石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

135 徳本行者と名号塔ー②一茶と徳本ー

2018-04-22 08:30:04 | 六字名号塔

一茶が徳本行者の声咳に接したのは、文化元年(1804)3月のことでした。

     霊山寺(墨田区)

此日、此聖人、霊山寺(本所太平町)にて教化し玉ふとて、貴賤群集大かたならず、かかる折に通りかかれるも、神仏の引会(ひきあわせ)にやと道場に上がれば、人の申(まうす)にたがはず、結跏趺坐のありさまも凡人にかはれり。声は飄々と風の竹木を吹(ふく)がごとし。かかるさまは昔物がたりに見聞くのみ。目の前に逢ひ奉ることのうれしさよ。
雀子も梅に口明く念仏哉

実は、一茶はこの13年後、徳本行者から念願の十念を受けている。

場所は、長野善光寺。

一茶は54歳、江戸俳壇を去って、郷里に居を移したばかりでした。

一茶の『七番日記』文化13年(1816)4月の欄に

廿一アサノニ入
 二晴 徳本十念
 三晴 夜戌刻小雨 南原文五郎出火
    徳本廿日ヨリ廿二日迄西丁西方寺、廿三日東門丁寛慶寺ニ入賀(駕)」

さらに、5月、
 四日晴 六川ニ入 酉剋雷不止
     徳本墨坂入浄雲寺
 七日雨又晴
     徳本上人 小布施竜雲寺に入

文化13年4月22日、西方寺で、徳本行者から十念(南無阿弥陀仏を10回唱えること)を受けたことがこれで判ります。

西方寺は、正治元年(1199)、法然が善光寺参詣の折、創立したという由緒ある寺。

徳本行者の長野教化の旅は、『関東摂化蓮華勝会』に詳しい。

それによれば、21日には西方寺の本堂(横12間、縦9間)、庭およそ25間四方はほぼ満杯、入れずに帰ったもの約3割という混雑で、善光寺町始まって以来の騒ぎだったと記してある。

徳本行者が、20日から22日までの3日間で、授与した名号札(南無阿弥陀仏)は、小幅名号1万6043枚。

徳本行者は名号を信者に与えたが、念仏講は講員の数で、個人には日課念仏の回数で、名号札の大きさを分けていた。

ちなみに、小幅名号は、講員(50人未満)、個人は念仏(千-9千遍)に与えるもので「大幅の六つ切り名号」。

中幅名号札(講員50-99人、念仏1万―3万遍) 大幅の四つ切名号と数珠。

直筆名号札(念仏6万遍)

大幅名号塔(講員100人以上) 唐紙の半分の135×35cm。

8月中頃まで信州を強化して回ったが、その間配布した名号の刷り物は、約22万枚という膨大な数に達している。

芭蕉が生涯に詠んだ句は、約1000句。

蕪村は、約3000句。

それに対して、一茶はほぼ2万句と云われています。

多作ではあるが、関心ないものは詠まない、とすれば、徳本行者に関する句が14句もあるのは、一茶が徳本に惹かれていた証左のように思われます。

文化13年(1816)、信州に居を移したとはいえ、その直後、一茶は、江戸、房総へと長旅に出ます。

信州に帰ってきて、8月の最初の句は、

空っ坊な 徳本堂や 秋の風

1年ぶりに西方寺へ行って、あの時の大群衆を想い出しての句。

他に、「徳本上人」と題した句の中から、

ナムナムと口を明けたる蛙かな

上人の口真似してやなく蛙

名月や箕ではかり込御賽銭

庶民の野次馬一茶は、寺の賽銭がやたら気になるらしく、賽銭の句が何句かある。

いずれも賽銭をうらやましがる句ばかりだが、徳本行者は集まった賽銭に無関心で、場所を提供した寺にそのまま与えたといわれている。

果たして一茶は、そのことを知っていたのかどうか。

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
徳本に関して (八木千暁)
2019-12-24 20:32:47
『甲子夜話』に関して調べていてHPに行きつきました。お名前がわからないのでメールいたします。一行院住職です。
ブログの切り口が興味深いです。
今後もご教示ください。
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