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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中塚さんの「高野山結縁潅頂と奈良諸寺参拝の思い出」その2

2010-05-09 | 講員の活動等ご紹介
翌日は、普門院での朝のお勤めに参加したのち、結縁潅頂の入壇に備えて壇上伽藍へ移動しました。大伽藍に着くと、ちょうど結縁潅頂前に執り行われる儀式が開始されたところで、煌びやかな袈裟をまとったお坊様が列をなして金堂へ向かっていらっしゃいました。太陽の明るい日差しを受けて鮮やかな袈裟は光りかがやき、まるで時代絵巻を見ているような錯覚を覚えます。時代を超えて、脈々と受け継がれている「信仰」に触れた思いがいいたしました。

結縁潅頂、霊宝館拝観、昼食を済ませて、奈良への移動を開始し、バス、ケーブルカー、南海電車、JR、近鉄電車と乗り継いで、長谷寺の駅に降り立ちました。もうすぐ夕暮れを迎えようとする長谷の山々の新緑の美しさに感激し、初めて訪れた場所なのに、とても懐かしく優しくあたたかく迎えられているような、まるで故郷にもどったような気持ちがしました。後になって思うに、この懐かしさ、優しさ、あたたかさの正体は、長谷観音様のまさに慈悲のお心がなせるものではないでしょうか。

夕食の席では、結縁をお祝いしてみなさんでビールやお酒をいただきました。みなさん、大変に陽気に、さまざまな話題で盛り上がりました。結縁潅頂を受けた興奮も手伝って、それぞれ自分自身の考える「祈る」「拝む」ということについて、率直な思いを語ることができました。その話の中で、私自身は、「自分の身の回りのことすらおぼつかないのに、他人のこと、まして天下国家の安泰を祈るのは、傲慢かもしれないな。」と思ったりもしました。
ところが、翌朝の長谷寺のお勤め(このお勤めの様子はまた別の折にご報告したいと思います。本当に素晴らしい勤行でした。)で、まだ十代の少年僧(数ヶ月前までは、まったく普通の高校生だったはず)が天下国家の安泰を祈る様子を直に体験し、その尊さを感じ、やはり、天下国家の安泰は、例え身のほど知らずといわれようとも、各自が祈るべきことだと確信しました。
この朝勤行を通して「祈る」「拝む」ということの意味深さに、あらためて気がつくことができました。そういうことを感じたのも、前夜の思いがあったからこそと感じられ、お釈迦様あるいはお大師様のお導きのようにも感じられ、結縁の成果ではなかろうかと感じております。

特別開帳されているご本尊長谷観音さまのおみ足に額づいてお参りをする真摯な姿には、心が揺さぶられました。その真摯な姿に仏性を垣間見た気がします。人はただ真剣に「祈る」「拝む」だけで(ただし、真剣に「祈る」「拝む」ことは難しいことでもありますが。)、人に感動を与えることのできる素晴らしい存在であることを体験しました。

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