福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・49

2017-06-29 | 霊魂論
かくのごとく一般仏教は言断心滅の無相の法を教の中心観念となすものである。しかして弘法大師は一般仏教に人を仮とし、法を實とし、無生の法を観じ、人をして法に契合せしめんとするはこれ我執迷妄を断ずるを本とせる遮情教(遮情とは煩悩を否定する考え、これに対する考えを「表徳」といい、われらは本来仏徳を有しているとして迷いの衆生を肯定する)たるゆゑなりとせり。

もし究竟の法を絶対的霊格者也、真実在者也等と説かば、却って法に愛執を生じ盲我執をして増長せしむることとなるゆゑ、法を教の中心観念とし、而も法をば無相なり、不可得也、空なりと遮詮的説示をなせしものである。しかも我執を断除し、如実に法性を体得せる果人よりいへば、真諦果界は無相空ならず本有中の本有である。即ち弘法大師は二教論に真諦果界は生佛の仮相を絶せる無相の体なりと云ふは、これ我執を帯びたる因人の見地よりせるゆゑである。もし果体を体得せる果人よりいへば、法身果体は三世常恒にその自証の三摩地を表現しつつある常住真実の体なる真趣をあかし、並約因位談、非謂果人也といへり(大師『辯顕密二教論』巻上に「此の三密門とは、所謂如來内證智の境界也。等覺・十地も入室することあたわず。何に況んや二乘凡夫をや。誰か堂にのぼることを得ん。故に「地論」「釋論」には其の機根を離れたりと称し、「唯識」「中觀」には言斷心滅と歎ず。如是の絶離は並びに因位に約して談ず。果人を謂うにはあらず。(このような否定の考えはいずれもみな悟りを開いてない因位の人のいうことで、悟りを開いた果人の立場ではない)これ片言隻語にすぎざるも、印度、支那、日本の大乗仏教徒の未だ想到せざる佛法の幽秘を開顕せる秘鍵である。即ち直に縁起因分の迷界を超え、高く如来果分に住し、如来自証の境に於いて一切をみんとする秘義は、三国の伝法者の未だ曾て談ぜざるところである。
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