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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その20

2020-09-25 | 法話

 明治十七年出版の縮刷は相当に校合してありますが、私はどうかして古写本が校合する必要があるということを立証せんとして石山寺に参りまして、同寺の天平写本(重文「石山寺一切経」)
を調べました。天平時代に朝廷で写させたのは立派なものでありますが、これは余計ありませぬ。正倉院の正語蔵(「聖語蔵」.ウキぺデアに依れば「もとは東大寺尊勝院の経蔵「聖語蔵」の一群。隋経8部22巻・唐経30部221巻、天平経13部18巻、光明皇后発願の「天平十二年御願経」127部750巻、天平勝寶経4部5巻、天平神護経1部3巻、称徳天皇発願の「神護景雲二年御願経」171部742巻、さらに平安時代・鎌倉時代に至る古写経、古版経を含めて総計4960巻であった。」)にあるが、その時には見ることが出来なかった。石山寺のは田舎写しの経本でありますが、とにかく天平写経である。それと較べて見たら大体分るだろうというので大般若経だけ持って行きまして石山寺で較べて見ました。そうすると石山寺に残っている写本の方が版本よりは遙かに良い。今まで度々刊行した物の中に半頁ばかりも落ちたのがある。それから文字のまるで違ったのがある。写本の方を見ると、こっちの版本の方は解することが出来ないような所が明瞭に解し得ることをも見付けましたが、その時にちょうど前のイギリス大使のサー・チャールス・エリオットがおった。この人はいま奈良に逗留して日本の大乗仏教を研究しておりますが、ちょうど私が石山寺に行って調べていると、来山して黙って私の調べを見ている。東寺でも二度きましたが青蓮院には前後三度きました。それから高野にいる時も一度きました。石山寺にいる時には二度きました。 私が「天平時代の写経を版本がいいか写本がいいか比較して見ている」といったら「結果はどうか」と尋ねる。「それは写本の方がよほどいい」というと「今まで出版する時に比較したことがあるか」「曽てなかった」「何故しないか」「理由は分らないが、古版本をそのまま用いたのである」「それじゃいよいよそれがいいということを知ったらお前はやる気か、やらぬ気か」「それはやったらどうだろうかという考えを決めようと思って見ているのだ」「それは直ぐにやらなければならぬ、これはいったい何時頃の物か」「西暦で七百五十年の奈良時代の物だ」「八世紀の物が、もし西洋にあったら、しかもそれがバイブルに関係した物であったら耶蘇教者は一寸刻みにして研究するだろう。それにこんなにたくさんあるじゃないか。天平の写経が石山寺に十箱ある。こんなにたくさんある物を比較しないということは日本学者の恥だ。またこれを比較したが、それを出版しないということは不都合である」というような話をした。その日は帰ってまた翌日来る。同じ話をした。実は私が一切経を出版しますことを初めて決心しましたのはその時であります。それまでは費用のことを考え、出版後の売行きをも考え、今までも既に出しているのにまた出すというのは不必要だというふうにいろいろ考えておったが、写本が正しい、良いということが分り、しかも西洋人からそんなに焚付けられると、私には再考の暇もなくなって「出版する」と言った。すると「何時やるか」「何時やるかと云ってもこれから準備をして掛るから」というので、まず一番初めの賛成者にサー・チャールス・エリオット(言語学者、外交官、駐日大使、著書に「Japanese Buddhism」
を入れた訳であります。 その頃、日獨文化協会を作るというので、ゾルフ大使はどうしても西洋と日本との連絡は大乗仏教に依らなければならぬから、それが出来ない以上はどうしても真実の親密というものは出来ないから、そのために日獨文化協会を興すということであった。その時この一切経の話を聞いて、サー・チャールス・エリオットから聞いたらしい。私が訪ねて行った時に日獨文化協会のことは話さず、一切経のことを話した。ゾルフも梵語学者でありまして、梵語の教授になる積りだったらしいのでありますが、そういう訳で興味も深い。「どうしてもやらなければならぬ、西洋人が安心して読めるような、出来得るだけの対校もしてあって、しかもその対校が行き届いておって学術的に値うちのあるような一切経を作らなければならぬ、それを作るのにはお前が一番適任者だ」というふうに、二人から盛んに焚付けられて、そのためにゾルフ氏もまず賛成者として始めたのであります。不規則の始めようでありましたからどうかと思っていましたが、無事に五十五巻を即ち第一期を出したということは私自身夢のようであります。一文なしで、しかも拵え始めるとすぐその年に震災に遭うて、そして払い込んで貰った予約金というものはみな焼棄ててしまった。とても仕方がない、止めてしまおうという艱難まで嘗めましたが、一文なしでこんなことが出来るとは思わなかったが、しかもその一文なしで百八十万円の仕事が出来るということを私が証拠立てたというので、稚気の誇りを感じているのであります。


(大正新修大蔵経は大正13年(1924年)から昭和9年(1934年)の10年間をかけて、高麗大蔵経再彫本を底本としつつ、日本にあった各地・各種の漢訳仏典をすべて調査校合した、大蔵経。編纂責任者は、高楠順次郎・渡辺海旭・小野玄妙。当時の仏教関係の大学研究者が一致協力し、校訂作業に当たった。)


 

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