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石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-3-お茶の水貝塚碑と神田上水石樋由来碑

2019-01-13 06:29:33 | 石碑

◇お茶の水貝塚碑(湯島3-1東京医科歯科大学)

 

碑というものは、碑文が読まれてなんぼ、のものですが、このお茶の水貝塚碑は、読もうにも読めない、碑としての役割を喪失した碑です。

碑があるのは、東京医科歯科大学正門入口右側の一画。

右側の門柱と白い案内板の間に「お茶の水貝塚碑」はあるのですが、石垣の上には鉄柵がめぐらされ、しかも石垣を上がるすべもないので、碑には近づけません。

下の写真はカメラのズーム機能を使ってのもので、裸眼で読むのは無理でしょう。

唯一、碑の全体を確認できるのは、右側エレベーターの中から。

以下の、碑裏の碑文は『文京の碑』からの転載です。

「昭和27年8月 地下鉄お茶の水駅の築造にあたり、この付近から多数の貝殻にまじり縄文時代の土器、石器、獣骨などが発掘され、ここが先史時代の遺構であることが確認された。池袋、お茶の水地下鉄開通10周年を記念してこれを建てる。
                          昭和39年1月

この地点の標高は、約15m。  

現在では想像しにくいが、先史時代は海がここまで入りこんでいたことがわかります。

大学敷地は、江戸時代幕府の役人の住居地でもあって、先史時代の貝塚の上に江戸時代の住居跡があるという特異な場所となっています。

お茶の水貝塚の出土品の写真を探すも見つけられず、文京区の文化財担当者に問い合わせしたが、出土品の保存場所は分からないとのことでした。

 

 

◇神田上水石樋由来碑(本郷2-7-1本郷給水公苑)

この見事なバラ園は、入場無料。

都心の一等地。

建物の屋上。

どれもが意外なこのバラ園は、都の本郷給水施設(文京区本郷2-7)の上部に作られています。

 

洋風庭園に50種400株のバラが咲きみだれる、知る人ぞ知る隠れた名所。

和風庭園の一画に横たわる石垣の掘割は、江戸時代の神田上水の石樋の再現。

石樋をバックに石碑が2基立っています。

一つは、自然石に「神田上水石樋」。

その横に黒御影で「神田上水石樋の由来」。

逆光での黒御影の刻字は、ほとんど判読不能。

苦心の上読んで分かったことは、碑文は作家杉本苑子氏によるものらしい。

お役所仕事としては、異質な石碑ということになる。

神田上水石樋の由来
神田上水は天正18年すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。この上水は井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中掛樋で神田川を渡して神田・日本橋方面へ給水していました。日本における最初の上水道といわれ、その後明治34年近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮らしに大きな役割を果たしてきたのです。ここに見られる石樋は昭和62年文京区本郷1丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。平成210月 杉本苑子誌(碑文)

 ◇芭蕉句碑「花見塚」(本郷1-8-3昌清寺)

 

「桜狩り きとくや
 日々に 五里六里」

この句碑は寛政6年(1796)、芭蕉百回忌に建てられたが、現在碑は昭和59年、当寺住職によって再建されたもの。

この碑には、去年の秋、一度訪れている。

「東京の芭蕉句碑巡り-9」https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=017b3a0e2b66d7ab3542fa819c52dd44&p=3&disp=30

に句碑と寺の歴史については書いてある。

同じことを書くのも気が進まないので、今回は、カット。

上記ブログをお読みください。

 

      


137 文京区の石碑-2-孔子銅像建立の記と道標昌平坂

2019-01-05 08:18:41 | 石碑

 ◇孔子銅像建立の記碑

斯文館の西側に3枚の碑文が並んでいる。

そのうちの1枚は、これも「孔子銅像建立記」。

転載しておきます。

 

 

 孔子銅像建立記

 

湯島聖堂ハ元禄ノ創建以来ホボ三百年ヲ経タリ 江戸時代ハ固ヨリ明治大正昭和三代に亘リ毎歳孔子祭祀ノ典礼ヲ挙行シテ止ムコトナク我ガ国文教ノ中心トシテ綿々以テ今日ニ及ブ
峉春中華民国台北ライオンズクラブ会員聖堂参拝ヲ機トシ孔子銅像一基建立ノ議アリ本会ハ文部省文化庁初メ関係方面ト協議ノ上欣然コレヲ受納スルニ決セリ 本像は像高十五呎重量一噸半 蓋シ巨大ナルコト世界第一ニシテソノ鋳造製作ノ経緯ハ別掲ノ中華民国国際獅子会蔡馨發秘書長ノ碑記に詳ラカナリ

 


抑々今次ノ大戦ニヨリ桑滄ノ変ニ遭遇シ東京都民ニシテ猶コノ聖堂ノ存在ヲ知ラザル者漸ク少ナカラズ 世乱レ時危ク道義将地ニ墜チントス コノ秋ニ当リ萬世ノ師表タル夫子ノ忠恕ノ道ヲ紹述シ温故知新ヨク仁義ヲ天下ニ明ラカニスルハ是レ正ニ現下ノ急務ト謂フベシ 本銅像寄贈ノ趣旨亦蓋シ此ニアリ 茲ニ敬ンデ台北獅子会蔡馨發秘書長周宏基会長亜東関係協会馬樹禮中日代表初メ中華民国ノ関係各位及ビ我ガ国本像建設委員会ノ灘尾弘吉植村甲午郎等諸彦並ニ本事業ノ関係者ニ対シテ深甚ナル謝意ヲ表スルモノナリ 
石ニ勒シテ後日ニ傳ヘ以テ斯文未ダ喪ヒザルヲ示サントスト云爾
昭和五十年十一月三日 文化節 財団法人斯文会会長 徳川宗敬撰
                      理事 麓保孝書

 ◇古跡昌平坂道標
湯島聖堂正面口の右角に小さな道標があって「古跡昌平坂」と読める。

 小さいので、気づかない人が多いのではないか。 

 聖堂の東の壁に沿って南北に延びる坂道が゛「古跡昌平坂」。

 別名「団子坂」というのは、急坂で団子のように転げ落ちるから。

 区界でもあって、道の向こう側は千代田区。

 実は、湯島聖堂の前、神田川に沿って下る道もかつては昌平坂と呼ばれていた。

 

 

同じ名前の坂道が別々にあるのは不思議ですが、上野からここに聖堂を移転させたとき、幕府は聖堂の周りの坂を全部「昌平坂」にするとお触れをだしたというのです。

 今は、聖堂の前、南側の道は「相生坂」と呼ばれています。

 文京区教委の説明板に「相生坂(昌平坂)」とあるのは、「団子坂の昌平坂と区別してこちらは相生坂と呼ぶ」という意味。

 もう一つ、知ったかぶりを言うと「相生坂」は固有名詞ではありません。

 神田川対岸に並行する「淡路坂」と対の形で「相生坂」と呼ばれるのです。

 

                        淡路坂

 

   

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑-1-孔子銅像建立の記(湯島聖堂)

2019-01-01 08:19:24 | 石碑

 

 新年おめでとうございます。

 

このブログ作成には、いつも何らかの参考資料があります。

資料で知った場所を訪れ、資料にあるのと同じ写真を撮って、UPするのですから、いわば資料をなぞるだけ、無駄な行為です。

でも、意義があるとするならば、それは私にとっては、勉強になるから。

今回の参考資料は『文京の碑』。

文京区教育委員会生涯学習部社会教育課が1997年に発行したもので、著者は「文京ふるさと歴史館友の会・地域調査石碑研究グループ」。

去年の4月ー6月に書いた「徳本行者と名号塔」シリーズのメインの資料は、平塚市博物館刊行の『平塚の石仏』でした。

調査、執筆したのは地元有志の「石仏を調べる会」。

地元を知り尽くした人たちが、33年間かけて調べあげた石造物は3058基。

他所者の「学者・専門家」など望むべくもない精緻な調査です。

そうした意味で、今回の「文京の碑」も地元の人でないと見落としがちな隠れた石碑を取り上げている可能性が高く、期待が高まります。

では、早速、文京区の南東の端、お茶の水界隈から。

◇孔子銅像建立の記(湯島聖堂)

湯島聖堂に来ると、ふと口ずさむのは、さだまさしの「檸檬」。

「♯ あの日湯島聖堂の白い階段に腰掛けて・・・」

腰掛ける白い階段は、聖橋門から降りる階段なのか、

大成殿へ上る石段なのか、どちらだろうか。

石段を上ると正面に大成殿(孔子廟)。

聖堂は、寛永9年(1632)、林羅山が上野忍ケ岡の邸内に建てたのが始まりで、元禄3年(1690)、綱吉により、現在地に移転した。

聖堂を「大成殿」と命名し、扁額を書したのは、綱吉だったといわれます。

寛政年間には、「昌平坂学問所」となり、教学の中心として、活況を呈します。

明治維新後、この地に文部省が置かれ、師範学校、博物館、図書館が設置されたのは、ここが教学の中心地だったからでした。

茗荷谷にある「お茶の水女子大」は、発祥地の地名を校名にしているのです。

大成殿を出て、正門方向へ。

丁度、敷地の中ほどあたりに巨大な孔子像が立っている。

高さ15尺(約5メートル)、世界一の孔子像だとか。

年(1975)、台北市ライオンズクラブから贈られたもので、銅像前に建立由来碑があります。

孔子銅像建立ノ碑

 孔子ハ約二千五百年前ノ春秋時代ノ魯ノ國ノ人デアル 幼ニシテ父ヲ喪ヒ下級官吏ヨリ身ヲ起シ國王定公ニ用ヒラレ大夫トシテ國政ニ参與シテ十數年大イニ治績ヲ擧ゲタガ後ニ意見ガ合ハズ退任シ門弟ト共ニ諸國ヲ周遊シテ容レラレズ晩年故郷ニ歸リ人ノ人タル所以ノ道ヲ説イテ七十餘歳デ逝去シタ ソノ子孫ハ治亂興亡ヲ經テモ相傳ヘテ直系七十七代孔徳成ニ至ツテ居テソノ孔子廟ト孔家歴代ノ墳墓ハ山東省ノ曲阜ニ今猶嚴然トシテ存シテ居ル 孔子ノ言行録デアル論語ハ今日ても廣ク世界中ニ讀マレテヰル カクノ如キハ他ニ比類ガナイ 今ヤ洋ノ東西ヲ問ハズ人類ガ擧ゲテ混迷ニ陥ル時ニ萬世ノ師表タル孔子ノ忠恕ノ道ヲ傳ヘ仁義ノ徳ヲ明ラカニスルノハ喫緊ノコトデアリマタ吾人ノ責務デアル

コノ孔子ノ銅像ハ昭和四十九年臺北城中らいおんずくらぶ周宏基會長等ガ湯島聖堂ニ参拝シ元禄以来三百年ノ由緒アル史跡ニ感銘ヲ受ケ國立臺灣師範大學開明徳教授ニ依嘱製作シ寄贈シタモノデ唐ノ呉道子ノ筆ト傳ヘル孔子畫像ヲ基調トシテ鋳造シ昭和五十年十一月三日文化節ニ建立シタ丈高十五尺重量ニ噸ノ世界最大ノ孔子像デアル茲ニ聊カ建立ノ由來ヲ記シ世ニ傳ヘル

  昭和五十七年十月先儒祭ノ日

            財團法人 斯文會

建立由来記碑を覆うように枝を広げている大木は、「楷の木」。

中国曲阜にある孔子の墓所にある木で、別名孔子木というのだそうだ。

枝や葉が生整然としているので、楷書の語源となったと解説板には書いてあります。


108 佐渡の義民碑(下)-天保の一揆ー

2015-08-01 05:43:05 | 石碑

佐渡の天保の一揆は、別名、善兵衛騒動と呼ばれます。

 義民中川善兵衛肖像(『近世の羽茂』より)

それほど義民中川善兵衛が、主人公として際立った一揆でした。

羽茂の気比神社に立つ「中川善兵衛追遠碑」は、明治16年の建立。

撰者円山葆(しげる)こと円山溟北は、明治期の佐渡教育会の父と呼ばれた学者。

天保の一揆の時は、江戸で遊学中でしたが、善兵衛と同時代人、碑文の撰者として最適格者だと云えるでしょう。

碑文は、1176字の長文の漢文。

善兵衛を中心に天保の一揆を詳述しています。

今回は、この「中川善兵衛追遠碑」(の書き下し文)をベースに天保の一揆を振り返ります。

天保之初。海内大飢。吾州最甚。飢餓載路。(天保の初め、海内大いに飢え、吾が州最も甚だし。飢餓路に載(み)つ。)」

すべて事件には、その前兆があり、前史がある。

江戸三大飢饉の一つ、天保の飢饉は、天保4年(1833)から6年間、東北地方を襲った。

           凶荒図録より

餓死者が相次ぎ、米価は上がり、各地で一揆や打ち毀しが頻発した。

佐渡も例外ではない。

例外ではないどころか、どこよりも早く、文政12年(1829)には、凶作がはじまっていた。

天保になっても凶作は続き、佐渡奉行所は年貢米を蔵からだして飢える島民に支給します。

これは幕府の意向に反することだったが、民生を安定させる選択肢が他になかったのです。

米価の変動は激しく、莫大な利益を手にした米屋は、値下げ要求に耳を貸さず庶民の怨みを買った。

是の歳将軍新たに立ち、使を天下に分ちて、民の疾苦を問はしむ。使番木下内記等実に北国を巡視す。上山田村の民中川善兵衛之を聞き、蹶起して曰く、吾将に請ふ所有らんとすと」(以下書き下し文で)

天保9年(1838)、将軍となった徳川家慶は全国に巡見使を派遣する。

巡見使は、諸国の百姓の意見を聞くことが役目で「百姓共訴訟の事も候はば、少しも差控えず、訴状を以て申し出 候ように」(巡見先触れの御書付け)と苦情を申し出ることが推奨された。

  HP島根県「巡見使道」より借用

だから中川善兵衛が巡見使に訴状を提出しようとしたのは自然の成り行きでした。

中川善兵衛は羽茂・上山田村の若名主で34歳。

彼は、村山村の神職豊後や畑野村四郎左衛門と相談の上、3月から4月にかけて新穂村や畑野村で場所を変えながら秘密の会合を開き、訴状の内容を協議し、最終的に200か村の調印をまとめます。

ここでちょっと寄り道。

これまで佐渡の義民史というと、舟崎文庫の『佐渡一国騒動記』が底本でした。伊藤治一『佐渡義民伝』や小松辰蔵『佐渡の義民』、田中圭一『天領佐渡』も『佐渡一国騒動記』をベースにしています。しかし、「『佐渡一国騒動記』は軍記本で講談と大差なく真実とは程遠い」と批判する向きが出てきます。『近世の羽茂ー羽茂町史第3巻』がそれ。
『近世羽茂』の執筆者が参考にしたのは、『幕府評定所記録』。取り調べでの善兵衛の発言の記録を重視しようとするものです。
200か村の調印をまとめるまでの会合日時と場所も両者では微妙に異なります。
         佐渡一国騒動記       幕府評定所記録
最初の会合   3月8日 新穂山王社     3月15日 八幡村八幡社
二度目の会合  4月12日 瓜生屋大日坊   3月18日 加茂明神
三度目の会合  4月16日 横山村蔵王権現  3月21日 瓜生屋大日堂
四度目の会合  4月17日 後山村本光寺   3月25日 横山村蔵王権現
願書提出場所       新穂村          和泉村     (『近世の羽茂』P741より)

どちらかが捏造したとしても、片方を参考にしたのではないか、それほど 違うようでいて、よく似ている。両者の差異は、江戸での評定所取り調べまで続きます。しかもややこしいのは、このブログのベースにした円山溟北撰「中川善兵衛追遠碑」の内容も、この両者と異なります。石碑なので字数が制限され、省略部分があるにせよ、独自の内容もあって 捨てがたい。私には、どれが史実に即しているか判断する能力はないので、既定方針通り、「追遠碑」をベースにして進めてゆきます。   

訴状は18か条からなり、三つに大別されます。

その第一は、税の二重課税の廃止。

例えば(第1条)五斗入り一俵で年貢を納める時、百石につき四石の口米(年貢米納入時に目減りした分を補う付加税)を別納させるのはは二重課税だ、など。

その二は、広恵倉の廃止。(注1)

その三は、奉行所が握っている許認可権を廃止して、他国出しの商売を自由にさせろという要求。

その四は、役人の不正。相変わらず賄賂が横行していると具体例を挙げる。

『佐渡義民伝』や『佐渡の義民』では、巡見使に訴状を手渡すことが、奉行所の役人の妨害で、いかに困難だったか記述されているが、「追遠碑」ではすんなり受け取ってもらえたようです。

   北陸街道巡見使行列復元(出雲崎市)

使者曰く、越訴は事重し、吾の専断するを得るの所に非ず。今姑(しばら)く封書を受けん。」

「明日相川の宿舎にきてくれ。いくつか質問もあるから」と云われ、善兵衛は相川へ行きます。しかし、門番は巡見使に取りつがない。取りつがないどころか、役人たちは善兵衛を逮捕しようとします。

善兵衛曰く、公未だ情を知らざるのみ、さきに上使、封を受く而して令して使館に来たれと曰う、公焉んぞこれを阻むことを得んと

この間、巡見使は相川を出発して小木に向かっていた。やっと逮捕を免れた善兵衛は、小木へと巡見使をおいかけます。善兵衛に従って宿舎の門外に集まった百姓たち300人余を、役人たちは道路の両側をふさいで、閉じ込めてしまう。

黎明、使者、隙を窺ひ、将に船に上がらんとす。善兵衛纜(ともづな)をとりて命を請ふ。纜絶へ、沙に伏して号泣す。舟行くこと飛ぶが如し。幕政は凡そ訴ふる者を聴かず」。

「幕政凡訴者不聴」に撰者の怒りが込められている。

上使の裏切りに落胆し、号泣する善兵衛をさらに追い詰める出来事が・・・

役人が善兵衛を逮捕して相川に押送したのです。

善兵衛逮捕の報は島全体にあっという間に広がり、八幡野に集まった島民はおよそ1万人(『佐渡の義民』では7万)。

興奮した群衆は、相川に八幡野の情勢を通報した八幡村の名主の家を打ち毀します。

皆謂ふ火を放ちて獄を毀し、善兵衛を奪ひ、贓吏を殺戮せよと。郡吏、正房(佐渡奉行鳥居正房)に説きて曰く、愚民蠢動す、是れ小事に非ず、姑(しばら)く善兵衛を出して之を紓(と)くに如かずと、乃ち放ち出だす

釈放されて来た善兵衛に、八幡野では歓喜の声がこだまする。

誰ともなく、「奉行所と結託して利益をむさぼり、善兵衛逮捕に協力した小木の問屋は許せない」と声が上がる。

「そうだ、やっちまえ」、賛同する声が四方から飛び交う。

善兵衛手を揮(ふ)って曰く、是れ乱民なり、敢て行くべからず」。

「手荒な事をすれば願い筋への差しさわりになる。是非止めてほしい」と善兵衛はみんなに懇願する。

しかし、興奮した群衆は善兵衛の頼みにも耳を貸そうとしない。

「お前様には迷惑はかけないから」と一斉に小木にむけて駆け出した。

遂に隊を結びて四散し、民屋を発(あば)き、使館を毀ち、勢い極めて猖獗す」。

暴徒が向かったのは、大別して3種類。

小木問屋衆と米商人それに一揆に対しての非協力者。

打ち毀された小木の問屋は9軒。

奉行所に取り入り利益をむさぼるばかりか、善兵衛上訴を妨害し、逮捕に協力的だったから、まず一番に狙われた。

HP 八戸市博物館より借用

各村々の米屋も襲撃された。

相次ぐ飢饉での米価高騰は彼らに莫大な利益をもたらした。

前浜から羽茂の7か村9軒の米屋がやられた。

佐渡の天保の一揆が、前の寛延、明和の一揆と違うのは、打ち毀しをともなったことにある。

寛延や明和の一揆は、寛延の越訴、明和の強訴とした方がいいかもしれない。

折しも暴風での高波を避け、小木港に避難していた船300艘。

打ち毀しの惨状を目の当たりにした船頭は、逃げるようにシケの海に漕ぎ出していきます。

佐渡の一揆は、こうして港々に伝わり、かくして「変、江戸に聞こゆ」。

前年、大坂での大塩平八郎の乱は、記憶に新しい。

事件の拡大を怖れた幕府は、篠山佐渡奉行を帰任させるにあたり、高田藩兵500人を同行させ、鎮圧にかかる。

是に於て、善兵衛再び逮捕に就く。並びに其の党六人、皆獄に下る

善兵衛とともに逮捕されたのは、村山村の神職・宮岡豊後、上山田村・助左衛門、畑本郷村・四郎左衛門、同・李左衛門、加茂村・半左衛門の5人。

己亥 江戸に押送す。獄に在ること七日にして、七人皆痩死す。嗚呼 奇怪なるかな」(*宮岡豊後は相川で獄中死)

翌天保10年、裁判を江戸評定所に移すことになり、一同は4月3日、伝馬町に入牢した。

 牢屋敷跡地の大安楽寺(小伝馬町)

打ち毀し各所のリーダー12人を含め、百姓18人は4月15日に伝馬町から品川溜りに移され、1週間を経ずしてほぼ全員が病死する。

病死というのは評定所の記録で、「奇怪なる」この連続変死は、巷間、毒殺によるものと云われている。

寛延の一揆では2人、明和の一揆では1人だった義民の犠牲者は、天保の一揆で、一挙に19人を数えた。

しかし、天保11年(1842)、新任佐渡奉行川路聖謨が言い渡した判決では、獄門は善兵衛、死罪は宮岡豊後の2人だけ。

残りは遠島から所払いまで軽重さまざまなれど、その判決を生きて受けた者は一人としていなかった。

役人側は、奉行鳥井正房が御役御免になった。

奉行正房免に坐す。余は皆無罪と云ふ。甚だしき乎」。

そして、撰者・円山溟北は、かく悼む。

善兵衛身を以て国に殉(したが)ひ、反って煽動者の誤まる所と為り、徒らに獄中に死す。悲しいかな善兵衛の死、今を距ること殆ど五十年。民の思慕、猶ほ昨日の如し」。

以上、天保の一揆の顛末記は終わり。

参考図書によって、日時と場所、人物がいろいろと食い違い、どれが真実に近いか判断不可能。

今回ベースにした「中川善兵衛追遠碑」の記述も信頼できるかどうかわからない。

そのつもりで読んでいただきたい。

食い違いは細部にあって、大筋では差異は少ない。

だからストーリーは、大体こんなものでしょう。

事件の流れにばかりとらわれて肝心の石碑、石塔をないがしろにしてきた感があるので、話をもとに戻そう。

天保の一揆関連の石碑といえば、中川善兵衛、法名光明院普観長善居士につきるでしょう。

彼の墓は、上山田村の通称「善兵衛平」にある。

覆い屋の下にある供養塔は、天保の一揆から50年後の明治20年に建立された。

中央に、光明院普観長善居士(善兵衛)、右に源保只正(宮岡豊後)、左に指月院稱国茂雄居士(大倉助左衛門)が刻されている。

大倉助左衛門は上山田の人。

訴状を清書しただけなのに、品川溜で「病死」した。

この善兵衛平には、寛延と明和の義民碑もある。

 

中央に、明和一揆の権大僧都法印憲盛、右に忍誉蓮心居士(太郎右衛門)、左に釈涼敬(椎泊村・弥次右衛門)と寛延の犠牲者二人の供養塔。

天保の一揆の3年前、天保6年建立だから、善兵衛は施主の中心メンバーだったのではないか。

5年後、自ら同じ運命をたどることになろうとは、つゆ思わずに・・・

寛延の太郎右衛門、明和の遍照坊智専、天保の中川善兵衛の3人だと、中央は遍照坊智専が占めるケースが最も多い。

時代順で2番目だからでもあるが、百姓の身代わりになった犠牲者のイメージが強いからだろうか。

寛延の一揆では、義民それぞれの顕彰碑が村にあるが、明和の一揆では、法印憲盛、天保の一揆では、善兵衛の石碑ばかりで、他の義民の供養塔はほとんど見かけない。

天保の一揆では、加茂村の後藤半左衛門の供養碑が例外的な存在。

加茂歌代の開発センターは、その昔、お堂だったのでしょう。

センター前には10数基の石碑が並んでいる

が、玉垣で囲われ、ひときわ手厚く保護されているのが、半左衛門供養塔。

右から2番目、玉垣の中におわすのが「一国義民後藤半左衛門殿碑」

半左衛門の人となりを『佐渡の義民』は次のように述べている。

少し長いが引用しておきます。

 「半左衛門に加茂郡一国惣代を依頼すべく訪問した善兵衛は、大小を腰にさして武士に変装、わざと麦畑を踏みつけて歩いた。これを見た半左衛門は『そこを通るは犬か猫か』と叱咤した。『侍に向かって犬猫とは無礼千万』と善兵衛が云うと「百姓が汗水流して作った麦を踏みあるくのは、犬猫同然ではないか」と答えた。『しからば道の草をなぜ刈らぬ。道は道らしくするものだ』との悪罵には『去年からの不作で百姓は生きてゆくのがやっと。道の手入れなどやっていられない。侍の癖に百姓の難儀を知らぬのか、まぬけめ』と怒鳴り返した。善兵衛は感激しながらも『不届きもの、覚悟せよ』と刀に手をかける。少しも恐れることなく『勝手にせよ』とあぐらをかく半左衛門に『半左衛門殿、失礼した』と身分を明かし陳謝して、一国惣代になってくれるよう心から頼んだ」。

江戸の牢中で「病死」した時、半左衛門61歳。死後告げられた罪名は遠島だった。

法名、一以貫通居士。

 

佐渡の一揆を、(上)寛延の一揆、(中)明和の一揆、(下)天保の一揆と3回に分けて見てきた。

栗野江・城が平の一国義民殿に祀られている義民は、23人。(慶長の一揆は外して)

しかし、何度も言うが、寛延の一揆を例外として、明和、天保の一揆では、法印憲盛と善兵衛以外の義民供養塔は極めて少ない。

では、彼らの名前や戒名はどこにもないかというとそんなことはないのです。

義民合同供養塔とも言うべき石塔にその名が刻されています。

合同とはいえ23人全員ではなく、その人数と人選はバラバラで、村や建立年によって異なっている。

写真フアイルにある義民合同供養塔を並べておきます。

刻されているのは誰なのか、肝心の法名が判読できない碑面が多いので、ここに書き出すつもりだが、縦書きの碑文を横書きにするのは、なんとなく座りが悪い。

そこで、祝勇吉さんの労作『佐渡島内石仏・石塔集大成』から祝さん作成の手書き碑面を写真にして載せておきます。

碑文の右側のフリガナは、祝さんがつけたもの。

〇常信寺(東二宮)

 

 

平屋の民家風で見逃すところだった。

背後の墓地で寺だと分かった。

左端に顔を出しているのが、佐渡最高峰の金北山。

ここらあたりが金北山が見える西の限界地点か。

義民合同供養塔を探すが、見つからない。

無住だから訊きたくても人がいない。

困り果てていたら、なんのことはない、墓地の入口に放置されていた。

合同供養塔というので「大きい」と思い込んでいたのが、災いした。

70㎝くらいの自然石で、白いコケがスポットライトのように見える。

 

 参考のために、一国義民殿に祀られている義民26人の名前と法名一覧を載せておく。

 

◆慶長の義民(慶長8年(1603

新穂村 半次郎
北方村 豊四郎
羽茂村 勘兵衛(臼井氏)

◆寛延の義民 寛延2年(1749

A-1 辰巳村 太郎右衛門(本間氏) 「忍誉蓮心居士」宝暦2-7-18
A-2 椎泊村 弥次右衛門(緒方氏) 「釈涼敬」宝暦2-7-18
A-3 椎泊村 七左エ門(本間氏)
A-4 川茂村 弥曽右衛門(風間氏)
A-5 吉岡村 七郎左エ門(永井氏) 「真密院浄戒法子」明和2-4-5
A-6 新保村 佐久右衛門(本間氏) 「浄覚俊明庵主」宝暦9-10-15
A-8 泉村 九兵衛(久保氏) 「即應浄心沙弥」安永8-6-14

◆明和の義民 明和4年(1767

B-1 長谷村 智専(遍照坊) 「権大僧都法院憲盛」明和7-3-21
B-2 畑野村 文左エ門(熊谷氏)
B-3 畑野村 藤右衛門(本間氏)
B-4 畑野村 六郎右衛門
B-5 小倉村 重左エ門(中村氏)
B-6 小倉村 重次郎(中村氏)
B-7 後山村 助左エ門(羽二生氏)
B-8 舟代村 五郎右衛門(後藤氏)
B-9 瓜生屋村 仲右衛門(本間氏)

◆天保の義民 天保9年(1838

C-1 上山田村 善兵衛(中川氏) 「光明院普観長善居士」天保10-4-23
C-2 上山田村 助左エ門(大倉氏)「指月院稱国茂雄居士」
C-3 村山村 豊後(宮岡氏) 「源保忠正」天保10-2-24
C-4 畑野村 四郎左衛門(後藤氏) 「一国院園観居士」天保10-4-24
C-5 畑野村 李左衛門(中川氏) 「本有院光栄居士」天保10-5-3
C-6 加茂村 半左衛門(後藤氏) 「一以貫通居士」天保10-8-17

 

 〇地蔵堂(河崎)

 

 

晃照寺への坂入口の群碑の中に義民合同供養碑がある。

碑面に8人の法名、台石に8人の名前が刻されている。

  

〇大光寺(豊田)

 

 

境内にも墓地にもない。

諦めて車に乗ろうとしたら、目の前にあった。

寺からちょっと離れて、道に面して、囲いの中に堂々と立っている。

上段横に右から「一国義民」、その下2段上下に7人ずつ14人。

上段中央は、法印憲盛、下段中央は中川善兵衛。

〇地蔵院(滝平)

 

 

地蔵院の石仏群は、いい。

参道石段入口に立つ2本の石柱に坐す十一面観音(左)と地蔵(右)が素晴らしい。

その左に並ぶ石仏群の中に私の大好きな3猿庚申塔がある。

義民合同供養塔もこの石仏群の中にある。

上段に4人、下段に各霊位の両脇に5人ずつ10人、計14柱の法名が読める。

上段の指月院稱国英雄居士は、上山田村の大倉助左衛門。

太郎兵衛よりも椎泊村の弥次右衛門が上位にあるのも珍しい。

どんな理由があるのだろうか。

 〇阿弥陀堂(山寺)

 

 

石碑、石塔を探し求める旅は、私にとって新しい佐渡との出会いの旅でもあります。

車で随分あちらこちら走り回った気がするが、佐渡は奥深い。

まだまだ、初めての土地にぶつかったりします。

山寺もその一つ。

赤泊から東光寺に向かう旧殿様道にあるのだが、今は県道65号真野赤泊線ばかり利用するから、つい初めての道になってしまう。

東光寺から海岸に向けてどんどん下ってゆく。

どこかで訊かないと赤泊に行ってしまうぞ、と車を停める。

運よく、向こうから人が歩いて来る。

「阿弥陀堂はどこですか」と訊いたら「ついてこいっちゃ」。

なんと阿弥陀堂は、運のいいことに、その人の家の後ろにあったのです。

阿弥陀堂への道の右側に宝篋印塔と並んでこれまた大きな供養塔。

最上段に「佐渡 殉国 義民 追慕 之碑」と右から縦書きで2文字ずつ5行。

その下に片岡太郎右衛門と椎泊弥次右衛門、中央に遍照坊智専、左に中川善兵衛の4人の名前。

 

大きい碑なのに4人だけなのは、その下にそれぞれの略歴があるから。

ちなみに、中川善兵衛の略歴は下記の通り。

「天保ノ変災我州最モ甚シク餓死スル者多シ 上山田村善兵衛意ヲ決シ同志ト計リ宝暦以来ノ時弊十八ケ条ヲ具し幕吏ニ訴フ 遂ニ捕ヘラレテ江戸ニ押送リセラレ天保十年四月二十三日獄に死ス」

「明42年9月建設 山寺郷中外有志者」とあり、珍しく石工名が刻まれている。

「石工 大字滝平 和泉幸吉」

〇養禅寺(赤泊・新保)

 

 

山寺から南へ走り出す。

すぐ海岸線に出る。

右折して小木方向へ。

新保の養禅寺にも義民合同供養塔がある。

上段に3人、中段6人、下段5人の計14人の法名が刻されている。

 

上段は、右から善兵衛、遍照坊智専、椎泊村弥次右衛門の3人。

太郎右衛門ではなく、弥次右衛門であるのが、珍しい。

珍しいと云えば、碑面の右側「天下泰平」の下の「昆虫退散」。

虫供養百万遍念仏を思い出させる4文字です。

そういえばこの地域は今でも百万遍念仏が行われているようです。

供養塔の前に広がっているのは、越佐海峡。

佐渡とはいえ国中ばかり回っていると島であることを忘れてしまう。

久しぶりの海に島であることを再確認。

 

(注1)広恵倉(こうえそう)は、佐渡奉行所の地役人田中従太郎の建白により設置された。その目的は、①米価が安い時米を買い置き、高い時売って得た利益で貧民を救済する。広恵倉設立のため、百姓も一石52文の出金をする。②とめどなく進行する窮乏化を防ぐには、他国品を買うばかりで、増大する一方の金銀の流出をストップしなければならない。そのためには、他国との交易が不可欠だが、他国商品を特定商人に買わせることによって、他国商人の横暴を抑え、他国商品販売の主導権を佐渡側に奪回しなければならない。

広恵倉は、ほんの初期の間、田中従太郎の理想通りに機能し、運営されるが、やがて島民の期待を裏切るようになる。文政11年(1828)の不作に、奉行所は、広恵倉の米を買って年貢を納めるよう、百姓を指導する。広恵倉があることが、年貢納入を強制することとなった。悪いことに、広恵倉に売った時は、1俵5斗2升入りだったものが、払い米の1俵は4斗6升でしかなかった。百姓たちが怒るのも無理はない。

また、特定商人に他国との交易権を認めたことは、自由に商売することを妨げることになり、不平不満が続出する。

天保一国騒動の判決で、幕府評定所は、二重課税については認めなかったが、広恵倉についてはその機能停止を命じた。以降、広恵倉は、公的金貸し機関と堕して行く。島の商品流通は混迷を深め、他国に販売する商品の規格は崩れ、値段は下落した。佐渡の商品は信用を失い、他国で売れにくくなった。島民の生活は、困窮の度合いを深めていくことになる。(田中圭一『天領佐渡』より丸ごと流用)

 

 

≪参考図書≫

〇『近世の羽茂―羽茂町史第3巻ー』羽茂町 平成5年

〇祝勇吉『佐渡島内石仏・石塔など集大成(義民碑編)』昭和63年

〇山本修之助『佐渡碑文集』佐渡叢書刊行会 昭和53年

〇田中圭一『天領佐渡(1)』刀水書房 1985

〇伊藤治一『佐渡義民伝』佐渡農事協会 昭和13年

〇小松辰蔵『佐渡の義民』佐渡観光社 昭和42年

〇北見喜宇作『課税の変遷と佐渡義民始末』金沢村教育会 昭和13年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


107 佐渡の義民碑(中)-明和の一揆ー

2015-07-16 07:13:11 | 石碑

畑野から松ヶ崎へ。

長谷寺を過ぎるとやがて小倉の集落に入る。

県道を左に折れると5基の石碑がある。

遠い背後に物部神社が見える。

この石碑群に注目するのは、5基のうち3基に「餓死」の文字が読めるからです。

向かって右端の石碑、中央に「為餓死病死有縁無縁霊魂之法界平等利益也」とあり、右に「宝暦十一辛巳年 施主 当村男女等」、左に「六月 修善日達 願主 定賢 建外」と彫られています。

江戸時代、佐渡には3回の大飢饉があった。

宝暦と天保と嘉永。

宝暦の飢饉は、宝暦5,6年(1755-56)。

寛延の一揆が収束してわずか5年後のこと。

「空前絶後の」という形容句がぴったりの大飢饉でした。

宝暦11年(1761)建立ということは、、宝暦の飢饉での餓死者、その5回忌ということになります。

右から2番目と左端の石碑は、両方とも「嘉永七年建立」で、「為餓死百回忌菩提」の文字があります。

何百人もが餓死した大惨劇を村人たちは100年間、語り伝えてきた、ことが分かります。

それとは別な建立目的があった、という人もいます。

飢饉に見舞われるのは、先の事変での不慮の死者に対する供養が足りなかったからだ、という考えが当時はあったんだとか。

だから、嘉永2年(1849)から毎年続いた自然災害による凶作に慄いて、嘉永7年(1854)、宝暦の飢饉の餓死者供養の百万遍供養をしたのではないか、これは畑野町史の見解ですが、面白いので紹介しておきます。

碑が巨大な自然石であるのは、その重さが地下の災厄を招く悪霊を沈めると信じられたからなのだそうです。

 

では、空前絶後の宝暦の大飢饉とは、いかなるものだったのか。

被害が最大だった小倉村と猿八村では、370人もの餓死者が出たとの記録があります。

現在の猿八村。耕地整理されて水田一枚一枚が広い。昔は畳1,2枚の千枚田だった。

死者が相次ぐという究極の不幸は、同時に、新たな問題を生み出しました。

労働力の減少!

翌春、耕作されないまま放置された田んぼが出現します。

猿八村での一番の大百姓、徳兵衛家は長男を残して一家全員餓死。

    イメージ映像(本文とは無関係です)   

その長男を引き取った小倉村の親類は、1町5反の田の引き受け手を探すが見つからない。

当時、1町歩を超える田は価値ある財産、引き受けてがないなどとは、信じられないこと。

それほど働き手がいなかったのです。

村方ご相談の上、誰人にても入替なさるべく候(誰が耕作しても文句はいいません)」という証文を、小倉村の親類は猿八村の名主に提出しています。

「握り飯田」と云う言葉は、握り飯と交換した田という意味ですが、この頃、できた言葉だそうです。

 

耕作者不足は、奉行所にとっても深刻な問題でした。

年貢の減収に直結するからです。

実は、幕府は寛延の事件のあと佐渡支配の体制を奉行+代官に強化しました。

年貢徴収業務を奉行所から切り離し、代官所で厳格に行うことにしたのです。

宝暦の飢饉時の代官は、藤沼源左衛門と横尾六右衛門、奉行は石谷清昌でした。

年貢徴収に辣腕をふるうべく来島した代官たちを待っていたのは、この耕作放棄田問題。

彼らは、日当を支払って人足を駆り集め、小倉村26町7反歩の作付けをします。

猿八村も同様でした。

村人が飢えていれば、農作業は進まない。

援助米を男一日2合、女1合を与えることにし、年貢の減額も行いました。

小倉村の物部神社の境内社「藤源神社」の祭神は、なんと代官藤沼源左衛門。

   藤源神社(小倉村)

あまりの不条理、不合理、支離滅裂に言葉を失います。

猿八村の法華堂にも、不条理な石碑があります。

        法華堂(猿八村)

大正15年建立の「藤沼源三郎君碑」がそれ。

「150遠忌」とあるから、150年間、救いの神として、村人は彼を崇めてきたのでした。

しかし、「救いの手」も、内実は年貢徴収体制の再確立の為だったことは明白です。

そもそも餓死の遠因は、寛延の一揆の原因となった急激な年貢の増徴にありました。

増徴で限界まで耐えていた百姓の「体力」が、飢饉により一挙に崩壊したのです。

奉行所が蒔いた種を奉行所がしぶしぶ刈り取っただけの「善政」なのに、村人の「お上」意識は、藤沼代官を神に祀り上げるのでした。

そんな「善政」でも、しかし、ないよりはあった方がいい。

空前絶後の宝暦の飢饉でも一揆が起きなかったのは、こうした「善政」があったからでした。

歴史に「たら、れば」を持ち込むのは邪道であることを承知の上云うのですが、「もし、石谷奉行、藤沼代官体制が続いていたら、明和の一揆はなかった」かもしれません。

天領佐渡の弱点は、奉行や代官が徳川幕府という江戸の本社から佐渡支社に転勤してくることにありました。

            CG江戸城天守閣

彼らの任期は短く、その目はいつも本社に向いて、島民に向けられることは少なかったのです。

明和元年(1764)、代官の下役・御蔵奉行として赴任した谷田又四郎は、その典型的転勤族でした。

彼の役目は、年貢納入の監督・指揮。

その杓子定規で人情味のない仕事ぶりに、事件は起きた。

明和3年(1766)夏、佐渡は大雨と洪水に見舞われ、国仲一帯は海のようになった。

 

必然、米質は悪い。

八幡村など4村が納入した年貢米を、谷田は、米質が悪いからという理由で、その全部を突き返します。

百姓たちは、相川で場所を借り、6日間、242人手間をかけて青米やクズ米を取り除き、新しく俵ごしらえをして再納入しました。

          相川・大工町

しかし、検査に合格したのは、56俵の内41俵だけ、15俵は、また、突き返されたのです。

しかもその際、「こんな米が受け取れるか」と庭に米をばらまいたことが、村人たちの怒りを買いました。

このニュースはあっという間に島中を駆け抜け、不穏な空気が広がります。

これまで御蔵奉行のなされ方に御座候ては、とても村方百姓共相立ち候儀に御座なく候、とてもこの侭にては村々絶え果て候間、江戸表へまかりいで・・・

30カ村の村役人から佐渡奉行にこんな願書が提出されます。

奉行所へ押しかけようと息巻いている平百姓をなだめすかしているが、それも限界に近いというのです。

翌明和4年(1767)も、雨続きの天候に虫害が大発生、「御年貢は申すに及ばず当座の夫食に差支え」る村々が続出する。

 

しかし、谷田は「虫付きによる本年の不作については年貢の減免は一切行わない」と招集した村役人に申し渡し、更に「米質の悪いものは受け取らない」と念を押します。

反応は、村々への回文となって現れました。

出所不明だから、怪文書とでもいうべきか、10月下旬のころです。

近年当国両支配(奉行所と代官所)と成られ物事一同ならず、御取箇(年貢)つよく相増し、かように末々相成り候ては一国の百姓立ゆかず候間」「来る11月4日暮れ六つ時国中の男子15歳以上50歳までの者は相川に押し寄せ」「御蔵方、御代官を打ちつぶし、御奉行様と地役人によって治政下さるよう訴えよう」と呼びかけるもの。

ここで「打ち毀し」の文字が初めて登場する。

打ち毀しをする御蔵方谷田又四郎の館へは「四方より梯子をかけ、屋根より破り申すべし」とその段取りも具体的。

次いで御代官屋敷を打ち毀し、「御城(佐渡奉行所)の御門前にて、一同大音に御願い、御願いと申すべし」。

勿論、「御願い」するのは、年貢の減免だが、御蔵奉行の館を打ち毀しておいて、それが聞き入れられると思っていたのだろうか。

それとも打ち毀しの強硬手段を伴わなければ、上訴は叶わないと踏んでいたのか。

注目の11月4日夜、相川では何事も起らず緊迫のまま朝を迎えた。

翌5日、10人、20人と連れ立って百姓たちが弾誓寺へ集まるも、リーダー不在のまま、何をするでもなく散会して、一揆は不発に終わります。

                         駆け込み寺弾誓寺(相川)

なぜ、リーダーは現れなかったのか。

集まった人数の少なさに決起をためらったのか。

寛延の一揆の死罪判決が脳裏をよぎったのか。

誰がリーダーだったのか、そうした推測資料もありません。

とにかく明和の一揆はこの日、実質的に終わったことになります。

 

       

打ち毀しは不発に終わったものの、成果はあった。

いかような痩米にても滞りなく御受け取りなされ候」、年貢米納入基準が格段に甘くなったのです。

名指しで打ち毀し宣告をされ、さしもの谷田又四郎もびびったのでしょうか。

島民事情には疎くても、徒党の怖さは知っていたと見える。

 

これで一件落着、島は平静を取り戻すかに見えた11月18日、三宮村の三宮大明神の鰐口の綱に結わえられた一枚の紙が、さらなる事件の発端となります。

       三宮大明神(畑野・三宮)

御年貢米延納の誓願について協議するため、来る11月23日、栗野江村加茂大明神に集合すべし」。

差出人は無記名でした。

この一枚の紙切れの内容がどのように村々に伝わって行ったのか気になる所ですが、5日後の11月23日、加茂大明神に集まったのは、74カ村の代表者たち。

       加茂大明神(栗野江)

島民の、この集会に対する期待の大きさが人数にでています。

 この日は、これまでの経過と各村の代表者が紹介され、訴状の内容を検討しあい、3日後の26日、最終決定をすることにして散会します。

26日は、まず惣代を選出。

選ばれたのは、小倉村の重左衛門、瓜生屋村・仲右衛門、後山村・助左衛門、舟下村・五郎右衛門、畑野村・文左衛門、畑野村・藤右衛門、それに長谷村・遍照坊智専の7人。

 明和義民の碑(長谷・旧遍照坊跡)

上段右から、小倉村 重左衛門殿 小倉村 重五郎殿 舟下村 五郎右衛門殿 瓜生屋村 仲右衛門殿

下段    畑野村 藤右衛門殿 畑野村 文左衛門殿 後山村 助左衛門殿 大正三年八月建之

この日決定した訴願の内容を遍照坊・智専が清書して、12月1日、畑本郷村観音堂で調印する運びとなります。

訴願のメインは、寛延元年(1748)からわずか3年で8700石も増えた年貢をもとに戻すこと。

寛延の一揆では、同じこの訴願を、幕府は頑として認めませんでした。

其の儀相叶わず候わば、又ぞろ方便を以て相願い申すべく相談致し候」。

この場合の方便とは、打ち毀しの意。

認めなければ実力行使も辞さないと百姓たちは強気の姿勢に出ます。

 

  HP「歴史の情報蔵」から無断転用

 

寛延の一揆からわずか18年、注目すべきは「お上に陳情する」から「叶わずば毀すぞ」への変化。

大きく、急激に時代は、揺れ動いていました。

奉行所も素早くアクションを起こす。

間諜から入手した惣代名簿をもとに、その夜、全員を逮捕。

明和の一揆は、強訴する前にジ・エンドとなったのです。

逮捕はしたものの、奉行所はその扱いに慎重でした。

下手なことをして、百姓たちの不平不満のマグマを刺激することを怖れたからです。

逮捕者の吟味は、翌5年5月から始まるのですが、その間、不作で困窮する島人に救援米を施し、かねて不評で廃止を求められていた代官制の廃止にも応じます。

そして判決。

打ち毀しを平気で口にする百姓パワーを前に、奉行所がいかに及び腰であったか、その証左みたいな判決でした。

百姓惣代は全員無罪、釈放。

一人、遍照坊・智専のみ死罪を申し渡されます。

「(此者儀去る亥年田作虫付に付き徒党強訴可致廻文謀計を以取拵此者儀、去る亥年田作虫付に付き、徒党強訴すべき廻文謀計を以て取り拵えへ、右書面に相川表勤役の者御約宅打潰す旨、竹鑓、梯子、斧などを持出し候様相認め、不得心の村方へは火をかけ焼払うべく相触れ候に付、百姓共相川へ罷出候所存にも相成り、其の上国中百姓願と偽り、数ケ条不法の儀相認め強訴致し、願の通り相叶わずば、陣屋下へも火を掛け申すべき旨、公儀をも恐れず法外の儀共相打ち、御制禁之徒党強訴を企て、其の後栗野江村加茂明神社へ百姓共寄合の節強訴件(くだん)の訴状下書き差出し、重々不届至極に付き明和七年三月二十一日死罪 以上」

御蔵奉行谷田又四郎の館打ち毀し計画のリーダーは、遍照坊智専であると決めつけているのが面白い。

リーダーが不明で決まらなかった、明和の一揆のジグソーパズルがこれで完成することになるが、遍照坊智専は頼まれて訴状を清書しただけで、リーダーでも何でもありませんでした。

村との軋轢を避けたい奉行所が、惣代長百姓らの処分に踏み切れず、智専一人に罪を負わせる構図を描いたのでした。

「智専は悪人」でなければならず、奉行所はそのイメージ作りにも精を出します。

「返済できない大借金がある」とする遍照坊の旦那衆の証言はその成果の一つ。

其の後は段々寺中の者を御呼び出され、御吟味の様これあり、なかんずく小僧申し分悪敷、遍照坊此の儀にて罪重く相成り候

ついには寺の小僧を呼び出して遍照坊の悪口を云わせる有様、でっち上げに余念がない。

一方、釈放された百姓惣代たちはどうであったか。

舟下村五郎右衛門は入牢直後、重病を理由に放免されます。

五郎右衛門は、寛延の一揆でも活躍し、明和の一揆の張本人であったことはほぼ間違いがない。その人間を釈放することに佐渡奉行所の姿勢がよくあらわれている」。

田中圭一氏はその著書『天領佐渡(1)』で、このように述べています。

寛延の一揆の惣代たちと対照的に、明和の一揆の惣代たちには各人の顕彰碑がありません。

記録らしい記録としては、畑野村藤右衛門家に残された文書があるだけ。

藤右衛門は、後山村の助左衛門と共に、明和の一揆の首謀者と巷間噂された人物でした。

明和四年ハ夏秋水害虫害交々臻リ大凶作トナリ。住民窮乏言語ニ絶シ、上納モ又意ノ如クナラズ。然ルニ時ノ代官催促過酷ヲ極メ、温情更ニ加フルナシ。此処ニ於テ二代本間藤右衛門遍説、義憤黙シ難ク、決然身ヲ呈シテ事ヲ起シ、一挙ニ弊政を改メ住民塗炭ノ苦ヲ救ワントス。(略)第二代本間藤右衛門遍説道照居士、明和訴訟事件の主唱者ニシテ(略)近傍五十餘村ノ重立ト栗野江ナル加茂社内ニ会議シ夫ノ事件ヲ起シタリ。(略)本間藤右衛門ヲ義民ト云フハ故ナキニテアラザルナリ。後世心スベシ

明和7年(1770)3月21日、スケープゴート遍照坊智専は、釈尊の救世捨身に則り罪を一身に受け、泰然自若として般若心経を唱えながら斬に処せられた、と伝えられています。

      HPフオト蔵「斬首直前のお伝」より無断借用

時も 同じ明和7年3月21日、あの悪代官谷田又四郎は、江戸に帰任すべく小木港で船待ち中でした。

明和一揆のもとが御蔵奉行谷田にあることは明らかです。

一揆の責めを一身に負って遍照坊智専が斬に処せられたとき、張本人谷田は涼しい顔で島を離れようとしていたことになります。

偶然の産物がもう一つ。

江戸・大塚の護国寺から提出されていた遍照坊智専の釈免願いが、幕府によって認められ、その赦免状を持参した役人は20日に佐渡に到着していました。

しかし、その役人は八幡村で宿を取ったため、赦免状は斬首に間に合わなかった、という言い伝え。

伝説とは、かく創られるという見本みたいな話です。

 

遍照坊智専の法名は「憲盛法印」。

墓は、長谷寺にあります。

長谷寺への参道石段の左側にある寺院が遍照坊。

 

本堂の右に立派な供養塔があります。

死後昇階したのか、僧階は「権大僧都」。

長谷寺の駐車場から100m、県道を左折して坂を上るとそこが旧遍照坊跡。

巨大五輪塔の高さは4.14m、佐渡で一番大きな石造物でしょう。

大正8年、法印憲盛150回忌を紀念して建立された五輪塔です。

 百姓の身代わりになって死んでいった遍照坊智専を悼んで、島民は篤く手を合わした。

義民26人の中で、法印憲盛の供養塔が断然多いのも、むべなるかな。

全島で120基。

バス路線ごとの分布は、南線(両津ー新町ー佐和田)沿いに50基、本線(両津ー相川)26基、小木線(佐和田。ー小木)12基、河崎線(両津―片野尾)10基、赤泊線(佐和田―赤泊)9基、前浜線(小木―多田)7基。

全部を掲載しても無意味なので、意味合いと特徴のある供養塔をピックアップしてみた。

建立年代としては文政元年(1818)から天保15年(1844)のものが多い。

明和のものも30基ほどあるが、ほとんど明和7年3月21日、これは処刑日だから、建立は後年ということになります。

「  明和七庚寅
 遍照坊法印憲盛塔
   三月二十一日」加茂歌代開発センター前

 旧遍照坊跡地の五輪塔は、150回忌だが、33回忌と50回忌の供養塔もあります。

それたけ長い間、島民から悼まれた義民だということになる。

三十三回忌碑(水渡田公民館)

南線の青木にある円慶堂には、五十回忌碑があるが、コケで読めない。

拓本すればいいのだが、その技術と時間がない。

読めないまま載せておく。

 

小倉の御梅堂にも文政2年(1819)建立の五十回忌碑がある。

小倉には真言宗の遍照坊の檀家が多かったはずだが、これは「南無妙法蓮華経」。

奉唱満首題一千部とあるから、「南無妙法蓮華経」を千回唱えたということか。

旧真野町浜中の十王堂には、「光明真言五百万遍 法印憲盛不二位」なる供養塔があります。

百万遍念仏と法印憲盛供養塔が合体したもので、このスタイルが断然多い。

百万遍念仏については、このブログ「NO57 佐渡の百万遍供養塔」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/348ff823fd63d6b9bcbf32481718e495

をご覧ください。

百万遍念仏は、集団で行われる。

集団で法印憲盛を供養するのには、2通りの意味があった。

法印憲盛が惨殺された翌年、佐渡は大虫害に襲われた。

稲穂を食い荒らすツマグロヨコバイを佐渡では「遍照坊虫」と呼びます。

       遍照坊虫(ツマグロヨコバイ)

ツマグロヨコバイの大発生は法印憲盛供養が不十分だったから、その怨霊によるものだと考えた百姓たちは、「虫供養」、「虫念仏」と称して、百万遍念仏に精を出します。

もう一つは、集団示威行動としての百万遍念仏があります。

島民の義民に対する崇拝と感謝の念は篤く、各村々の堂では毎年念仏供養を欠かしませんでした。

しかし、お上に逆らった者たちを大っぴらに供養することは奉行所を刺激することになります。

そこで、豊作祈願の虫念仏と称して、公儀の目を欺いたのです。

お堂に掛けた義民の戒名を書き連ねた掛け軸の前で行われる虫念仏は、なんと今でも連綿と続けられていました。

「なんと」と書いたのは、続いているなんて思いもしなかったからです。

 私は、昭和20年(1945)から昭和33年まで、つまり小学1年生から高校卒業後1年間まで佐渡・旧金井町にいました。

子供の頃、百万遍念仏を見たことがなかったので、国仲では廃れて、外海府でしか行われないようになったんだとばかり思っていました。

しかし、「佐渡の百万遍供養塔」を書くに当たって調べたら、小佐渡の海岸地帯では今でも行われていることが分かりました。

今回の「なんと」は、国仲でも虫供養の百万遍遍念仏が行われていることを知ったからです。

旧金井町新保に住む中学校の同級生Kくんの話では、隣近所7軒で構成する「念仏講」があり、義民の戒名を書き連ねた掛け軸を前に大数珠を廻しながら、念仏を唱えるのだとか。

掛け軸は各家持ち回りで管理して、年に数回「虫念仏」を行ったものだが、今は正月に1回行うだけだそうです。

まず「一国総代 長谷 遍照坊 上山田善兵衛 新保作右衛門 併せて26名 精霊頓証菩提のために」と唱えて、「南無阿弥陀仏」を108回繰り返し、最後に「願似此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」で締める。

寛延の一揆で死罪となった辰巳村の太郎右衛門や椎泊村の弥次右衛門ではなく、軽追放となった作右衛門の名前をあげるのは、地元新保の念仏講だから当然でしょう。

旧金井町では、新保だけでなく、貝塚や平清水でも、虫念仏は盛大に行われているそうで、そんな広くもない故郷のことなのに、知らないことだらけで、誠にもって情けない。

2014年(平成24年)2月4日新潟日報(写真は前日の宵祭りで行われた百万遍念仏)

77歳の人生のうち佐渡にいたのはわずか13年、しかも子供の頃ですから知らないことの方が多いのは当然です。

では、64年もいる東京は知っているか。

東京では、百万遍念仏なんてとっくに消滅していた、とばかり思っていたのに、違ったのです。

佐渡から帰って半月後、巣鴨の縁日へ行ったら、江戸六地蔵の真性寺がかまびすしい。

境内に入ってみたら、なんと大数珠を廻しての百万遍念仏の最中でした。

天保10年から、災い回避の大祈願として連綿と行われて来たイベントだそうで、東京のど真ん中で百万遍念仏があるなんて心底びっくり。

印象的だったのは、子供たちだけの数珠まわしがあったこと。

伝統的仏教行事が次の世代に受け継がれてゆく光景は感銘的でした。

 

≪参考図書≫

〇『畑野町史・総編 波多』昭和63年

〇田中圭一『天領佐渡(1)』刀水書房 1985

〇伊藤治一『佐渡義民伝』佐渡農事協会 昭和13年

〇小松辰蔵『佐渡の義民』佐渡観光社 昭和42年

〇北見喜宇作『課税の変遷と佐渡義民始末』金沢村教育会 昭和13年

〇祝勇吉『佐渡島内石仏・石塔など集大成(義民碑編)』昭和63年

〇山本修之助『佐渡碑文集』佐渡叢書刊行会 昭和53年

 

 

 

 


106 佐渡の義民碑(上)―寛延の一揆ー

2015-07-01 06:34:45 | 石碑

観光客が決して行かない名所が、佐渡にある。

栗野江・城が平(標高200m)の「佐渡一国義民堂」。

国仲平野を見下ろし、正面に大佐渡の山脈(やまなみ)が聳える眺望は、中々の絶景だが、訪れる人は極めてまれ。

観光客どころか、島民でも知る人は少ないようだ。

「佐渡一国義民堂」は、江戸時代、佐渡で起こった一揆のリーダー26人の霊を祭祀するお堂。

一昨年、改築されたばかり。

木造神殿造りの設計は、佐渡の伝統文化を学ぶ専門学校の伝統建築学科の学生たちが担当した。

お堂の前の看板には、祭祀されている26人の義民の名前が並んでいます。

今回から3回に分けて、彼ら26人の義民の墓、石碑、顕彰碑を訪ね、寛延、明和、天保の一揆を振り返ります。

と、書いて、改めて看板を見ると、早速、問題発生。

冒頭に「慶長の義民」として、3人の名前があるからです。

では、なぜ、慶長の強訴を、私は除外するのか。

理由は、二つ。

一つは、3人の義民の記録が乏しくて、明確な人物像が把握できないこと。

もう一つは、江戸へ出て、幕府に年貢5割増しの実施見送りを求めた彼らの直訴はそのまま認められ、5割増租を命令した代官は切腹となったこと。

直訴した農民側に犠牲者が出ず、強訴が完全勝利で終結することは極めて珍しいことです。

慶長8年(1603)といえば、徳川幕府は生まれたてのホヤホヤ。

佐渡奉行所もまだ設置されていない。

支配管理体制が確立される前の、例外的出来事だったのかもしれません。

江戸時代、越後の各藩ではこれといって大きな一揆が発生しなかったのに、佐渡では3回も騒動が起きた背景には、初期の成功体験が島民の脳裏に生き続けたのではないか、なんとなくそんな気がします。

 

一揆の直接的な引き金は、飢饉と年貢増、これにつきます。

それに、佐渡奉行所の「悪政」。

寛延元年(1748)、全国的に百姓一揆や打ち毀しが相次ぐ中、佐渡の村々にも緊張が走っていた。

定免制(豊作、凶作に関係なく定額を徴収する制度)をやめ、検見制(その年の収穫高に合わせ年貢を決める)に復帰することを一方的に宣言し、江戸から二人の役人が来て、検見を実施し始めたからです。

定免制では、新田開発による生産高の増加が反映されず、年貢増は難しいと判断したからでした。

その最中、名主らを集めて奉行所側は「かねて要望のあった雑税の半減を実施するから」と全員に印を押させ、同時に「検見の結果、5150石の増米を命ず。今、押した請判は増米承知の請判とする」と一方的に宣言、騒然とするなか二人の役人は、さっと退座したのです。

                          復元 佐渡奉行所

奉行所の、このペテンにも似た姑息なやり方は、奉行所不信を増福させ、一揆の遠因となります。

4万石の年貢に5150石の増米は、連年の凶作にあえぐ佐渡の百姓に重くのしかかりました。

納付期日に遅れる者を、奉行所は無慈悲に牢屋へぶちこみました。

夫の、父の、そうした姿を見るに忍びず、女たちはなけなしの衣類を売って納米に努めます。

だが、そんなことで完納できるはずもない。

思い余って田畑を売りに出すも、買い手がつかぬ有様。

乞食となり、門々に立つも、ほどこしはなく、餓死を待つのみ。

当時、幕府の出先機関としての佐渡奉行所には、島の百姓の実情に配慮する姿勢など皆無でした。

寛延2年(1749)佐渡奉行に任ぜられた鈴木九十郎の基本姿勢は、「まず増税ありき」。

着任するや、なんと更に3600石の増米を命じます。

「無い袖は振れぬ。江戸表へ出て直訴したい」と息巻く百姓たち。

それに対して、奉行所は「増米承諾の請け判を押せば、どこへ行こうと勝手」と反応。

百姓たちが仕方なく判を押すと、奉行所は直ちに出国許可証の発行を停止するという鉄面皮の卑劣さで対抗するのでした。

ならば、法を破って、隠れてでも江戸表に行くしかない、こうして寛延の越訴は実行に移されてゆくことになります。

 

ここからは佐渡博物館前に立つ「殉国碑記」からの引用。

原文は漢文の素文ですが、書下ろし文にしてあります。

「(略)飢饉、路に載(み)つ。而るに吏の屋を潤して訾(おも)はず。辰巳村の太郎右衛門、椎泊村の弥二右衛門、二人相謀りて曰く、吾人、今日の極、諸(これ)を江戸に訴へざるを得ず。焉(これ)を訴へなば必ずや死せん。人生、誰か死無からん。寧ろ国に死せんかと。太郎、因りて時弊二十余条を疏し、弥二往きて諸を大府に上(たてまつ)る

太郎右衛門が書いた訴状は、28カ条。

最初の5カ条は、2年続きの年貢増米の不当性について。

 残りの23条は、まさに「時弊」、佐渡奉行所に残る悪しき慣行と二重課税の廃止要求でした。

「こんなことは即刻止めてほしい」条項抜粋一覧。

◇役人が公務で村を回る時の宿泊費を村方に負担させること。
◇百姓が婿養子する時、こ祝儀として500文、奉行所に徴収されること。
◇年に2回、宗門改めで役人が村を回るが、その宿泊費を各戸から徴収すること。
◇相川の牢番の賃金を島民が負担すること。
 その上、入牢する時は牢番に手数料として150文、むしろ代100文を渡さなければならないこと。
◇奉行所の役人の家の薪を村から納めさせること。
◇役人の下男の給金を村が負担すること。
◇たばこをつくると畑に課税されるのに、生産したたばこからも1本ずつ2厘取るのは、二重課税。
◇佐渡の百姓に他国へ米を売ることを禁じているのに、奉行所が年貢米を他国売りしているのはおかしい。わら細工   タバコ、茶などの他国売りを認めてほしい。

訴状を書いた太郎右衛門の姓は、片岡、時に58歳。

辰巳村の名主ですが、もともとは、山田村の村殿の家柄でした。

山田村は、佐渡高校後方の高台の村。

山田村の宗念堂には、今、太郎右衛門の墓と顕彰碑がありますが、この宗念堂は屋敷内に太郎右衛門が建てたお堂です。

現在、佐渡博物館に展示されている阿弥陀三尊は、この宗念堂の本尊でした。

片岡家伝来の守り本尊ということになります。

一揆の指導者と彼の家の阿弥陀三尊、このミスマッチ感こそ、寛延の一揆の特徴と云えるでしょう。

この一揆の惣代の大半は、小前百姓ではなく、名主でした。

45歳の時、家督を息子に譲り、太郎右衛門は、単身、八幡村に移ります。

海からの潮風吹き付ける八幡の砂丘に新田を開発しようという野望があったからでした。

実現困難と思われたこの事業も、8万本の松を植樹することで、見事成功します。

7町6反の新田の村を辰巳村と名付けて、彼は名主に収まります。

村人からの信望篤く、奉行所からも一目置かれる名主の太郎右衛門が、では、なぜ、一揆の首謀者となったのか。

首謀者になることは、彼個人にとっても、彼の家族にも、メリットはない。

と、すれば、正義感とか義侠心でしか説明つきません。

見義不為、無勇也(義を見てせざるは、勇なきなり)。

寛延の一揆の清々しさは、リーダー太郎右衛門のこうした心情風景に拠る所が大きい、と云わざるを得ません。

太郎右衛門作成の訴状は、260カ村全部が調印し、椎泊村の弥次右衛門と吉岡村の七郎左衛門が一国惣代として出府することになります。

島外へ出るには、出判(いではん)が必要だが、当然、二人には望むべくもない。

身分を隠し、漁民仲間の協力を得て江戸に上るも、書類に不備があることが判明して、一旦、帰国、寛延3年(1750)9月、再び、海を渡ります。

今度は、新保村の作右衛門、下村の庄右衛門、和泉村の久兵衛も加わって惣代は5人に。

訴状を提出し、言い渡しまでの半月間、5人の心労はいかばかりだったろうか。

なにしろ、この年発布されたばかりの法令が重く心にのしかかっていた筈だからです。

すべて強訴・徒党・逃散はかたく禁ぜらるることなるに、其のふるまひあること罪あさからず、主張の者は更なり。相計りて事おこすものども重く罰すべしとなり」(『徳川実記』)

だが、案ずるより産むがやすし。

半月後、彼らを待っていたのは、望外の朗報でした。

国元への至急報に彼らの歓びが読み取れます。

御名主わざわざ飛脚遣わし申し上げ候、まずは願ひの筋も上首尾に御座候間御気遣ひなさるまじく候。私共願筋はいよいよ上首尾、鈴木殿(鈴木九十郎佐渡奉行)は不首尾(注:免職)にて・・・佐州一国百姓中」

訴状についての取り調べは、江戸から72人の役人が来島して行われ、寛延4年(1751)7月、佐渡奉行所で判決が言い渡された。

                     佐渡奉行所の御白洲

百姓側からは、太郎右衛門と椎泊村の弥次右衛門が死罪、惣代の多くは追放、遠島、国払の刑(注1)に処せられたが、奉行所の役人は死罪を含め百姓側の4倍弱の罪人(注2)を出して、役所側の完敗となった。

「こんなことは即刻止めてほしい」と23カ条に渡り羅列された、奉行所の悪しき慣行と二重課税の大半はそのまま認められた。

百姓たちの勝利と云ってもいいようだが、実は肝心の年貢増について、判決はノータッチ。

年貢の増減は幕政の基本に関わるものとして、上訴に左右されない姿勢を示したということか。

判決文で引っかかるのは、「越訴で書かれていた飢餓と飢人について調べたが、餓死者はいなかった」という下り。

百姓側も過剰な表現だったと謝ったという。

本当のところはどうなのだろうか。

 

太郎右衛門は、宝暦2年7月18日、斬に処せられた。

享年60歳。

刑期が近づいて面会に来た二人の息子の涙を見て「大丈夫は国の為に身を捨てることを誉としている。お前らはまるで女、子供のようだ。見苦しいことはするな」と諌めたという。

法名は「忍誉乗願蓮心居士」。

遺族が六字名号塔に太郎右衛門、弥次右衛門の名を刻んで供養塔としたところ、奉行所が名前を削らせたという言い伝えがある。

現在、山田村の宗念堂には正面に「南無阿弥陀仏」の六字名号、右側面に「忍誉乗願蓮心居士」、左に弥次右衛門の法名「釈涼敬」が刻された石碑が立っているが、まさかこれが言い伝えの碑ではあるまい。

 

太郎右衛門と同じく死罪となった弥次右衛門の墓は、椎泊の願誓寺にある。

平百姓だが、性剛毅にして義侠心強く、事に当たれば、たとえ火の中、水の中をも厭わない男だったと『佐渡義民伝』には書いてある。

境内の顕彰碑の一部を引用しておく。

昭和25年(1950)、椎泊義民遺徳顕彰会が建立したもの。

義民之碑

「(略)佐渡の義民の中で強剛な義挙によって島民に多大な利益をもたらした者寛延一揆をもって逸とする。この一揆の結果が不正役人の処刑者斬罪一、死罪二、等軽重五十六名の多数を出して、奸邪な吏務を一掃し、諸般の悪政を刷新して島民の生活を安易ならしめたからである。(略)
椎泊村弥次右衛門氏は関所破りの極刑を覚悟の上二回も越佐間を密航し江戸へ出て同志の士気を鼓舞しながら尽力して訴願の目的を完遂せしむるに至ったものである。又椎泊村名主本間七右衛門氏は同氏を陰に陽に援護して後顧の憂いなく義挙に猛進せしめた者である。故に寛延一揆の基本的動力こそこの両氏にあったと言うも敢て過言ではない

 寛延の越訴では、椎泊村から二人の義民が輩出した。

弥次右衛門と七左衛門。

七左衛門は、代々椎泊村の名主だった。

                 七左衛門家

名主として百姓の困窮を見るに忍びず、各村の名主らと相川に出て、抗訴、ついに捕らわれの身となった。

「大森*はゆらりゆらりと椎泊 七左衛門こそ国のかためよ」という狂歌が相川に貼られたという。(*大森五右衛門は、その当時の佐渡奉行所地方(じかた)役人で、寛延越訴の吟味で死罪の判決)

島民の、七左衛門への信頼の厚さが分かります。

出獄して太郎右衛門の補佐役を務め、弥次右衛門の出国にも尽力する。

奉行所が言い渡した罪状は、遠島。

此者儀難立願徒黨いたし其上同村弥次右衛門願惣代に偽り出判申請させ江戸表え遣彼も国法を破一旦在所え忍帰候を其分にいたし剰え組々に寄合を触巧之証文に連判を取候儀重々不届に付き右同日遠島」(弥次右衛門が国法を破って忍び帰ったのをそのまま見過ごし、しかも村々へ触れて寄合をし、惣代が江戸へ出る時の連判を集めたから不届き、遠島)

こうした経歴からは、七左衛門の「闘士」としての顔しか浮かばないが、実は、七左衛門は、しぶしぶ名主を務め、越訴の運動にも積極的に参加したのではなかった、と断ずる学者がいます。

佐渡高校教諭から筑波大学教授になった田中圭一さんが、その人。

田中さんは、その著書『天領佐渡―村の江戸時代史ー』で、その理由を次のように説明します。

寛延2年4月、名主七左衛門から役所に『歳をとり、御用も務めがたいので名主を罷めさせていただきたい』との口上書が出された。七左衛門は村殿の家柄で、元禄検地まで昔の家来を名子としていた。しかし、元禄の検地で名子の耕す田を彼らの名前につけてやり、1年に数日の日手間を各家々からとって自分の田を経営していた。しかし、享保3年、昔の名子たちはその日手間を拒否、七右衛門の田経営は崩壊した。七左衛門はかつて分け与えた1町歩あまりの田地を名子たちに返還させる訴訟を奉行所に対して起こしていたのである」。

つまり、この時、名主・七左衛門は、小前百姓たちと全面対決していたことになる。

弥次右衛門は彼の名子ではなかったけれど、小前百姓の一人で、七左衛門とは対立する立場にあったことになります。

一国越訴というと、無条件にみんなが結束したかに思うけれど、それは間違っているだろう。個人的には、日手間を拒否する小前百姓たちと全面的な対決を辞さない立場にあった七左衛門が、小前百姓の要求を踏まえて一国越訴の先頭に立っているのは、彼はこの運動の先頭に立つことによってしか、村の支配者としての地位を保てなかった側面が大変強かったのではないかと考察するのである。そうした村の中の状況の不安定さこそ、この増米反対の越訴をいやがうえにもたかまらせた理由であったろう」(田中圭一『天領佐渡(1)』P184-185)

冒頭、一揆の引き金は、飢饉と年貢増、それに奉行所の悪政と書いたが、物言う小前百姓の台頭、つまりムラの力関係の変化も要因として挙げなければならない。

七左衛門は流された伊豆七島の一つ、新島で、「魚介を漁撈して日用費に充て、病む者ある時は薬を与え、字を問うものには教え、閑があれば連歌を作って楽しみ」ながら、椎泊の女房に手紙を出している。

田畑屋敷御取上にてはいづ方に住居致候哉。田畑様子もいかやうに罷成候哉、是のみ心にかかり申候」。

越訴の参加は不本意だったかもしれないが、その結果に、愚痴をこぼすことはなかった。

愚痴らしい愚痴といえば「只恋しきは書物ほしく候」という下りか。

        流人の墓地(新島)

島流しは、京都の公家には「処罰」として効果があっただろうが、島育ちの七左衛門が別な島に流されたからと云って同様な効き目があっただろうか。

落剝より望郷の念が強かったようだ。

年の暮れ、こんな句を詠んでいる。

忘られぬ 我が古郷のありさまを 聞傳(きくつて)もなき 年の暮かな」。

翌宝暦4年正月、没。

享年62歳、法名「釈蓮光」。

墓は椎泊の本間家の背後の野墓地にあるが、刻字が崩れて特定できない。

   本間家の墓地。後方大佐渡山脈の前の水面は両津湾。

 

遠島に次いで重い刑罰は、重追放。

寛延の一揆では、川茂村の風間弥三右衛門が重追放となった。

弥三右衛門は、川茂の名主。

         現在の川茂集落

山田村の太郎右衛門の八幡村砂丘開墾計画に賛同して、新田を開発、共に辰巳村を開村した。

寛延の強訴には最初から太郎右衛門の片腕として活躍、訴状には一国惣代として署名している。

重追放となり越後に向かった後の足取りは不明。

法名は「浄光院慧覚開心居士」。

墓は川茂の風間家裏山にあると聞くが、時間的制約で訪問できず、写真はない。

 

寛延の越訴で、最初出府したのは、死罪となった弥次右衛門と吉岡村の七郎左衛門だった。

              吉岡村下の堂

七郎左衛門は、寛延の越訴で重追放となった川茂村の弥三右衛門の実弟。

兄弟そろっての義民として名を馳せた。

中追放となり越後に追われたが、その地で仏門に入り、後、赦されて帰村、浜中の西報寺に住したといわれている。

         西報寺

明和2年(1765)4月、没。

享年56歳、法名は「真密院浄戒法子」。

村に立つ「義民七郎左衛門追遠碑」の撰者は円山溟北。

美文の一部を紹介する。(刻文は白文)

「(略)吉岡村の七郎左衛門、名 罪人たりと雖も、而も其の志は以て千古に暴白するに足る。義と謂わざるべけんや。(略)それ義民の挙は、一国の為にして一家一郷の私を得る所に非ざる所以なり。然れども其の親戚郷党に在りては即ち哀痛の情、当に切迫なるべし。村人の追遠の已むべからざる、亦宣(むべ)ならずや。(略)」

 

私の田舎、旧金井町には、寛延の越訴関連で、二人の義民がいる。

私は、高校まで佐渡にいたが、地元・金井の義民について全く知らなかった。

今になって見れば、恥ずかしいし、情けないことだが、郷土史を振り返る余裕が、当時の島の暮らしになかったように思う。

高校の日本史の授業で、大塩平八郎の乱は教わっても、佐渡の一国一揆について教師がふれることはなかった。

歴史を身近に感じられる貴重な教材だったのに、もったいない。

時代のせいなのか、教師がアホだったのか。

二人の義民は、二度目の出府の増員要員だった。

夫々別々な旅程だったところに、彼らのミッションが隠密だったことが伺える。

久保九兵衛は泉村の名主。

軽追放を宣告され、越後種月寺で剃髪した。

その後、諸国を行脚して晩年帰国、平清水の十王堂に籠って子供たちを教えた。

安永8年(1780)6月14日没。

行年76歳、法名は「即應浄心沙弥」。

墓は、泉村正法寺にある。

墓のある正法寺から200m北の本光寺に君健男県知事の書になる石碑があり、傍らに、久兵衛略伝がある。

略伝は、昭和54年(1979)平清水文化財保存会が建立したもの。

寛延3年島民連年の凶作と奉行所の圧政のため餓死寸前の苦境に泣く。久兵衛憤然立って一身一家を顧みず同志と奔走江都に上り幕府に直訴す。国政即ち改まる。(以下略)

 

 、同じく軽追放となった作右衛門は、佐渡奉行所の地方役人の庶子として新保村に生まれた。

     新保八幡宮から国仲を望む

長ずるに書をよくし、寛延の一揆にも書き役として参加していた。

惣代の増員として上府したのは、本人の意思によるものか、くじ引きの結果か、判然としない。

判決が下った宝暦2年(1752)、作右衛門57歳。

出国後、仏門に入り、出羽象潟で寺子屋を開いて地域の子弟の教育に当たったが、宝暦9年(1759)、彼の地で他界した。

享年64歳。

法名「浄覚俊明菴主」、顕彰碑が、新保八幡宮境内に立っている。

寛延元年州農悉雖遭凶作 徳川幕府有増税之挙 本村作右衛門等謀議 欲為匡救窮厄以減税及直訴 仍発覚処軽追放 宝暦九卯年十月十五日没 此事挺身以可謂為義 以永遠欲追憶所以焉」

「このことは義のために身を投げ出したということであり、永遠に追憶されなければならない」という字句に、義民碑を建てる村人の心情がよく表れているように思う。

 以上、寛延の一揆を振り返り、6人の義民の墓や顕彰碑を見てきた。

6人ともに村人が建てた顕彰碑があるのが印象的です。

佐渡ではこの後、明和、天保と二度の騒動が起きるが、今も顕彰碑が残るのは、明和の法印憲盛と天保の善右衛門、二人のリーダーだけ。

死罪となった太郎右衛門と弥次右衛門は当然としても、軽追放の久兵衛、作右衛門まで顕彰されるのは、それだけこの寛延の越訴が当時の島民の強い関心事であり、全島民の心に深く刻まれた感銘的な出来事だったことになります。

惣代増員として出府し軽追放となった下村(現舟下集落)の庄右衛門の墓が、塚原山根本寺にあると聞き、寺を訪ねたが、墓の有無すら確認できなかった。

「個人情報でプライバシイに関わることなので、寺としては何もいえない。仮にあったとしても、撮影するには、その家の同意が不可欠」というのが、住職の弁。

        根本寺山門

「お説ごもっとも」とさっさと退散。

それにしても支払った入山料が惜しい。

断るのなら、受付で門前払いすればよかろう。

腹が立つ。

かくして、庄右衛門の墓の写真はないが、顕彰碑はある。

新穂橋の袂にあって、13人の義民の法名と並んで「捨権院宗取日立居士」の庄右衛門の法名が見える。

軽追放となり諸国を行脚、のち赦されて帰国し、86歳の長寿を全うしたと伝えられる。

 

以上、石碑、石塔、顕彰碑を通して、寛延の一揆の指導者を見てきた。

訴状や碑文から浮かび上がる義民像の共通点は、「正義は勝つ」というゆるぎない信念だった。

汚濁に満ちたこの世で、正論を叫び続けることは容易ではない。

しかも生殺与奪を握る「権力」に向かっての叫びだから、なおさらのことだ。

命を賭して信念に生きた男たちの群像は、輝きを放って、今もなお、眩しい。

(注1)

〇獄門ー罪人を斬首した上、首を3日2夜さらして見せしめにし田畑、屋敷を没収。
〇死罪ー斬首刑で死体は試し切りに。
〇遠島ー流罪。江戸から伊豆七島へ年限を決めず流し、田畑、家屋敷は没収。
〇重追放ー御構地(立ち入り禁止地域)は中追放の他に、相模、上野、安房、上総、下総、常盤、肥前に罪人の居住地と犯罪地。田畑、屋敷も没収。
〇中追放ー御構地は、武蔵、山城、摂津、和泉、大和、東海道筋、木曽路筋、日光道中、甲斐、駿河並びに居住地、犯罪地。田畑、家屋敷没収。
〇軽追放ー御構地は、江戸十里四方、京、大坂、東海道筋、日光道中及び居住地と犯罪地。田畑、家屋敷没収。
〇所払いー罪人の居住地への立ち入り禁止。財産は没収せず。
〇手鎖ー両手に手錠をかけ封印。
〇押込ー一定期間、自宅に謹慎。
〇過料ー罪を銭で償わせること。払えなければ、手鎖。
〇叱ー庶民に課したもっとも軽い刑。白洲に呼び出し、罪を叱るもの。やや重い刑に、急度(きっと)叱りがある。

 (注2)

役人側 獄門1、死罪2、遠島7、追放5、お暇5、押込26の46人。

百姓側 死罪2、遠島1、追放10の13人。

 

≪参考図書≫

〇田中圭一『天領佐渡(1)』刀水書房 1985

〇伊藤治一『佐渡義民伝』佐渡農事協会 昭和13年

〇小松辰蔵『佐渡の義民』佐渡観光社 昭和42年

〇北見喜宇作『課税の変遷と佐渡義民始末』金沢村教育会 昭和13年

〇祝勇吉『佐渡島内石仏・石塔など集大成(義民碑編)』昭和63年

〇山本修之助『佐渡碑文集』佐渡叢書刊行会 昭和53年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


88 佐渡にだけ残る釘念仏供養塔

2014-10-01 05:40:16 | 石碑

釘念仏供養塔 くぎねんぶつくようとう

死後、地獄では生前の業によって、四十九本の釘が打たれる。この釘は縁者が四十九万遍念仏を唱えることによって抜けるといわれ、版画の五輪塔の四十九か所の白抜きの場所を念仏を1万遍唱えるごとに墨で塗ったり、線香で穴をあけたりする釘念仏の信仰は、日光の寂光寺の覚源上人によって始めたとされる。
しかしなぜか、釘念仏搭は佐渡に約20基見られるのみである。(中略)佐渡以外で発見されることが期待される。(芦田正) 

上は、『日本石仏図典』より「釘念仏搭」の項を転載したもの。

ポイントは、下線部。

このブログNO83、84は「佐渡に残る足尾山塔」でした。

今回は、「佐渡にだけ残る釘念仏供養塔」。

「念仏供養塔」は、念仏(南無阿弥陀仏)をどのようにして多く唱えたか、その成果を記念する石塔です。

寒念仏」や「不食念仏」は厳しい条件下での念仏修行であり、「百万遍念仏」や「融通念仏」は集団で唱えた念仏の回数の多さを誇る記念碑です。

では「釘念仏」は、どうなのか。

系統としては、後者でしょうか。

なにしろ釘1本につき1万遍、四十九万遍の念仏を唱えて成就するのですから。

 

では、「佐渡にだけ残る釘念仏供養塔」巡りへ。

なぜか、その理由は不明ですが、釘念仏供養塔は、小佐渡海岸、小木の隣、旧赤泊村に集中してあります。

1 十王堂(丸山)

畑野から多田への県道を南へ向かって下り始めるとやがて人家がポツポツ、右に平泉寺が見えてきます。

平泉寺から約300mほど下った所の脇道を左へ。

突き当たった広場が十王堂です。

広場の奥に10基ほどの石造物があり、左から4番目が、釘念仏供養塔。

正面の上部に阿弥陀三尊の種字(中央に阿弥陀、右下に観音、左下、勢至)、その下に「釘念仏二千九百八十九万遍」、さらに「遍」の両側、右に「供」、左に「養」の文字が刻されています。

裏面は「元文四己未         川内村一人
         一結講中六十一人 丸山村五十五人         
    十月初八日          多田村 五人  」

 ここで注目すべきは、講中六十一人と念仏二千九百八十九万遍の数字。

念仏回数を講中の人数で割ると見事、四十九万。

49万回、南無阿弥陀仏を唱えたことで、61人の信者が、親類縁者の死者か、あるいは自らが、死後の世界の地獄において、49本の釘を打たれる責め苦から逃れることになったわけです。

では、49万回達成にどのくらいの時間を要したのでしょうか。

「十座十万遍」という真言があるのだそうです。

私も今回初めて知ったのですが、十座十万遍というのは、25人が「南無阿弥陀仏」を400回唱える、つまり計1万遍を一座とし、午前五座、午後五座、合わせて一日で十座十万遍になるというもの。

61人が4000回唱えれば、一日の念仏回数は244000回。

これで総計29890000を割ると122.5、122日と半日を要したことになります。

農業の暇な冬にやったとしても1年によくてひと月、122日となると4年がかりの大事業だったことになります。

達成記念の供養塔を建立したくなるのも無理からぬことでしょう。

各自ばらばらに家で4000回唱え、それを足したものではなく、61人が決まった日に一堂に会して、念仏を唱えたことは、石塔の側面の「月並」の文字に読み取れます。

丸山の十王堂を出て、県道を下ってゆくと河内集落へ。

2 観音堂(松ヶ崎河内)

参道を上がってゆくと、本堂に向かって左の木蔭に釘念仏供養塔はあります。

光り輝く6月の水田をバックに黒く佇んでいる傘塔婆がそれ。

逆光と苔で刻文は判読不可能。

祝資料によれば(祝資料についてはNO82をご覧ください)刻文は下記の通り。

            結衆
(正面)  釘念仏〇散供養塔
            敬白

右側面は「當山善男女三十四人聚頭唱念弥陀宝号」

左は「元文五申年四月上旬九日立」

ちなみに34人が49万遍念仏を唱えたとすると総回数16660000回。

お疲れ様でした。

 

釘念仏というと民間信仰、庶民信仰の匂いが強い。

そして、民間信仰だと謂れがはっきりしないのが普通です。

しかし、釘念仏の謂れは極めて明瞭、その氏素性は確かなものです。

釘念仏の起源は、日光輪王寺の前身寂光寺に求められます。

旧寂光寺に伝わる『釘念仏縁起絵巻』には・・・

寂光寺の僧覚源上人がある日突然息絶えた。側近たちは荼毘の準備を始めたが、上人の体は暖かく、野辺送りできないまま十七日が過ぎた。十八日目蘇えった上人は、仮死の間見た地獄について語り始めた。大地獄百三十六、そのほか多数の小地獄を見た後、閻魔王はこう語ったという。
『汝、今ここに来るへきときにあらす、されども娑婆の群生(ぐしょう)邪見にして、地獄におつる輩いやまさりぬれば、汝に地獄の姿見せ、衆生を救わしめんためなり』とぞ。
閻魔王、又のたまわく。『底下の凡夫、貪欲、愚痴にして、悪をなすこと限りなければ、死して後四十九日のあいだ、四十九の釘をうたる。罪業の浅深に応じて、釘の長短異なり、六寸、八寸、或は一尺六寸なり、頭に三、左右の肩に二、二つの手に六、腹に二十、脇に十四、足の左右に四、合わせて四十九なり。(中略)自業自得の報ひなれば、この苦しみ除くこと、十王の方便にもかなひがたし。娑婆において、仏に供養し、僧に布施する功徳によりて、その苦しみやうやく滅すといへども、三十三年すぎざれば、此釘ぬくることなし。汝、年月、浄業を修せしことなれば、すみやかに本国に帰り、迷妄の衆生を教化して、四十九万遍の念仏を勧むべし。いかなる業深きものも、この念仏の行満ちぬれば、その苦しみを免る』と」。

そう語り終えた上人の手には、五輪塔に49の釘のある札があった。誠にありがたいことで、見る者、聞く者不思議な思いに打たれ、その札を乞い受け、念仏修行をしようと願ったので、上人は版木に刻み広く施した。

これが今もなお輪王寺三仏堂で授与されている五輪塔札です。 

生きている間にこの札を受け、自ら49万遍を修すれば、往生間違いなしとするこの信仰は、極楽へのパスポートとしての逆修そのものだったわけです。

室町時代に日光の寂光寺を中心に始まった浄土信仰の釘抜念仏は、江戸時代になると全国的な広がりを見せるようになります。

寂光寺の「釘抜念仏過去帳」によれば、その信仰圏は、関東一円はいうにおよばず、信州、奥州二本松、紀州高野山、長州長門、筑前と広く、もちろん、佐渡もその範囲に入っていました。

 

次の目的地は、山田の公会堂。

石仏めぐりを始めて7年、毎年、佐渡へ帰るたび、レンタカーで島内を駆け回っている。

石仏があるのは、主要道から分かれた小路や農道の路傍です。

当然、ほとんどが初めての土地ばかり。

次の目的地、山田の公民館も初めての場所。

地図を見ると小佐渡山脈の山腹にあるようだ。

あちこち走り回って分かったことだが、海岸からの距離だと大佐渡の集落よりも、小佐渡の海側の集落の方がずっと山深い。

大佐渡の山の標高は高いけれど、集落は山麓までしかない。

ところが小佐渡の南側は、ほぼ山の中腹あたりまで、農地があり、人家がある。

へえっ、こんなところに家が!と驚くのは南佐渡に多いのです。

腰細川沿いに山へ。

対向車が来た。

「山田公民館は?」と聞く。

答えは「とにかく、どんどん行けばいい」。

人家が途切れても、人気がなくなっても、とにかく坂道を上ってゆく。

振り返ると眼下の柿畑の向こうに海。

突然、右手に、広場が現れる。

この山地に、広場は珍しい。

広場の奥の公民館は、元はお堂だったのだろうか。

3 山田公民館(山田)

公民館の右手に10基ほどの石造物が並んでいるが、木蔭に沈んで半分も見えない。

ではと、木蔭の中に入って見る。

しかし、今度は、逆光で石塔の文字が読めない。

背後のホワイトは、空でもあるが海でもある。

条件が良ければ、越後の山脈が見えるはずです。

どうやら釘念仏供養塔は、左端の石塔であることが確認できたが、石塔にレンズを近づけ、フラッシュをたいても読めないことは変わりない。

やっと確認できたのは「釘念仏供養塔」の六文字。

造立年も施主名もない極めてシンプルな石塔は、それはそれで珍しいといわなければなりません。

 

次の目的地、 磬台山へ行くのに往生した。

地図上の道路の分岐点が、畑ばかりで目印になる施設がないから、特定できない。

訊きたくても人影はない。

困り果てていたら軽トラが上ってきた。

「磬台山への道はややこしい」と男は云う。

落胆していたら、男は車をUターン、「後ろについてこいっちゃ」。

どこをどう走ったものか、軽トラの後を追って行ったら、磬台山に着いた。

4 磬台山入口(山田三川)

人家など全くない山道のカーブ地点に9基の石造物。

文字碑だけで石仏はない。

持参資料には、3基の釘念仏供養塔があるはずだが、2基しか見当たらない。

どれも刻字が浅くて判読しにくい。

          安政三辰年  當
 奉唱釘念仏供養塔
   七月求法日 講中

          明治八亥年
寺社情報サイト釘念仏供養塔
   十月求法日

石塔群の右横に長く上に伸びる石段。

石段上り口には「磬台山大師堂」とある。

上ってゆく。

大師堂の前に、四国八十八ケ所霊場本尊模刻石仏が相対して整列している。

まだ6月で草の丈も高くないから、石仏はちゃんと見える。

しかし、盛夏ともなれば、草に埋もれて何も見えなくなってしまうだろう。

石造物だから、訪れる人がいなくなってもこうして命長らえているが、用済みになって、見向きもされないまま、所在無げに立ち並ぶ石仏群は、真昼の太陽に照らされて、寂然たる雰囲気を一層強く醸し出しているように見える。

資料に記載されている2基の釘抜供養塔は、上の写真のどれかだろうが、目を近づけても、指で触ってみても、それらしい文字の片鱗を見つけられなかった。

ここ磬台山大師堂前とその下の石段横には、計5基の釘抜念仏供養塔がある。

ここは、佐渡で釘抜念仏供養塔が最も多い場なのです。

しかし、磬台山大師堂がある山田集落では、釘念仏は行われていません。

では、釘念仏はどこで行われているか。

それは、旧赤泊村の真浦、杉野浦、柳沢、徳和浜などの集落と小木町小比叡集落だと、ー佐藤一富「釘念仏供養塔について」『佐渡史学12巻』1979年ーには書いてありますが、なにしろ35年前の話、今でも行われているのかは確認してないので、わかりません。

佐渡では、僧侶が執り行う通夜儀式の後、集落の人たちによる通夜念仏が行われます。

佐藤一富氏によれば、真浦集落の通夜念仏は

①真言はじめ
②光明真言
③光明真言おさめ
④十三仏真言
⑤十三仏御詠歌
⑥おさめ(南無遍照金剛)
⑦南無大悲遍照金剛
⑧南無大悲観世音菩薩 おさめ
⑨真言の御詠歌
⑩念仏はじめ
⑪総おさめ
⑫三十三番か八十八番の御詠歌
⑬釘念仏(南無阿弥陀仏を唱えながら大ジュズを廻す。大ジュズの数は1086)
⑭善光寺御詠歌
⑮新仏の御詠歌(男の場合は不動和讃、女なら血の池和讃、子供なら賽の河原和讃)
⑯ひきねんぶつ 

当時は、鉦や太鼓を打ちながら、音頭取りに全員が唱和しながら、4時間も通夜念仏は行われたものでした。

多分、今は、ずっと短い時間になっていることでしょう。

真浦集落の釘念仏は、本来の49万遍念仏です。

新仏を、釘を打たれる責め苦から救う願いが込められていました。

しかし、杉野浦や小比叡では、念仏ではなく、釘念仏和讃を唱和します。

和讃とは、仏、菩薩、祖師、教義などをほめたたえる賛歌。

釘念仏和讃は、地域によって少しずつ歌詞が違うのですが、ここでは小比叡集落の「釘念仏和讃」を、少し長くなりますが、転載しておきます。

先に示した寂光寺の『釘念敷設縁起絵巻』と内容は、そっくり・・・

そもそも坂東しもつけの
日光山のふもとなる
釘念仏のえんぎあり
その山寺のおん名をば
寂光院とは申すなり
ころはいつぞの事なるに
文永七年霜月の
中冬廿日のことなるに
にわかにねはんの道にいる
御弟子これを悲しみて
おん身あたたかなるうちは
七日七夜を明かしける
七日七夜と申すには
よみじかへりをなされつつ
みでし これをよろこびて
後生のほどをたずねらる
我らエンマのおんまえで
ふしぎの事をさずかりて
またこの土へ立ち帰り
薬師如来のおんまえの
四十九本の釘みれば
長さ八寸また六寸
一尺二寸と三やうあり
その釘打つも打たるるも
その身その身のとがによる
忌日忌日は多けれど
四十九日は釘の役
十悪五逆の罪びとの
こうべに五本手に六つ
胸と腹とに十四本
腰と足とに二十四本
その釘打たるるその時は
上はうちようか雲の上
下はならくの底までも
一百三十六じごく
くずるるばかりに叫びける
十王たちは御覧じて
まことに不びんとおぼしめし
声を惜しまず泣きたもう
薬師如来のおんことは
慈悲なる仏にましませば
衆生を助くるそのために
釘念仏をはじめけれ
しゃばよりめいどに供養せよ
釘念仏を唱ふれば
こうべの釘と手のくぎと
ゆりて天へと舞いあがる
釘念仏と申すれば
胸と腹との釘ゆりて
七尺底へと舞いさがる
釘念仏を申すれば
足と腰との釘ゆりて
九品の浄土へ納まれり
釘念仏を申すれば
十悪五逆の罪消えて
未来助くる南無阿弥陀仏

 

このような和讃を唱和しながら、刷り紙の五輪塔の形をした卒塔婆の周りの49の白い穴を塗りつぶし、後日、墓に納めたものだという。

 

磬台山から更に山奥へ。

横山の観音堂を目指すのだが、これが分からない。

教えてくれる人はいつもの道だから、つい、分岐してることを忘れてしまうらしい。

分岐点には、人影はない。

右へ行くのを左に進んだりするととんでもないことになる。

迷いに迷ったあげく、三辻に出た。

現在地はどこか、地図で確かめようとしていたら、草叢に石塔があるのに気付いた。

5 女神山起点路傍

それが横山観音堂の次の目的地、女神山起点だった。

資料通り、釘念仏供養塔が2基ある。

文化4年(1807)造立の石塔は、刻字が明瞭。

当所講中十九人とある。

あたりを見回しても人家はない。

当時は、集落があったのだろうか。

もう1基は、ひょろ長い自然石の下部に「奉唱釘念仏供養塔」と刻されている。

小さなお堂ともども、長年、放置されて、荒れ放題。

三辻にあるということは、人目につくようにと、ここに造立されたのだろうが、草叢に埋没して、目につきにくい。

そもそも人通りがないのだから、人目につくことはあり得ないのだけれど・・・

 釘念仏供養塔とは別に2基の石塔がある。

いずれも不動明王を祀るもの。

「奉修唱不動尊秘法十ケ座慈救呪六百十五万遍〇〇」(〇以下は埋もれて不明)

 「郷内安全」を祈念して、修験行者が不動明王の真言「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン」を615万遍唱えたということだろうか。

昭和12年造立とある。

私が生まれる前年、この地では修験者が活動し、それを信仰する人々がいたことになる。

「念仏供養塔ー釘抜念仏を中心としてー(『日本の石仏第100号』所載)」の筆者、宮島潤子氏は、佐渡に釘念仏を勧化したのは、日光と佐渡を往還していた修験や行者ではなかったか、と推測しています。

その根拠として、宮島氏は、蓮華峯寺境内に東照宮があり、釘念仏供養塔の分布範囲が同寺の寺領と重なることを挙げています。

 

6 東光寺(徳和)

 佐渡には無数の石塔がある。

中でも私が最も好きな「石塔のある風景」は、下の写真。

 石塔左奥は、徳和の東光寺。

石塔前の道は、江戸期、佐渡奉行が赤泊から相川へ向かった殿様道です。

左から、「念仏供養塔」、「光明真言供養塔」、「釘念仏供養塔」。

 

佐渡では、真言宗寺院が多く、光明真言も「ねんぶつ」と呼ぶのが普通で、いわばこの3基は、多数作善の融通念仏を共通点にしている、といっていいでしょう。

 1の十王堂(丸山)で、側面に「光明真言二十三万千八百」と刻された釘念仏供養塔を紹介しましたが、ここでは側面ではなく別の石塔になっているわけです。

以上6か所9基で、今回の「佐渡に残る釘念仏搭」の報告は終わり。

佐渡には、24基あることになっています。

残りはいずれ佐渡へ行った時、探してみるつもり。

全国的に釘念仏が流行するなか、佐渡にだけ釘念仏塔が残ったのは、多分、開発されることがなかったからでしょう。

昔からの場所に昔のままでおわす・・・しかし、拝む人もなければ、供花もありません。

邪魔な廃棄物として処理される前に、文化財に指定してほしいものだと思います。

≪参考図書≫

☐佐藤一富「釘念仏供養塔について」(『佐渡史学昭和54年8月』所載)

☐宮島潤子「念仏供養塔ー釘抜き念仏を中心にしてー」(『日本の石仏2001年冬号所載)

☐宮島潤子「日光山寂光寺釘念仏供養塔」(『石の比較文化誌』平成16年所載)

 


84 さいたま市北部に残る不食(無食)供養塔

2014-08-01 06:46:21 | 石碑

前回は「佐渡に残る足尾山塔」だった。

今回は、それとそっくりのタイトル「さいたま市北部に残る不食(ふじき)供養塔」。

だが、正確には「さいたま市北部だけに残る不食供養塔」なのです。

少なくとも関東地方以北では、さいたま市以外にはみられない。

どうやら私は、希少価値のあるものに執着する性癖があるようです。

①路傍(さいたま市見沼区新堤40七里東幼稚園の東側三叉路)

碑は、石段を3段上がった高さに、柵に囲われてある。

残念ながら、碑文は、彫りが浅くて、ほとんど読めない。

上部に日輪、その下に「奉造立不食供養」と刻まれている、と持参資料にはある。

以下、碑文はすべて、資料からの転写です。

向かって右側面に「元禄十六発未二月十五日、
            
新堤村施主長嶋八郎右衛門」とある。

これだけは辛うじて読める。

左側面は読めないが、資料から転写しておく。

「原夫於是長嶋氏之先祖在全嶋居士者預為免没後之□報発誓願/毎月當不食日一日一夜不怠精進勇猛而奉唱和無量壽佛之宝號/□歳既久判溌散成就之辰於此地築高墳彫刻支堤一躯奉供養三/宝仲精儀且三日三夜施行往来貴賤合也全嶋五世之孫改□建立/宝塔一臺希因茲刹那消滅塵労弾指□成種智同證阿耨菩提者矣」

不食念仏については、よく分かっていないらしいが、これによれば、一日一夜、食べずに念仏を唱える修行だったことが伺える。

私は、断食道場で1週間の断食をした経験があるが、さほど過酷だとは思わなかった。

ましてや24時間の不食、これで修行と云えるのか、いささか腑に落ちない。

と、書いて慙愧にたえないのは、時代背景を無視していること。

先日、テレビで100歳を超える老人のアンケート調査を見た。

「これまで食べたもので一番うまかったのは?」

3位がカレーライス、2位がチョコレート。

1位は、何と「白米」。

育ちざかりに、彼らはコメのごはんを腹いっぱい食べられなかった。

ましてや、江戸時代、粗食ではあるが三食絶つことは、飽食世代の私の理解を超えるものがあるようだ。

石碑の後ろに、さいたま市教育委員会制作の解説版がある。

以下全文。

「不食供養塔は、大宮市内では、大変、数の少ない石造物の一つです。不食供養という民間信仰は、毎月特定の日に何も食せず、3年3か月間にわたり念仏を唱える修行をするというものです。この不食供養塔は、江戸時代中頃の元禄16年(1704)に新堤村の長嶋八郎右衛門が信仰の成就を記念して造立したものです。信仰の詳しい内容は分かっていませんが、食を絶っての信仰があったことは確かなようです。市内では、西部地区の三橋や清河寺で同様な信仰があったことが知られています。
東西の道は、大宮と岩槻を結ぶ昔からの道で、国道16号が開通するまでの主要道路であり、見沼代用水東縁の半縄河岸や岩槻の町との行き来には必ず利用した道です。南は七里小学校前を過ぎて日光御成道に合流し、浦和市大門や鳩ヶ谷方面に続いています」

 道路は、大宮ー岩槻を結ぶ旧岩槻街道。

道の向こう電柱脇の道を入って約10mに不食供養塔がある。

 解説板によれば、月に一度、3年3か月続けるというから計39回、不食念仏をして、この供養塔を建立したことになる。

 どうせなら岩槻街道に面して建てればいいのに。

 どんな理由があるのだろうか。

②地蔵堂(さいたま市大宮区三橋1)

「三橋1丁目自治会館」の背後に地蔵堂はある。

この自治会館も、元は寺かお堂だったのではなかろうか。

工事の人たちがお堂の前で昼食中で、中途半端なアングルになったが、正面が地蔵堂、右が自治会館、不食供養塔は入ってすぐ右、門柱の脇に月待の如意輪観音と並んである。

石塔の右上部分が欠けている。

持参の資料写真には、接着しなおした跡があるが、また、剥がれたようだ。

資料「青木忠雄『埼玉県大宮の不食・無食供養塔』(『史跡と美術』NO451)は、1975年刊。

40年もの間、変化があって当たり前。

欠けた部分を探したが、見当たらなかった。

欠けた部分の上部には、大日如来の種子大日如来(金剛界),バン(バーン)があり、右には「奉造立不食供養」と刻されていたはずです。

左には「正徳元辛卯年霜月吉日」。

下部に、9名の男の名前。

この不食供養塔を造立した講のメンバーで、中央の「念心」はリーダーの僧侶ではないかと青木氏は推測しています。

 

これまで、1はさいたま市北東部、2はさいたま市北央部にあった。

3以降は、さいたま市北西部に固まっている。

さいたま市の旧大宮市、その北部に、なぜか、不食供養塔は「密集」しているのです。

 

3、清河寺(さいたま市清河寺)

山門をくぐって右に丸彫り地蔵と六地蔵に挟まれて、無食供養塔はある。

主尊は、地蔵菩薩立造。

舟形光背に半肉彫に浮彫されている。

隠刻文が読みにくいが、「無食供養仏武州足立郡」とあるらしい。

「不食」ではなく、「無食」だが、意味する所は同じ、「食べずに」念仏に励むこと。

講中45人によって、元文6年(1741)正月吉日に建立された。 

 

清河寺から南へ。

指扇(さしおうぎ)という雅な地名に入る。

川越線の「西大宮駅」の西約200mに大木戸薬師堂がある。

4、大木戸薬師堂(さいたま市西区指扇)

 薬師堂の左に墓地。

その一角に墓標ではない石造物群の一画がある。

蓮台に乗った大日如来が塔の上半分に坐すのが、無食供養塔。

蓮台の下中央に「奉造立大日如来石像毎月一日無食修行三年三月成就所」。

無食念仏とは、毎月1回、丸一日食物を口にしないで念仏を唱える修行を3年3か月続けることだということが分かる。

造立は元禄13年(1700)11月吉日。

十誉是心という僧侶を願主として、女性ばかりの施主名が30人近く刻されている。

「おみつ、おゆう、おみや、おたけ、おたつ、おくら、おつる・・・」

〇〇子が一人もいない。

下に「子」がつく代わりに、上に「お」がついている。

最近は〇〇子が少なくなった。

流行の波が昔に戻っているということか。

隣の如意輪観音が十九夜講の講中の造立なので、十九夜講とは別な、女性だけの不食念仏講があったものと思われる。

 薬師堂の右は地区の集会場だろうか。

殺伐とした建物が、ドテッと横たわっている。

前の道路が狭くて、全景が収まらない。

2枚に分けた2枚目の右端に六地蔵があるのが分かる。

六地蔵は、普通、墓地の入口におわすものだが、ここでは何故か、墓地と反対側にポツンと六地蔵だけが在す。

そして、この六地蔵が、無食念仏供養塔なのです。

しかし、涎かけが何枚もかかっていて、像容と刻字が分からない。

仕方なく、涎かけを外す。

 

 刻銘は2体が同銘、別文で4体が同銘と分かれている。

2体同銘の銘文は、地蔵立像の右に「寛保三癸亥八月吉日大木戸村壹村」

左に「無食供養 施主廿二人」。

そして、4体同銘の刻文は、地蔵の右に「大木戸村壹村」、

左に「無食供養 施主廿二人」と刻されている。

 

薬師堂を後にして川越線を渡る。

人にきいて、聞いて、訊いて、やっとたどり着いたのが、

5、華蔵寺墓地(さいたま市西区指扇3529-2)

「華蔵寺はどこですか」。

訊いた人、皆「そんな寺は知らない」。

知らないのも当然、ないのです。

私が利用するgoo地図には、卍華蔵寺とあるので、あるものと思い込んでいた。

 

 

広い空き地の一角に墓地。

寺の境内だったかもしれない、そんな広さの空き地。

ある家の墓の横に、ポツンと所在無げに無食供養塔がおわす。

高さ1m15cm、舟形光背に地蔵菩薩立像が浮彫されている。

 

設立は、延享元甲子(1744)八月吉日。

施主として、個人名はなく、「大西村、増永村」とあるから、無食念仏講があったのではないか。

「大西村、増永村」は指扇村内の隣り合った組である、と青木資料にはある。

『新編武蔵風土記』には、華蔵院は天台宗となっている。

 石仏地蔵としては、きわめてありふれた像容で、誰もが目を留めて刻文を読むことはないだろうから、これが極めて珍しい「無食念仏供養塔」だとは気がつかないだろう。

市の指定文化財の価値はありそうだが、いかがなものか。

6、神宮寺墓地(さいたま市西区指扇赤羽根)

 指扇に赤羽根というバス停がある。

さして広くない赤羽根の神宮寺墓地だから、すぐ見つかるものと楽観視していた。

とんでもないことで、何軒か訊いて回ったが、誰も知らない。

交番でも調べてもらった。

地域を巡察している巡査も、そうした墓地は見たことがないという。

訊いて回る家を昔からの地元の農家に限定することにした。

5軒目の御主人に反応があった。

知ってはいるようなのだが、私の目的が何なのか、警戒して口が重い。

石仏めぐりを趣味とする者が、世の中にはいることを初めて知ったようで、納得。

35度の真夏の日差しの中、現地まで案内してくれた。

住宅に囲まれたような畑の奥に7基の石造物が並んでいる。

これでは、巡察の巡査も地元の人たちも分からないのも無理はない。

一番左が、目的の無食念仏供養塔。

その右は「大乗妙典一千部供養塔」。

この2基は、神宮寺という寺の境内にあったのではないか。

後の5基は無縫塔を含めて墓標だから、神宮寺の墓地にあったものと思われる。

それにしても墓地跡にしては、墓の数が少ないのは何故か、不思議だ。

改めて、無食念仏供養塔を見てみよう。

基台基礎請花に117㎝の丸彫り地蔵。

基礎台石正面中央に「無食供養」。

その右に「寛延元戌辰」

左に「神宮寺 講中二十五人」とある。

 これで、さいたま市北部に残る不食(無食)供養塔を全部紹介したことになる。

7基のうち、4基はすべて指扇地区にあり、4基とも地蔵を本尊とするのが興味深い。

青木氏によれば、江戸時代、指扇村は、大木戸、台、増永、大西、赤羽、下郷、五味貝戸の7組で形成されていたが、下郷、五味貝戸を除き各組から無食供養塔があることから、地域的流行があったのではないかと指摘している。

 

≪参考資料≫

〇青木忠雄『埼玉県大宮の不食・無食供養塔』(『史跡と美術』第451号・昭和50.1所載)
 参考というよりも丸写しです。


74 向島三囲神社の石碑を読む

2014-03-01 06:34:08 | 石碑

このところ毎回、前置きが長い。

そのほとんどは、言い訳。

今回も例外ではない。

2月中旬の2回の大雪で行動が制限され、予定が崩れた。

都内23区で代わりのネタを探すことにした。

見つけたのが、三囲神社(墨田区向島)の石碑群。

さほど広くもない境内の、いたるところに石碑が立っている。

その数、60基超。

境内面積比率では、都内1,2位ではなかろうか。

 

石仏写真を撮り歩いていて、ついでに石碑も一応おさえている。

しかし、フアイルに放り込んだままで、改めて見直すことなどない。

原因は明らかで、石碑の文章が読めないからです。

漢文の素文は、まったくお手上げ。

仮名なら読めそうだが、変体仮名となるとそうはいかない。

いい歳をして、誠にみっともない話で、なさけなくて恥ずかしい。

そんな私が、石碑を取り上げていいものか。

石碑の写真を並べるだけでは能がないので、何とかして読んでみたい。

三囲神社の石碑の解説本はないか、墨田区の図書館で探してみた。

あったのです。

墨田区教育委員会刊行の『墨田区文化財調査報告書5-10』。

三囲神社の全石碑の読み下しと解説が載っています。

うれしいことには、三囲神社自身が出している『三囲の石碑(いしぶみ)ー矢羽勝幸著』があることも分かりました。

早速、神社の社務所で購入。

こうして準備万端、念願の石碑をテーマにしたブログの作成へ。

(以下、したり顔で断定的に記述しているのは、すべて上記2冊の受け売りです。ご了承の上、お読みください)。

 

「三囲」神社は「みめぐり」神社と読む。

まずは、由来から。

夫れ古は邈(ばく)たり。文は徴するに足るもの無し」(そもそも昔は遠くなった。文献として参考になるものは何も残っていない)との書き出しで始まる「弎匝山祠の碑」がある。

文書はないが、口伝えでは、と断っての由来は、

「弘法大師が、この地で投げた梅の実が梅樹となった。再び通りかかった空海は、この梅ヶ原に祠を建てた。いつの間にか、祠は寂れたが、通りかかった三井寺の僧源慶が、霊夢に感応して祠を再興すへく土を掘ったら、壺が出てきて、中から白い狐が現れ、三度穴を回った。だから三囲稲荷というようになった」。

稲荷社だから狐が祭神かと思うが、実際は、宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)、田の神が祭神です。

それにしても、空海とは。

古代日本では、神も仏も渾然一体となっていたのだなあ、と痛感します。

境内には「三囲神社由緒碑」がもう1基ある。

その文中に「京都の巨商三井家江戸に進出するや三囲大神の信仰篤く当家の守護神と仰ぎ」とあり、「三井総元方、三井銀行、三井物産、三井鉱山、三越」の会社名が載っている。

そういえば、「三囲」は「みつい」とも読める。

三井グループがスポンサーというのだから、宮司は大船に乗った気分だろう。

境内には三井関連のものが溢れている。

最も目立つのは、三越のライオン像。

変わった狛犬だなと近づいてみたら、ライオンだった。

閉店した池袋三越から移送してきたという。

ライオンの隣の巨大な直方体の台石は、江戸時代から明治まで三越の前身三井呉服店にあったもの。

客に出すお茶の湯を沸かす銅壺が、この台石の上にのせられていた。

店の向こうの端には,銅製の風雅な装置があった。これは湯沸し、換言すれば茶を熱する物である。一人の男が絶えずそれに付き添って茶をつくり、茶碗に注ぎ込む」(E・Sモース『日本その日その日』より)

「ゑちごや三井なにがし。この神をしんじんして。しゃうばいいよ~はんじゃうして。今ににっさんの手代おこたりなし」(江戸名所図会)

なお、銀座三越屋上の三囲神社は、向島本社からの分祠です。

      三越屋上の三囲神社(奥)

三井関連の事物は他にもいくつかあるが、以下省略。

 

数多い石碑の中でも、特筆すべきは、其角の句碑だろう。

三囲神社の名を天下に高らしめた其角の夕立の句碑が本殿前にある。

此御神に雨乞する人にかはりて

游(ゆ)ふだ地(ち)や田を見めぐりの神ならば
    
(夕立や)         晋其角」

<三囲神社の祭神よ その名の通り田を見巡って豊作をもたらす神であるならば、この広前で雨乞いをする農民たちや私の祈りを聞き入れて、ぜひ夕立を降らせてほしい>

其角が自ら編集した句集『五元集』には、

牛島三囲の神前にて雨乞するものにかはりて
 夕立や田を見めぐりの神ならば
 翌日雨ふる

と、其角本人は、雨が降ったのは翌日だとしている。

其角が雨乞いの句を読んだら雨が降った、という噂は江戸中を駆け巡り、伝説となった。

その一つ、『江戸砂子温故名跡誌』では、こう書かれている。

宝井其角といふ俳諧の点者。游船にいさなはれ。此川きしに至るときに。太鼓鉦を以当社騒噪すゆへを問に。此ほとの旱魃にて雨を祈ると云。同船の輩。其角に対して曰。和歌を以て雨を祈るためしあり。俳諧の妙句を以て雨ふらせたまへとののめきけれは。其角ふと肝にこたへ一大事の由事かなと。正色赤眼心をとちて。

夕立や田も見めくりの神ならは

と書きて。社に納む。一天俄に曇て。人々僂船に帰らさるうち。雨車軸をくたす。世によく知る処なり。

翌日ではなく、句を納めたら直ちに大雨になったことになっている。

どんどん話が大きくなる。

伝説の典型例か。

注視すべきは、文芸を祈祷の手段として用いる習俗が、元禄期にはまだ生きていたということ。

其角は大まじめにこの句を奉納していたのです。

「大まじめに」と書いたのは、洒落の美学を俳諧に持ち込んだ其角には、「まじめ」は似合わないから。

『三囲の石碑(いしぶみ)』を読んで驚いたのは、俳句を詠んだ古川柳の中でも其角の「夕立や」がダントツの1位だということ。

世の中は広い。

其角三囲吟川柳を探索し続ける学究がいるのです。

『俳句を詠んだ川柳』の著者鴨下恭明氏によれば、其角の雨乞い句を扱った古川柳の数は、なんと270点に上るのだとか。

270点全部は、転載できないので、10句ほど載せておく。

一句ぎんずるとかすかにごをろごろ
ふり出して其角の頭痛全快し
いい日和けちをつけたが手柄なり
筆を取る其角にそらも墨をすり
江戸中の蛇の目をさます名句なり
其角がほまれ鳥居まで丸洗い
句をほめるように蛙はなき出し
拝殿におのが手柄の雨やどり
きつい事人をぬらして礼をうけ
十七で稲をはらませ名を残し

こうしてみると其角の「夕立や」の句は、人口に膾炙していたことがよく分かる。

古典でもないのに、どうしてみんな知っているのだろうか。

それにしても、江戸の人たちの諧謔の心に改めて感心する。

パロデイの背後に見え隠れする故事来歴、古典の造詣の深さにも驚いてしまう。

ここで、ちょっと寄り道。

其角がほまれ鳥居まで丸洗い

三囲神社の鳥居は、隅田川の船から見ると土手から少し顔を出して、風情があった。

江戸っ子の感性では、こよなく美しいものに見えたらしい。

現在の鳥居。木立に沈み込んで見えにくいが、スカイツリーの左にある。

芝居の書き割りや踊りの背景になくてはならないものでした。

三めぐりの鳥居思わせぶりに見え(柳樽)

三囲神社は、ちょうど、浅草側の山谷堀と向き合っています。

 三囲神社側から山谷堀を見た景色。

山谷堀は、柳橋からの遊客の中継地、吉原への日本堤の起点として船宿が密集していました。

言問橋がなかった頃、三囲神社へと客を運んだのは、山谷堀の船宿「竹屋」の船。

逆に山谷堀に行きたい時は、「竹屋ァー」と対岸に向かって叫ぶと、「おーい」と返事があって、迎えの船が漕ぎ寄せるという仕組み。

       墨田区郷土資料館「桜咲く向島堤」模型

船宿を鳥居の内で呼ばるなり
竹屋呼ぶ口を押える左褄

<竹屋を呼ぼうとする客の口を、芸者がそうはさせまいと押さえている。
自分を見捨てて、客が吉原に行こうとするのを阻んでいるかのようだ>。

吉原がらみのこととなると、解釈されても、理解が難しい。

江戸の人たちなら、十人が十人分かっていたに違いない。

 

本筋に戻そう。

境内には、其角の句碑がもう1基ある。

山吹も柳の糸のはらミかな 晋其角

<三月も三十日を迎え春ももうすぐ終わりである。山吹も花を散らし、柳の糸も葉を繁らせて大きくはらんでみえる>

句碑はないが、三囲を詠んだ其角の句がもう一句あって、こちらの方が有名。

早稲酒や狐呼びだす姥が許(もと)

本殿の東、白狐祠の朱色の鳥居列の中央に坐す翁と媼の石像を詠んだ句。

白狐塚を守る老夫婦がいて、白狐に願い事がある人は老夫婦に頼んで、呼び出してもらった。

 狛犬の位置に白狐。たれ目がいい。

他人が呼んでも姿をみせない。

老夫婦亡きあと、吉原の太夫「花扇」が石像を奉納したという。

 

其角の句碑の話が長くなった。

もちろん、他にも句碑は沢山ある。

中でも突出した著名俳人といえば、西山宗因か。

白露や無分別なる置きどころ
      浪速天満 梅翁西山宗因

<白露はその宿るところが美しい花であろうと汚れた汚物の上だろうとまさに無分別にその玲瓏のみを横たえ露は露自らの美しさで輝いている>

句碑は二つの石が合せられていて、右に「白露や」の句、左に芭蕉、其角、許六などの宗因を褒める文章が刻されている。

句碑の建立者・素外が自らの師を喧伝するためにこうした形式をとったものとみられている。

すこし長いが、素外の思いを受けて、全文を載せておく。

去来抄に、先師芭蕉翁常に曰、宗因なくんば我々の俳諧今以(もって)貞徳のよだれをねぶるべし。宗因は此道中興開山也と、いへり。雑談(ぞうだん)集に其角云、露といふ題は案じてはなるまじき也。しら露の発句観念のうへにかけてはいろへがたし。また、この翁に仇なる句なし、とも書り。またみなし栗に、宗因、嵐雪、其角が三夕の吟あり。歴代滑稽伝に許六云、露の発句は古今なきものなり。後代宗因ほどの句言い出すべき作者ありとも覚えず、鼻祖梅翁世に聞こえし名吟多く、依て諸集に出ず。就中此句他門にても(以下左側面に続く)殊に称賛せし事上のくだりの如し。爰(ここ)に予の門人誰れかれ今や其の言葉を碑(いしぶみ)して此三囲の広前に建るに及て己等が鄙唫(ひぎん)をも左右に双(なら)べ仰ぎ願う。当流の俳諧永世益(ますます)栄(さかえ)ゆかむ事を。

光あれ石瓦にも露の玉    一陽井 素外
世に高し音なき露のその聞え 谷氏女 素塵
              大江 岡野寛之書
               石工 中慶雲

(右側面) 

武蔵野の花や小草も露の恩 補助 福井藩 一夏井奇峰
露は松に琥珀と凝るや句の工ミ 発起同志連 一礼井 治百
つゆてらし西山の月は入るとても      百瓜圓秋策
をきようぞ露ははかなき物ながら 森住氏母 素好
爰(ここ)にをく露やこのうへ幾千秋    宣月
されば今にたもツ露あり言葉の花 一老井  寛之

宗因は、連歌師。のち俳諧に転じ、談林派の棟梁となるも蕉風に追いやられる形で再び連歌に戻る。素外は、談林派七世。

『三囲の石碑』で著者矢羽勝幸氏は素外を評して、こう書いている。

俳人たるものすべからく蕉風俳人であることを誇りとした時代に、蕉風以前の談林を鼓舞し、建碑に出版に奮闘した素外の努力と勇気は賞揚するに足るが、宗因の真価を説くのに何でこうも蕉風作家の評価に頼らねばならなかったのか、はなはだ疑問である」。 

 

石碑になじめないのは、読めないのが最大原因ですが、もう一つの要因も無視できません。

碑文が褒賞する主人公をまったく知らないこと。

その世界の第一人者であっても、その世界以外の人は誰も知らないのが普通でしょう。

ましてや江戸時代の人ならば、なおさらのことです。

どんな立派な人でも、知らない人には興味が持てないのは当然のことです。

三囲神社の石碑で一番多いのは、句碑。

その数14基。

其角や宗因は名前ぐらい知ってますが、(あるいは、名前しか知りませんが)、あとの11基は、名前も知らない俳人ばかりです。

しかし、今回の趣旨は、「三囲神社の石碑を読む」ですから、一応、誰の、どんな句か、全部、掲載しておきます。

私が興味が持てないのですから、みなさんはもっと持てないことでしょう。

どんどん早送りしてくださって、結構です。

 

松風のしびれしびれて霙かな 葛哉

松風が凍って、ついには霙となって降ってきた

「しびれ」は、長野、高知、徳島などで使われる方言で、ものが寒さのために凍るの意。

山口葛哉(かっさい)は江戸日本橋馬喰町の人で、一茶の所属していた俳諧結社葛飾派の俳人。

遠波や春の月夜を載せてよる 對松館

〈この隅田川の対岸より寄せ来る波は、春の美しい月をいただくようにしてやって来る〉

對松館は俳号ではない。おそらく大名ではないかと矢羽氏は推測しています。

 とし頃此神にまふでて年の豊なることを祈る

世の中に誠を聞や田植うた 八十翁 村吉

〈虚業の多いこの世の中に汗水流して働くことの真実を、田植え唄に聞くことができた〉

碑裏の刻文によれば、村吉は村田吉右衛門。三囲神社の崇敬者で長寿をその信仰のたまものと考え、さらなる長寿を祈っての建碑となったもの。

発句塚だが、どこにも発句は刻まれていない。

碑下に埋めてあるのではないか、とは矢羽氏の推測。

はなの雲にこころの月のやどり哉 月の下さくら

〈月が雲にしばらく隠れるように、雲に例えられる一群の桜花に私の心も吸い寄せられる〉

作者不詳。

 夜はもとの蛙にわたす田うた哉 老鼡肝

 〈昼は農民たちが唄っていた田植え唄も夜はもとの蛙たちにバトンタッチされ、ここ三囲神社のまわりは、夜も昼もにぎやかなことだ〉

老鼡肝は本名穂積義親。永機とも号し、江戸座の点者となり其角堂六世を称した。永機の号を継いだ長男善之は、三囲神社境内に其角堂を設け、俳と茶に遊ぶこと二十年、俳人としても明治旧派の大御所となり、父を超えた、と言われています。

 水音や花の白雲冴かへる 林甫

 〈余寒がぶり返した今日、近くの隅田川の音も遠くの白々とした桜の色もひときわすみ透って感じられる〉

 「冴え返る」は、春になっていったんゆるんだ寒さが再びぶり返すこと。

作者の履歴は不明だが、明治3年刊『俳諧明治八百題』に、「林甫 東京今川橋 庭庵」がある。

 きぬぎぬの浅黄桜と見しや夢 山蝶
 蝶の羽袖に残る艸の香    三升並書

 

山蝶は、魚河岸に住む一般人だが、かなりの粋人。脇句を付け、碑面を揮毫した三升は、九代目市川団十郎。裏面の碑文は劇作家河竹黙阿弥により校合されている。団十郎が「報恩のこころざしをのべ、親友の交わりを厚うせん」と書いていることから、かなりの歌舞伎通だったようだ。

 辞世 陽炎や其きさらぎも遠からず 蘆明庵五休

 

五休は、新吉原の妓楼の主人。幕末期の遊俳として令名が高かった。この辞世句の揮毫は、老鼡肝の長男其角堂七世永機です。

 蝶わたる日和となりぬ隅田川 素石 

 素石は、本名、木村正幹。長州藩士で明治になり京都府典事、のち三井物産副社長。素石の句碑があるのは、三井家と三囲神社の関係から。

夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩

 

碑裏には「大正拾参念九月一日震火の一周年に於いて」の文字。

関東大震災で避難した向島枕橋付近で、木甫は27歳の命を絶った。この碑は友人一同により建立されています。

これまでの句碑の作者紹介は、私なりに大幅にはしょってあるが、この木歩については、矢羽勝幸『三囲の石碑』をそっくりまる写しにしておく。

木歩は本名富田一。明治30年4月14日、向島三丁目の鰻屋の四子に生まれたが、二歳の時小児マヒを患い、生涯歩行困難になった。弟も生まれながらに聾唖者であった。

我ら兄弟の不具を鰻売るたたりと世の人の云ひければ
鰻ともならである身や五月雨 木歩

隅田川 の洪水被害により二人の姉は芸者として苦界に身を沈め、一家を支えた。

やがて木歩は、友禅型紙彫刻師のもとへ丁稚奉公に出たが、兄弟子に虐待され、その孤独をいやすために俳句を覚えた。小学校を出ていないために文字はカルタとメンコで覚えたという。

妹、弟と相次いで肺結核で亡くし、自らも感染、その「死神の憑いた」家をすてて向島須崎町、寺島玉乃の井と転々とした。その間、貸本屋を開きほそぼそながら生計をたてた。

貸本屋をいとなみ一年に及ぶ
なりはいの紙魚と契りてはかなさよ

病み臥して啄木忌知る暮の春

など木歩の作品は日常の生活詠に秀作が多い。

三囲神社の句碑は、死の翌年、表門に近い場所に建てられた。小さいながら主張することの大きい碑の一つである」。

句碑をいくつも紹介しては来たが、それぞれの句に惹かれることはなかった。

しかし、木歩の作品には心動かされた。

木歩を知っただけでも、この企画は、私には有意義でした。

彼の句集を読んでみるつもりです。

 

このブログの一記事の容量は、約2万字。

現在1万5000字だから、残り4分の1しか残されていない。

三囲神社境内の石碑62基の内、句碑14基を紹介しただけでまだ48基もある。

 せめて、川柳、狂句、狂歌くらいは扱いたいが、多分、途中で一杯になり、中途半端になりそうなので、今回は句碑の紹介だけにしておくことにします。

いずれ近いうちに、「三囲神社の石碑を読む(2)」をアップするつもりですが、句や歌、書を除くと絵画、生け花、演劇、音曲、囲碁、柔術、料理と各界著名人の顕彰碑ばかり。

見知らぬ人の顕彰碑ほどつまらないものはない。

どうしようか、思案投げ首です。

 

残りのスペースがちょっとあるので、付け足しを。

三囲神社の裏の墨堤とその桜について。

墨堤とは、隅田川の堤のこと。

春のうららの 隅田川

のぼりくだりの 船人が

櫂(かひ)のしづくも と散る

ながめを何に たとふべき

滝廉太郎の「花」は、墨堤の桜を歌った歌です。

墨堤は、江戸庶民のこよなく愛した行楽地でした。

きさらぎの末よりやよひの末まで、紅紫翠白枝を交えへ、さながら錦繍を晒すが如く、幽艶賞するに堪へたり。またすみれ、れんげ草盛りの頃は、地上に花氈を敷くが如く、一時の壮観たり」と「江戸名所図会」は、その春景色を称えています。

とりわけ桜が見事なのは、向島堤。

最初に桜を植えたのは、八代吉宗でした。

享保2年(1717)に、まず、100本の苗木を植え、15年後の享保17年には、三囲神社から木母寺まで、桜121本、桃28本、柳17本を植えさせました。

特筆すべきは、この桜並木の維持には、民間人の継続した力があったこと。

大蔵喜八郎と成島柳北が白鷗社を設立して名勝の維持を呼びかけ、安田善次郎らが出資、村民一丸となって約4キロの花街道を完成させます。

要した歳月は、170年。

花のトンネルは明治になってから。

江戸時代は、土手の傾斜にむしろを敷いて、飲み、かつ踊ったのでした。

花の山幕の膨れるたびに散り
花なら花さ遊びなら遊びとさ
花にめで月に浮れておん出され
飲まぬやつ一日拝む花の山
江北へ桜を植えておもしろし

 

    墨堤の桜の葉を使用した名物桜餅

今年の花見は、向島の墨堤に行くつもりです。

 

≪参考図書≫

◇矢羽勝幸『三囲の石碑』平成13年

◇墨田区教育委員会『墨田区文化財調査報告書5-10』

◇鶴見誠『隅田川随想』平成5年

◇稲垣史生『江戸を歩く』

◇工藤寛正『江戸の芭蕉を歩く』

 

 

 


57 佐渡の百万遍供養塔

2013-06-16 00:47:57 | 石碑

 プロフィールにもあるように、私の故郷は佐渡が島です。

5年前、病気治癒祈願のため佐渡八十八カ所を巡ったことが、石仏愛好家の仲間に入るきっかけでした。

この年、春と秋、二度、八十八カ所を回ったのですが、当時の写真ファイルを見ると1回目では石仏の写真はほとんどありません。

興味関心が皆無だったからでしょう。

2回目で、やっと石仏が登場し出します。

そのほとんどは、お地蔵さん。

 普門院(栗野江) 門前の石仏は全部地蔵

 佐渡は、地蔵の島と言われるくらいですから、当然のことです。

聖観音や如意輪観音はほんのわずか、文字塔にいたってはまったく無視されています。

その後、東京と東京周辺の石仏巡りをしながら、庚申塔や月待塔、あるいは馬頭観音など像塔以外に文字塔も沢山あることに気づくことになります。

石仏から石造物へと関心が広がったわけです。

石造物の知識と見聞の広がりとともに、佐渡の石造物の特異性が少し分かるようになりました。

いくつかあるのですが、その一つは「百万遍供養塔」が多いこと。

 浄玄堂(三瀬川) 石塔の8割は百万遍供養塔

 それは、「光明真言百万遍塔」だったり、「念仏百万遍塔」だったりするのですが、そうした石塔が島のあちこちに立っています。

勿論、関東にも百万遍塔はあります。

私のパソコンにも、数基の光明真言百万遍塔とその数倍もの念仏百万遍塔がファイルされています。

 

 針ケ谷墓地(富士見市)       長谷寺(高崎市)  

 光明真言一億万遍供養塔      念仏供養四億百万遍

場所は、関東一円に散らばっていて、光明真言百万遍塔は八王子市、幸手市、八千代市、笠間市、銚子市に、百万遍念仏塔は、松本市、高崎市、東松山市、深谷市、越谷市、横浜市、那須塩原市で見かけました。

でも、その数は、庚申塔などに比べたら100分の1にも満たないでしょう。

私の家があった佐渡の金井町(全島佐渡市になる前の10市町村のうちの一つ。人口7000人強)では、事情が違います。

石造物の第1位は光明真言塔の84、次に庚申塔42、回国供養塔27、念仏塔22、秋葉山塔20、出羽三山供養塔17、如意輪観音15、不動明王14、聖観音12、馬頭観音11、猿田彦11で、断然光明真言塔が多いのです。(『金井町の石仏』より)

 旧金井町の水田地帯に立つ六字名号塔 「南無阿弥陀仏」の右に「念仏一億万遍」、左に「光明真言五千万遍」とある。

ここでおさらい。

百万遍念仏には、念仏の回数が多いほど功徳も大であるという多数作善の思想が背景にあります。

「南無阿弥陀仏」(口唱では「ナンマイダー」)を百万回唱えることで、極楽往生を目指すのが目的で、その方法には①一人が日を限ってその期間内に念仏を百万回唱える、②千十顆の大念珠を念仏講中が車座になって「南無阿弥陀仏」を一唱するごとに一顆を繰り、全員の念仏の総計が百万回に達すれば完了となる、の二通りがあり、百万遍供養塔は、その完了記念として造立されました。

           野浦の百万遍念仏

光明真言百万遍塔もその趣旨と方法は念仏の場合と同様で、ただ唱えるのが「南無阿弥陀仏」ではなく、「オン、アボキャ、ベイロシャナウ、マカボダラ、マニ、ハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤ、ウン」の陀羅尼。

意味は「大日如来よ、智慧と慈悲をたれてお救いください」。

これを誦すれば、一切の罪障は除かれると信じられました。

中世初期、庶民に広がりつつあった浄土教の念仏専唱に対抗して、庶民にも実践できる伝統仏教の手法として編み出された、と『日本石仏図典』では解説しています。

 

2013年6月上旬、新潟市で行われた佐渡高校の同期会に出席して、翌日、佐渡へ渡りました。

1年半ぶりの帰郷です。

6月の佐渡は、薪能が週末に相次いで催され、カンゾーの花が咲き乱れる最高の観光シーズン。

両津からレンタカーで河崎へ。

予て見たいと念じていた石塔が河崎の菊池家にあるからです。

 途中、石造物群があれば停車、写真を撮る。

両津港から河崎集落まで約5キロ、光明真言百万遍供養塔が3基もあります。

  

 路傍(住吉)光明真言五百万遍    路傍(河崎)百万遍         路傍(河崎)七百万遍

いずれも集落の講中が造立したものです。

500万遍、100万遍、そして700万遍。

仮に35人の講中だとすると700万遍を達成するのにどれほどの日数を要するのでしょうか。

       河崎集落

真言陀羅尼を一回誦するのに6秒かかるとする。

1分で10回、1時間で600回。1日6時間やったとして、3600回。

1日の総回数は、3600×35人=126000回。

700万遍には56日かかることになります。

旧正月の松の内の8日間、集落の35人が真言を唱え続けて7年間でやっと達成される計算です。

記念に供養塔を造立したくなるのも当然でしょう。

 

純粋に死者を悼む光明真言百万遍塔も島内にあります。

小倉の中佐為集落の石塔には「光明真言三百万遍、為餓死百回忌菩提也」と刻してあります。

 

       中佐為の石塔群                    光明真言三百万遍 為餓死百回忌菩提也

宝暦の餓死者を悼んで、百年後の嘉永7年に子孫が建てた供養塔。

宝暦の飢饉での佐渡の死者は約3000人。

とりわけ小倉から猿八にかけては悲惨だったと伝えられています。

 

帰郷の目的の石塔は、河崎の菊池源右衛門家の入り口に2基立っています。

 菊池源右衛門家の2基の石塔(河崎)

右は「南無阿弥陀仏」の利剣名号塔。

        利剣名号塔

このブログの「NO41それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たちー」の主人公木食弾誓に関わる石塔で、近く新しい章立てで、この利剣名号塔については書く予定です。

今回の主役は向かって左の石塔。

弥陀名号 光明真言百万遍供養塔

刻文は
「弘化四末年
 弥陀名号一億二十五万千九百遍
 光明真言一千九百十一万九千二百遍
 世話人 安兵衛
 新穂村 五郎左衛門
 国中村々請事」

これは、弘化4年(1847)、一国念仏を催した記録です。

世話人、安兵衛と五郎左衛門の呼びかけで、島内各村々の代表者が一堂に会して総会を開き期日を決めます。

その決めた日には、全島一斉に各村の堂に老若男女が集まり念仏を唱えるのでした。

一億二十五万千九百遍とか一千九百十一万九千二百遍とか、中途半端な数にリアリティがあります。

何人くらいが参加したものでしょうか。

この一国念仏は何回か行われた形跡があります。

村々の念仏講は、コミュニケーションや娯楽の場として機能していましたが、一国念仏はやや色彩を異にしていました。

念仏に名を借りた、数にものを言わせる集団示威行動だったのです。

デモの相手は、相川奉行所。

奉行所の、ひいては幕府の、圧政や一揆のリーダーの厳罰に対する無言の集団的抗議行動でした。

一揆の指導者として一身を犠牲にした義民を悼むこうした風潮は、佐渡全域で長い間、見られました。

今でも旧正月に大数珠を使って行う真更川の百万遍念仏では、その終わりの言葉に義民の名前が登場します。

         百万遍念仏(真更川)

 「南無地蔵大菩薩さん お大師さん たんせい(弾誓)上人さん 浄厳上人さん ちゅうそうかいさん(中興開山) 笠掛澄心さん 山居のにょれい(如来?)さま 上山田の善兵衛さん 長谷の遍照坊さん 一日から三十日(みそか)までのご精霊さま なんまいだー なんまいだー」

 

   善兵衛の墓(上山田)                   智専(法印憲盛)が住職をしていた寺・遍照坊(長谷)

上山田の善兵衛は、天保9年(1838)の佐渡一国一揆の、そして長谷の遍照坊は、明和5年(1768)の明和一揆の指導者。

遍照坊だけは、処刑されています。

彼の戒名は「憲盛法印」。

佐渡には、憲盛法印供養塔があちこちにあります。

何度かの一国一揆のリーダーの中でも、とりわけ罪を一身に背負って処刑された犠牲者のイメージが高いからでしょうか。

百万遍供養塔にも法印憲盛の戒名が付いているものが見られます。

 

 奉唱光明真言一千万遍      為法印憲盛(拡大)
 
為法印憲盛菩提(大和田薬師)

 

 堂(千種・本屋敷)           為法印憲盛菩提(拡大)

自らの極楽浄土での安楽を願いながら、併せて、、憲盛法印の霊を悼んで念仏を繰り返すのでした。

 

明和一揆の前年は、虫害がひどい年でした。

「七月下旬より外海府より始まり、稲に見慣れぬ虫つき国中残らず、見事なる稲もことごとく痛み申し候」。(『三国辰雄家記録』)

虫害がひどいので年貢米を減免してほしいというのが一揆の訴状の内容の一部でもありました。

「村中老若男女共、残らず毎日念仏真言三昧、田畑の畔に鐘を打ち、念仏真言唱え廻り申し候」。

鐘を叩いて村の田を回る虫送りは、7月の佐渡の風物詩でした。

  虫送り(京都市のHPから無断転載)

その虫送りの行事も、明和一揆の原因が虫害であったことに因み、その後、法印憲盛の供養を兼ねる行事となって行きます。

 

私の頭には「しんごんをくる」という言葉が、片隅にあります。

「くる」は、「数珠を繰る」の「繰る」でしょう。

真言を誦しながら数珠を繰るーこれは百万遍念仏の情景でもあります。

東京では無縁の言葉なので、子供のころ佐渡で覚えた言葉に違いありません。

しかし、佐渡も国中の村では、昭和20年代、すでに百万遍念仏は廃れていました。

私は行事としての百万遍念仏を見たことがありません。

でも言葉として残っているのだから、面白い。

 

真更川の百万遍念仏は、2月の風物詩としてよくテレビニュースに登場します。

 百万遍念仏(真更川) 30キロはある大数珠を持ちまわりながら念仏を唱える。

ニュースになる位だから、佐渡の百万遍念仏は真更川にしか、もはや残っていなくなったのだろう、なんとなくそう思っていました。

ところがそうではないらしいのです。

佐渡博物館に勤務していた、ということは佐渡の歴史・民俗の専門家である、高校の友人によれば、国中(佐渡島の中央部)では廃れてしまったが、海岸地帯では今でも百万遍念仏は行われている、とのことです。

新潟日報『佐渡紀行』では、小木の琴浦での百万遍真言を次のように書いています。

カンカンカン トコトコトコ
 鐘と太鼓の音が会場に充満する。
 耳鳴りがするほどだ。
 小木町琴浦地区恒例の百万遍真言が17日に行われた。

 小木・琴浦の百万遍念仏 (新潟日報『佐渡紀行』より)

会場はコンクリート作りの集会場。
38戸の家庭から一人ずつが参加する。
主におばあちゃんたち。
鐘のリズムに合わせて一人が「なむあみだぶつ」と唱えながら大きな数珠を繰る。

鐘は1秒に2回ほどのかなり速いテンポだ。
鐘1回で玉を一つ繰る。
玉は全部で1008個あり、これを2周分数えると「1回」になる。
朝から夕方までに24回をこなす。
参加者がたたく鐘の音は約四万八千回に達する。(後略)」

百万遍真言といいながら、「なむあみだぶつ、(実際には、ナンマイダー)」と唱和しているのが面白い。

博物館員の友人も、実際に真言を誦しているところはないのではないか、と見ています。

 

最近の佐渡のニュースと云えば、朱鷺の話題ばかり。

他には佐渡市の財政悪化のニュースでしょうか。

確かに歴史的遺産や文化財保護については、世界遺産を目指す佐渡金山を除いて、お寒い限りです。

その典型例が「佐渡一国義民殿」。

 

   佐渡一国義民殿(畑野・栗野江)

建物の崩壊が進行し、その惨状は目を覆わしむるものがありました。

その建て替えに佐渡市が補助金を出す、などということはありえないので、このまま朽ちてゆくのかなと思っていましたが、明るいニュースが飛び込んできました。

報道したのは、読売新聞(2013年5月20日)。

嬉しいニュースなので、全文を転載しておきます。

ついでに「佐渡義民殿」とは何か、『佐渡相川郷土史事典』からの引用も。

見義不為、無勇也 (ぎをみてなさざるはゆうなきなり)の男たちを輩出し続けた島であることを、島民の一人として誇りに思うのです。

 

佐渡の義民殿 再建目指す…専門学校生ら協力(読売新聞(2013年5月20日)。

江戸期に佐渡島で起きた一揆の主導者ら26人を祭るお堂「佐渡一国義民殿」(新潟県佐渡市栗野江)の荒廃が進んでおり、地元有志らが再建のための寄付を募っている。

 義民の心を後世に伝える「島の宝」として、伝統建築を学ぶ地元専門学校の協力を得ながら、年内の再建を目指す。

 義民殿は、飢饉によって苦しくなった年貢の免税や、佐渡奉行所の不正を訴えて一揆を主導した人々をたたえようと、1937年に島民が寄付金を出し合って建築した。江戸後期の1838年に起きた一揆は、島内最大規模で「佐渡一国騒動」とも呼ばれており、その主導者の中川善兵衛や、「明和の一揆」の智専ら26人が堂内に合祀されている。

 当初は、地域の集会所として使われたり恒例の供養祭が行われたりしたが、風雪にさらされ徐々に荒廃。現在は倒木によって屋根の一部が無残に崩落し、内部も外れた戸や剥がれ落ちた内壁が散らばっている。

 こうした状況に地元住民が心を痛めていたところ、「伝統文化と環境福祉の専門学校」(同市千種)の伝統建築学科・杉崎善次講師が、別の社殿が建築中止になって残った資材を義民殿に寄付すると申し出た。再建は同学科の学生らが実習の一環として手がけるため、宮大工に依頼するより安価で済む見込み。

 義民殿を維持管理する住民団体の土屋隆さん(78)は「これまで直したくてもお金が無くてできず悔しかった。こんな話をもらえるなんて」と感激している。

 再建には解体や建築、周辺整備費用などで600万円が必要で、住民らは寄付金を募ろうと16日、義民殿再建実行委員会(渡辺庚二会長)を設立した。設立総会には、中川善兵衛の6代目の子孫、中川閧雄さん(68)も参加し「今の時代にこうした熱い思いを寄せてくださる皆さんに敬意を表したい」と語った。

 9月から再建工事に着手し、募金は11月まで受け付ける予定。渡辺会長は「妻子ある身で殺されると覚悟しながら一揆の先頭に立つことはなかなかできない。義民殿は、そんな偉大な先人をたたえた島の大切な宝。何とか昔のように立派な姿を再現させたい」と協力を呼び掛けている。

 募金は口座への振り込みなどで受け付ける。問い合わせは同実行委(0259・66・2508)へ

 

佐渡義民殿(さどぎみんでん)

 江戸期の、慶長から天保までの義民のうち、代表的な二六名を合祀した佐渡一国義民堂が、畑野町栗野江の城か平の山頂にある。昭和八年に、島内の百姓一揆を研究し、『佐渡義民伝』を著わし、義民劇の上演などに協力していた新穂村青木の伊藤治一を中心に、一二九名が発起人となって建設が始まり、昭和十二年に落成したものである。島内の農民騒動の発端は、慶長六年(一六○一)に佐渡が徳川家の直轄領と定められ、上杉支配のときから居残った代官の河村彦左衛門に加え、新たに田中清六・中川主税・吉田佐太郎が代官に任命され、四人支配の下に本途(本年貢)の五割増という急激な増税策が出されたのに対して、島の有識者たちが抵抗したことにある。この最初の一揆の結末は、首謀者の新穂村半次郎・北方村豊四郎・羽茂村勘兵衛の三人が江戸に出向いて、幕府に直訴したのが効を奏し、吉田は切腹、中川は免職、河村と田中は改易となり、全面勝訴となったのである。その後一世紀半ほどは、良吏の派遣などもあって平穏であったが、享保四年(一七一九)の定免制(収穫に関係なく定められた年貢を徴集する制度)の実施に伴なう増税に加え、同八年以後の鉱山経営の不振が住民の生活に圧迫を来し、村々の有識者の連帯を強めた。寛延三年(一七五○)の一揆は、そうした背景の中で、辰巳村太郎右衛門・川茂村弥三右衛門らを首謀者として起った。このときも、島ぬけして訴状を江戸の勘定奉行に手渡すことに成功して、幕府は訴状に認められた二八か条の要求の正しさを認めて、佐渡奉行・鈴木九十郎は免職となった。しかし訴人は、他の多くの役人にも非のあることを再度、佐渡奉行・幕府巡見(検)使らに訴えて、諸役人の不正が暴露され、在方役・地方役・米蔵役などに、斬罪一・死罪二・遠島七・重追放三・中追放一・軽追放一・暇五・押込二六・役義取放一・急度叱五の計五二名が刑を受けた。いっぽう訴人の側も刑を受け、太郎右衛門は獄門に、椎泊村弥次右衛門は死罪、椎泊村七左衛門は遠島、弥三右衛門は重追放、吉岡村七郎左衛門・新保村作右衛門・和泉村久兵衛は軽追放のほか、二○八か村の名主が被免、二○○名以上の百姓が急度叱りの処分となった。明和三年(一七六六)から同七年にかけて、大雨による洪水、浮塵子の大発生で中稲・晩稲が全滅状態になったとき、村々ではその実情を立毛検分するよう請願したが、けっきょく四日町・馬場・北村・猿八の四か村に年貢被免、船代・下村・畑方・畑本郷・武井・金丸・金丸本郷の七か村に三分一の未納・年賦・石代納の措置がとられただけで、他の村々には恩恵がなかった。その上、当時は代官制がしかれて、奉行に加え二重支配となったため、願いや届に煩雑なる手数がかかり百姓たちを苦しめた。さらに、代官の下役で年貢米取立ての御蔵奉行谷田又四郎と百姓の間に起きた摩擦がしだいに悪化し、谷田の苛酷さを非難する訴状が佐渡奉行所にもちこまれた。訴状は名主ら村役人たちによってしたためられたが、願いの筋がきき届けられないので、百姓どものこらず御陣屋へ押かけようとするのをなだめすかしたこと、要求がいれられなければ江戸表へまかり出て直訴しなければならないので出判をお渡しくださるようなど書いてある。谷田は、相川金銀山の衰微に伴って、米の消費が減少し、余剰米の大阪回米が市場で不評であり、その佐渡米の商品価値を高めようとして、米質や包装改良を求めて百姓と摩擦を生じたもので、良吏とされた人物であったが、百姓がわでは、それを賄賂をとるためとする誤解が生まれて事件を深めることになった。一揆にいたる前哨戦として、沢根町に相ついで起った付け火が挙げられる。米価の高騰で爆発した相川の鉱山稼ぎの者が、中山峠を越えて沢根方面の富裕な商家を襲ったのであるが、米価の引き下げなどの処置で、この時は大きな騒動にはならなかった。この明和の一揆は、首謀者の呼びかけで、栗野江の賀茂社境内に集結した民衆が、二度めの集結を察知され、六人が捕えられ、成功にいたらなかった。裁きの末、通りすがりにすぎなかった長谷村の遍照坊住職・智専が自ら罪を負う形となって死罪となり、他は牢死・お預け・釈放などの微罪で落着した。智専は「憲盛法印」のおくり名で今も農民の崇敬をうけている。天保九年の全島的な一揆は、島内で最大の規模で起ったので「一国騒動」と呼ばれている。惣代の羽茂郡上山田村の善兵衛を願主とする訴状には、百姓・商人などの要求十六か条が書かれていたが、上訴した巡見使から返答がないまま善兵衛らが捕えられ、善兵衛は獄門に、宮岡豊後の死罪、ほか遠島・所払いなど極めて多数の受刑者やとがめを受けて終った。この天保一揆についての記録としては、江戸末期の川路聖謨奉行による『佐州百姓共騒立ニ付吟味落着一件留』(佐渡高校・舟崎文庫所蔵)があり、同校同窓会が刊行している。

【関連】智専(ちせん)・中川善兵衛(なかがわぜんべえ)
【執筆者】本間雅彦

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
 
<参考図書>
○田中圭一「地蔵の島・木食の島」
○田中圭一「天領佐渡(2)」刀水書房 1985
○新潟日報「佐渡紀行」恒文社 1995
○こちら佐渡 野浦 情報局http://wind.ap.teacup.com/noura/1995.html

 

 

 

 

 


50 童謡「夕焼け小焼け」歌碑めぐり

2013-03-01 05:40:59 | 石碑


今回は、童謡「夕焼け小焼け」の歌碑めぐり。

このブログのタイトルは、「石仏散歩」です。

石仏からどんどん離れて行っている感があるが、ご容赦願いたい。

毎月、1日と16日に更新しているが、ネタに窮して立ち往生することがある。

今回も同じ。

窮余の一策なのです。

 

石仏巡りをしていると、句碑や歌碑によく出くわす。

くずし字だと読むのにお手上げのことが多い。

     

「暮おしき四谷過ぎけり紙草履 はせを」 「赤門やおめずおくせず時鳥 一茶」
          荘厳寺(東京都渋谷区)         来見寺(茨城県利根町)

私に読めるのは、校歌と童謡くらいか。

その童謡の歌碑について、面白い話を耳にした。

童謡「夕焼け小焼け」の歌碑はあちこちにあって、その数、一曲の歌碑としてはギネス級というのだ。

本当か?

自ら確かめるのが、正統派野次馬というもの。

たまには正統派でありたいから、調べてみた。

 

夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで 皆かえろ
カラスと一緒に 帰りましょう

子供が帰った 後からは
円い大きな お月さま
小鳥が夢を 見る頃は
空にはきらきら 金の星

日本人なら誰でも知っている歌。

戦後、シベリア抑留からの帰国船でこの歌の合唱が自然発生して、みんな、泣きながら歌っていたという記録を読んだ覚えがある。

ノスタルジーを感じさせる歌として、白眉なのだろう。

作詞・中村雨紅、作曲・草川信。

この作品ができた大正12年、二人は東京府立小学校の教師だった。

作詞の中村雨紅はペンネーム。

本名は、高井宮吉。

彼は明治30年(1897)、八王子市上恩方町に生まれた。

当時は、南多摩郡恩方村上恩方。

八王子市の西の端、あと少しで和田峠、そこから神奈川県相模原市に入るという山間の村の神社が彼の生家です。

宮司が父親だから、「宮吉」なのだろうか。

歌碑は故郷に立つのが常識だから、まずは恩方へと陣馬街道を西へと走る。

     八王子市上恩方町

前日、今冬、何度目かの雪がちらついた。

都内は積もることがなかったので、安心して通常タイヤのまま行ったのだが、道路わきには雪がある。

「和田峠、積雪のため通行止め」の交通標識も。

「やばいな」と思いながら走っていたら、鮮やかな幟が目に飛び込んてきた。

「夕焼けそば」とある。

八王子市の施設「夕焼け小焼けふれあいの里」の入り口だった。

道路の反対側に「中村雨紅之墓」の石柱、奥に墓がある。

その傍らには、「夕焼け小焼け」の歌詞ボード。

汚れていて、文字が読めない。

墓地から100メートル程右の石垣の上に「宮尾神社 夕焼け小焼けの碑」の看板。

奥の竹林の後背に神社はある。

石垣を上って見下ろすと「夕焼け小焼けふれあいの里」の屋根が雪で銀色に光っている。

参道の坂道を上る。

陽の当らない場所は、うっすらと雪化粧。

参道際にポツンと馬頭観音が立っている。

常吉少年が毎日見ていた観音だと思うといとおしい。

唱える十句観音経にも力がこもる。

 

神社はひっそりとこわいほどの静寂の中に佇んでいた。

歌碑は、本殿に向かって左に立っている。

昭和31年、雨紅の還暦を祝しての建立だった。

歌詞の一番が、雨紅の自筆で刻まれている。

「夕焼け小焼け」ではなく「夕焼小焼」だったり、「帰らう」、「帰りませう」に大正時代の匂いが残っている。

ところで、「夕焼け小焼け」の歌詞は、この恩方で子供の頃見た夕景を思い出して、雨紅が書いたものなのだろうか。

本人は後年になって「どうもはっきりした覚えがない。歌詞には、固有名詞や個性的なものはありませんから」(『教育音楽』昭和31年8月)と故郷で見た夕日だとは言っていない。

夕焼けには、広い空の西に太陽が沈み、空が次第に紅く染まって行くイメージがある。

しかし、この恩方では、そうした夕焼けは見られそうもない。

道の両側の山の頂は見上げるような高みにあって、山と山に区切られた空の面積は狭い。

秋になれば、3時ころには山の端に日は沈み、空が赤くなるのはそれからかなり時間が経ってからのことになりそうだ。

雨紅生誕の地だから「夕焼け」を商標として使用はするのだが、イメージする夕焼けはここでは見られない。

だからなのか、記念写真用に夕焼けの絵が用意されている。

お寺の鐘もねぐらへ急ぐカラスも描かれていて、役所の仕事はそつがないが、こうした絵を用意すれば人々は喜ぶだろうと思うその発想力の貧しさに驚いてしまうばかりだ。

 

帰途、「夕焼け小焼け」の歌碑がある二つの寺に寄ってみた。

いずれも「山のお寺の鐘が鳴る」の寺とはわが寺のことだと言いたげだが、実際には無関係。

だが、二つの歌碑とも、文字は雨紅の筆によるもので、ここが歌詞の寺だと誤解を与えかねない。

下恩方小田野の観栖寺の歌碑の表面は「夕焼けの鐘」、裏面には雨紅作の一首が刻まれている。

 

  観栖寺の「夕焼け小焼け」の歌碑      裏面の雨紅の短歌

「ふる里はみな懐かしく温かし 今宵も聞かむ夕焼けの鐘」。

境内の一段と高い場所にある鐘は、毎夕6時にその音を響かせている。

       観栖寺の鐘

 

この観栖寺の歌碑建立1年後の昭和43年、西寺方町の宝生寺にも歌碑が建てられた。

     宝生寺(西寺方町)

鉄筋コンクリートのモダンな鐘楼落慶記念としての歌碑だったが、現在、肝心の鐘はない。

 宝生寺の鐘のない鐘楼

建立の意義を失って、歌碑は間が抜けた形で鐘楼の脇に立っている。

 

それにしても、それほど遠くでもない観栖寺に歌碑が建てられたばかりなのに、同じ「夕焼け小焼け」の歌碑を建てるのは何故なのだろう。

実は、宝生寺と同じ頃、上恩方の興慶寺でも梵鐘の落慶があり、雨紅の一首が鋳刻されている。

「興慶寺ここのみ寺の鐘の音を今日も安らに聞くぞ嬉しき」

興慶寺へも行ったが、参道のあまりの急勾配に恐れをなして引き返してきたので、鐘の写真はない。

「夕焼け小焼け」の「お寺の鐘」の本家争いは、当時、新聞にもとり上げられ話題になったという。

無理もない。

観栖寺の「ふる里はみな懐かしく温かし 今宵も聞かむ夕焼けの鐘」も、興慶寺の「興慶寺ここのみ寺の鐘の音を今日も安らに聞くぞ嬉しき」も、どちらも歌詞の鐘のような気がする。

しかも両首とも、雨紅本人が提供しているから始末が悪い。

後年、雨紅は、この本家争いについて、こうとぼけている。

「遠い昔のことで、あの鐘の音はどこの鐘楼から聞こえてきたか忘れてしまったよ。みんなの心の中にある夕焼けの鐘でいいんじゃないかな」。

争いごとを好まない温和な雨紅らしい言葉だ。

 

村の尋常小学校を明治42年に卒業した高井宮吉(中村雨紅)は東京府立青山師範学校に進学する。

秀才だったようだ。

卒業したのは、大正5年3月、4月には新米教員として第二日暮里小学校に赴任した。

 荒川区立第2日暮里小学校

宮吉、19歳の春のことである。

彼はこの学校に2年間在籍する。

童謡「夕焼け小焼け」は第二日暮里小学校時代に作られたものではないが、歌碑はある。

 

全文ひらがなの珍しい歌詞で、「中村雨紅 元本校訓導 高井宮吉」とある。

昭和44年、雨紅の教え子が学校創立60周年の記念事業として建立した。

大正時代の教え子たちには、教師よりも訓導の方がなじみ深い言葉だったことが窺える。

平成6年、『中村雨紅 青春譜』が刊行された。

第二日暮里小学校在籍中の雨紅の日記で、文章よりは詩が多い。

時代は、大正デモクラシイの只中。

軽佻浮薄なモダニズムを青年教師高井宮吉は軽く揶揄している。

「近頃は
 化学の進歩につれて
 大部 粋なお化粧法が
 出しゃばって来た

 だから
 ブルドックや
 タラみたいな
 面して居る奴まで
 一見 小町と
 見さけがつかぬ

 まして
 後姿は
 買ひかぶらねぃやうに
 気をつけねぃ」

第二日暮里小学校にいたのは、わずか2年。

大正7年、第三日暮里小学校に異動となる。

童話、童謡の創作活動に励んだのは、この頃だった。

野口雨情と交わり、その「雨」をもらって筆名を雨紅としたと言われている。

童謡「夕焼け小焼け」出来たのは大正12年だったが、折からの関東大震災で楽譜が灰になり、わずかに残った13部が再スタートの元となった。

この間の経緯については、第三日暮里小学校の「夕焼け小焼けの塔」前の「中村雨紅先生の略歴」に詳しい。

 

その末尾に「先生が、夕焼け小焼けを作詞したのは、第三日暮里小学校に勤務されていたころです」とわざわざ追記されている。

事実ではあるが、この文章には、先任校の第二日暮里小学校を意識しての、地域エゴ、学校エゴがあることを否めない。

童謡をめぐって、故郷の寺も、勤務していた小学校も競い合うというのは、面白い。

第三日暮里小学校勤務中に結婚。

大正13年、27歳で板橋の小学校に転勤になり、2年間、日大夜間部へ通って、高等科の教諭免許を取得し、昭和元年、神奈川県立厚木高等女学校(現県立厚木東高校)教諭となる。

厚木での教師生活の方が圧倒的に長いが、本名の高井宮吉で通していたので、作詞家としての顔が前面に出ることはなかった。

それでも幼稚園歌、小、中学校校歌、社歌、市歌など30曲の歌詞を作詞している。

中村雨紅とは名乗らずとも高校生は皆が知っていて、昭和31年、厚木東高校創立50周年祭には、雨紅の還暦を祝して全校生徒による「夕焼け小焼け」の踊りが行われた。

厚木東高校での教え子が七沢温泉の旅館に嫁ぎ、旅館の敷地内に建てた歌碑もある。

    「夕焼け小焼け」の歌詞碑(七沢温泉玉川館)

「夕焼け小焼け」は厚木で作られたものではなく、また、厚木の夕日を歌ったものではないから、七沢温泉に歌碑を建てる理由がないのだが、雨紅本人は建立をとても喜んで、拓本は厳禁にすべきだと云ったという。

バスに乗ってわざわざ歌碑を見に行ったのだが、カメラの不具合で写真が消去されてしまった。

使用写真は、ブログ「名曲歌碑めぐり」 から無断借用したもの。

 

高井宮吉は、昭和24年、52歳の若さで厚木東高校を依願退職した。

75歳で亡くなるまで、詩作活動を続けていた。

厚木を舞台とする詩を1編紹介しよう。

厚木市泉町の自宅の庭には、柿の木が1本あった。

その柿の実の歌である。

十か十一残しとけ

 柿の実とるなら皆とるな
 十か十一残しとけ
 毎年よく来る仲良しの
 あの鵯(ひよどり)がくるだろう
 今年も食べに来るだろう

 柿の実熟れたぞ熟したぞ
 とろけて ほっぺが飛ぶように
 残しておいたぞ鵯よ

 狭い庭ではあるけれど
 たった一本伸びている
 私と柿と鵯と
 秋の夕日の茜雲
 今日も楽しい日が過ぎる」(『新しい日本の歌』掲載。昭和43年11月作、作曲・斎藤高順)

ほのぼのと心暖かくなる詩で、雨紅の人柄がにじみ出ている。

 

余談になるが、八王子市郷土資料館へ行っての帰り、「夕焼けの里」と大書した店を見つけた。

 和菓子「万年屋」(八王子市上野町)

何だろうと覗いて見た。

和菓子店なのだが、店内には中村雨紅の作品と本人の遺品が所せましと展示されている。

 

 雨紅自筆の色紙「夕やけの鐘」            雨紅愛用の品々

女将さんの話しでは、店の先代が若くして亡くなった雨紅氏の息子の友人だったことから、親子のような関係だったという。

「店に展示してあるのは、所蔵する遺品のほんの一部、あれも昨日掛け替えたばかりです」と指さす先には、雨紅自筆の掛け軸があった。

 

 掛け軸の上半分            掛け軸の下半分

泣くまいぞ

こんな名もない頼りない俺に黙って離れずに いつでも一緒について来る淋しかないか影法師

消気た姿がみじめでも俺もお前も泣くまいぞ 夢も希望も捨てなけりゃ花も咲くだろ影法師

忘れちゃいないか見ることを夜空の星を野の花を パールやダイヤは持たなくも夢を持とうよ影法師」

いつ頃の作品だろうか。

演歌の匂いがする。

書もなかなかの腕前と見たがどうだろうか。

店には「夕焼け小焼け」の歌詞を書いた色紙が何枚かある。

請われれば気楽に要求に答えていたものと見える。

 

これで童謡「夕焼け小焼け」歌碑めぐりの前半は終わり。

「夕焼け小焼け」は童謡だから、作詞家と作曲家がいる。

前半というのは、作詞家中村雨紅に関わる歌碑という意味です。

当然、作曲家・草川信からみの歌碑もあるわけで、それが後半になる。

草川信は「赤い鳥」運動の中核メンバーの一人で、「夕焼け小焼け」のほか、「風(西條八十)」、「汽車ポッポ(冨原薫)」、「どこかで春が(百田宗治)」、「ゆりかごの歌(北原白秋)」などの名曲がある。

雨紅より4歳上で、明治26年、長野市で生まれた。

草川信からみの「夕焼け小焼け」の歌碑は、故郷の長野市にあって、二つの寺が本家争いをしているところは、雨紅の故郷八王子市恩方町とそっくりです。

二つの寺とは、「往生寺」(長野市往生地)と「善光寺阿弥陀堂」(長野市安茂里朝日山)。

他に、別所温泉の北向き観音堂にも歌碑があります。

行ってみたいのはやまやまなれど、先立つものが不如意で、今回は断念。

別用で長野へ出かけた時、忘れずに寄って、ここに写真を追加するつもりです。

しかし、草川信の「夕焼け小焼け」の歌碑は、東京にも1基だけある。

彼が若いころ音楽教師をしていた東京府立長谷戸尋常小学校(現・渋谷区立長谷戸小学校)。

訪ねてみた。

横断幕には、夕焼け小焼けの小学校とある。

  渋谷区立長谷戸小学校(渋谷区恵比寿西)

歌碑がありそうな正面玄関にはない。

  正門左、赤いパイロンが歌碑が立っていた場所

 ぐるっと学校を1周したが、見当たらなかった。

たまたま日曜日で、学校に人影がなかったので訊くこともできず、退散。

翌日、電話で問い合わせた。

「建立から四半世紀経って、痛みが激しいので、修繕のため取り外している」とのこと。

ネットの写真を流用して載せておく。

   渋谷区立長谷戸小学校の「夕焼け小焼け」の歌碑 ブログ「Forever Young Ha」より

この歌碑は、同校の創立75周年記念として昭和62年に建てられた。

楽譜が刻まれているのが作曲家草川信の顕彰碑らしい。

参考図書

○藤田圭雄「東京童謡散歩」東京新聞1988

○厚木市立図書館「夕焼け小焼けー中村雨紅の足跡ー」厚木市教育委員会平成2年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


35 亀趺(きふ)

2012-07-12 08:50:54 | 石碑

「亀趺」は「きふ」と読む。

語意は、「〔名〕かめの形に刻んだ碑の台石。転じて、碑の異称。」(日本国語大辞典)

古来、中国では、亀は万年の寿齢を保つ霊獣とされてきた。

石で亀の形を作り、その背に碑を載せることで、その碑が永遠に後世に残ることを念じて建てられるのが、亀趺。

多くの場合、行状碑(特定の人物の業績を記した碑)として用いられますが、墓標として使用されることもあります。

 

初めて亀趺を見たのは、墨田区向島の弘福寺でした。

石仏めぐりの手段として、都内の寺を順繰りに訪ねている途中のことでした。

亀趺の何たるかも知らず、「へえ、変わったお墓だなあ」と思った覚えがあります。

 池田冠山の墓                  池田冠山の行状碑

因幡若桜(いなばわかさ)藩主であり、儒学者でもある池田冠山の墓と行状碑、二つとも亀趺であるのが珍しい。

写真を整理していて、亀趺という言葉をこの時初めて知りました。

不思議なもので、間を置かずして、次の亀趺に出会うことになります。

春日通りから少し引っ込んだ所にある麟祥院は、都会の喧騒とは無縁な森閑としたしじまの中にあります。

     麟祥院(文京区)

春日通りは春日局に因んだ名前ですが、麟祥院はその春日局の菩提寺です。

山門を入ると左前方に寺の顕彰碑があり、台石が亀趺となっています。

                    麟祥院の亀趺

造立は、宝暦8年(1758)。

肝心の顕彰の中身は?と問われると困ってしまう。

刻字が読みにくいというのは弁解で、刻文が読みとれないのです。

弘福寺の亀趺も同じこと。

誠になさけない。

石造物と接していると、いつもこの「読めない」問題に直面します。

造立した江戸の人たちも、後世の日本人がこんなに読解力に欠けるなんて思いもしなかったに違いない。

話しを元に戻そう。

上野の寛永寺にも亀趺が1基ある。

1基ある、と書いたが、本音を云えば、1基しかない、と書きたいのです。

というのは、亀趺は中国生まれですが、その建立は貴族階級以上にしか認められませんでした。

このシステムは、そのまま日本にも持ち込まれました。

亀趺が流行ったのは江戸時代からですが、江戸時代は身分社会が花盛り。

当然徳川将軍家の墓地に亀趺が群れをなしていてもおかしくありません。

ところが、寛永寺にはたった1基、それも徳川家とは無縁な僧侶の顕彰碑としての亀趺があるだけです。

  了翁禅師塔碑(寛永寺)

増上寺には亀趺はありません。

では、徳川家は亀趺と無縁かというとそんなことはない。

水戸徳川家の墓地には、いくつも亀趺がみられるのです。

 

現在、東京には亀趺はわずかしかありません。

おそらく10基未満でしょう。

なぜ、こんなに少ないのか、不思議でなりません。

亀趺を見れば、故人のステータスが分かる。

そんな正統的シンボル装置が何故流行しなかったのか、亀趺を見るたびにいつも疑問に思うのです。

以下は、たまたま出会った東京とその近郊の亀趺の写真です。

  品川寺(品川区)の亀趺

 品川寺の近くの東海寺大山墓地には、開山沢庵和尚を顕彰する亀趺があります。

 

 東海寺大山墓地の沢庵和尚顕彰碑

 

   浅草寺(台東区)の亀趺

浅草寺の亀趺碑にはびっしりと3面に文字が刻んであります。

浅草寺の金石文を解説する『浅草寺のいしぶみ』によれば、四季を詠んだ狂歌36首だとか。

大垣市人を撰者として、文化14年(1817)に建立されたものですが、顕彰碑や行状碑ではない歌を刻んだ亀趺は極めて珍しい(らしい)。

さいたま市では、個人の墓に亀趺が使用されている。

  長伝寺(さいたま市中央区)の亀趺の墓標

 亀の下に、松竹梅、その下に邪鬼。

どういう意味が込められているのだろうか。

墓ではないが、供養塔の亀趺が秩父にあります。

秩父観音霊場の4番札所金昌寺は石仏の寺として有名。

 4番札所金昌寺(秩父市)

石仏の数1200基とか1300基とか。

中に1基、お地蔵さんが亀趺の上に座しています。

               金昌寺の亀趺供養塔

 亀の背中の石柱には「三界万霊 六親眷族 七世父母」の文字。

先祖の追善供養塔であることは明らかです。

 

 良く見ると亀の顔がおかしい。

亀というよりは龍の顔に似ています。

平瀬氏の「日本の亀趺」というHPによれば、中国では亀首だけなのに、朝鮮では亀首と獣首があって、日本は朝鮮の影響で2種類の首があるのだそうです。

ここまでの7基の亀趺を振り返ってみても、亀と龍と両方があることが分かります。

中央線武蔵境駅南口前の観音禅寺には平成12年の新しい亀趺が2基建っています。

 観音禅寺(武蔵野市)の亀趺

寺伝碑ですが、碑に比べて亀の大きさが目立ちます。

頭は獣首、なぜ亀首ではないのかお寺に訊いてみたい気がします。

平成12年造立の観音禅寺が最も新しい亀趺ではないかと思っていたら、もっと新しい亀趺がありました。

飯能市の智観寺。

先祖供養を兼ねた鐘楼改修記念碑が平成16年の建立です。

  智観寺(飯能市)の亀趺

智観寺には開基者中山氏の次男信吉の顕彰碑が収蔵庫に保管されているが、その顕彰碑は木製で亀趺座に立っているという。

収蔵庫の中の亀趺に因んで、中国に発注して製作したのがこの石造亀趺らしい。

 

川越の喜多院にも亀趺がある。

場所は、川越藩主松平大和守歴代藩主の廟所の入り口。

 石碑のない喜多院(川越市)の亀趺

亀趺であることは確かだが、上にあるべき石碑がないので、碑文が不明です。

喜多院の社務所に問い合わせしたが、分からないという返事。

ご存知の方、教えてください。

 

このブログ作成中、江戸東京博物館へ「発掘された日本列島2012」を観に行った。

入り口への長いアプローチの右側に亀趺に乗った徳川家康像があることに初めて気づきました。

     江戸東京博物館(墨田区)の徳川家康像

とても大きな亀です。

これまで何度も見かけたはずなのに、気付かなかったのは、亀趺に興味がなかったからでしょう。

関心を持っていれば、こうして容易に発見できるのだから、都内だけでも10指を越える亀趺があるのではないかと推測するのです。

 

このブログを書いて9カ月、池上本門寺にも亀趺があることを知りました。

教えてくれたのは、昔の勤め先での若い同僚夫婦の友人女性。

大田区のボランティア観光ガイドでもある彼女の案内で、本門寺を回ってきました。

       本門寺(大田区池上1)

石仏巡りをしていると、日蓮宗と真宗寺院は避けることが多くなります。

境内に見るべき石仏がないのが普通だからです。

だから、本門寺を中心とする池上界隈には寺院は多いのですが、行ったことはありません。

本門寺へも1度行ったきりで、その時も墓地に入ることはなかったので、亀趺があることに気付きませんでした。

石仏に興味を持つ以前のことですから、亀趺を知っているはずもなく、見たとしても記憶に残っている訳がありません。

本門寺の墓地は広い境内に分散しています。

だから亀趺もあちこちにあるのですが、とりわけ宝塔のそばの絵師・狩野派の墓域に多く見られます。

  

面白いのは、極端にデザイン化した亀趺があること。

 

これが亀だとピンと来る人は、少ないのではないでしょうか。

施主の希望なのか、石工のアイデアなのか、それとも経費が安いからか、こうした亀趺が出来た経緯を知りたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


13 永代橋崩落溺死者供養塔

2011-09-15 09:41:22 | 石碑

2基の石碑がある。

Aは、背後の2基の宝筐印塔の説明碑。

 A 「永代橋沈溺横死者諸亡霊塔」     海福寺(目黒区)

「永代橋沈溺横死諸亡霊塔」と刻されている。

         B               徳願寺(市川市)

Bの刻文は「文化四丁卯年八月十九日永代橋溺死精霊頓悟覚道之也」。

 共通するのは「永代橋溺死」だが、Aは目黒区の、Bは千葉県市川市の寺の門前にある。

永代橋崩落溺死者の供養塔が、なぜ、永代橋からはるか離れた場所にあるのか、それが今回のテーマだが、同時に永代橋崩落事故の惨状とその原因についても、にわか勉強で知りえたことを書き記したい。

 

現在、隅田川の車と人の併用橋は14を数え、これを「隅田川14橋」という。

このうち江戸時代からのものは、4橋だけ。

永代橋はそのひとつで、元禄11年(1698)、両国橋、新大橋についで架橋された。

鉄橋になったのは、明治30年(1897)。

日本初のトラス橋はその男性的景観が愛でられた。

しかし、関東大震災で壊れ、大正15年(1926)、震災復興事業1号として現在の橋が架けられた。

放射線状の巨大アーチは、これもまた男性的景観を有し、その豪快かつ優美な造形は人々を魅了してやまない。

   永代橋の巨大アーチ

国の重文に指定されている。

下の写真は、永代橋を隅田川東岸から撮ったもの。

右手に見える梯子状の白い橋は日本橋川にかかる豊海橋。

江戸時代の永代橋はこの豊海橋の右手から橋脚が伸びていた。

現在地点から上流に100-150メートルの地点だと言われている。

豊海橋のたもとの石碑に永井荷風の文章がある。

  豊海橋鉄橋の間から永代橋を見る

「豊海橋鉄骨の間より斜めに永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」(『断腸亭日乗』永井荷風)

永井荷風はメンバーではないが、明治末期、江東区側の橋のたもとの永代亭なるレストランが文壇サロン「パンの会」の溜まり場だった。

「パンの会」の幹事役は木下杢太郎。

雑学的知識を付け加えるならば、永代橋の設計者、復興院土木部長太田円三は杢太郎の実兄である。

 

今回の主題である「永代橋崩落」事故に話を戻そう。

崩落したのは文化4年(1807)、700人とも1500人ともいわれる確かならざる多数の人たちが溺死する大惨事だった。

文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図(江戸東京博物館所蔵)

「『わあ、橋が落ちたッ』
『危ないッ』
『押すなッ、押さないでくれえ』
 怒号も悲鳴も、はるか後方に犇めく大群衆の耳には届かない。つかえていた前が急になめらかに動きだしたのに勢いづいて、やみくもに寄せてくる。押し出された心太さながら、とめどなくこのために人が落下した。橋杭の根元は泥深い。あとからあとから落下してくる人体に、先に堕ちたものは押しつぶされ、泥に埋まって窒息したし、かろうじて泳ぎだした者も八方からからみつかれ、動きがとれなくなって共倒れに沈んだ」。(『永代橋崩落』杉本苑子)

 すべて出来事には因ってきたる原因がある。

 永代橋崩落の第一の原因は、老朽化であった。

橋が架けられたのは、元禄11年(1698)。

崩落の109年前のことである。

それまでは舟による「渡し」であった。

橋を架けないのは、江戸防御の戦略からだったが、天下泰平となって橋が架けられた。

      鍬形紹真「江戸名所之絵」(享和3)

だが、大水、洪水が相次ぎ、永代橋は破損、その修繕費に音をあげた幕府は享保4年(1719)、橋の取り払いを決める。

 架橋からわずか20年後のことであった。

橋の便利さに慣れた地元町民は大反発。

橋存続の嘆願が功を奏して、「永代橋を下付して市人の有とす」ることとなったが、当然、修繕費は町人たちの負担としてのしかかってくる。

橋銭を徴収することとなった。

「番人二人をり、笊に長き竹の柄を付たるを持て、武士、医師、出家、神主の外は、一人別に橋を渡るものより、銭二文づつ取けり。人の渡らんとするを見れば、件の笊を差し出すに、その人、銭を笊に投入れて渡りけり」(『兎園小説余録』滝沢馬琴)

幕府がすべき橋の管理を民間がやるのだから、抜本的修繕をすることなく、洪水の度ごとにその場しのぎの修理をして90年が過ぎた。

橋は疲弊しきっていたのである。

   長谷川雪旦「江戸名所図会」の永代橋

 

永代橋崩落の原因の二つ目は、降り続く雨。

8月15日の富岡八幡宮の祭礼は、雨で順延し、19日開催となった。

時は文化、文政の頃、江戸文化爛熟の時代である。

             富岡八幡宮HPより

祭礼見物の人の波は深川へ深川へとひきもきらなかった。

しかも、この年の祭礼は12年ぶりということで、人々の気持ちは高まるばかり。

4日じらされた鬱憤は爆発寸前だった。

だが、このはじける人々の気持ちを無理やり押さえつける出来事があった。

崩壊の原因、その3は一橋様のご通行。

「折から一ツ橋様(将軍家斉の父君)ご見物の為にや、御船にて御通行ありしかば、巳の時より人の往来を禁めて、橋を渡させず」(『兎園小説余録』滝川馬琴)「御船が橋の下を過ぎたところで、役人は非常線を撤した。今まで堰かれていたいらだちから老いも若きもみな半きちがいとなって橋の上を西から東へ突進した」(『永代橋墜落の椿事』矢田挿雲)

鶴岡蘆水描く両国橋だが、橋を渡る人々の風俗の感じがよくでているので。

重さと激動に耐えかねて、橋は崩れ落ちた。

「水中花がいっせいに開いたように、このとき川面には、派手やかな、さまざまな色彩がぱっと浮き上がった。落ちた人々の衣装、日傘、風呂敷包み、挟箱、あるいは黒髪、化粧もなまなましい顔や手足などが流れに呑まれ、見え隠れしながら、あがき狂いつつ拡散しはじめたのである」(『永代橋崩落』杉本苑子)

「一、十九日四ツ半時、怪我人五十人と聞へし、駕籠が一丁、日傘は沢山ながれしとなり。八つ半時八十人、夕方百八十人といへり。
 一、廿日朝、三百人余、内女八十人余、同日佃島辺にて揚げ候人、七十余人となり、いずれ両日にて四百人程と申候」(『夢の浮橋』太田南畝)

『夢の浮橋』の著者、大田南畝は、狂歌師、戯作者として有名な蜀山人その人である。

「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」。

彼はまた幕府の勘定方役人でもあり、この惨事をたまたま船の上から見ていた。

『夢の浮橋』には、惨事に関わる人間模様が列挙されている。

週刊誌の遊軍ライターやテレビの芸能リポーター顔負けの人間臭い事件記事で、身分を生かして官の内部情報をすっぱ抜く特ダネもある。

杉本苑子の『永代橋崩落』は8話の短編集だが、ネタ元は『夢の浮橋』ではないか。

同じく『夢の浮橋』から発想を得たのではないかと思われるのが、落語「永代橋」。

 

主人公は露天古着屋の太兵衛さんと同居人の小間物屋・武兵衛さん。
今日は深川八幡のお祭り。
武兵衛は太兵衛に留守番を頼み出かけてゆく。
永代橋に来かかると大変な人ごみ。
どんとぶつかって来たものがいる。
「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」
懐を確かめると紙入れがない。
すられたが後の祭。
とぼとぼと引き返す途中、ばったり出会ったのが贔屓の旦那。
旦那にご馳走になっていると表が騒がしい。
永代橋が落ちて大騒ぎだという。
すりにやられてなければ、今頃は俺もと真っ青に。
一方、太兵衛は、行ったきり帰ってこない武兵衛を心配していると
番所から武兵衛が橋から落ちて死んだので遺体を引き取りに来いとのお達し。
家を飛び出したとたん、帰って来た武兵衛とばったり。
 
「言わねえこっちゃねえ、おめえは溺れ死んだんだから一緒に遺体を引き取りに行くぞ」。
「おい、きた」と一緒に番所に乗り込んだ。
死体を前に「これはあたいじゃねえ」と言う武兵衛の背中を太兵衛がポカリ。
揉めていると役人が紙入れを突きだした。
紙入れの書付からスリを武兵衛と勘違いしていたらしい。
「早合点して背中をぶちやがってがまんならねえ。お役人様、どっちが悪いかお裁きを
「いくら言ってもお前は勝てん」
「なぜ」
「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」

 それにしても大惨事をネタに笑い飛ばすとは、懐の深い世の中だったものだ。

今、東日本大震災を落語にしたら「良識」派とやらがこぞって批判の嵐を巻き起こし、大変なことになってしまうだろう。

なにしろ「死の町」と言ったからと大臣の首が飛んでしまう世の中だ。

「住めなくなった町」を「死の町」と言ってどこが悪いのか。

むしろ被災者の真情ではないかと思うのだが。

話は横道にそれて、それまくってしまったようだ。

最初の2本の石碑、石塔に戻ろう。

Aの「永代橋沈溺横死諸亡霊塔」なる2基の宝筐印塔には、江戸の町名と町内溺死者の戒名が刻まれている。

 赤坂麻布の下には「倒○沈水信士」や「破橋投水信士」の戒名が見える。

 別な側面には「土中ヨリ掘出所 亡骨之髑髏 四十人信男 二十人信女」とある。

「永代橋崩落溺死者供養塔」が、なぜ、目黒区の「海福寺」にあるのか、その訳は東京都教育委員会の解説板に詳しい。

 

「海福寺」は深川の寺町にあった。

江戸名所図会に載っている。

境内が広い寺だったようだ。

跡地は、今、明治小学校になっている。

  江戸名所図会の「海福寺」 「海福寺」跡地の明治小学校(江東区深川2)

目黒区に「永代橋崩落溺死者供養塔」がある訳は分かりやすかった。

「海福寺」が深川から目黒に移転したからである。

だが、千葉県市川市行徳の「徳願寺」の石塔は、そんなに単純ではない。

 「徳願寺」(千葉県市川市本行徳)。右の提灯の後ろの石柱が供養塔

「徳願寺」と永代橋には何の関係も見られない。

山門に「文化四丁卯年八月十九日永代橋溺死精霊頓悟覚道之也」なる石塔が立つ由縁を記した文書も寺にはなさそうだ。

市川市歴史博物館の学芸員もその点は認めている。

かくたる理由がなければ、想像で補うしかない。

こういう想像はどうだろうか。

隅田川から海に流れ出た溺死体は、やがて行徳海岸に打ち上げられた。

現在の行徳海岸(江戸時代はもっと左手奥の方までが海だった)

その遺体を厚く葬って供養したのではないか。

残念ながら行徳海岸に死体が流れ着いた記録はないが、その可能性を示唆する記述が大田南畝の『夢の浮橋』にある。

「一、後日、房洲の浦辺へ上がりし溺死の屍二十ほど、いづれも女にて、男は一人な   らではなしといふ。

 一、佃島にても、屍八十人ほどあがりし、内男は二十ほどのよし」

 一、二三日過て、羽田沖、又は角田川油堀辺よりも死骸浮上りし由」

しかし、この仮説だと説明が難しいのが、石柱台石の「日本橋」「構中」の文字。

 なぜ「日本橋」なのか、いぶかるのは当然だが、実は、行徳には「日本橋」と刻んだ石造物がもう1基ある。

旧江戸川行徳船着き場の常夜燈に「日本橋」の文字が。

             ブログ「ベイタウン旅行倶楽部」より

日本橋の成田山講中が奉納した常夜燈である。

江戸の人たちが成田山詣でをするには、日本橋小網町から船に乗り、小名木川、中川を経て、行徳に着き、ここから陸路成田山へと向かったのでした。

嘉永年間(1848-54)には、62艙もの船が行き来していたと記録されている。

行徳と日本橋はこうして密接な関係があったのです

永代橋崩落の溺死体は行徳海岸に打ち上げられた。

地元の人たちはその遺体を手厚く葬り、「徳願寺」でその成仏を祈願した。

その噂を聞いた成田山参詣の「日本橋講中」が、江戸市民を代表して感謝の気持ちをこめて供養塔を建立した。

僕はそのように想像する。

学者ではないから気が楽だ。

自由気ままに想いを馳せる楽しみがある。


2 中教正金崎彦兵衛

2011-04-23 20:43:15 | 石碑

「看板に偽りあり」と指弾されるだろうか。

「石仏散歩」と題して、初っ端の話題が石碑だからである。

巡拝塔は、普通、観音霊場や弘法大師霊場参拝を記念して造立される。

観音霊場だと西国33カ所、坂東33カ所、秩父34カ所を回って「奉順禮西国坂東秩父百番供養塔」を建てる。

銘文はいろいろだが、百という数字が入っていることが多い。

                    満願寺(世田谷区)

これに四国八十八カ所を加えると188になる。

百八十八カ所と誇らしげに刻まれることになる。

                   宝幢院(北区)

「誇らしげに」と主観的表現をしたのは、江戸時代、188カ所霊場を回ることは大変なことだったからである。

移動はすべて徒歩。

気の遠くなるような行程なのである。

坂東霊場の寺の納経所で「現在、歩いて回る人はいますか」と訊いたことがある。

「1年に一人いるかいないか」という返事だった。

一人でもいるということに、驚いてしまう。

坂東三十三カ所は、西は小田原、東は銚子、北は日光と1都6県に点在している。

1か月で歩いて回れるものかどうか。

インターネットで検索してみたら、歩いて回った人の記録があった。

関西在住の定年退職者が平成16年、坂東三十三観音1149キロを45日で踏破したという。

彼は定年退職した平成14年に、まず、四国八十八ケ所巡りをした。

その克明な記録によれば、四国霊場巡りの距離は1126キロ、44日で結願したというから一日平均26キロ歩いたことになる。

そして、なんと翌平成15年には、西国三十三観音巡りに挑戦、1034キロを39日かけて回ってしまう。

この日にちには、自宅から札所1番まで、そして、結願寺からの帰りの行程は含まれていない。

当然、新幹線や電車を乗り継いで往復したのだが、江戸時代の巡礼者は霊場へも歩いて行ったから、更に日数が増えることになる。

なんでこんなまだろっこい書き方をするかというと、霊場巡礼は生易しいことではないことを強調したかったからである。

 

と、いうことで、やっと本題に入る。

とんでもない「巡拝塔」があるのだ。

場所は、東京高輪の「高野山東京別院」。

本堂に向かって右手の石造物群の中にそれはあった。

 

石碑正面には「四国八拾八箇所四度高野山四度、御府内八拾八箇所八拾八度、西国三度秩父坂東参拝」と刻してある。

御府内とは、江戸城を中心に品川、四谷、板橋、千住、本所、深川の内側の地域。

そこに四国八十八ケ所を模して作られた遍路コースが御府内八拾八箇所です。

碑の右側側面の刻文は「御嶽山三拾三度大日本国中大社富士山拾七度」とあり、

 

更に左側には「湯殿山月山羽黒山、南部恐山越中立山参拝」とある。

ものすごい人がいるもんだと思いながら、碑の背後に回る。

刻まれていたのはこの石碑の主人公の名前。

「明治三十二年六月 品川 三笠山講元 中教正 金嵜彦兵衛 七拾三翁」。

文政年間の生まれで、人生の半分以上は江戸時代に過ごしてきた男ということになる。

金崎彦兵衛とは、いかなる人物か。

急に知りたくなった。

石碑がある高野山東京別院にまず訊いてみた。

「全く見当もつかない」ということだった。

品川区役所の文化財保護課へも足を運んだ。

品川区では、有名な人かも知れないと思ったからである。

担当職員は金崎彦兵衛を知らなかった。

有名人ではないことになる。

「調べてみます。時間をください」と親切な対応。

1週間後、電話があった。

「調べたけれど、分からなかった」との返事だった。

頼りにしていた一筋の糸がプツンと切れて、ほぼあきらめかけていた時、インターネットで「金崎彦兵衛」を検索してみた。

これが、なんとヒットしたのである。

品川の二つの神社、荏原神社と品川神社の狛犬に金崎彦兵衛の名前が刻まれているという情報だった。

写真もある。

荏原神社の狛犬の刻文                    品川神社の狛犬の刻文

似通った刻文だが、一点異なっている所がある。

荏原神社には、「中教正」の肩書がついている。

そういえば、高野山東京別院の石碑にも「中教正」はあった。

この聞き慣れない「中教正」とは何だろうか。 

調べてみた。

どうやら宗教教育に関わる宗教官吏の位階らしいのである。

明治3年、政府は天皇に神格を与え、神道を国教と定める方針を決めた。

その宣布にあたったのが教導職。

教導職は無給の官吏で、神官や神道家、僧侶などが任命された。

その位階は、大、中、小に分かれ、中教正はそのひとつの位だった。

教導職が何を教えていたかは不明だが、もしかしたら、巡拝の先達の役割もその任にあったのかも知れない。

そう考えれば、常軌を逸する金崎翁の巡拝履歴も理解できるような気がする。

もっと「中教正金崎彦兵衛」のことを知りたくて、今度は品川の神社に行った。

まず荏原神社へ。

ここの狛犬には、中教正の文字がある。

事務所のベルを押したら、年配のご婦人が現れた。

「金崎彦兵衛については、何も知らないが、品川のお米屋さんだと聞いている」とのこと。

その米屋がどこにあるのかなど、詳しいことは一切分からないという返事だった。

結果的には、神社の選択を間違えたいた。

品川神社へ先に行けば、良かったのだった

金崎彦兵衛は、品川神社の氏子だったからである。

そうとは知らず、荏原神社で得た不確かな情報、品川のお米屋の線をたどることにした。

荏原神社を出るとそこが旧品川宿の街並み。

街並みからちょっと離れた目黒川沿いにある米屋に飛び込んだ。

「金崎さんというお米屋はありますか」。

「あるよ」という答えにびっくりした。

期待していなかっただけに、驚きは大きい。

もう商売はしていないが、おかみさんが家にいるはずだという。

50メートルも離れていない場所に「金崎」という表札を見つけた。

アパート風のモルタル二階家の一階中央部分が通路になっていて、その通路の先に金崎家はあった。

呼び鈴を押す。

返事をしながら出てきたご婦人は、しかし、戸を開けてくれない。

ガラス戸だから、表情は分かるのだが、その表情は硬い。

見知らぬ他人の突然の訪問に警戒しているようで、聞いたことにしか答えない。

イエス、ノーの返事を総合すると、彼女は彦兵衛さんの子孫の嫁さんらしい。

嫁いできたときには、彦兵衛さんは既に亡くなっていて、面識はないという。

彦兵衛さんに関する記事や写真など記録の類も一切ないと取り付く島もない。

わずか数分で退去せざるをえなかった。

最後に彦兵衛さんの墓をお参りしたいのだがというと、すんなり麻布の寺を教えてくれたのが、意外だった。

 

不十分ながら、初期の目的を達成し、帰途についた。

「新馬場駅」へ入ろうとして、道の向こうの品川神社に気付いた。

次の予定もないので、寄り道することに。

傾斜の厳しい石段を登ると境内が広がる。

その右側の小高い地点に御嶽神社がある。

その前と横に2基の石碑。

昭和4年と昭和51年の設立で、設立者は品川三笠山元講。

よく見ると両方の世話人に金崎姓があるのが分かる。

昭和4年のには、金崎彦太郎、昭和51年の石碑には金崎之彦とある。

   昭和4年の世話人名簿             昭和51年の世話人名簿

これは、彦兵衛さんの子孫ではないか、と直感した。

彦兵衛さんは明治32年に73歳だった(高野山東京別院の石碑)のだから、彦太郎さんは孫、之彦さんはひ孫にあたるのではないかと推測できる。

金崎家で名前に彦がつくから彦兵衛さんの子孫ではないかという推理は、後刻墓参りに行って確かであることが確認された。

金崎家之墓の側面に、昭和三十八月年建之 施主金崎彦太郎と彫られてあるからである。

「中教正金崎彦兵衛」の話は、これでジエンド。

神官でもなく、僧侶でもない米屋の主人の金崎彦兵衛さんがなぜ教導職を任ぜられたのか、肝心の話がうやむやのまま終わりにするのは気が引ける。

品川神社や三笠山講、それに品川のお米屋さんなどに具に聞いて回れば、もっと詳しい人となりや当時の記録、写真などが出てきそうではあるが、それはまたの機会に回すことにしたい。

関連事項を検索していたら、四国八十八ケ所を慶應2年から大正11年までの間に、歩いて280回も回ったひとがいることを知った。世の中は広い。常識では測れない人がいるものだと感嘆せざるを得ない。