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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

どのような「個」でも「全」を荘厳している

2021-08-06 | 法話

先程道を歩いていたら蝉が道路の上であおむけになって翅をばたつかせていました。元気であればすぐ起き上がって飛んでいけるのでしょうがもう寿命でしょうか起き上がることは出来ません。いつまでも仰向けのままです。可哀そうになって拾い上げて近くの木陰の中に入れてやりました。そのあと暫く歩くと今度は道に大きなミミズが出ていてこれも弱弱しく藻掻いていました。木の葉で包んでこれも隣の花畑の中にいれてやりました。四国遍路のときも遍路道に多くのミミズがはい出てきていてできるだけこれらも木陰の土の上に帰してやったことを思いだします。

こういう微少な存在にも意味があるのか・・その意味は何か・・と考えているうち人間界でも苦悩している弱者の存在意義は何か?という問いにどうしても突き当たります。

仏教では「個」は「全」を荘厳しているいるといいます。「この天地間にありとあらゆる千差万別の各々の個体は、各々の立場から、全一としての「生」そのものを背景とし、「全」そのものを代表して、各々特殊の自らの世界を建立し、そのものでなくては実現することのできない自性を形成しているのである。これを大師は「各々に自らを建立し、各々に自性を守る(秘蔵記)」とおっしゃっている。・・・各々に異なった立場から、「全」を充実し荘厳する使命をもって生きているのである。・・これを草木の上から考うるも、かの桜や梅の花が、いかに自らの美を恣にして、その全一を生きて居ても、その美が・・他の華を傷つけたり、その美をおかしたりするようなことはなく、一色一香いずれも一人一役で、各々別々の立場から、自らに課せられたる使命を生きて居るにすぎないのである。この各々別々の使命の上から全一としての本当のわれの内容を充実し荘厳することを善無畏三蔵などは「秘密荘厳、不可思議、未曽有(大日経疏第一)」と説いているのである。(真言宗読本)」

さすれば世俗の価値観でみてどのような立場であろうとも「全」の立場から見ればそれはかけがえのない存在であるということでしょう。

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