かくの如きは前來の佛教徒と全く異なれる立場に立ち、佛教を根本的に見直さんとせるもの、所謂佛教のコペルニクス的転廻をなせるものにして、また真の大乗仏教の真意義を開顕せるものといはねばならぬ。
即ち印度以来三國に亙り大乗論士の説一ならざるも、而も小乗の寂滅観を脱出せんとする点において、諸家一致せるものといはねばならぬ。小乗の寂滅観を脱出せんとし、教の中心観念たる法をば、或いは真如法身なり、常住涅槃なり、法界の大我なり、或いは理事無碍、事々無碍等、法の積極的釈をなすに至りしも、而も法を中心観念とし、因縁生無生を法の根本意義となせる以上は、究竟は小乗の寂滅観に堕せざるをえないのである。
かくも大乗の諸論士は等しく小乗の寂滅観をいでんとして、究竟は共に個別を泯絶せる寂滅無我観に堕せるより、真言密教にては、一般大乗教を凡て小乗の範囲を出でざるものなりとし、顕教の大小乗教を凡て小乗と観ることがある。
かくも三國の大乗諸家の等しく脱出せんとして、脱出し得ざりし、小乗の寂滅観を脱出し、真に大乗の真精神を開顕せしものは弘法大師である。即ち大師は法を体験せし、毘盧遮那の[人]を教の中心観念とし、毘盧遮那自説の境に於いて一切を見んとする。秘密曼荼羅の真趣を発揮して、全く在来の仏教の寂滅無我観を脱出したのである。
即ち印度以来三國に亙り大乗論士の説一ならざるも、而も小乗の寂滅観を脱出せんとする点において、諸家一致せるものといはねばならぬ。小乗の寂滅観を脱出せんとし、教の中心観念たる法をば、或いは真如法身なり、常住涅槃なり、法界の大我なり、或いは理事無碍、事々無碍等、法の積極的釈をなすに至りしも、而も法を中心観念とし、因縁生無生を法の根本意義となせる以上は、究竟は小乗の寂滅観に堕せざるをえないのである。
かくも大乗の諸論士は等しく小乗の寂滅観をいでんとして、究竟は共に個別を泯絶せる寂滅無我観に堕せるより、真言密教にては、一般大乗教を凡て小乗の範囲を出でざるものなりとし、顕教の大小乗教を凡て小乗と観ることがある。
かくも三國の大乗諸家の等しく脱出せんとして、脱出し得ざりし、小乗の寂滅観を脱出し、真に大乗の真精神を開顕せしものは弘法大師である。即ち大師は法を体験せし、毘盧遮那の[人]を教の中心観念とし、毘盧遮那自説の境に於いて一切を見んとする。秘密曼荼羅の真趣を発揮して、全く在来の仏教の寂滅無我観を脱出したのである。