石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

56 椀状凹みを探して日光街道を行く(2)幸手宿ー野木宿

2013-06-01 05:46:31 | 民間信仰

前回は、杉戸宿まで。

今回は、6番目の宿場、幸手宿から。

 ー幸手宿ー

杉戸宿に比べ、2倍以上の規模で、日光街道でも上位4番手につける大きな宿場だった。

杉戸町から幸手市に入り、4号線と別れて左へ進むとT字路にぶつかる。

 左が日光街道、右、御成街道

川口、鳩ケ谷、岩槻から来た御成道(日光参拝に将軍が通った道)が、ここで日光街道と合流する。

合流地点の道沿いに石仏墓標が列を成している。

塀の中は墓地。

椀状凹みがありそうな雰囲気だが、探しても見当たらない。

 

     神宮寺               薬師堂

神宮寺、薬師堂を左に見て、東武日光線の踏切を過ぎると、さっき別れた4号線と再び合流する。

  左、4号線  右、日光街道 手前が宇都宮方向

4号線との合流と別れは、宇都宮まで延々と繰り返されます。

道路わきの電柱にブルーテープが張ってある。

「何だろう?」と近寄ってみたら、昭和22年、台風で利根川が決壊した時の浸水の深さを表示したものだった。

宿に入ってすぐ右に神明神社。

        神明神社

江戸時代はここに高札場があった。

「たにし不動尊」と呼ばれる不動尊が境内にある。

たにしを描いた絵馬を奉納すると眼病が治ると言われているらしい。

だとすると眼医者は失業してしまう。

眼科医の友人の顔がちらりとよぎる。

ここの手水鉢に穴を穿った跡がある。

幸手駅への道を過ぎると宿場のメイン通りに差し掛かる。

 

      担景寺              常光寺

担景寺、常光寺を過ぎると問屋場跡や本陣跡など往時の賑わいが感じられる一角がある。

 

    問屋場跡の公園                  本陣跡のうなぎ屋

街道から左にそれて、幸宮神社、雷電神社へ。

 

  幸宮神社             雷電神社

雷電神社はかつての幸手領の総鎮守。

 

   雷電神社本殿                 凹みのある手水鉢

日本武尊が東征の際、ここに農業神を祀ったという記述があるのだそうだ。

広い境内に捨てられたようにある手水鉢に凹みがあった。

格式でいえば、聖福寺も負けていない。

菊の文様の勅使門がある。

歴代将軍が東照宮参詣の際、必ず休憩したからだという。

 境内は広いが無縁墓標ばかりで、椀状凹みはない。

宿場の突きあたりにある正福寺にもなかった。

 日光街道が右へ曲がる突き当たりに燈籠。

 そこが正福寺の参道入り口。

駅へ戻る途中、浅間神社に立ち寄った。

        浅間神社

寄り道してよかった。

手水鉢に椀状凹みがあった。 

 

私は幸手駅から帰宅したが、日光街道は正福寺の前を右へまがり、すぐ左へ。

一直線に北上すると権現堂堤が右手に見えて来る。

さくら堤と言われるように花見の名所。

             権現堂さくら堤

菜の花の黄色と桜のピンクのコントラストが見事です。

    ー栗橋宿ー

右手に流れる権現堂川に沿って約50分、東北新幹線をくぐり、4号線と別れて左の路を行くとそこが栗橋宿の入り口。

 

     栗橋宿南端                     焙烙地蔵堂

焙烙地蔵 は利根川の関所を通らずに渡り、関所破りとして火あぶりの刑に処せられた者を供養する目的で立てられた。

焙烙(ほうろく)は、米、ゴマ、豆などを炒る素焼きの土鍋のこと。

火あぶりの刑が焙烙で跳ねる豆に似ていたから、焙烙地蔵と名付けられた。

栗橋宿は狭い。

寺も、浄信寺、顕正寺、深広寺、福寿院と4寺だけ。

 

    浄信寺                顕正寺

 

    深広寺               福寿院

いずれの寺にも、椀状凹みは見当たらなかった。

深広寺の境内に立つ21基の六角六字名号塔は壮観だ。

 

     深広寺の六角名号塔

神社は宿本陣跡に近い八坂神社だけ。

 

       八坂神社                   神使の鯉

狛犬がいるべき場所に鯉。

祭神の素盞鳴命の像が洪水の時鯉に守られてこの地に流れ着いたので、鯉は神使となった。

広い境内をくまなく探したが、椀状凹みはなし。

栗橋宿は椀状凹みがない初めての宿場となった。

関所跡碑が利根川堤防に立っている。

    栗橋関所址碑

 本陣もこのあたりにあったらしいのだが、スーパー堤防に作り直すために、昔の面影は壊滅している。

   本陣跡遺跡発掘現場

現在、掘り返しているのは本陣跡、というのが久喜市文化財担当者の説明だった。

背後の堤防を上って行くと利根川がゆったりと流れている。

 

  利根川にかかる利根川橋           県境の表示

利根川橋の途中で茨城県の表示。

中田宿(古河市)に入ることになる。

   ー中田宿ー

昔は橋などないから、渡しだった。

川の対岸の栗橋と中田。

二つ合わせて、栗橋・中田宿と一つの宿駅とされた。

このあたりの利根川は、「房川(ぼうせん)」と呼ばれ、房川渡関所が設けられた。

通行手形を持たず関所破りをすれば重罪。

焙烙地蔵があるということは、火あぶり、磔が絶えなかったという事だろう。

利根川河畔にあった中田宿場は、度重なる河川工事のため移転を余儀なくされ、今は跡かたもない。

道路右の河川敷に中田宿はあった。

利根川橋を渡り最初の分岐を右折。坂を下りて古河市中田集落へ。

地図の228号線がその道。

 

 

移転先の現在地、古河市中田にも古い建物は皆無。

集落の真ん中を日光街道がまっすぐ伸びているばかりです。

  集落の真ん中を旧日光街道が走る

調査すべき寺社はわずか。

いずれの寺社にも椀状凹みは見当たらなかった。

 

   光了寺              本願寺            

 

 

    顕正寺             弦巻八幡宮               

栗橋宿に続いての空振り。

もしかして椀状凹みはなくなったのだろうか。

でも調査数が少ないので、そうともいえなさそうだ。

古河市の寺社に期待をかけて中田宿を後にした。

 

    ー古河宿ー

 中田宿から約7キロ、淡々と歩いて古河宿へ。

古河市の中核区域は、歴史的文化遺産を大切にする城下町。

道路も整備されて、歩きやすい。

訪れた順に紹介してゆくが、順番に意味はない。

Googleの地図を載せておく。

地図に載っていない寺社もある。

そのつもりで動かしてみてほしい。

 

 

      長谷観音(長谷町5)

長谷観音は、鎌倉、大和と並ぶ日本三大長谷観音が謳い文句。

さぞかし大きいだろうと思っていたので、小さいのに拍子抜け。

椀状凹みを探そうにも石造物がない。

 

古河市が好きな理由の一つに昔からの町名が残っていること。

平和台だとか希望が丘だとか、寝ぼけた町名はない。

         肴町

城下町の色彩濃い肴町を通り左折すると福法寺。

寺門は古河城乾門だったという。

福法寺の隣が了正寺。

  

 福法寺(中央町3-9)                 了正寺(中央町3-9)

素敵な煉瓦の門と塀があるので、写真をパチリ。

看板を確かめたら、古河第一小学校だった。

            古河第一小学校

宗願寺は古河第一小学校の生徒たちの歌声が聞こえる場所にある。

境内はあまり手を入れてないようなので、椀状凹みを期待したがなかった。

 

 宗源寺(中央町2-8)               妙光寺(中央町2-6

隣の妙光寺は日蓮宗だから、石造物は少ない。

永井寺は初期古河藩主永井家の菩提寺。

  

    永井寺(西町9)

木陰に石造物が点在しているが、椀状凹みはない。

 

頼政神社のご神体は、源頼政。

     頼政神社(錦町9)

治承4年(1180年)宇治で平家との戦いに敗れ自刃した源頼政の首を従者がたずさえて逃れ、古河に葬ったものと言い伝えられている。

社殿は、古河城最北端の土塁の上にあって、ひっそりとしている。

椀状凹みがありそうな雰囲気なのだが・・・・

 

隆岩寺はご朱印寺。

  隆岩寺(中央町1-7)

ちりひとつなく清掃されている。

椀状凹みは、ない。

 

昼食に一旦古河駅前まで戻る。

食事後、駅前の西光寺、浄円寺から回り始めた。

 

西光寺(本町1)の古河大仏       浄円寺

西光寺には古河大仏がおわす。

またもや椀状凹みは見つけられず。

古河市の寺社めぐりをしているわけではないから、そろそろいらいらし出す。

そのいらいらが次の八幡神社で解消した。

    八幡神社(本町2)の手水鉢

手水鉢に凹みがある。

 

尊勝院と神宮寺は、初代古河公方となった足利成氏が本拠を鎌倉から古河に移した際、ともに鎌倉から移って来た。

 

 尊勝院(本町1-4)          神宮寺(横山町1-1

この界隈は古河宿の中心街。

JR古河駅から西へ。

日光街道にぶつかった所が本陣跡。

 

       道路向こうが本陣跡           本陣跡石碑

 そこを右折して次の信号を左折すると右に神宮寺が見える。

ほんのちょっと先を右へ曲がるとブロック道の旧日光街道が真っ直ぐ北へと伸びている。

 

       よこまち柳通り

多くはないが、宿場の雰囲気を残す建物もある。

600メートル程進んで県道261号線と再合流する地点が古河宿の北の端。

商店が少なくて、歩いていても面白みにかける旧街道です。

宿場のはずれを左に曲がると本成寺。

 

    本成寺(横山町3-4)                 参道の無縁墓標

赤門と門前の参道に並ぶ無縁墓標のボリュームが印象的です。

境内の手水鉢には、椀状凹みがあるように見えるのだが、はっきりしないので?を付けておく。

  本成寺の手水鉢 椀状凹みがあるようだが・・・

中々目的の椀状凹みに出会わない。

次の雀神社はその昔この地方の総鎮守だったというので、期待が高まる。

  雀神社(宮前町4)

彩色の狛犬がいる。

    親子の狛犬

広い境内を丁寧に探し回ったが、椀状凹みはないようだった。 

 

古河市内を椀状凹みを探して随分歩き回った。

収穫は一か所のみ。

駅に向かう途中、これが最後と心に決めて、徳星寺に寄る。

    徳星寺(横山町3-3)

がまんのし甲斐があった。

椀状凹みを見つけたのです。

宝筐印塔に、しかも2基。

1基は、山門前左手の石造物群の中に立っていらっしゃる。

 

  山門前左の宝筐印塔

  宝筐印塔台石の椀状凹み

誰が見ても明らかな椀状凹みがある。

この、誰が見ても、というのが重要なのだ。

もう1基は駐車場の隅にあって、凹みが浅いので、誰が見ても、というわけにはいかないが、椀状凹みと認めてもよさそうだ。

 

  駐車場の宝筐印塔とその台石の椀状凹み

終わりよければ、全てよし。

駅前の蕎麦屋でビールで祝杯をあげて帰宅する。

 

初めの予定では、大きな宿場だけを調べるつもりでいた。

と、すると古河宿の次は小山宿ということになる。

その間には、野木宿と間々田宿がある。

実際には、東北本線の間々田駅で降りて、間々田宿から小山宿へ向かった。

間々田宿を飛ばして小山宿へ直接入っても良かったのだが、出来るだけ丁寧に調査したいと思ったからです。

そうすると一か所だけチェックしなかった野木宿が気になって仕方ない。

後になって野木宿へも行くことになり、結局、全宿場調査と云う事になってしまいます。

 

茨城県古河市から栃木県の南端、野木町へ。

県境を越えるとすぐ左に野木神社の鳥居が見える。

 

       野木神社の鳥居           長い参道、神社はまだまだ見えない

ものすごく長い参道の奥に本殿。

          野木神社本殿

この日は東京を午前5時半に出たので、野木神社に着いたのは午前7時だった。

誰もいないはずの境内に人の気配がする。

近寄ってみたら、みんな望遠レンズで上を覗いている。

 

  望遠レンズをのぞく人たち          樹齢600年のケヤキ

肉眼では見えないので、何をしてるのかと訊いたら、フクロウを観察しているのだという。

練馬ナンバーの車もあるから東京から来ている人もいるらしい。

物好きな連中だなと呆れたが、石造物の穴を探しに来るお前は変人ではないのかと問われると返事に窮する。

目くそ鼻くそとはこのことか。

 ー野木宿ー

地図に戻って、少しばかり上に移動してほしい。

満願寺があり、浄光院が見えるはずだが、野木神社鳥居からわずか1キロの範囲が野木宿ということになる。

「日光道中野木宿」の説明板がある。

 

     野木宿本陣跡                脇本陣跡   

説明板のある場所が本陣跡で、道路の向こうが脇本陣跡。

子孫だろうか、いずれも熊倉という表札がかかっている。

野木町教育委員会の説明板によれば、天保14年(1843)、野木宿の人口は527人。

本陣1、脇本陣1、旅籠2という極小の宿場だったという。

       野木宿メインストリート

その為、助郷が不可欠で近隣23の集落はその負担に悲鳴をあげたらしい。

満願寺と浄光寺の門前に大きめの十九夜塔が立っている。

十九夜塔は、女人講。

 

 満願寺の十九夜塔         浄光院の十九夜塔

栃木県南部は特に多く、廿三夜塔602基に対し十九夜塔1599基という調査報告(『下野の野仏』もある。

宿場のはずれの観音堂にも十九夜塔はあるが、その台石には椀状穿凹がある。

 

 観音堂の十九夜塔         台石の椀状凹み

その対面にも石造物群があるが、その中の普門品供養塔は台石が二段いずれもボコボコの状態だ。

 

  普門品供養塔               台石の凹み

松原という信号地点表示を過ぎる。

     信号「松原」

今の町並みからは信じられないが、かつてはこの辺りは松並木だった。

清川八郎という人の『西遊草』には「宿(古河)を出、十八丁にて野木宿なる弊邑にて馬をかへ、松原を歩む、並木にてきれいなり」とある。

この辺りは、石塔があれば十九夜塔と思って差し支えない。

松原から約2キロ、愛宕神社裏の観音堂脇の3基の石塔の内2基は十九夜塔。

 奥の2基が十九夜塔、手前廿三夜塔

中の1基は、よくぞここまでと感心するほど穴が深い。

 十九夜塔の椀状凹み

廿三夜塔にも椀状穿凹がある。

 

            廿三夜塔とその台石の凹み            

寺や神社の石造物を傷つけるのは気が引けるけれど、自分たちが建てた夜待塔なら、気兼ねせずに穿つことが出来るということなのか。

野木町と小山市の境界線の手前、左に法恩寺、右に友沼八幡神社があるが、その両方に椀状凹みがあった。

法恩寺門前には石塔群があるが、その中の十九夜塔に凹みがある。

恐らくどこか別の場所にあったものを移動したものらしい。

 

              法恩寺前の石造物群と凹みのある十九夜塔

寺のものではない、自分たちの、という意識がここにも垣間見られるようだ。

友沼八幡神社の手水鉢にも凹みがある。

それより気になるのは、狛犬の背中。

  友沼八幡神社の狛犬

べったり白く塗られたセメントは、背中の穴を塞いだものと見えるがどうだろうか。

 

大きな宿場だけにしないで良かった。

野木宿は、宿場としては小さいけれど、椀状凹みが沢山あった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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