前回は、佐渡に残る「足尾山」塔を8基紹介しました。
紹介したのは、「足尾山」塔が珍しいからです。
関東や東北に、あるにはあるが、ごく少数。
佐渡ほど「密集」してはいません。
その訳は追い追い考えることにして、今回は足尾神社の由来と現状をまず紹介します。
私が足尾神社へ参拝したのは、去年の12月半ば。
新潟県立博物館の企画展「石仏の力」で、佐渡の「足尾山」塔を初めて知った1か月後のことでした。(このブログNO69をご覧ください。)
足尾山は、筑波山と加波山の中間にある標高628mの山。
石岡から真壁へ抜ける峠道の頂上、上曽峠で右折、山なみの尾根を北進します。
途中、ハングライダーやパラグライダーの離陸場があって、雰囲気は超モダン。
そのパラグライダー離陸場の先のこんもりした山が足尾山。
足尾神社は、この山にあります。
低い一の鳥居をくぐって、参道を登る。
落ち葉の絨毯を踏みしめて上ること5-6分、二の鳥居が見えてきます。
広い、ガランとした境内の先にコンクリートブロック。
本殿の基礎だけを残して、建築木材はすべて撤去されています。
残骸が侘しさを増福しているようです。
残骸の中央に小さな祠、本殿が再建されるまでの仮宮でしょうか。
天狗のレリーフは、足尾山が修験者の道場だったことを物語っています。
足尾神社の祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)の三柱。
創建年代は不明ですが、言い伝えでは、延喜20年(920)、醍醐天皇が霊夢の中でここの神に御足痛の治癒を祈願したところ、たちまち全快されたとのこと。
お喜びになられた天皇は、紙に御足形を印し、「日本最初足尾神社」と書いた勅額を下賜されました。
この時から、足形のお札の頒布が始まり、足の病に悩む崇敬者の参詣が急増します。
全快した信者が、草履やわらじなどの履物を奉納する風習も同時に始まりました。
がらんとした境内の一画がこんもり盛り上がっているのは、奉納された履物の山。
靴やスニーカー、下駄に混じって義足もあります。
足尾神社の分社は、茨城県に3、栃木県2、千葉県3、宮城県3、福島県3、山梨県、岡山県、鳥取県に各1、計17社。
境内社は71社を数えるから少なくはないが、分社、境内社とも全体的に活動は停滞的。
足尾山信仰は廃れたと云っても過言ではないでしょう。
石塔数の分布を足尾神社の宮司に尋ねたが、確認していないとのこと。
石仏、石碑の悉皆調査報告書を出している関東の10市町村をチェックしてみたが、「足尾山」塔があるのは、取手市のみでした。
東京23区には、多分、1基もないと思われます。
それだけに遠く離れた佐渡島に数十基もあるというのは、不思議なことと言わざるをえません。
足尾神社の由来に続いて、赤泊・徳和の「足尾山大権現」から、佐渡の「足尾山」塔の紹介の続きを始めるのは、手順として正しいように思えます。
なぜなら、「足尾山大権現」は、佐渡で一番古く、一番大きな「足尾山」塔で、足尾山信仰はここから島内に広まったと考えられているからです。
赤泊の海岸から、坂道を紆余曲折しながら上り、途中、2回ほど「足尾山大権現」への行き方を尋ねました。
村人の反応が、他所の村とは違うのです。
「足尾山だったらのう、そこを右へ曲がって・・・」と即答する言葉の中に、「足尾山」塔が村の中心であるかのような、誇らしさが滲んでいました。
その「足尾山大権現」塔は、瓜生の四辻に、道行く人を見下ろすように一際高く立っています。
塔の高さ2m20㎝。
「足尾山大権現」の文字の上に「日本最初」が二文字2列に彫られているのが、珍しい。
碑の右に、「天保九戌年」、左に「九月二十日」、さらにその下、右に「願主」、左に「甚五良父」とある。
「足尾山大権現」塔の右は廻国塔、左は巡礼塔だから村人が本州各地へ足を延ばしていることが分かる。
石塔群の後ろは広い空き地で、その一角にお堂がある。
扁額には「足尾山大権現」の文字。
お堂ではなく、ここは足尾山神社だったのです。
正面の床の間の上に注連縄。
3幅の掛け軸の下に小さな社殿が在す。
掛け軸と足尾神社との関わりについては、不明。
長押には、わらじやぞうりが懸けられているので、ここが足尾神社であることが分かります。
わらじは古くはないので、ここでは足尾山信仰がかろうじて生きているようです。
神社のことを訊きたいと思い、いちばん近い家へ。
なんと臼杵さんというその家が、「足尾山大権現」塔の願主・長五良父の子孫でした。
説明してくれた70代前半と見えるご婦人は、しかし、いきさつについてはほとんど何も知らないようでした。
「昔は足が痛いからとお参りに来る人が多かったが、いまでは、杖をついて足を引きずりながら前を通っても、神社にお参りすることはなくなった。昔に比べればほんのわずかだが、奉納の草履は1年も経つと溜まってしまう。だから希望者に分けて履いてもらっている。先祖がどういうわけで足尾神社を持ち込んだのか、そういうことは役場で聞いてくれれば分かると思う」。
調べたら、あった。
『徳和の口碑・伝説その他』(昭和45年、徳和老人クラブ千歳会発行)
それによれば「臼杵甚五良は足が痛くて困っていた。天保年間、一念発起、六十六部廻国巡礼の旅に出た甚五良は、下野(栃木県)足尾の足尾山権現に参詣した。するとあれだけ苦しんでいた足の痛みがなくなった。足尾山権現の霊厳あらたかに驚いた彼は、御霊を勧請して自宅に奉祀、同時に台座を含めると3mの大石塔も造塔した。この信仰は、小佐渡から国仲へ広がり、最盛期の明治から大正にかけては、島内一円から多くの参詣者が訪れた。人間だけでなく、馬の脚にも効くということで、馬を引いての参詣者もあった」。
この口伝には、間違いがある。
それは、足尾山権現の場所を下野(しもつけ)としていること。
常陸(ひたち)が正しい。
その根拠は、石塔の「日本最初」の4文字。
足尾山神社の由来で紹介したように、この「日本最初」は、醍醐天皇から下賜された勅額に書かれたものでした。
「日本最初」とあれば、常陸の足尾神社を指すことは明白なことなのです。
瓜生から65号・真野-赤泊線へ。
上り続けた道が下りになったと思うと開けた地平に出る。
そこが下川茂。
郵便局があり、JAがあり、学校がある。(今は廃校)
学校の前を左に入ると、すぐ「勝泉寺」。
9、勝泉寺(下川茂)
ぽつんと本堂があるだけで、墓地もない。
無住のようです。
もしかしたら、元勝泉寺なのか。
参道入口とおぼしき所に、お地蔵さんに対面して、「足尾山」塔があります。
珍しい配置だ。
「足尾大神」と刻されている。
昭和4年の造立は、佐渡で一番新しい部類に入ります。
「足尾大神」の背後に、「ねまり遍路」の石仏が2列に並んでいる。
「ねまる」は「座る」の佐渡ことば。
この石仏群は、四国八十八ケ所の本尊模刻。
この前に座って御詠歌と般若心経を唱えれば、四国を遍路したと同じご利益があると信じられてきました。
佐渡には、こうした「ねまり遍路」が十数か所あります。
石仏ビギナーの頃、離島佐渡ならではの趣向といたく感動したものでした。
その後、全国至る所にあることを知り、がっかりしたものです。
下川茂を左折、羽茂へと向かう。
羽茂川沿いのこの道は佐渡らしからぬ、ゆったりとした渓谷美の道。
五所神社を過ぎると次の目的の「足尾山」塔があるはずだが、見つからない。
人に聞いては、行きつ戻りつ。
と、書けば簡単だが、人がいないのだから、訊くだけでも一苦労。
今回の「足尾山塔めぐり」で探しにくさのNO1か。
10、路傍(下川茂)
路傍は路傍でも、県道から入った山道の路傍でした。
人通りは皆無だが、「足尾山」塔があるということは、かつては馬が往来していたのだろう。
草が深くて、文字が読めない。
祝資料には「足尾大明神」と書いてあります。
「足尾大明神」は佐渡に3基あるが、なぜ、大明神なのかは不明。
滝平の地蔵院は、私の好きな寺の一つ。
本堂への石段両脇の石柱に地蔵と観音が座す。
その左手の石仏群のなかの、三猿庚申塔が素晴らしい。
上に相輪が聳える石組みの覆い屋の中に浮彫の三猿が在す。
浮彫というよりは、丸彫りに近い。
上に「見ざる」、下に「聞かざる」と「言わざる」。
庚申塔の文字はなく、猿のみ。
おだやかで、とぼけている。
数多くの庚申塔を見てきたが、ダントツのNO1は間違いない、私的には。
11、地蔵院前(滝平)
肝心の「足尾山」塔は県道から地蔵院への道の途中、8基の石造物群に混じって立っている。
自然石に「足尾大権現」。
「足尾大神」、「足尾大明神」そして「足尾大権現」。
足尾山の神様は、自分の本当の名前は何だろう、といぶかっていることだろう。
12、地蔵堂(飯岡、渡津神社前)
朱い鳥居は、佐渡国一宮、式内社の渡津神社の一の鳥居。
渓谷を流れてきた羽茂川は、ここから田園風景の中を行く。
その羽茂川にかかる朱色の橋を渡った左にお堂がある。(写真は堂から見た鳥居)
明るい陽光に照らされながらも、お堂には何か不気味さが漂っています。
その傍らにごちゃごちゃと石造物群。
小さな地蔵は、みな、首がない。
不気味さの元は、この首なし地蔵が発しているのだろうか。
一番上の石塔は、ばっさりと斜めに断ち切られています。
白い苔が全体を覆って、文字は読めない。
祝資料には「一神」とある。
切られた上の部分の石には「足」と刻されているとあるので、探してみたが、見つからない。
地震で倒れて割れた、というよりも人為的に切った感じが強い。
首なし地蔵とともに廃仏毀釈の洗礼を受けたものか。
佐渡一宮渡津神社の真ん前だけに、そんな空想に囚われたりもします。
羽茂の町を通り抜け、南下して、羽茂海岸へ。
海に出たら左折、赤泊方向へ向かう。
13、羽黒神社(赤名)
赤名の集落はずれに羽黒神社。
鳥居の右側に「秋葉山」や庚申塔と並んで「足尾山」塔がある。
よく見ると、足尾の「お」が変だ。
これでは6画になってしまう。
それとも、こういう字もあるのだろうか。
14、白山神社(杉ノ浦)
更に東へ。
三つめのバス停が杉ノ浦。
ここの白山神社にも「足尾山」塔がある。
境内から右へ入った空き地に大振りの石造物群。
ちょっと判読しにくいが、「足尾山」と刻されています。
真ん中で折れて、接着したような跡がみえます。
次のバス停「新保」近くにも「足尾山」塔があると記載されているのだが、近くを探し回るも見当たらず。
諦めた。
祝資料にあって、見当たらない「足尾山」塔は3基。
約25年間の変化としては、少ないのではないか。
赤泊を出て下川茂、渡津線を西へ、羽茂の町から海岸へ出て、再び赤泊へ。
ぐるっと一周して、6基の「足尾山」塔に出会ったことになる。
今度は方向転換して、一気に羽茂を通り過ぎて国道350号線(小木線)の村山へ。
ここから真野まで、「足尾山」塔を探しつつ、北上する予定。
今回で全部紹介したいので、内容をコンパクトにすることに。
15、神明社(下村山)
つる草が巻き付いて文字が読めない。
むしりとる。
足尾神社がある足尾山は、修験の山としても有名でした。
だから、「足尾大権現」は足尾山で山岳修業した行者が佐渡に持ち込んだのではないか、と推測する向きもあるようです。
16、堂(下村山)
国道に面したお堂だが、さびれ果てている。
六地蔵や光明真言塔と一緒に「足尾神」塔はある。
「捨てられたようにある」といった方がいいかもしれない。
17、路傍(小泊大草道四辻)
道が交差する茂みの中の個人墓の脇に「足尾神」はある。
「足尾神」を祝さんは「アシオガミ」と 読みを振っています。
ところで倉谷の大わらじは、司馬遼太郎の『街道をゆく』でも取り上げられて有名だが、西三川一帯ではどこでも村境にわらじがかかっています。
よく見てほしい。
木陰の暗がりにわらじが見える。
賽の神の一種だろうが、平成の現代にもこうした習わしが継続されていることが嬉しい。
18、玉泉寺(椿尾)
ゲートボールの賑やかな集まりから出てきた人に「玉泉寺はどこ?」。
「知らない。あっちで聞いて」とゲートボール場を指す。
そっちに向かおうとして石柱を何気なく見たら「玉泉寺」の文字。
玉泉寺跡が公園になっているのです。
道路に面して石造物群。
椿尾は石工の村だから、当然、全部、椿尾製ということになります。
その右端に「足尾大権現」。
明治23年の造立だ。
椿尾の石切り場を見たくて、どんどん坂を上ってゆく。
坂ばかりで平らなところが少ない。
石を切り出し、彫って、売りに出す。
生産、販売工程が坂を下るようになっているから、石工の村は成り立ってきた。
むしろ坂を利用してきたといっていいのかもしれない。
普通ならとても住みにくい場所なのです。
19、路傍(椿尾・最奥の家の後ろ)
村のどんづまり、そこから石切り場の山へ入る一番上の家の生垣の隅にひょろ長い庚申塔が見えた。
写真を撮るべく近づいたら、右端に「足尾山」塔があるのに気付いた。
稚拙な文字で「足尾大権現」。
右に「明治二十二年」、左に「二月十日」と刻されています。
20、諏訪神社(田切須)
諏訪神社は、バス停の真裏にある。
「閑寂」、「寂然」、「落莫」、「蕭然」、「寂寥」・・・どの言葉を使っても、ぴったりするような佇まいなのです。
鳥居と燈籠の間に「足尾大神」(アシオオオカミ)は在します。
足の病を治してほしいと最後の人が手を合わせてから、何十年経ったのだろうか。
今や、ここに「足尾山」塔があることを知る人はいないのてはないか、そんな感慨を抱かせるほど、孤立した侘しさに満ちています。
21、大神宮(真野・新町)
旧真野町に入る。
旧役場横の大神宮に「足尾山」塔がある。
隷書体で「足尾山神社」。
祝資料には、人力車夫の組合による造立と書いてある。
スジの通った話で、「なるほど」。
22、観音堂(浜中)
観音堂の前にポツンと「足尾山」塔。
4月17日に真言を繰り、7月17日 祭礼と祝資料の備考欄に書いてある。
おそらく今では、行われていないだろう。
23、上の堂(吉岡)
無類のヘビ嫌い。
上の堂へは行ったが、「足尾山」塔に近づけない。
フキの葉の下にヘビがいるようで、足がすくむ。
やっとの思いで近寄って見たら、つる草が巻き付いて「足」しかみえない。
力任せに引っぺがす。
今回巡った「足尾山」塔の中で、「ほったらかし度」NO1か。
24、地蔵堂(吉岡)
石造物群の背後に田植えが終わったばかりの田んぼ。
その奥に竹林と杉林。
どことなく、悠然とした景色は、国分寺が近いせいか。
一番高い石塔は「秋葉山」塔。
佐渡には192基もある。
「秋葉山」塔のおかげで火災を免れたという話は聞かないが、ご利益はあるのだろうか。
「秋葉山」塔の隣に「足尾山」塔。
石塔の大きさで祈願の度合いを計るならば、足痛よりも防火ということになる。
25、二宮神社(二宮)
「足尾山」塔を探して、小佐渡を走り回った。
これで終わりかな、と思ったが、大佐渡側の二宮にもあるのだという。
「二宮神社」は、本線から、かなり、大佐渡山脈の山懐に入った場所にありました。
「足尾山大神」は、桜の枝の下、木陰の暗闇の中にあった。
右が「足尾大神」、左は「猿田彦大神」。
大神が並んで、にらみをきかせている。
26、村上神社(真光寺)
「二宮神社」からさらに山の方へ。
いつの間にか真光寺に入って、村上神社を探す。
何もない境内にポツンと「足尾山大神」。
なぜ、この石塔だけがあるのか、その訳をしりたいものだ。
27、稲葉堂(西二宮)
西二宮という場所は、佐渡高校のすぐ後ろだった。
すぐ後ろだが、高校在学中、こっちへ来たことがないから、初めて足を踏み入れることになります。
稲葉堂はガランとした広い空地で石塔群がなければ、お堂とはわからない。
並んでいる5基の右端が「足尾山大権現」。
ここにも「ねまり遍路」がある。
石仏それ自体は、比較的新しいもののようだ。
ひび割れもなく、苔もはえていない。
問題は、この前に「ねまる」信者がいないことです。
レゾンデートルなき石仏が辿るのは、廃棄物への道。
以上、佐渡に残る「足尾山」塔27基を紹介しました。
勿論、これで全部ではありません。
日程の都合で探すのを諦めざるを得なかったもの、探しても見つけることができなかったものがあります。
以下、そのリスト。
◇「足尾山」ー阿弥陀堂(真野・阿仏房)
◇「足尾子山」-路傍(真野・小川内上坂道脇)
◇「□尾山」ー路傍(真野・三滝不動入口)
◇「足尾大神」-路傍(真野・金山笹川)
◇「足尾大神」-玉泉寺(椿尾)
◇「足尾山」-路傍(小泊旧道奥じょう)
◇「足尾山」-岩屋山(宿根木)
◇「足尾山」-大聖院(堂谷)
◇「足尾山」-集会所(上新谷)
◇「足尾山神社」-路傍(新谷山道脇)
◇「足尾山」-センター(柿野浦)
◇「足尾大明神」-北山神社(牛野尾)
佐渡へ行く機会があったら、このうちいくつかでも、写真を撮るつもりでいます。
私は千葉県の石仏を追いかけていますが、利根川沿いの下総地方には千葉県だけで文化年間から近代にかけて30基ほどの足尾塔があります。ただ、下総は出羽三山信仰や富士信仰に凌駕されたような地域なので、他の山岳信仰は流行らなかったようです。又、この地方では「足の神」として「道祖神」が信仰されていてサンダルや草鞋(今はないです)が奉納されています。佐渡の石仏事情、お陰様で随分詳しくなりました。有難うございます。
こめんとありがとうございました。励みになります。他人の成果をなぞるばかりのブログではありますが・・・
優れた情報収集力と行動力に感性があれば、このような面白いブログが出来るんですね。私もこれからもっと質の良い調査の提供を心がけます。
佐渡で幼い頃、祖母について裏山の阿弥陀堂によくいったものです。近年、あのお堂に祀られていた大きな阿弥陀像と地蔵の素性(?)を知りたくて、新穂の計良勝範氏と云う方にお願いして調べていただいたことがありました。ここは長坂の阿弥陀堂と云う堂で、石仏は元文三年造立の2mほどの座像でした。当堂の石仏は、曰く因縁がありその経緯を母に「ミミタコ」ほど聞いていましたが、その話と同様のことが計良氏の聞取りに書かれていて納得いたしました。
…ブログ読むたびにコメントしたくてウズウズします。少々意地の悪いことを書いても同郷のヨシミでお許しください。