21番からまた素晴らしい山道を降りていきます。22番までは11キロくらいです。最後は平地をしばらくあるくと22番平等寺につきます。此処で泊まるときは門前の遍路宿「山茶花」しかありません。此処でもよく泊まりました。17年には定年遍路が何人かで晩酌をしていたのを思い出します。
ここは弘法大師御修行のみぎり薬師如来の尊像が現われ光明が四方に輝き、大師がさっそく加持水を求めて一つの井戸を掘られたところ乳の如き白い水が湧きあふれたところといいます。
その霊水で身を清められた大師は、百日間の修行の後、薬師如来を刻み、本尊として安置し一切衆生を平等に救済されるため、寺号を平等寺(山号を白水山)と名づけられたとのことです。
この霊水は、本堂石段の左にあり、枯れることなく、こんこんと湧き出ています。万病にきく「弘法の霊水」として、全国に知られています。
「日本随筆紀行,神仏に祈る」には佃実男が「遍路の霊験」として22番白水寺(平等寺)にある説明文を書き写しています。説明文です。「・・私は去る大正十二年以来病気の為いざりとなり、名医名灸はもうすまでもなくあらゆる手段を用いましたが何の効もなく、・・・ある夜四国遍路の夢を見ましたのでこの上はお大師様におすがりせんと本年四月上旬、妻ウメノ(四十九)にいざリ車を曳かし、子供と三人、一番を札始めに順次参拝、平癒を祈願しつつ六月七日ようやく御当山に参詣いたしました。・・一心にご本尊薬師如来と御大師様とを念じておりますと、ここにきまして丁度三日目の早朝、門前に網代笠を被られたお坊様が下りてこられ、私を見て、『あなたは足が不自由ですか、一心に信心なさればご利益は戴けますから信心なさい、これはお賽銭です』と十銭下され、五、六歩行ってから立ち返りまた十銭くださいました。あまりの慈悲に目うるみ、ありがとうございましたと合掌したときはお坊様の姿は消えておりました。あまりの不思議さに一生懸命祈願しておりますと、突然いざリ車が震動し車の外に振り落とされそうにはりましたので驚き、車の手木につかまりますと、不思議にも知らぬ間に足が立っておりました。この奇跡、再三車にすがり立って見ますと、足は完全に立ちました。余りの有難さに、無意識に『南無大師遍照金剛』と叫びました。自分に返ったときには、六年間苦しんだいざりは全快し、・・ただひたすら感涙に咽びました。ご利益の御標としていざリ車を御本尊様御宝前に奉納する次第であります。徳島県板野郡北畠村字江尻 高畑伊四郎(四十四歳)」
もう一つあります。
「いざりとなり父と四国遍路の途にのぼり、大正十二年十月下旬当院に着き、日夜当院主の加持をうけて一心に御本尊様に平癒を祈願していたところ、足のいたみは薄紙をはぐ如く薄らぎついに杖にて歩行することができるようになり父と共に有難涙にくれました。お礼を御本尊様に申し喜びの余り車を奉納いたします。大正十二年十二月十七日筒井林之助(三十三歳)」
またこの随筆には「もう一台にはいざりになり妻と伯父の曳くいざりぐるまでこの寺に着いたとき歩けるようになったので車を奉納したとのべてある。まるで壺坂霊験記である。」とつけくわえてありました。
19年にお参りした時は門前にタクシーが止まり中から倶梨伽羅紋々のヤクザ風の若者が遍路装束で出てきたのには驚きました。のちに此の若者とは一緒に道中をしたのですがそれは後で述べます。この19年には遍路指導をしてくださったN老尼が車で追いかけてきて太龍寺の麓からここまで車のお接待をしてくださいました。当方は歩き遍路なので此処までにしていただくことにしましたが、別れ際に師の車の運転をしてきた若い女性に「高原僧正はありがたい方だから握手をしていただきなさい」といい握手をさせられました。肉感的な美女です。どうしてこういう人が老尼のお供をしているのか不思議に思いました。しかし当方は遍路の身です。思わず「碧巌録」の「 枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」の句(修行僧が若い女性を老婆にあてがわれて一切色気は感じませんと断った言葉)が脳裏に浮かびました。僧侶の戒律では故意に女人に触れることは、摩触女人戒といいます。「もし比丘、淫欲の意にて、女人の身とあい触れ、若しは手を捉り若しは髪を捉り、若しは一一の身分に触れるものは僧伽婆志尸罪(そうぎゃばしざい)なり(四分律)」とあり、衆僧の前で悔過し許されなければ罪を滅することができないとされています。昔なら大変ことになる所でした。
ここは平地にある霊場ですがいつも霊気に満ちています。
ここは弘法大師御修行のみぎり薬師如来の尊像が現われ光明が四方に輝き、大師がさっそく加持水を求めて一つの井戸を掘られたところ乳の如き白い水が湧きあふれたところといいます。
その霊水で身を清められた大師は、百日間の修行の後、薬師如来を刻み、本尊として安置し一切衆生を平等に救済されるため、寺号を平等寺(山号を白水山)と名づけられたとのことです。
この霊水は、本堂石段の左にあり、枯れることなく、こんこんと湧き出ています。万病にきく「弘法の霊水」として、全国に知られています。
「日本随筆紀行,神仏に祈る」には佃実男が「遍路の霊験」として22番白水寺(平等寺)にある説明文を書き写しています。説明文です。「・・私は去る大正十二年以来病気の為いざりとなり、名医名灸はもうすまでもなくあらゆる手段を用いましたが何の効もなく、・・・ある夜四国遍路の夢を見ましたのでこの上はお大師様におすがりせんと本年四月上旬、妻ウメノ(四十九)にいざリ車を曳かし、子供と三人、一番を札始めに順次参拝、平癒を祈願しつつ六月七日ようやく御当山に参詣いたしました。・・一心にご本尊薬師如来と御大師様とを念じておりますと、ここにきまして丁度三日目の早朝、門前に網代笠を被られたお坊様が下りてこられ、私を見て、『あなたは足が不自由ですか、一心に信心なさればご利益は戴けますから信心なさい、これはお賽銭です』と十銭下され、五、六歩行ってから立ち返りまた十銭くださいました。あまりの慈悲に目うるみ、ありがとうございましたと合掌したときはお坊様の姿は消えておりました。あまりの不思議さに一生懸命祈願しておりますと、突然いざリ車が震動し車の外に振り落とされそうにはりましたので驚き、車の手木につかまりますと、不思議にも知らぬ間に足が立っておりました。この奇跡、再三車にすがり立って見ますと、足は完全に立ちました。余りの有難さに、無意識に『南無大師遍照金剛』と叫びました。自分に返ったときには、六年間苦しんだいざりは全快し、・・ただひたすら感涙に咽びました。ご利益の御標としていざリ車を御本尊様御宝前に奉納する次第であります。徳島県板野郡北畠村字江尻 高畑伊四郎(四十四歳)」
もう一つあります。
「いざりとなり父と四国遍路の途にのぼり、大正十二年十月下旬当院に着き、日夜当院主の加持をうけて一心に御本尊様に平癒を祈願していたところ、足のいたみは薄紙をはぐ如く薄らぎついに杖にて歩行することができるようになり父と共に有難涙にくれました。お礼を御本尊様に申し喜びの余り車を奉納いたします。大正十二年十二月十七日筒井林之助(三十三歳)」
またこの随筆には「もう一台にはいざりになり妻と伯父の曳くいざりぐるまでこの寺に着いたとき歩けるようになったので車を奉納したとのべてある。まるで壺坂霊験記である。」とつけくわえてありました。
19年にお参りした時は門前にタクシーが止まり中から倶梨伽羅紋々のヤクザ風の若者が遍路装束で出てきたのには驚きました。のちに此の若者とは一緒に道中をしたのですがそれは後で述べます。この19年には遍路指導をしてくださったN老尼が車で追いかけてきて太龍寺の麓からここまで車のお接待をしてくださいました。当方は歩き遍路なので此処までにしていただくことにしましたが、別れ際に師の車の運転をしてきた若い女性に「高原僧正はありがたい方だから握手をしていただきなさい」といい握手をさせられました。肉感的な美女です。どうしてこういう人が老尼のお供をしているのか不思議に思いました。しかし当方は遍路の身です。思わず「碧巌録」の「 枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」の句(修行僧が若い女性を老婆にあてがわれて一切色気は感じませんと断った言葉)が脳裏に浮かびました。僧侶の戒律では故意に女人に触れることは、摩触女人戒といいます。「もし比丘、淫欲の意にて、女人の身とあい触れ、若しは手を捉り若しは髪を捉り、若しは一一の身分に触れるものは僧伽婆志尸罪(そうぎゃばしざい)なり(四分律)」とあり、衆僧の前で悔過し許されなければ罪を滅することができないとされています。昔なら大変ことになる所でした。
ここは平地にある霊場ですがいつも霊気に満ちています。