このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの「伊興寺町の石造物」その5回目です。
15 浄光寺 16 蓮念寺 17 本行寺 18長安寺 19 善久寺 20 常福寺
21 易行院 22 東陽寺 23 正安寺 24 栄寿院 25 法受寺 27 専念寺
☐浄土宗・普賢山新幡随院法受寺(東伊興4-14-8)
草加方面から伊興寺町に入って最初の寺。
院号と寺号は別々の寺で昭和10年合併した。
新幡随院安養寺は浅草に、法住寺は下谷三崎町にあった。
山門脇の掲示板には、「御詠歌とお経の練習会」や「写経会」の行事予定がびっしり並んでいる。
山門を入ると目につくのは、大きな布袋様。
足下に小さな七福神が在す。
法受寺は、伊興七福神の一つで布袋様を祀っている。
ちなみに他の六神は、恵比寿(源正寺)、寿老人、福禄寿(福寿院)、大黒天、弁財天、毘沙門天(実相寺)。
布袋様の対面には「怪談牡丹灯籠」の碑。
三遊亭円朝演述、橘右近書の縁起全文は、長いが書き写しておく。
「ふと見れば、先きへ立ったのは年ごろ三十ぐらいの大丸髷の人
柄のよい年増にて、そのころはやった縮緬細工の牡丹芍薬など
の花のついた燈籠をさげ、そのあとから十七・八とも思われる
娘が、髪は文金の高髷に結い、着物は秋草色染の振袖に、緋縮
緬の長襦袢に繻子の帯をしどけなく締め、上方風の塗柄のうち
わを持って・・・
白翁堂の話に萩原も少し気味が悪くなったゆえ顔色を変え、
新三郎「先生、そんならこれから三崎へ行って調べましょう」
と家を立ち出て゛、三崎へまいりて、女暮らしでこういう者はな
いかとだんだん尋ねましたが、いっこうに知れませんから、訪
ねあぐんで帰りに、新幡随院を通り抜けようとすると、お堂の
うしろに新墓がありまして、それに大きな角塔婆があって、そ
の前に牡丹の花の燈籠が雨ざらしになってありまして
この燈籠は毎晩お米がつけてきた燈籠に違いないから、新三郎は
いよいよおかしくなり、お寺の台所へ回り、
新「少々伺いとう存じます。あそこのお堂のうしろに新しい
牡丹の花の燈籠を手向けてあるのは、あれはどちらの
墓でありますか」
僧「あれは牛込の旗本飯嶋平左衛門の娘で先だって亡くなり
まして、ぜんたい法住寺に葬るはずのところ、当院は末
寺じゃからこちらへ葬ったので」
新「あのそばに並べてある墓は」
僧「あれはその娘のお付きの女中でこれも引き続き看病疲れで
死去いたしたから、いっしょに葬られたので」
新「そうですか、それではまったく幽霊で・・・」
八つの鐘が忍が岡に響いて聞こえますとひときわ世間がしんと
いたし、水の流れも止まり、草木も眠るという位で、壁に
すだく蟋蟀の声もかすかに哀れを催しものすごく、清水のもと
からいつものとおりこまげた音高くカランコロンカランコロン
と・・・」
「これ新幡随院濡れ佛の縁起で、この物語も少しは勧善懲悪の道
かくながながとお聞きに入れました」
明治十七年 東京裨史出版社 三遊亭圓朝演述 若林坩蔵筆記
藤木松調書 」
墓地の一画に五輪塔が並ぶ墓域があって、その中央の石塔は五代将軍綱吉の生母桂昌院の墓。
「桂昌院殿従一位仁誉興国恵光大姉」。
墓域は、京都二条家の家臣本荘家のもので、彼女の両親や弟の墓が並んでいる。
☐曹洞宗・延命山栄寿院(