平塚には、徳本念仏講ではあるが、平塚にしかない「大会(おおがい)念仏」という独特な念仏講がありました。
「大会念仏」は、平塚地区を東西南北4つの地区に分け、それぞれの地域で盛大に行われてきました。
宗源寺は、「大会念仏」仲組の中核寺院として知られています。
④宗源寺(纏)
寺の山門横に徳本名号塔。
大会念仏仲組の拠点寺ですから、当然でしょう。
仲組には、徳延村を中心に30か村が組織化されていました。
毎年、1月19日に宗源寺で「初念仏」を行い、徳本行者の座像と念仏諸道具を大八車に載せて、次の村に向かいました。
大会念仏の徳本行者座像(宗源寺)
こうして次々と村を回って、10月19日に宗源寺で「しまい念仏」を執り行って、大会念仏1年の行事を終了します。
徳本講ではない念仏講の諸道具(平塚市博物館)
昭和50年代まで行われていた大会念仏も、次第に衰退し、今では、1月の初念仏だけが、ひっそりと行われるだけです。
宗源寺の徳本名号塔の注目点は、碑裏の刻字。
「五十回遠忌」と刻まれています。
平塚市には、この他、百回忌供養塔が、金目観音にあります。
このブログ「徳本行者と名号塔」の1回目は「江戸の流行神」でした。
徳本人気は、その騒がれ方が異常で、江戸の流行(はやり)神と云って差支えないと私は、断言しました。
そして、流行神には、「はやれば、すたる」という特徴があって、人気がかげるのも急速であることも付け加えておきました。
「五十回忌」や「百回忌」の供養塔があるということは、徳本行者は、流行神などではないということになります。
一過性の流行どころか、徳本念仏信仰は、地域に浸透し、長い生命力を持ち続けていたことを2基の供養塔は証明していると言っていいでしょう。
徳本人気は流行現象だったと決めつけたことは誤りであった、とお詫びして訂正しなければなりません。
宗源寺の墓地にも、2基の徳本名号墓塔があります。
吉沢家の墓域にくっつくように立つ墓は、一つは称善、もう1基は香雲の墓石。
二人とも、徳本行者の弟子です。
称善は、前回のバス停横三叉路に立つ巨大名号塔の願主として、刻されていますが、大会念仏の組織化に助力し、徳本名号塔の造立を積極的に勧めたことで知られています。
徳本行者の説教を聞いて感激した称善は、弟子入りを願うも徳本に聞き入れられませんでした。
自らの熱心さを示すため、男根を切り落として、再び、願い出たという熱血漢。
どれほどの高弟だったかというと、小石川一行院で行われた徳本行者七回忌の法会に、相模の代表として参列を許される、それほどの高弟だったと云われています。
≪続く≫
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