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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

仏教聖典(仏教伝道協会)から・・・その50

2011-10-06 | 法話
第三章 さとりの心
第三節 とらわれを離れて
一、このように人には仏性があるというと、それは他の教えでいう「我」といなじであるとおもうかもしれないがそれは誤りである。

さとったひとにとっては「我」否定されなければならない執着であり、仏性は聞き現されなければならない宝である。仏性は我ににているが、「われあり」とか「わがもの」とかいる場合の我ではない。

我があると考えるのはないものをあるととかんがえる、逆さmの見方であり、仏性を認めないことも、あるものをないと考えるさかさまの見かたである。

例えば幼子がやまいにかかって医者にかかるとすると、医者は薬を与えてこの薬のこなれるまでは乳をあたえてはならないと言いつける。

母は乳房ににがいものを塗り、子に乳をいやがらせる。後に薬のこなれたときに、乳房を洗って、子に含ませる。母のこの振る舞いはわが子をいとおしむ優しい心からくるものである。

丁度このように世の中の誤った考えを取り去り、我の執着を取り去るために、我はないとといたが、その誤った見方を取り去ったので、あらためて仏性があるとといたのである。

「我」はまよいに導くものであり、仏性はさとりにいたらせるものである。

家に黄金の箱を持ちながらそれを知らないために、貧しい生活をする人を哀れんで、その黄金の箱をほり出して与えるように、仏は人々の仏性を開いて彼らに見せる。
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