天平八年736、五月十八日菩提僊那が大宰府に上陸しました。東大寺要録に「天平八年・・南天竺婆羅門僧菩提。胆波国林邑北天竺仏哲等来朝。」とあり。菩提僊那という印度の高僧をわざわざ招聘したのは聖武天皇の東大寺大仏様を世界戒壇にしたいとの構想があったのではないか、と田中智学の説にありました。実際大安寺のホームページには当時、「大安寺は国際的総合佛教大学の様相を呈していた」とあります。 . . . 本文を読む
扶桑略記・延長一年923 五月十八日「仁王会の事あり、咳疫に依る也」天皇は醍醐天皇.延喜19年919には太宰府天満宮の社殿を造営したり、延長元年には道真を右大臣に復し、正二位を追贈、左遷詔書を焼却したりしていますから、此のころも相当道真公の祟りを恐れていたと思われます。 . . . 本文を読む
観自在菩薩冥應集、連體。巻4/6・11/33
十一大蛇を殺害せる人の怪異の事
摂州河辺郡若宮村に一の農夫あり。性分不敵にして勇める血気の荒者なり。彼が支配の山中に楊梅の木(やまもものき)数株あり。父祖より木の根に一丈有餘の大蛇あり。常に穴に蟄居して菓の熟する時を待って樹に登り蟠って悉く取り食ふ。農夫是を恨みて寛文十二年(1672年)の夏、鉞(まさかり)を礪(とい)で蛇の木に登る時を窺ひ走り懸り . . . 本文を読む
今日は疫病を払うために興福寺に観音像を造立して拝んだ日。続史愚抄 / 弘安元年(1278)五月十八日条「十八日 疾疫流行ニ依リ 興福寺ニ観音像ヲ造立シテ 之ヲ祈禳セシム」(後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。建治四年(1278)二月二十九日、疾病により改元。 改元の日より半月前の同年2月13日、日蓮上人が松野氏にあてた返書の中に「日本国数年の間、打ち続きけかち(飢渇:飢えと渇き)ゆ . . . 本文を読む
今日は疫病を払うために臨時仁王会を修した日。日本紀略 / 寛平五年(893)閏五月十八日条「十八日 仁王会 依祓疫癘之難也」(宇多天皇。菅家文草[「臨時仁王會咒願文」にも「このような災害は朕(宇多天皇)一人の罪である」「昨年から疾役あり家々病死す・・」とあります。菅家文草「臨時仁王會咒願文 寬平五年閨五月十八日。國主皇帝宇多天皇 歸命頂禮 仁王般若波羅蜜經 發願無邊 所以者何 去歲有疫 往往言上 . . . 本文を読む
今日は善謝遷化の日。善謝は奈良・平安前期の僧。神亀元年生まれ。奈良興福寺の僧。理教大徳に法相・唯識をまなぶ。天平勝宝6年鑑真より受戒。延暦9年(790)律師となる。晩年奈良梵福寺にしりぞき,浄土教を信仰した。延暦二十二年804五月十八死去。81歳。日本往生極楽記に「伝灯大法師位善謝、俗姓不破氏は美濃国不破郡の人也。初め法相を学び、道業日に進む。乃ち三学を超詣し、六宗に通達す。桓武天皇、擢んで律師と . . . 本文を読む
今日は八幡大菩薩が自分は沙門となるが国家に害をなすものには殺生戒を破ると託宣された日「八幡大菩薩託宣集」「光仁天皇八年。宝亀八年丁巳 777五月十八日託宣。」「明日辰時を以て沙門と成る、三皈五戒を受くべし。自今以後は禁断殺生・放生すべし。但し国家の為に巨害之徒出来たる時は此の限にあらず。疑念なかるべし。古仏垂迹大悲菩薩の御身なり。仏位にして説き給はば経教と仰ぎ奉り、神道を以て宣るをば、託宣と称す。 . . . 本文を読む
南方 熊楠は1867年5月18日(慶応3年4月15日)和歌山城下橋丁(現、和歌山市)にうまれています。自分は約50年前上野桜木町に下宿していたころ、プラトン研究者の先輩、都市工学者の先輩、生物物理学者の先輩等の薫陶を受けた中で常に皆の話題に上っていた人です。青春時代の象徴のような人で懐かしい人です。加えて真言行者となってからは土岐法龍高野山管長と親交があったということで何重にも親しみを感じる方です . . . 本文を読む
「八幡大菩薩託宣集」「光仁天皇八年。宝亀八年丁巳777五月十八日託宣。」
「明日辰時を以て沙門と成る、三皈五戒を受くべし。自今以後は禁断殺生・放生すべし。但し国家の為に巨害之徒出来たる時は此の限にあらず。疑念なかるべし。
古仏垂迹大悲菩薩の御身なり。仏位にして説き給はば経教と仰ぎ奉り、神道を以て宣るをば、託宣と称す。真実者也。不虚妄者。不誑語者也。御誓願に任す之旨、天皇や奉り守り給ふ。」 . . . 本文を読む