石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

136 目黒不動の石造物 ⑬ 顕彰碑2基(青木昆陽・北一輝)

2018-09-23 09:22:34 | 寺院

目黒不動尊の広い境内には、顕彰碑が4基ある。

青木昆陽、北一輝、本居長世の3基は、いずれも男坂下の境内、本堂に向かって左側に固まってある。

そして、右側の地蔵堂脇にあるのが、西川春洞碑で、これは紹介済み。

今回は、まず、青木昆陽碑から。

墓があるせいか、目黒不動の青木昆陽の敬い方は格別のようだ。

本堂横には、芋畑が広がり、子どもたちが育成していたりする。

顕彰碑も2基ある。

元々は別々の場所にあったものを、平成9年(1997)、現在地にまとめた。

今は、カギがかかっていて、碑には近づけない。

建て主は、いずれも、東京の甘藷商人。

江戸から明治にかけて、安い食い物ながら、そして安い食い物だから、莫大な販売量で利益を上げた「芋や」が、金を出し合い、建碑したもの。

小さい碑には、中央に「甘藷講」と大書、右側面に「予輩亦甘藷ノ売買ヲ業トシ其澤(めぐみ)ニ浴ス」とその恩恵を吐露している。

高さ7mの巨石の碑は、明治44年10月建立。

この「昆陽青木先生碑銘」は、建立時、ニュースになった。

ニュースになったのは、碑文ではなく、碑材の大きさ。

宮城県から鉄道で大崎駅に運ばれてきたが、あまりの大きさに陸上輸送は困難を極め、遂には破損して碑面が4分の3になったというもの。

碑には近づけないが、近づけたとしても全文漢文で、私には読めない。

それでも、漢文の碑面を眺めていたら「佐渡」の文字が目に飛び込んできた。

書き下ろし文にした資料があるので、それを引用すると

種子は之を伊豆七島、八丈島、佐渡島、及び諸州に頒つ。我邦、蕃薯を殖すこと、実に此に始まる。時に享保廿年なり」とある。

何故、種芋を佐渡に送ったのか、その理由が少し先に書いてある。

官宥の罪囚人にして海島にはなつ者は天寿を保たしむるに在り。而して島中穀乏しく往々餓死す。若し蕃薯を植うれば、即ち以て之を救う可しと」。

私が「佐渡」の2文字に過剰反応するのは、佐渡が故郷だからですが、 そういう意味では、次の「北一輝」は佐渡を代表する有名人、大物登場で「待ってました!」。

顕彰碑があるのは、北一輝の墓が当山にあるからのようです。

では、北一輝とは、何者か。

目黒不動尊、瀧泉寺制作の説明板があるので、まず、それに目を通してください。

 「この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。先生は明治16年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助し又日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に2・26事件を惹起する要因になった。勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和12年銃殺刑に処せられた。然し先生の生涯をさゝえたものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。毎年8月19日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。当山

そして、肝心の碑文は、故大川周明が生前書き残したものです。

北一輝先生碑
 歴史は北一輝君を革命家として伝えるであろう。然し革命とは順逆不二の法門、その理論は不立文字なりとせる北君は果たして世の常の革命家ではない。君の後半生二十宥余年は法華経誦持の宗教生活であった。すでに幼少より喚発せる豊麗多彩なる諸の才能を深く内に封して唯大音声の読経によって一心不乱に慈悲折伏の本願成就を念し専らその門を叩く一個半個の説得に心を籠めた。北君は尋常人間界の縄墨を超越して仏魔一如の世界を融通無碍に往来していた。その文章も説話も総て精神全体の渾然たる表現であった。それ故にこれを聴く者は魂全体を挙げて共鳴した。かくして北君は生前も死後も一貫して正に不滅であろう。                昭和33年8月 大川周明撰」

私は、高校卒業まで、佐渡にいた。

しかし、北一輝については、まったく無知なのです。

小、中、高校と学校教育の中で北一輝が教材となることは皆無だったし、周囲の大人たちが彼を話題にすることもなかったからです。

それでも、右翼の大物というイメージはなぜか抱いていたようで、戦後民主主義教育の1期生として、「戦前的なるもの」を悪と決めつけてきた私は、北一輝を毛嫌いしていたような気がします。

そのイメージを変えたのは、彼の『佐渡中学生に与ふる書』でした。

北は、明治30年開校の佐渡中学一期生。

後輩に革命を呼びかける檄文を配布したのは、弱冠23歳の時でした。

「シベリアの原吹風に驚き駆る北山の雷
 漾々漁歌は霞む臘月恋が浦の波。
 此処古城の址松籟清きところ、
 三百、青春花顔の友は集ひて、
 聳り立つ学窓の日に眩ゆき。
 青春老い易しと云ふな、
 理想永へに春なり。
 花顔また誠に香ばし、
  丈夫蓋世の意気のみ。
 朔風書を掖(わきはさみ)て行く眉の何ぞ雄々しき、
 夏陽臂を執て帰る笑の何ぞ優なる。
 友よ、花の如き共よ、
 人永久に斯くこそあらなむ。

 さはれ友よ、夢に過ぎじ。
 窓外試に目を移して社会の現状を見る、
 何の理想あらむや、
 何の意気あらむや、
 地球さながらに地獄の底。

 言論の自由とや、
 遠き昔に去れり。
 思想の独立、
 今何処ぞ。
 土百姓(サーフ)の奴隷的服従を憲法の被布に包て、
 咄、東洋の土人。(以下略)

 ああ友よ。
 名を求むるか、脆ろし。
  理想こそ永久なるーー
 ソーシアリズムあり。
 恋か、小さし。
 意気のみぞ不滅なるーー
 デモクラシーに来たれ。(以下略)

ここでは、現状を「地獄の底」と嘆じ、言論と思想の自由を謳い、理想世界実現には、ソーシアリズムとデモクラシー革命が不可欠であることを宣言している。

社会主義に傾倒していることは明白で、「右翼」の面影はない。

ただし、この文脈での「右翼」は、反共一辺倒の戦後右翼のこと。

「反権力」をモットーとした戦前右翼となると彼は立派な有資格者になるから、ややこしい。

同じ年に刊行した『国体論及び純正社会主義』や1923年刊行の『日本改造法案大綱』では、基本的人権の尊重と言論の自由の保証、華族などの特権階級の消滅、農地解放、男女平等社会の実現に向け、革命が必要であると主張した(私は読んでいないので、これは受け売りですが)。

そして、これら北の主張のほとんどは、戦後GHQによって、実現されることになります。

 

 


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