観自在菩薩冥應集、連體。巻2/6・12/24
十二行賀僧都耳を載って病人に施し玉ふ事。
昔奈良の東大寺平備大徳の弟子に行賀僧都と云あり。時に並無き学者にて万人の帰敬せる人なり。三面の僧坊(僧侶が講堂を囲んで学習や生活の場としていた建物)に住み玉ひける時、或る暮れ方に四十あまりなる僧人相貌さすがに賤しからぬが忍びやかに来たり打ち涙ぐみて白すやう、大に恐れ多き事なれば申すともふつと叶ふべき事にても侍らねど、僧都の御慈悲なれば若しや救ひたまふ事もやと歎き申すなり。我背中に悪瘡生じて既に死なんとす。命も惜しく苦痛も堪へがたくて當時の名医に見せ侍るに、貴からん聖人の左の耳を載って来たれ療治すべし、さらでは設ひ七珍を山の如くに積み重ぬとも此の病痊ゆべからず、と申し侍りしかども、いかなる上人も我が耳載って與へ玉ふ事はよも侍らじと思て多だ甲斐なき涙のみこぼれて侍りつるに、不図僧都の御事貴き事なれば歎き申さばさる事もや侍らんずらんと人々告げ侍りければ若しやと参りたりとてさめざめと泣きけり。上人哀れに思し召して何なる瘡ぞ見んと宣玉ひければ袒ぎ侍りしを見玉ふに目もあてられぬ消息なり。上人大に悲しんで、さる事ならば易きことなりとて剃刀を以て即ち左耳を載って施し玉ひければ、手を合わせて涙を流し伏拝て去ぬ。さて上人は我が身の痛き事は露ばかりも思玉はず此の法師の行末のみぞ覚束なく思玉へり。かくて又人に交るべくもなかりければ今はひたすら学道を思捨、三輪と云處に籠り心を澄まして清き流れに滌てし、衣の袖を又はぬらさじの玄賓の昔の迹をゆかしく(発心集「昔、玄敏僧都と云ふ人有りけり。山階寺のやむごとなき智者なりけれど、世を厭ふ心深くして、更に寺の交はりを好まず。三輪河のほとりに、僅かなる草の庵を結びてなむ思ひつつ住みけり。桓武の御門の御時、此の事聞こしめして、あながちに召し出だしければ、遁るべき方なくて、なまじひに参りにけり。
されども、なほ本意ならず思ひけるにや、奈良の御門の御世に、大僧都になし給ひけるを辞し申すとて詠める。「三輪川のきよき流れにすすぎてし衣の袖をまたはけがさじ」。げにもと思入て月を送り日を重ね玉へり。かくて何の比にかありけん、僧都すこし睡み玉ひけるに、十一面観自在菩薩の枕の上に坐して、いつぞや玉はりし耳は今返し来るなり、誠に慈悲は深くましましけり。此の心さむる事なかれ、とて掻消すやうに失せさせ玉ひぬ。打ち驚きて先ず耳を探り玉ふに都て恙なく昔にすこしも違ふ事なし。あな不思議や佛の御方便にこそとていとど悲しく涙を流して信心増長し玉へり。是又勝圓阿闍梨を試みに励まし玉へると同轍なり。佛の因位には須闍提太子として父の病を癒し(大方便佛報恩經)、薩埵王子は餓鬼に身を施し(金光明最勝王経)、大光明王は頭を施し玉へり(大方便佛報恩經)。濁世末代栗散の小國にかかる有り難き慈悲心、誠に傳聞もそぞろに涙禁じあへず。明恵上人は左の耳を割て佛眼尊に供じ(明恵上人伝記)、定照法師は一指を載って女人に染ぜしを断じ玉ふ(本朝法華験記)。皆是勇猛の志なりといへども人の病を救はんがために耳を切り玉ふ事、佛在世の優婆夷摩訶斯那達多が肢の肉を割て病比丘に施しければ佛光に照らされて肉還立せると(涅槃経梵行品)何ぞ異ならん。佛心とは大慈悲是なり。末世の佛とぞ云べかりける。和論語に云く、仁和寺の澄修阿闍梨は一生不犯の人なり。或る時思ず女の手より物を取り玉ひて此の事心に掛かり穢はしと思ひ即ち右の手を打ち切って捨て玉ひける。その後弘法大師夢中に告げ玉はく、末世に在り難き大道人なるに五體不具にては惜しき事なり、我が手を今日より汝に與へんと宣玉ふと覚て夢覚めぬ。見れば右手初めの如くしてあり。但し我が手ならぬにや、色黒く老て見けれども物書き見るに昔書きしよりも格別うるはしく大師の御筆に少しも違はぬやうなり。天子より数多物書せ玉ふにも大師の御筆によく似たり。是に依りて詔を蒙り一千巻の心経を書きて高野に納め玉ふとなり。行賀の耳を観音のかへし玉ふは昔の耳か亦は観音の御耳ならば耳聞圓通を証し玉ふべし
今澄修に賜しは大師の御腕なれば筆跡も能く似たりけらし。当代御筆とて心経多く流布せり。是は澄修の手跡か高祖の真蹟よりは少し劣りて見ゆ。又行文字に書ける心経世間に多し。
是は決して御筆には非ず。一心に戒行を守るものは現にかくの如き効験を得、況や未来に百福荘厳の臂を得んをや。一切衆生、喜見菩薩の両臂還って生ぜると何ぞ異ならんや。貴きかな羨ましきかな。