石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

60 椀状凹みを探して日光街道を行く(4・最終回)宇都宮宿-日光

2013-08-01 06:59:18 | 民間信仰

「椀状凹みを探して日光街道を行く」の最終回。

椀状凹みが東京と埼玉県にあるのは分かったが、これは地域的な現象なのか否か。

  観明寺(板橋区)の宝筐印塔台石の椀状凹み

椀状凹みを探して、東京から日光まで144キロをチェックしてみようという試み。

せいぜい関東ローカルの傾向が分かるだけで、試みにさほどの意味があるとは思えないが、しないよりはましだろう。

と、いう程度のかったるい、いい加減な調査もやっとゴールの日光に到着する運びとなった。

 

前回は、雀宮駅でレンタサイクルを借り、宇都宮市へ入るところまで報告した。

日光街道と奥州街道が分岐する不動前に到着。

 不動前を左へ。

間もなく東武宇都宮線を越える。

 ー宇都宮宿ー

右手に宇都宮市有形文化財蒲生君平勅旌(せい)碑がある。

  蒲生君平勅旌(せい)碑(花房3)

ここが宇都宮宿の入り口。

木戸や番所があった。

蒲生君平の先祖は蒲生氏郷だという。

会社勤めをしていた頃、同僚に蒲生氏郷の子孫がいた。

殿さまの子孫らしい、おおらかな男だった。

 

日光街道沿いにまず現れるのが、台陽寺。

 

                     台陽寺と参道の子安地蔵(新町1)

 長い参道に子安地蔵尊がおわす。

寺にも地蔵堂にも、椀状凹みは見られない。

今は影も形もないが、かつてこの一帯は寺がひしめいていたという。

宇都宮城下入口の防衛線の役割を果たしていたとあるが、寺が多いと防衛線になるとはどういう事なのか。

 

地図では、台陽寺のワンブロック東に、英厳寺という寺があるので行って見る。

この辺かなと思しき場所を探すが寺らしき建物はない。

ないはずで、戊辰戦争で焼けおち、廃仏毀釈で廃寺になっていた。

石柱には「宇都宮城主戸田家菩提寺」とある。

通路のような、公園のような不思議な空間を行くと正面に亀趺を台石にした墓がある。

 

             宇都宮矦忠列戸田公之墓(花房本町)

「宇都宮矦忠列戸田公之墓」と刻されている。

近くに一族の墓があるらしいのだが、野草が茂っていて見当たらない。

 

日光街道に戻る。

一向寺から報恩寺へ。

 

    一向寺(西原2)                  報恩寺(西原1)

報恩寺の、茅葺の山門がいい。

本堂前には、京都龍安寺の蹲(つくばい)を模した小さな蓮池がある。

上から右回りに、五・隹・疋・矢が配されている。

夫々を真ん中の口につけて「吾唯足知(われただたるをしる)」と読むらしい。

Good design賞をあげたい気分だ。

反対側に「戊辰薩摩藩戦死者之墓」がある。

 戊辰薩摩藩戦死者之墓

慶應4年(1868)4月の戊辰戦争で、宇都宮は2000余戸が灰塵に帰した。

薩摩藩は官軍だから、戦死者はこうして墓を建てられたが、旧幕府軍の戦死者の遺体は意図的に放置された。

賊兵の遺体を集め仮埋葬したのは、住民たちだった。

死臭にたえきれなかったからである。

       戊辰役戦死墓(西原1)

報恩寺の先200mに立つ戊辰役戦死墓は、香華を手向ける人もないまま100年が過ぎた昭和42年、賊軍兵士の霊を本式に供養するために建てられたものである。

この戊辰役戦死墓の道を挟んだ反対側にあるのが、閻魔堂。

      閻魔堂(六道町)

その敷地の一角に3基の六字名号塔が立つ。

 

その真ん中の石塔の台石には、椀状凹みがあるように見えるのだが、そうとは断言できない事情がある。

この石塔の石材は、大谷石であることは明白です。

大谷石は風化するとボコボコと穴があきやすい。

 

上の写真は、閻魔堂の土台の大谷石だが、穴がいくつも開いている。

人工的にあけられた穴ではないことは明らか。

だとすると六字名号塔の台石の穴も椀状凹みなのかどうか疑問符が付くのです。

 

光淋寺には、官軍と賊軍双方の墓が向かい合っている。

 

  戊辰の役官軍因幡藩士之墓           戊辰の役幕府軍桑名藩士之墓

ありうべからず、と云うほかない光景だ。

こんな石碑が立っている。

「討つ人も討たるる人ももろともに同じ御国の為と思えば」

肝心の椀状凹みは、光淋寺にも、観専寺にも安養寺にもない。

 

  観専寺(材木町)                  安養寺(材木町)

 

日光街道に戻って進むと裁判所にぶつかる。

裁判所の前の通りの国道119号を右折、100mほど先の十字路が日光街道と奥州街道の分岐点です。(地図では、三峰神社右の道)

左折すると日光へ向かうのだが、そちらへは行かず、反対の今来た道を戻って、宇都宮城址へ。

800mほどバックすると宇都宮市役所。

市役所を東へ進むと城址公園が見えてくる。

 

宇都宮城は、将軍の日光社参において重要な役割を果たしてきた。

        宇都宮城址(本丸町)

将軍の行列は一日目が岩槻、二日目、古河と宿泊して三日目、宇都宮城に宿泊するのが通例でした。

本陣でもないのに、将軍の宿泊施設であった珍しい城と言えます。

吉宗の社参の行列の人数は13万3000人。

先頭の10時間後に最後尾が江戸城を出立するほどの大人数。

宇都宮城内は、宿泊施設の確保に大わらわでした。

城主戸田家の家臣団の屋敷38軒が将軍近習と大名の下宿にあてられ、不足分は旅籠、大ぶりな町家が充てられたがそれでも収容できず、周辺村落に分散して宿営したと言われている。

無名の従者は野宿を余儀なくされたはずです。

 

119号線に戻って、清住町通りに入るとそこが日光街道。

 ビルとレンガ色の建物との間が日光街道

宝勝寺、延命院、琴平神社、桂林寺と回るが、いずれも椀状凹みはない。

 

  宝勝寺(小幡1)                   延命院(泉町)

 

 

 琴平神社(清住1)             桂林寺(清住1)

桂林寺が宿の北のはずれだから、宇都宮宿には椀状凹みはないないことになる。

日光街道最大の宿場というので期待するものが大きかっただけに、失望も大きい。

急に疲れを覚え出す。

レンタサイクルのバッテリーも底をつき始めたようなので、駅へ向かう事に。

宇都宮宿から離れながらも寺社があれば、停車しては椀状凹みを探す。

真福寺、正行寺、浄鏡寺、二荒神社でも空振り。

 

    真福寺(泉町)                 正行寺(泉町)

 

 

   浄鏡寺(塙田2)                  二荒山神社(塙田2)

これが最後と寄った慈光寺では、山門前の石段の下でつなぎ地蔵が迎えてくれた。

         慈光寺(塙田4)

人々の願いを聞いて浄土につなぎもすれば、地獄の門番として不心得者を見極める役割もするのだという。

椀状凹みを見つけたいという私の願いはお地蔵さんに届いたようで、境内の一角におわす巨大な石仏の台石に凹みがあった。

 

終わり良ければ、すべて良し。

電池切れでひときわ重い自転車を押して駅へ向かった。

 

日を改めて、宇都宮から日光へ向かった。

まずは18番目の宿、徳次郎宿を目指す。

日光街道最大の 宇都宮宿では、とうとう椀状凹みは見つけられなかった。

最後の最後、慈光寺で見つけはしたが、宿場から離れた場所だった。

問題は、宿場にあるかではなく、宇都宮市にあるかだから、目的は達成したと考えてよい。

だが、あるにはあったけれど、その数は少なかったところを見ると、椀状凹みを穿つ風習がこの地方では希薄だったのかもしれない。

そんなことを思いめぐらしながら、ひたすら真っ直ぐ伸びる日光街道を進んでゆく。

薬師堂がどこにあるか、ガソリンスタンドで訊いた。

地図の上では、すぐ傍にあることになっている。

しかし、若い女性の従業員は「知らない」と云うばかり。

ガソリンスタンドの隣は空き地になっている。

道路からやや奥まった場所に薬師堂はあった。

  薬師堂(宇都宮市若草3)

 大きな木の下にあって、垂れ下がる枝や葉で半分は隠れて見えないが、昔からそこにあったのだから、「知らない」という方がおかしい。

しかし、お寺やお堂の在りかを聞いてきちんと答えられる若者は、最近、ほとんどいなくなった。

私は、若者には訊かないことにしている。

訊くだけ無駄だし、不愉快になるからです。

ガソリンスタンドで若い女性に訊いたのは、他の従業員は作業中で、暇そうなのは彼女しかいなかったから。

薬師堂の裏に10基ほどの石仏群があり、その内、十九夜塔と宝筐印塔の台石に椀状凹みがあった。

 

  薬師堂裏の石造物群                   凹みのある十九夜塔台石

 

              宝筐印塔と台石の椀状凹み

宇都宮ではほとんど見られなかったので、なぜかほっと一安心。

面白いことに隣の高尾神社でも椀状凹みがあるのです。

 

                高尾神社と椀状凹みのある手水鉢

手水鉢の縁がぼこぼこになっていました。

 ー徳次郎宿ー

東北自動車道を過ぎるとバス停「下徳次郎」の看板が見えてくる。

  バス停「下徳次郎」(宇都宮市宝木本町)

徳次郎宿は宇都宮から行って、下徳次郎、中徳次郎、上徳次郎と宿が三つに分かれている。

まとめて一つにするか、三つに数えるかで、日光街道の宿場の数は変わることになる。

人馬継立ての問屋場は初め上徳次郎にしかなかった。

享保の頃、中、下が加わって、月に10日ずつ問屋場が場所を変えたのだという。

町並みは約1キロと宿場としては長いが、寺はない。

代わりにというわけではないが、堂や路傍の石仏が目立つ。

 

 六本木の一里塚の十九夜塔とお願い地蔵(宇都宮市石那田) 

 

椀状凹みは、寺院よりもお堂に多いので、もしかしたらとと期待したが、成果はなし。

しかし、徳次郎宿唯一の神社智賀津神社の灯籠に穴があいていた。

  智賀津神社(宇都宮市徳次郎町)

燈籠は、鳥居の前、道路に面してある。

 

凹み穴が大きく、深いのは、燈籠の場所と関係があるようだ。

境内の外で、神主の目の届かないというような・・・

智賀津神社から10分も歩くと上徳次郎宿に入る。

   バス停「上徳次郎」(宇都宮市徳次郎町)

バス停「上徳次郎」あたりが本陣跡地らしいが、どこか特定はできなかった。

 

宇都宮市から日光市へ。

やがて、山口で道が分岐する。

左は4号線、右へ直進すると旧日光街道。

鬱蒼とした杉並木が陽光をさえぎって、やや暗く、涼しい。 

   杉並木街道(日光市山口)

左に石塔、石碑、看板が立っている。

 

まず目につくのが「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」。

日光杉並木街道という名称は、日光、例幣使(壬生)、会津西の3街道の総称で、総延長37キロ。

ギネスブックにも「世界一の並木道」と認定されている。

もう一本は、「杉並木寄進碑」。

杉並木寄進碑(日光市山口)

寄進したのは、徳川家譜代の松平家。

寛永2年(1625)から20数年かけて紀州熊野から取り寄せた杉苗を街道の両側に植え続けた。

その数約5万本。

減り続けて今は1万本を辛うじて超える数となってしまった。

自動車の排気ガスや振動が、減少の原因とされている。

 

 ー大沢宿ー

大沢宿は何度かの火事で昔の面影を失った。

宿場の総鎮守王子神社へ寄ってみる。

 

          王子神社(日光市大沢町)と椀状凹みのある手水鉢

手水鉢の縁に凹みがあるように見える。

王子神社の裏手の竜蔵寺は、社参の際、将軍の休憩所だった。

   竜蔵寺(日光市大沢町)

椀状凹みはない。

日本橋から32番目の大沢の一里塚(別名・水無の一里塚)。

  水無一里塚(日光市水無)

その反対側の地蔵堂に石仏群がおわす。

 地蔵堂と石仏群(日光市水無)

残念ながら椀状凹みは、みつからない。

所々、車道と並行して砂利道の杉並木が走っている。

  未舗装の杉並木道と小川

人通りは皆無。

森閑とした静けさの中で聞こえるのは、川の水音だけ。

 

来迎寺がある。

 来迎寺(日光市森友)

今市に入ったことになる。

 

 ー今市宿ー

今市市は、平成の大合併で日光市になった。

だから日光の表示ばかりで、分かりにくい。

追分地蔵の前の蕎麦屋で昼食。

 

 追分の地蔵(日光市中央町)の前の並木蕎麦

追分は、日光街道と例幣使街道の分岐点。

121号が例幣使街道です。

食事後、如来寺へ向かう。

町の中央に広大な空き地。

作曲家船村徹記念館の建設用地だというが、集客は見込まれるのだろうか。

如来寺は、将軍の休憩所だった格式ある寺。

   如来寺(日光市今市)

これまでの経験から格式高い寺には椀状凹みは少ないことが分かっているので、期待はしていなかったが、観音堂前の手水鉢が穴だらけだった。

 

            如来寺境内の観音堂と手水鉢

 報徳二宮神社がある。

    報徳二宮神社(日光市今市)

二宮尊徳は晩年今市で暮らし、ここで死去したのだという。

今市の総鎮守滝尾神社を過ぎる。

   滝尾神社(日光市瀬川)

どこから日光に入ったのか分からないまま、いつの間にか日光市街へ。

 

 -鉢石宿ー

日光街道最後の宿場鉢石宿は、東武日光駅より上になるらしい。

宿場の「鉢石」の由来は「勝道上人開山ノ時、鉢石町ト名ク、此町ノ北、大谷ノ南岸ニ、鉢ノ形ナル岩アリ、因テ名トス」(『日光山堂舎建立記』)。

   鉢石(日光市上鉢石町)

鉢石は、今でも日光市指定の文化財として残されている。

ところで、日光にも椀状凹みはあるのか。

早速、竜蔵寺へ。

 

                      竜蔵寺と稲荷神社(日光市稲荷町1)

竜蔵寺にはなかったが、裏の稲荷神社に椀状凹みがあった。

境内にずらりと並ぶ庚申塔には見当たらなかったが、手水鉢の縁に穴があいている。

       稲荷神社の庚申塔群

 稲荷神社の椀状凹みのある手水鉢

初めての寺社を探し当てて行くほどの時間がない。

土地勘のある一度行ったことのある場所を回ることに。

星の宮磐裂神社から浄光寺へ。

 

  星宮への石段(日光市上鉢石町)       浄光寺(日光市本町)

門前の庚申塔群に椀状凹みがないのでがっかり。

      浄光寺山門前の庚申塔群

最後に寄ったのが磐裂神社。

   石造物だらけの磐裂神社(日光市本町)

石碑、石塔の宝庫なので1基位は椀状凹みがあるのではないかと期待していたが、残念な結果に終わった。

日光市内をもう6,7個所回ってみたかったが、東京に帰るので、諦める。

 

東京から日光まで、日光街道の宿場を中心に椀状凹みを探しての旅はこれで終わり。

終わっての感想は、「昔の人はすごい!」。

将軍の社参ですら3泊4日。

一般人は、なんと日光まで2泊3日で到達していたのです。

一日、12里、48キロ歩く計算になります。

信じられない。

 

旅の目的であった椀状凹みについては、日光まで途切れることなく、その痕跡を確認することが出来ました。

その目的や理由は分かりませんが、石造物に穴を穿つ風習が東京、埼玉、茨城、栃木の都県に広がっていたことになります。

恐らく全国的に椀状凹みはあるものと思われますが、断言はできません。

 

日本橋から日光まで、日光街道沿いに立ち寄った場所は、154か所。

寺院88(19)、神社46(17)、堂15(6)、公民館(寺跡)1(1)、路傍4(1)。

( )内は、椀状凹みがあった個所。

総数44基。

その内訳は

手水鉢     18(寺3、神社15)

狛犬        2

燈籠        3(神社3)

石塔・石碑    5(弘法大師碑、四国四十八ケ所巡礼供養塔、南無遍照金剛塔、普門品供養塔、石経供養塔)

地蔵        3 

宝筐印塔     4

庚申塔       3

十九夜塔     12

廿三夜塔      1

道標         3 (*道標を兼ねた地蔵と庚申塔あり。それぞれのカテゴリーに入れてあるので2基重複)

不明         2

(注:手水鉢と狛犬を除いて、椀状凹みは石造物の台石に穿たれている。石仏、石碑本体に傷はない)

以上のことから、おおまかに言えることは次の通り。

①椀状凹みは、社寺の山門、鳥居の前の石造物に多く見られる。
 石を穿っていても、住職や宮司に叱られない場所ということか。
 手水鉢は境内にあるが、祭事と深い関わりがあるわけではない。(祭祀の前の禊の代わりだから、無関係ではないが)

②社寺にある庚申塔、十九夜塔は、元々は、集落の路傍にあった。
  造立者は集落の講中だから、凹みを穿っても誰からも文句は言われなかった。
  道標の凹みも同じことである。

③墓地の墓に椀状凹みはない。

板橋区の椀状凹みのある石造物32基を加えると、これまで76基もの椀状凹みのある石造物を見てきたことになります。

にもかかわらず、なぜ石に穴を掘るのか、その理由については、まったく見当がつきません。

椀状凹みを探して東海道や中山道を京都まで上ってみるのも一興ですが、多分、理由は解明されないでしょう。

何かスッキリしない状態ですが、椀状凹み探しは今回で一応終わりと云う事にしようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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