があり、そこから人々は水を汲んだのです。

 井戸の仕組み(東京都水道歴史館)

 

寛永13年(1636)の天下普請は、空前絶後の規模で実施されました。

石垣築造組は62大名、外濠の掘り方組は58大名、計120家の大名が動員されています。

牛込見附を築造したのは阿波藩だったように、石垣組には中国、四国、九州の諸大名、いわゆる西国大名が、一方、掘り方組には、東北、関東、北信越の東国大名がその任に当てられました。

作業開始は寛永13年3月9日。

掘削作業は、難航しました。

掘った土の捨て場が遠いことと予想外の出水が工事の遅延と労働力の不足を招いたのです。

各藩とも急いで地元から数百人単位の応援を頼まざるをえませんでした。

天下普請の一部始終は幕府の公式記録『徳川実紀』に記録されています。

将軍家光は工事現場に何度か足を運び、褒賞を与えていますが、その数は石垣組の西国大名に多く、作業が過酷であった掘り方の東国大名にはおろそかだったと言われています。

家光の時代になっても西国大名には気づかいが必要だったことが窺えます。

 

では、四ツ谷駅から西の真田濠(真田藩が掘削した)を見て回りましょう。

地下鉄四ツ谷駅を出て、その名も「外堀」通りを迎賓館方向へ。

雑草の間から真田濠が見られます。

線路は地下鉄丸ノ内線。

その向こうに広がるのは上智大学グランドです。

突然、江戸時代が出現。

迎賓館東門は、紀州藩中屋敷の門を移築したもの。

その先の信号「紀之国坂」を左折すると真田濠が全貌を現わします。

 

  信号「紀之国坂」             南端から見た真田濠 右のビルは上智大学

これだけの広さと深さの濠を人力だけで3カ月ほどで掘り下げ、土を運び上げたのですから、驚きです。

反対側を振り返るとはるか眼下に弁慶濠が光っています。

 喰違門跡付近から弁慶濠を望む

真田濠がいかに標高が高いかがよく分かります。

このあたり、道が緩やかなカーブを描いていますが、江戸時代はここに「喰違門」(くいちがいもん)がありました。

 

     喰違門跡                     江戸時代の喰違門(『絵本江戸土産』より)

城内への直進を防ぐために普通は枡形門でしたが、ここでは土塁が左右から前後に道を塞ぐように出ていました。

 千代田区教委による説明板より

その形から「喰違」と称されるようになったのです。

 

外堀通りを下って弁慶濠へ。

赤坂見附門跡は、地下鉄「赤坂見附」からちょっと離れています。

その昔は大山通り、今は246号線の坂の途中左の茂みの中に枡形門の石垣があります。

 

 赤坂見附門 造築は寛永13年(1636)、筑前福岡藩。左の歩道橋の先の茂みの中に石垣はある。

坂の名前は「富士見坂」ですが、都内の他の富士見坂同様、富士山は見えません。

     歩道橋から西を望む

赤坂見附枡形門は弁慶濠の突き当たり、高速道路のトンネル入口の真上にあります。

 

 なぜ、坂の途中に門を構えたのでしょうか。

古地図を見ると赤坂門は、弁慶濠と溜池に挟まれた道を塞ぐ形でありました。

 では、なぜ、弁慶濠と溜池を直線的に繋がなかったのでしょうか。

その理由はこの辺りは元々湿地帯で、石垣を組むには余りにも地盤が軟弱過ぎたからだと言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿