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石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-18-消防組松島彦八翁寿蔵碑(向ヶ丘2-1-10西教寺)

2019-04-28 10:26:14 | 石碑

道の向こう側は、東大農学部という場所に西教寺はある。

 

   この写真は、東大農学部の塀を背に撮ったもの

本堂前に2基の石碑が立っている。

左は「坊主亀」、

右は「消防組松島彦八翁寿蔵碑」。

どうやら「加賀鳶」(江戸時代、加賀藩前田家が江戸藩邸で召し抱えておいた鳶職人で編成した火消し。装束が美麗で、大藩召し抱えの特権意識を持ち、一般の町火消しとの間で争いが多かった。-コトバンク-)の人物にまつわる石碑のようで、私にはまったく手に負えないので、参考資料『文京の碑1997・文京ふるさと歴史館友の会』の解説文をそのまま借用しておきます。

「消防組坊主頭」の碑は、1873年(明治5年)5月松島彦八が実父時川亀吉のために建立したもである。

 時川亀吉は通称を坊主頭といい、長年加賀鳶をやった人でその勇みぶりは、放牛舎桃林の『東京侠客伝』にも登場する。

「消防組松島彦八翁寿蔵碑」(寿蔵とは、生前に自分で作っておく墓の意)は、「坊主亀」のすぐ右隣に建てられているもので、右横に「明治40年11月建之」とあり、下の台石には「第四区一番組、五番組」と彫られている。

 松島彦八は、幼くして加賀鳶家お抱えの鳶、松島家の養子となった。1858年(安政5)年鳶人足、1863(文久3)年纏持ち、消防第四大区第一組小頭より組頭を務め、江戸っ子気質の権化、加賀鳶最後の人といわれながら、1927(大正元)年10月28日死去した。

 有名な加賀鳶と町鳶の喧嘩については、町火消頭取から奉行所に出された申し立て訴状に、次のように記されている。

「当正月十に日、上野御山内出火之節、尾張様へ加州様お抱え鳶之者有之、右取扱いに私共立入内済相整、先月二十三日私和談仲直の手合をいたし候処、其節仲人共口上申演立腹、翌二十四日朝、た組頭取彦八、松太郎、れ組同平治郎、つ組同斧次郎、右同人共宅相こわし歩行候に付、な組人足共も騒立、加州様お抱え鳶五人之者宅打こわし候儀に付、本郷湯島辺十八町若い者共取扱に立入、双方相こわし、諸道具箱膳和談掛合罷在候内、加州様お抱え鳶二十二人お暇出候間云々」

 事件は、上野山内火災の折、加賀鳶と尾張火消の出入りで、尾州家人足六人を斬り捨てたことが発端となって、町鳶の喧嘩に発展していったが、加賀方の仲介役として彦八以下四名が入り、騒ぎが収まった。

 この時、時川亀吉が頭を丸めて(坊主になり)仲裁に入り、和解が無事成立した。こうして役所からご褒美を戴いたので、これを記念してこの碑を建てたという説もある

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑-17-田口卯吉・上田敏居住地碑(西片2-19-4)

2019-04-21 07:37:03 | 石碑

◇鼎軒 柳村居住跡碑(西片2-〇〇-〇)

番地は判っているが、なかなか目的地に行きつけない。

静かな住宅街で、人影はないし、各家に番地表示は必ずしもないから、特定することが難しい。

近所の人に訊いても、多分、「ああ、あの家の」と応えられる人はいないのではないか。

何しろ目的の碑は、個人宅の庭にあり、碑文が「鼎軒 柳村居住之地碑」、鼎軒と聞いてすぐ分かる人が、そんなに多くいるとは思えない。

そういう私も「鼎軒」を知らない。

このブログは、私の勉強の為にやっているので、知らない人物は教材として歓迎するが、碑に接する「熱意」が低くなるのは仕方ない。

今回は、碑が個人の庭にあり、シャッター越しに見ただけだから尚更である。

「鼎軒 柳村居住之地」の鼎軒と柳村とは、二人の人物、田口卯吉と上田敏の号なのだそうだ。

どうせどこかから二人の人物像を引用するのだから、前回に続き、参考資料『文京の碑』から丸写しにしておきます。

 田口卯吉は、少年時代に下谷生駒の木村龍二宅に寄寓し、その隣に住んでいた幕臣の洋学者乙骨太郎に可愛がられた。乙骨太郎の孫が上田敏である。

 今度は西片町の田口卯吉がその恩で、上田敏を寄寓させた。当時、西片町には学者が多く住んでいて、田口邸は西洋館形式の建物2棟で目立っていたという。

〇田口卯吉(1855-1905)(安政2-明治38) 本名は鉉(げん)、卯吉は通称、鼎軒と号した。

1855(安政2)年に目白台徒士屋敷(日本女子大寄宿舎の地)で旗本徒士の次男として生まれた。

 最初は医学を志したが、1872(明治5)年、10月に大蔵省翻訳局付属学校に進み、経済学を学んだ。一方、彼は東京証券取引所理事、両毛鉄道社長などをして、事業経営に携わり、また東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員(1894-1905)としても活躍した。

 政治家として〇鳴社の発起人となり、板垣退助率いる自由党に近かったが入党せず、進歩党に加わり、1898年には中立的立場をとった。

 他方。我が国における最初の経済雑誌である『東京経済雑誌』を創刊し主宰した。自由主義経済の論陣を張り、政治や史論にまで及んだ。歴史雑誌『史海』を発行、『日本開化少史』は有名である。

〇上田敏(1874-1916)(明治7-大正5)

 第一高等中学校入学と同時に、田口卯吉邸に寄寓。平田禿木を通じて『文学界』の同人となり、東京帝国大学英文科に入学後は『帝国文学』の創刊に参画、小泉八雲自任の後、夏目漱石とともに東京帝国大学の教師となる。

 明治38年、主として『明星』に発表したフランス象徴派直訳詩集である『海音潮』は有名である。また明治42年1月2日の石川啄木の日記によると西片町の上田邸に訪れていることが記されている。

 エピソードとしては、学生時代、観劇を好み軍人の絵を描くことが好きだったことがあげられる。


137文京区の石碑ー16-句碑2基(東京大学構内)

2019-04-14 07:59:48 | 石碑

東大構内の石碑として、句碑が2基リストアップされているのは、意外だった。

学問の世界での功労者の顕彰碑があるだろうと思ってはいたが、まさか句碑だとは。

句碑の俳人は、山口青邨と水田秋桜子。

俳句は門外漢だが、名前くらいは知っている。

◇山口青邨句碑

山口青邨の句碑は、山上会館裏手にあると資料にはある。

山上会館の受付で所在地を訊く。

応対してくれた60代半ばの男性職員は、「そんな句碑は見たことがない」とそっけない。

仕方ないから、会館をぐるっと一回りしようと、三四郎池方向の階段を下りたら、目の前に石碑が2基立っている。

なんとそれが目的の句碑だった。

何十年も山上会館に勤務していて、こんなすぐ近くにある句碑を知らないというのは、どうしたことか。

とても信じられない。

「銀杏散る まっただ中に 法科あり」

山口青邨は、この句を

「法科はもちろん建物であるが、伝統ある法科を象徴させている。『まっただ中に』によって、さかんな落ち葉のさまもわかるだろうと思う」と自ら解説している。

この「伝統ある法科」に歯向かったのが、山本健吉氏。

「東大法科の『光栄ある伝統』など私は思ってもみないことだ。軍閥とともに日本を破滅に追い込んだ官僚の大量養成所として、国民にはいい記憶ばかりでもないのである。」(山本健吉『底本現代俳句』P232)

そして、山本氏の句評は、「さて、銀杏は東大の名物である。『まっただ中に』とずばりと直線的に言い切ったことは、法科という近代建築物の印象によく映発し合っている。単純で印象明快である」。

山口青邨の句碑と並んで、一回り小ぶりな句碑が立っている。

平成9年(1997)刊行の持参資料には掲載されてないから、それ以降建立されたものだろう。

「銀杏散る 万巻の書の 頁より 有馬朗人」

有馬朗人は、山口門下で、東大総長、文部大臣を務めた原子核物理学者。

俳句結社『天為』を主催している。

山口青邨は、東大工学部の教授だった。

俳句なんだから文学部関係者が多いのかと、私などは単純に思ってしまうのだが、東大俳句会出身で、私などが知っている俳人は、理系、中でも医学部関係者が多いようだ。

その中の一人水原秋桜子の句碑が、医学部図書館のそばにある。

◇水原秋櫻子句碑

御殿山グランドと医学部図書館の間の崖地の下の一画に数基の石碑が間隔をおいて並んでいる。

そのうちの1基が水原秋櫻子の句碑。

大きな自然石の上部を円形に滑らかにして、そこに

「胸像を ぬらす日本の 花の雨」

と彫ってある。

「胸像って、誰の?」と問う人は、ここではいないだろう。

句碑の右手に、二人の西洋人の胸像が並び、左がベルツ、右にスクリーバと名前が記されている。

二人とも、明治の初め、お雇い外国人として来日し、日本の近代医学の基礎を築き、その発展に寄与したドイツ人医師。

東大医学部卒業の水原秋櫻子は、二人の恩恵を身近に感じたようで、何句かの句作がある。

君によりて日本医学の花ひらく

胸像はとわに日本の秋日和

秋空にかがやく歴史六百年

菊匂う国に大医の名をとどむ

生誕の夜の寒星を仰ぐべし

百年前君が仰ぎし夏の富士

 


137 文京区の石碑-15-石川啄木歌碑(本郷6-10-12)

2019-04-07 18:44:07 | 石碑

◇石川啄木歌碑(本郷6-10-12)

歌碑があるかつての大栄館跡地のマンションは、本郷台地の西端にあって、マンションから西を向くと急坂を人々が前傾姿勢で上るのが見える。

マンション前に、歌碑がある。

「石川啄木由縁の宿
 東海の小島の
 磯の白砂に
 我泣きぬれて
 蟹とたわむる」

 少し前の写真には、この歌碑の傍に、文京区教育委員会による説明板があったようだが、今は見当たらない。

石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別館跡
        
(東京都文京区本郷6-10-12 太栄館)

 石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館(オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
 赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
 ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
 東京朝日新聞の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ38ノ9)の喜之床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
 蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
                     昭和56年 文京区教育委員会
                 
父のごと秋はいかめし 母のごと秋はなつかし 家持たぬ児に
                    (明治41年9月14日作・蓋平館で)

石川啄木がここ大栄館(蓋平館)にいたのは、明治41年(1908)から明治42年、22,23歳の頃だった。

大栄館は、新築したばかりで、木の香も匂う崖上の西向きのへやから、富士山が見えるのを喜んだという。

彼は、1年ちょっとの間、3度の引っ越しをしているが、家賃を払えず、滞納したからだった。

引っ越し先がいずれも本郷界隈だったのは、金銭的援助をしてくれた金田一京助ら友人が本郷にいたためと思われる。

今や「啄木学」なる学問があるそうで、その研究によれば、啄木の借金は、今の金にして、約1400万円になるのだとか。

わずか3,4年の借金としては多額だが、その大半は、遊郭通いで消えたと云われている。

朝日新聞に勤めながらも生活苦から逃れられなかったのは、病気がちだったからでもあるが、夜の浅草通いにも原因があったようだ。


 

 


137 文京区の石碑-14-三浦悟楼終焉之地碑と杉風舎哀翁句碑

2019-03-31 08:22:38 | 石碑

コンニャク閻魔の裏の旧坂を息も絶え絶えに上ると右手に碑はあった。

    坂の上から下を臨む

 

◇三浦梧楼終焉之地碑(小石川2-20)

 三浦梧楼なる人物を知らないので、ネット検索。

幕末生まれの長州藩士。明治時代の軍人、政治家だという。

てっきり明治か大正の建碑かと思ったが、なんと昭和57年(1982)の造立だった。

「町会設立への尽力と将軍の遺徳を偲んで」町会が碑を建てたと言うのだが、ピンとこないので、パス。

コンニャク閻魔の源覚寺まで戻り、寺の前から東へ。

白山通りを渡るとすぐ左に興善寺が見える。

◇杉風舎哀翁句碑(西片1-15-6 興善寺)

 

殺風景な境内の一画に2mを超す高さの句碑がある。

  昏がたの空に遊や郭公 

     杉風舎 哀翁

裏面に

  天保七丙甲歳仲春建之

杉山杉風(正保4・1647ー享保17・1732)は、日本橋の魚問屋の二代目で、芭蕉の高弟であり、スポンサー。

『奥の細道』の冒頭の一節、

「住める方は人に譲り杉風が別埜に移るに
  草の戸も 墨替るぞと 雛の家」

の杉風の別埜は、採茶庵を指す。

                採茶庵跡

深川芭蕉庵も杉風の魚問屋鯉屋の生簀の番屋を芭蕉に提供したものだった。

ところで杉風の号は「哀翁」ではなく、「蓑翁」ではなかったか。

この句碑が建てられたのは、天保七年、杉風が亡くなってから103年後のこと。

その頃は、杉風六世の宗端の時代で、宗端の号は「哀翁」だったことから、この句碑は、初代杉風ではなく、六世宗端のものだと考えられるという説があるのだそうだ。

一方、「哀翁」は芭蕉が杉風に与えた号とする説もある。

大病をして、耳が悪くなり、髪も抜けて、痩せた杉風を見て、芭蕉は「蓑翁」ではなく「哀翁」を別号にしたらどうかと勧めたというのです。

いずれにせよ、杉風の句碑がなぜ興善寺にあるのか、という疑問への答えは、ネット検索では見つけられませんでした。

 

 

 

 


137 文京区の石碑-13-占春園碑その2(大塚3-29)

2019-03-24 08:54:56 | 石碑

池をめぐる小径に面して、高さ1メートル半の古い石碑が、ひっそりとたたずんでいる。

一部欠損している上に、薄い線彫りで刻文は判読にくい。

説明板がある。

文章責任は、筑波大や文京区ではなく、東京教育大学であるのが、珍しい。

やや長文だが、転載しておきます。

旧守山藩邸碑文
   この碑は、延享三年(西暦一七四六年)春三月に建てられたといわれるから、今から二百三十年ほど前になる。ここ吹上邸を上屋敷とされた守山藩主松平頼寛(三代目)が、その臣岡田宜汎に命じて記させたもので、高さ一.四米、幅〇.七七米の鉄平石に刻まれた碑であるこの碑文には、藩祖頼元より頼寛に及ぶ三代の占春園にまつわる記事があり、特に占春園と命名された由来を持り持つ古桜樹や、桜花の春に催された佳会の盛宴などが興味深く記されていて、往時の大学頭邸の景観と歴史が追憶される。
 

我公之園名占春。其中所觀、梅櫻桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景莫不有焉。而名以占春者何也。園舊有古櫻樹、蔽芾数丈。春花可愛、夏蔭可憩。先君恭公之少壮也、馳馬試剣、毎繁靶於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、猶及視之。於是暮年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維旅、羽觴無算。豈啻四美具乎哉。物其多矣、維其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之壽。我公称觴、顧命臣宜汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。書於石。宜汎捧稽首曰、桑梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万有千載、本支百世、永承景福之賜時延享丙寅春三月                岡田宜汎捧撰   宇留野謹書
 占春園は春爛漫たる桜樹を始めとして四時の美をそなえた名園で、杜鵑も巣を作るという野趣に富み、冬春の候には多くの鴨が園地に聚まり、青山の池田邸、溜池の黒田邸と合わせて江戸の三名園と称せられたという。本学は、その史実をここに記して占春園を永久に記念するものである。

                 昭和52年1月  東京教育大学

 

持参資料によれば、この守山藩邸碑が、もう1基あることになっている。

探しても見当たらないので、筑波大学の守衛所で訊く。

なんと占春園ではなく、筑波大入口前にあった。

 

これも又、東京教育大学による説明板があるので、引き写しておきます。

「東京教育大学」がこうした形で、まだ残っていることに若干の嬉しさを覚えながら。

 

東京教育大学の大塚の敷地は、その昔、水戸家の分家である守山藩主松平大学頭の上屋敷であった。文政十年(西暦1827年)に小石川水戸中納言の礫川邸が類焼し、当主8代
目の斉修公(水戸烈公の兄)は夫人峰姫と共に駒籠邸に難を避け、そこから大塚吹上の松
平大学頭の屋敷に移った。これを迎えた大学頭頼愼公はよく斉修公(天然子)を待遇したので、公はその厚意を謝し、吹上邸の庭(占春園)の景観を称えて詠んだのがこの碑文で格調たかいものである。
    丁亥之春、礫川邸罹災。以
     
幕府之命、與夫人峰姫遷居於
     守山侯吹上邸。々中多山水之
     
勝。園之東有梅林。明年、春
     遊于林中賞花、頗忘舊歳之憂
     
因賦一律 以攄幽懷云

      吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空
      落英渓畔千林雪 斜月樓頭一笛風
      疎影婆娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
      人間何處無春色 春色須從此地融
                  天然子
             昭和52年1月   東京教育大学

小石川の邸宅が火災に遭い、ここ守山藩の吹上邸に移ってきたが、春になって、林中にあって花を愛で、頗る去年の憂いを忘れることが出来た、というのだから、占春園の景観はそれほど見事だったということになる。

 

 

 


137 文京区の石碑-12-占春園碑(大塚3-29教育の森公園)

2019-03-17 06:55:43 | 石碑

教育の森入口の手前でしばし佇んでいた。

左へ行くと教育の森、右は筑波大。

左は60年前と様変わりだが、右はなんとなく昔の面影があるような気がする。

昔は、二つに分かれていなくて、ここが東京教育大学の正門だった。

今は筑波大と放送大学となっている建物は、教育大文学部の跡地に相似形に作られていて、遠景だと昔とそっくりに見えてしまう。

私の学生時代は、1958-1961年。

 

 右が、文学部、教育学部のE館。ほかは全部取り壊されて教育の森公園に。

4階建ての文学部館には、エレベーターがなく、4階にあった社会学教室へ行くには階段を上るしかなかった。

80歳の今は、階段嫌いだが、当時、階段をつらいと思ったことはなかった。

そんな時代があったなんて、我がことながら信じられない。

占春園にも同じ庭園だとは思えない変化がある。

文学部の裏、付属小学校との間に、汚いドブ池があって、そこが占春園だとは聞いていた。

だが雑草が生え放題で、見通しが悪く、「庭園」とは思えない場所だった。

(と、記憶しているのだが、昔の写真を見ると整備されているように見える。)

 一度行ってはみたが、2度と行くことはなかった。

 

それが、60年ぶりに訪れて、その広さに驚いた。

綺麗に整備されていて、見通しがきくから、広さが分かるのです。

ここは、水戸光圀の弟松平頼元(陸奥国守山藩主)の元上屋敷跡で、その広さ約6万坪。

屋敷内の斜面地を利用して造られた庭園・占春園は、青山の池田邸、溜池の黒田邸と並んで、江戸の三名園と称されたと云われているという。

回遊式庭園の核を成す池は、しかしながら、60年前と同じドブ池状態で、庭園の風雅さを損ねている。

池の辺に立つのは、嘉納治五郎像。

講道館柔道の創始者として有名だが、東京高等師範学校の校長を24年間も務めたことはあまり知られていないように思われる。

銅像があるのは、ここに東京高等師範学校があったからだが、彫刻家朝倉文雄の手になるこの像は、戦時中、姿を消した。

軍に供出されたものだが、幸い原型が残されていて、昭和33年、ここに再建された。

付け加えると、この原型を元に、講道館と筑波大学にも、まったく同じ嘉納治五郎像があるのだそうだ。

NHKの大河ドラマ「いだてん」人気で、今年は占春園もにぎわいそうだ。

 


137 文京区の石碑-11-千川改修記念碑と明治天皇行幸碑

2019-03-10 14:36:43 | 石碑

 

小石川植物園の西隣が、簸川神社。

間の坂は、網干坂。

その昔、千川通りは海の入り江で、この坂は網干し場だったというから信じられない。

ところで、簸川(ひかわ)神社と読める人は、どのくらいいるだろうか。

氷川神社の末社だというのに、氷川神社は出雲の国の簸川に由来するという説に従い、「簸川神社」に改名したのだという。

 

簸川神社の特徴は、見上げるような石の階段。

数えたら50段あった。

「とんでもない神社だな」とブツブツ言いながら上る。

しかし、考えてみれば、エレベータやエスカレータのない地下鉄の駅では、大体77もの階段が普通だから、神社の石段なんて可愛いものだと言えよう。

その階段の上り口の右側にすっくと立っているのが「千川改修記念碑」。

神社の前2,30mを横切る千川通りの下は暗渠で、千川が流れている。

この辺りは、入江だったことは先述したが、その後、湿地帯となり、神社前一帯は氷川たんぼと呼ばれていた。

その中央を流れる千川は清流だったが、年に2回は、洪水となり、床上浸水の被害を与えた。

 

どこの家にも「吊寝床」があったという。

特に大正14年の洪水は記録的で、人々は舟での避難を余儀なくされた。

その悲惨な光景の記録写真を区の図書館で探したが、見当たらなかった。(代わりに見つけたのが、上の写真。簸川神社前あたり。昭和初期のものらしい)

地元の熱烈な要望を受けて、東京市は昭和5年から、千川の暗渠工事に取り掛かる。

総延長3272mの下水工事は、4年後の昭和9年(1934)、竣工する。

この碑は、その大工事完成の記念碑で、各地域の功労者名が裏面にびっしりと刻まれている。

 

簸川神社の裏口を出る。

左を向くと急な坂道。

道路向こうが神社裏口。坂は簸川坂。

坂道の多い東京でも有数な勾配のきつい坂道ではないか。

裏口を右へ。

平凡な住宅地を歩き回る。

明治天皇行幸碑があるなんて、とても思えない庶民の家ばかりの住宅地

 

道が直角に曲がる角に、冬日の斜光を浴びて白く輝く石碑が立っていた。

近寄ってみる。

私の身長より10cmは高い石碑には

「明治天皇行幸記念碑」とあり、

左わきに「土方久元邸跡」と刻されている。

土方久元氏は、明治26年当時、宮内大臣。

このあたり一帯1万坪の敷地に家を新築。

家の前には、12の見晴らし台を持つ庭園が広がっていた。

その新築祝いに、明治天皇が行幸された。

民間最初の行啓地として記録されている。

土方氏は、その栄誉を永く記念するため、「恩光閣記碑」なる記念碑を建立した。

碑は、高さ二丈余(約6m)、幅八尺(2m50cm)の巨碑だったが、戦災で一部破損。

昭和59年、この地を買収した常陽銀行は、巨碑全体を地中に埋めて保存することにし、代わりに現在の石碑を建てた。

 

 


137 文京区の石碑-10-関東大震災記念碑他(小石川植物園内他に2基)

2019-03-03 08:27:39 | 石碑

 小石川植物園には、3基の石碑がある。

〇柴田圭太記念碑
〇甘藷試作跡碑
〇関東大震災記念碑

 

入口から一番近い、柴田圭太記念碑から見ていこう。

◇柴田圭太記念碑

正門から緩やかな坂道を登り切ったところの十字路を右に回ると「メンデルのぶどう」と「ニュートンのリンゴ」の木がある。

「ニュートンのリンゴ」はイギリスから持ち込まれた珍しいもの。

ここだけにあるものと思っていたが、科学の啓蒙啓発の為にという名目で、穂木で各地に分譲され、今や数えきれないほど多数になっているのだそうだ。

この「メンデルのぶどう」と「ニュートンのリンゴ」の木を左に見ながら進むと、白壁に男の肖像のレリーフがはめ込んである。

レリーフの下部に「KEITA SHIBATA 1877-1949」。

碑面には「日本植物生理学は柴田圭太によってこの地に創始された」とある。

右隣りの建物は、レリーフの主の名がついた「柴田記念館」。

柴田圭太は、明治10年(1877)、東京の生まれ。

ドイツに留学後、東大植物学教室で植物生理化学を研究、学士院賞を受賞した。

その賞金を元に、この地に大正9年(1920)、植物生理化学実験室が建設され、以来、昭和9年、植物学教室が本郷に移転するまで、ここで研究、講義が行われたという。

内部は、見学自由。

植物園の歴史や研究内容の展示、関連出版物と植物をあしらったクーリーティングカードの販売をしている。

 ◇甘藷試作跡碑

私は、80歳。

同年配から上の世代は、さつまいもが嫌いな人が多い。

太平洋戦争末期から戦後にかけての食糧難時代、さつまいもばかり食べて、みるのも嫌になったかららしい。

植物園本館から中央道を進むと左手に薩摩芋の形をした自然石が立っている。

これが、「甘藷試作跡碑」。

「甘藷先生」こと青木昆陽は、江戸近辺で甘藷栽培が可能ならば、備蓄食料として有効だろうと考え、享保20年(1735)、吉宗に進言、命を受けて、ここで甘藷を試作、成功した。

昆陽が幕府に提出した甘藷試作の見積書がある。

『日本薬園史の研究』から転載しておく。

〇御薬園竝養生所所薩摩芋可作場所見分仕候養生所之内百八十三坪御薬園之内百五十坪合  三百五十坪之処可宜奏存候
〇猪防の垣養生所之内には入不申候御薬園之内十間に十五間の處四方にて五十間杉丸太四寸間に一本高四尺に仕、貫二通打一間に一本づつ柱混入、二尺余に仕木戸二ケ所付此御入用金八両
〇作人は養生所中間部屋に被差置候はば別段に小屋建候に及申間敷候也

 ◇関東大震災記念碑

震災記念碑といえば、家屋の倒壊、火災、死者数などを記念するものが多い。

植物園の記念碑は、地震後、被災者約2000人が、園内に避難していたことを記念するもの。

2基が並んで立っている。

向かって右の自然石には

大正13年9月1日大震災記念
我が家の悲しかりし歴史、植物園内避難者の一人記す
光円寺佐藤良智師により一千貫の花崗岩を居住者の善男善女老幼により白山下より大綱にて引き来り御殿町青年団戸崎町青年団及在郷軍人諸氏の援助のもとに記念にすえた

とあり、

又、向かって左の角石には

大震災記念石    大正13年9月1日建立
  男爵板谷芳郎書 当園一ケ年居住者有志
と刻されている。

小石川植物園での避難者の状態はどんな状態だったか、文京区立真砂中央図書館で写真を探すが見当たらなかった。

文京区は、墨田、江東、葛飾区に比べると地盤が固く、被害が少なかったようだが、皇居前、上野公園、日比谷公園などが満杯で、内務省は小石川公園にも震災救護所を設けることを決定した。

大正14年4月1日まで1年半の長きに渡って、約2000人が避難、収容されていたと云われている。

小石川植物園の震災後の写真はなかったが、震災直後の上野駅前と日比谷公園の被災者仮設住宅の写真があった。

              上野駅前

       日比谷公園仮設住宅

小石川植物園も同様な光景だったと想像してください。

 

 

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑-9-杉浦重剛称好塾旧跡(小石川4-2-1)ほか

2019-02-24 07:22:45 | 石碑

 

持参資料によれば、碑の所在地は、小石川4丁目の東京学芸大学付属幼稚園とある。

幼稚園の入口を探して、春日通と裏道をぐるっと回ってみるが、見当たらない。

地図を見ると都立竹早高校の住所が、小石川4-2-1で 学芸大附属幼稚園と同一であることが分かる。

 

 (地図を少し下にずらすと竹早高校がある。竹早中学校の敷地に幼稚園はあることになる)

竹早高校正門の守衛所で確認しようとしたが、あいにく守衛がいない。

通りかかった女性徒が、親切にも案内してくれた。

幼稚園は、竹早高校のフエンス下、切り立った崖下にあった。(多分、竹早高校を通らないですむ幼稚園の正門はあるのだろうが・・・)

◇杉浦重剛称好塾旧跡

杉浦重剛が自邸内に開設した称好塾は、三田の慶應義塾とならぶ有名私塾だった。

しかし、塾では学科授業はなく、塾生は各自、それぞれの学校に通っていた。

3人が机を並べる8畳は、勉強部屋でもあり、寝室でもあった。

授業がないのに入塾してくるのは、塾頭杉浦重剛の識見、人格に惹き付けられたからだという。

自由な雰囲気の中に節制があり、互いに切磋琢磨する環境は、多くの有為な人材を輩出した。

杉浦重剛は、安政2年(1855)、近江国膳所の生まれ。

明治8年東京開成学校を卒業、政府留学生として欧州留学、帰国後東京大学予備門長を務める。

大正3年(1914)には、東宮御学問所御用掛として、皇太子(昭和天皇)に倫理を進講した。

 東京学芸大学付属幼稚園を出て、伝通院との間の坂道をゆるゆる下ると光円寺に着く。

◇震災殉職記念碑(小石川4-12-8光円寺)

 

墓地入口の手前左の奥にあるのが、「震災殉職記念碑」。

殉職したのは、博文館印刷所(共同印刷の前身)の社員41人。

墓地の向こうにに共同印刷の工場が見える。

工場の隣の寺の、工場が見える場所に、わざわざ建てられた「震災殉職記念」です。

博文館印刷所の震災エピソードのハイライトは、41人という社内殉職者の数もさることながら、崩壊した工場がわずか4か月前竣工したばかりの新工場だったこと。

その間の経緯が碑面に詳しく記されています。

震災殉難記念碑

絶大ノ惨害比類ナキ大正発亥九月一日ノ大震災ニ博文館印刷所モ亦其災ニ罹リテ新築ノ工場倒壊シ特ニ優秀ナル工員四十一ヲ亡ヘルハ真ニ痛恨ニ堪ヘザルナリ其工場ハ総テ三層八百八十坪鉄筋混擬土ヲ材トシ大正十一年二月ニ起シ設計周到監督厳密翌年五月落成ス即チポイント製版印刷工場トシ第一階ハ文選及校正部ニ充テ各部工員三百有余人ハ皆選バレテ新工場ニ入ルヲ栄トセリ図ラザリキ竣工後僅カニ数月忽チ大震災ノ為ニ全部崩壊シ幾多ノ犠牲ヲ出サントハ嗚呼是レ天ガ命カ将タ人事ノ未ダ尽サザル所アリシカ今茲ニ遭難一周年ニ臨ミ印刷所ハ追悼会ヲ催シ碑ヲ建テ殉難諸氏ノ名ヲ碑陰ニ録シテ以テ英霊ヲ慰メ兼テ記念ト為スト云爾
         大正十三年九月一日
                    水哉     水谷善四郎撰
                    半峰     山口彦総 書

境内には、共同印刷による碑の解説板がある。

碑文と重複するところもあるが、転載しておく。

 

 

 震災殉職記念碑
大正12年9月1日の関東大震災は、死傷者15万人余、罹災者340万人余と未曾有の大惨事であった。共同印刷株式会社の前身である博文館印刷所でも、鉄筋コンクリート3階建ての新工場と活版平台印刷工場の一部が倒壊し、不幸にも41人にのぼる多数の犠牲者を出した。
会社は犠牲者に対して深く哀悼の意を表するため、同年12月9日小石川伝通院において大追悼会を催すと共にこの惨状を後世に伝えるため翌13年9月1日に「震災殉職記念碑」を当光円寺境内に建立し、殉職者41名の氏名を碑陰に刻しその冥福を祈願した。
昭和20年5月25日、太平洋戦争の最中、米軍機B29の焼夷弾により、当社周辺は猛火を浴び当記念碑も碑石に亀裂が生じたため、昭和41年碑陰にコンクリートを塗布し補強した。この時、殉職者氏名が一部欠落しており拓本等にとることができなかったことは、誠に痛恨の極みである。
現在、ご遺族の申し出による殉職者は、ポイント校正課長小林勘六、文選工高麗愛信の両氏であり殉職者氏名を各方面にわたり調査、探求したが、六十有余年の歳月の壁は厚く手がかりを得られないでいる。殉職者氏名についてお心当たりの方は当社総務課までご連絡を賜りますようお願い申し上げます。
ここに「震災殉職記念碑」銘板の掲出にあたり、殉職者41名の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
                 平成3年8月  共同印刷株式会社


137 文京区の石碑-8-歌碑いくつか(北野神社・伝通院)

2019-02-17 07:44:30 | 石碑

◇中島歌子歌碑(北野神社 春日1-5-2)

しばらく小石川の水戸藩上屋敷跡とその跡地に設けられた

東京砲兵工廠に関わる石碑が続いた。

その掉尾は、北野神社の中島歌子歌碑。

本殿正面の南端、その先は崖地という一画に歌碑はある。

雪中竹    栄子書
 雪のうちに 根ざしかためて
 若たけ乃 生ひ出むと
 しの 光おぞ思ふ」


    

中島歌子は、文京区安藤坂で水戸藩の郷宿を営んでいた中島又左右衛門の次女として、弘化元年(1845)に生まれた。

水戸藩士林忠左右衛門と恋に落ち、18歳で結婚、水戸に新居を構えた。

しかし、天狗党の乱に加担した罪で夫は自害、歌子も賊徒の妻として投獄される。

江戸の生家へ戻った歌子は、加藤千波に歌を学び、安藤坂の実家の隣に歌塾「萩の舎」を開く。

塾生には、上流家庭の子女が多く、最盛期には、1000人を超えたと云われている。

樋口一葉もその一人で、15歳から入門し、頭角を現す。

父親の死去後、経済的事情から、歌子の助教を務め、歌子の後継者と目されていたが、肺結核で死亡、歌子の望みは実現しなかった。

歌子自身は、61歳で死去。

辞世の歌は

君にこそ 恋しきふしは 習ひつれ さらば忘るることも おしへよ

 ◇歌碑-古泉千樫、橋本徳壽、水町京子-(伝通院/小石川3-14-6)

伝通院にも3基の歌碑がある。

師弟関係の3人の歌人の歌碑で、師にあたるのが、古泉千樫(ちかし)、門弟が橋本徳壽と水町京子。

3基はそろって、山門から本堂に向かう参道の左手、朱色の鐘楼の手前の一画に、地蔵菩薩石像や宝篋印塔などと混じってある。

古泉千樫の歌碑は、奥まった一角にフエンスぎりぎりに立っていて、ちょっと見つけにくい。

自然石に

雑然と鷺は群れつつおのじし
あなやるせなき姿なりけり
       千樫山人

 と彫られている。

昭和34年、「古泉千樫先生を憶う会」が、33回忌を期して、碑を建てた。

伝通院から共同印刷にかけては緩やかなスロープは、田んぼが広がり、鷺の巣造りの場所でもあった。

この歌は、その光景を詠んだもの。

古泉千樫(1886-1927)は、少年のころから雑誌や新聞の歌壇にしばしば投稿していた。

千葉県で小学校の教員時代、古泉千樫の雅号で、水原秋櫻子主催の「馬酔木」に積極的に投稿するようになる。

その歌を伊藤佐千夫に激賞されたのを機に上京し、佐千夫門下に。

佐千夫を介して、長塚節、斎藤茂吉を知り、石川啄木、北原白秋と交友関係を結んだ。

生活の資を得るため、サラリーマンとして定年まで勤めたが、彼の本文はあくまで歌人で、「アララギ派」の発展に大きく寄与した。

橋本徳壽と水町京子の歌碑については、解説板をそのまま転写しておく。

 春いまださわがしからぬ空のいろに
       辛夷(こぶし)の花は白く咲きたり
                   徳壽

橋本徳壽は明治27年(1894)神奈川県横浜市に生まれた。短歌ははじめ土岐哀果に学んだが、後に万葉集に傾倒し古泉千樫を師と仰いだ。昭和2年(1927)、短歌結社「青垣会」を結成するに当たり、その原動力となって活躍した。千樫亡き後は、青垣会を60年間牽引すると共に、宮中歌会始めの選者、明治記念総合歌会の選者を務めるなど、大正から平成までの長きにわたり、歌壇に大きな足跡を遺した。
歌碑に刻まれた歌は、歌集「桃園」に収められており、春の到来を実感した喜びが、清楚な辛夷の花の開花にことよせて格調高く詠まれている。なお、橋本徳壽はわが国屈指の木造船技師でもあり、日本全国に赴き、技術指導に当たった。平成元年(1898)死去。

 

      水町京子歌碑

 

わがこころの林泉の風に
  やくるなくしばらくあると
      あわれといわむ
        水町京子

歌人水町京子は、明治24年高松市に生まれた。佐賀県人で、本名は甲斐みち、旧東京女子高等師範文化卒業、古泉千樫に師事し、没後は千樫の遺志により、釈超空の師事を受けた。女流短歌誌「草の実」を創刊し、また、千樫門下による「青垣」に参加、昭和10年「遠つ人」を創刊今日に至る。歌集として「不知火」「水ゆく岸にて」水町京子歌集がある。大正6年より20余年、淑徳高女に在職、この境内は、若き日朝な夕なに歩まれたゆかりの地である。此の碑の歌は、金閣寺炎上に際しての作「水ゆく岸にて」所載。

かの林泉のがり楓の下道 業火舌がなめつくしける
に続く一首である。

      昭和46年4月11日 遠つどい短歌会 小泉千樫同門 勝田秀次 

  

 

 

 


137 文京区の石碑-7-西行歌碑ほか(後楽園庭園続き)

2019-02-10 07:09:01 | 石碑

◇西行歌碑(小石川後楽園庭園)

 陸軍砲兵工廠の痕跡を追って、後楽園庭園まで来た。

一転、今度は、西行歌碑です。

入口を入り、左の道を進む。

最初の橋、幣橋を渡ってすぐに「駐歩泉」の石碑。

この辺りは、清水が湧き出ていたそうで、水戸藩九代目藩主徳川斉昭が「駐歩泉」と命名したと云われています。

「駐歩泉」は西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」に因んだもので、「駐歩泉」碑の小径を行くとその西行歌碑があります。

歌碑の文字は、斉昭の夫人芳子の筆になるものと云われていますが、剥落部分もあって、判読できません

歌碑の裏面には、佐藤一斉の「駐歩泉」記が刻されていますが、これも判読しにくい。

佐藤一斉は、昌平坂学問所の総長を務めた儒学者。

碑文は、楷書の漢文だが、文京区生涯学習課『文京の碑』1997では現代文の意訳があるので、転載しておきます。

後楽園の門を入って左の小山に流水があり、傍らに草亭を設けて西行の像を祀ってある。新古今和歌集の雰囲気がよく出ているので、斉昭公はこの流水を『駐歩泉』と命名し、三字を大書された。(中略)
斉昭公は国の政治にも大小すべての事光圀に倣っておられ、この流水すらもないがしろになさらない。私坦(一斉)は舜水には及びもつかないが、公に講義する光栄を担っており、かつ西行は私と同姓の先人でもあるので、碑記を書くことになった。
                  天保2年5月1日

西行歌碑の左には、関東大震災で焼失した西行堂の土台が残っている。

西行(1118ー1190)

18歳で兵衛尉(ひようえのじょう)となり、鳥羽院に寵愛されたが、23歳で。突然仏門に入る。

洛北の嵯峨、飛世市山辺の草庵に住み、30歳の頃高野山に入る。

源平合戦直前の治承4(1180)詠歌と仏道修行に精進した。

新古今和歌集の代表的歌人。

辞世の句は

願わくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

◇藤田東湖先生護母致命之処

 今回の「文京区の石碑」は83基がリストアップされているが、この「藤田東湖先生護母之処」が私には一番印象に残る碑だった。

「護母」というのは、地震で崩れ落ちる家の鴨居を肩で受け止め、母の脱出を助けたということ。

本人は圧死したというから痛ましい。

 この「護母之処」碑は、後楽園ジムの脇にあった。

そこが水戸藩上屋敷であったことからも分かるように、藤田東湖は水戸藩士で学者。

水戸学の泰斗であり、攘夷派の旗手として名を馳せた。

外国との軋轢には、和平交渉よりも斬り捨てる策をいつも講じたというから過激だった。

この碑は、そうした彼の思想とは無縁なエピソードを記念したもの。

安政2年(1855)10月2日、いわゆる安政の大地震が起こった。

地震発生と同時に、東湖はすぐさま脱出するが、火鉢の火を案じて家に戻る母を追って、再び邸内に。

おりしも崩れ落ちる梁から母親を守るべく肩で受け止め、母親を救出させるが、自身は力尽き、梁の下敷きとなって圧死したと云われている。

「藤田東湖先生護母致命之処」碑は、庭園北東部の梅林の奥にある。

移転先としては、最適地ではなかろうか。

 


137文京区の石碑-6-鎮魂の碑(東京ドーム)と後楽園庭園の石碑

2019-02-03 09:46:42 | 石碑

◇鎮魂の碑(東京ドーム)

都戦没者霊苑が陸軍砲兵工廠跡地に設立されたのは、適当な空き地があったからではなかろう。

軍の施設跡であったことが大きいと思われる。

東京ドームに、戦死したプロ野球選手の鎮魂の碑があるのも、同様な背景があるのではないか。

東京ドームも陸軍砲兵工廠跡地にあるからです。

鎮魂の碑は、野球博物館の前、白山通りに面して立っています。

碑は2基、向かって右が本碑、左が副碑。

本碑は「鎮魂の碑」の下に戦没選手73名の氏名が刻され、

副碑の上部には、神風特攻隊員として散華した石丸信一選手の兄石丸藤吉氏による追悼文が、そして下部には建立趣旨がはめ込まれています。

下は、石丸藤吉氏の追悼文。

追憶(ついおく)

弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。 召集(しょうしゅう)は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。「よし、ストライク10本」そこで、ボールとグラブと”敢闘”(かんとう)と書いた鉢巻(はちまき)を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。

遺族代表 石丸藤吉

73名の戦死野球選手には、沢村英二の名前もある。

生涯、何度かのノーヒットノーランを成し遂げ、背番号14は永久欠番の沢村投手だが、除隊後は肩を痛めサイドスローに転じた。

その原因は、手りゅう弾を投げすぎたことだというから驚く。

彼は、2度応召され、結局、戦死の憂き目に遭うのだが、プロになるために京都商業をやめず、大学に進学していれば、2度も応召されることはなかったと父親は嘆いていたといわれます。

◇東京砲兵工廠跡記念碑(小石川後楽園庭園)

後楽園庭園にも砲兵工廠の記念碑がある。

 

庭園に入って右の回遊路を進んで、奥の奥、木に囲まれて碑は立っている。

碑形は、砲兵工廠の敷地を表しているのだとか。

碑裏には長文の碑文が刻まれているが、読みにくい。

いくつかネット検索したが、見当たらないので、文京区役所生涯学習課『文京の碑』1997より引用しておきます。

此地ハ陸軍造兵廠東京工廠ノ旧跡ナリ。其創立ノ起源ハ遠ク徳川幕府ノ関口水道町ニ於ケル大砲製造所ニ発ス。明治二年政府之ヲ収メテ群無冠ノ下ニ造兵司ト称シ、吹上上覧所ニ置キ、四年六月之ヲ旧水戸邸跡ニ移ス。本廠即チ是ナリ。五年陸軍省ノ所属トナリ、八年砲兵本廠ト改称シ、陸軍大佐大築尚志ヲ提理トス。十二年東京砲兵工廠と称シ、造兵ノ業完備スルニ至ル。十九年五月十五日明治天皇行幸アリ、親シク各工場ヲ巡閲シ給ウ。爾来業績年放逐フテ進展シ、日進日露日独ノ三大戦役ニ参画シテ克ク兵器製造ノ大任ヲ完ウス。大正十二年陸軍造兵廠令ノ制成リ、本廠ノ組織ヲ改メ、小銃・砲具・精器ノ三製造所ヲ以テ東京工廠ヲ設立セラル。此年関東大震災ニ遭ヒ、工場ノ大半ヲ焼失シ、従業員二十四名之ニ死ス。六年満州事変起リ兵器整備ノ急ヲ告ゲ、八年遂ニ小倉市ニ移転シ、東京工廠長陸軍中将高橋貞夫ヲ長トシ、十一月小倉工廠ヲ開クニ至レリ。嗚呼春風秋雨六十余年、幾多ノ研鑽ト努力トヲ尽シテ常ニ精鋭ナル兵器ヲ製シ、累次ノ征戦ニ偉効ヲ奉ジテ我ガ武威ヲ燿シ、以テ国運ノ進展ニ資ス。本廠ノ功亦大ナルト謂ベシ。今ヤ当年大工場ノ壮観求ムルニ由ナシト雖、其業績ハ後楽園ノ翠緑ト共ニ長ヘニ不朽ナルベシ。聊カ事歴ヲ叙シテ記念ト為ス。

側面に

昭和十年三月建之 碑石ハ敷地ノ外郭ヲ象徴ス 面積十三万坪

 


137 文京区の石碑ー5-東京都戦没者鎮魂の碑(春日1-14-7)

2019-01-28 08:32:07 | 石碑

 

東京都戦没者霊苑は、礫川公園と中央大学理工学部の間にある。

戦前の陸軍工科学校跡地に昭和36年、建立されました。

園内はガランとただっ広く、入口の「東京都戦没者霊苑」の文字がなければ、霊苑だとは思えません。

唯一それらしきものは、広場中央にポツンと佇む銅板。

太平洋の地図に「太平洋戦争における地域別戦没者数一覧」の文字があります。

小笠原諸島の南に位置する硫黄島での戦死者は、20100と刻まれている。

これは戦闘員の96%、ほぼ全滅の激戦地だったが、アメリカ軍の負傷者数はこれを上回ったと報告されている。

苑内には、2首の御製が展示されている。

一つは、日本遺族会創立30周年に際し、詠まれた御歌。

みそとせを
 へにける今日も
  のこされしうからの
        幸を
    ただいのるなり 

(「のこされしうから」は遺族の意)

そしてもう一首は、正面入口から入っての突き当りにある「民生委員・児童委員顕彰碑」に刻されています。

いそとせも
 へにけるものか
    このうえも
  さちうすき人を
    たすけよといのる

参列広場というのだそうだが、長方形の広場が東西に長く横たわり、その西側にはガラスをはめ込んだ壁が立ち、その前に人工の池がある。

背景のガラス面に滝が流れ、瀧をバックに白御影の門が立ち、門の中の黒御影に「鎮魂」の2文字。

 

その前に、これも水に浮かぶように黒御影が横たわり、 縦書きの碑文が刻まれています。

撰者は文化勲章受賞者山本健吉氏。

『碑文

あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声も聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。
この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、慈にこれが辞を作る。
                                 山本健吉』

 


137 文京区の石碑-4-礫川公園と諸工伝習所跡記念碑

2019-01-20 15:01:22 | 石碑

東京に70年いるのだが、礫川公園は初めて。

 公園入口とは反対側からの写真。左のビルが文京区役所。下記の2本の木は、写真では右側にある。

公園の北側は、小石川2丁目。

「礫川」は、「小石川」の意だから「小石川公園」であってもいい。

道路の向こう、東側に文京区役所がそびえている。

公園の左手に2本の樹木が枝を伸ばしていて、それぞれに説明板がある。

左の木は、はぜの木で、向ヶ丘のサトウハチロー家の庭にあった。

童謡「小さい秋みつけた」は、この木を眺めて作詞されたという。

 

私が訪れたのは、11月初旬のことで、まだ紅葉には早かったのが、心残り。

右の木は、ハンカチの木で、作家幸田文の家にあったものという。

 

由緒のある樹木を公園に移して保存する、区役所仕事としては粋な計らいではないかと感心するのです。

公園の出口、春日通りに面して立っているのは、春日局像。

像がピカピカで真新しいのは、平成9年に造立されたばかりだから。

NHKの大河ドラマ「春日局」放映を記念してのものという。

ここは「春日1丁目」で、前を走る道は、春日通り。

銅像設立場所としてこれ以上の適地はないでしょう。

石碑の上部に刻された和歌は、彼女辞世の歌。

 

西に入る 月をいざない 法を得て
今日ぞ 火宅を のがれぬるかな

(西の方へ没してゆく月を心にとどめ 仏の道に入って 今日こそ 煩悩の多いこの世からのがれることができる)

礫川公園は段丘の突端で、入口から坂や階段を上ってゆくようになっている。

石段を上がるとその奥が、都戦没者霊苑。

霊苑の仕切りに沿って南へ行くと、片隅にひっそりとたたずむのは、「諸工伝習所記念碑」。

◇諸工伝習所跡記念碑

「伝習所」という表記が物語っているが、これは、明治初め、この地に設けられた陸軍の兵器製造技術教育の跡地。

後に陸軍砲兵工廠となります。

砲兵工廠の敷地は、元の水戸藩の屋敷跡。

現在の東京ドーム、小石川庭園、文京区役所、礫川公園、都戦没者霊苑、中央大学を含む広大な軍用地でした。

 

ところが関東大震災で壊滅的打撃を受け、九州小倉へ移転を余儀なくされます。

碑は、幾何学模様の組み合わせ、兵器製造の教育機関らしい趣向に満ちています。

碑文は、左に「諸工伝習所跡記念碑」、右に「陸軍砲兵工科学校、陸軍校歌学校跡」とあります。

碑裏の碑文は、

ここは近代陸軍技術教育発祥の地である
明治五年七月十五日政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルポン氏を招聘しここに諸工伝習所を創立してから第二次大戦終結までその名は陸軍砲兵工科学校 陸軍工科学校 陸軍兵器学校とかわったが七十三年たゆることなく陸軍技術の教育がつづけられた
本年は諸工伝習所創立百周年に当たるものでその教育を受けた有志がここに碑を建て先達の歩みに思いをいたすものである
        昭和四十七年七月十五日 諸侯伝習所跡記念碑建設委員会