釈 雲照律師は文政10年3月20日(1827年4月15日)島根県に生まれられました。俗姓は渡辺氏。兄の宣明師の影響で出家したとされます。日本人初の上座部仏教徒である釈興然も甥にあたります。仏縁の深い家系だったのでしょう。
10歳で隣村の寺で得度。
18歳で高野山で伝法灌頂を受けられました。
19才の4月7日(佛誕会の前日)仏前勤行のとき突然霊感を受け生涯不犯を誓い之を守り通されました。
31歳で高野山奥の院に信者の寄進で求聞持堂をたてています(いまはありません)。生涯に数えきれないほど求聞持行を成満されています。行く先々で行じられられたといわれます。求聞持行者としてはうらやましい限りです。
34歳35歳とたて続けに四分律具足戒、有部具足戒を受けられました。
42歳のとき(明治元年)廃仏毀釈に決然と反対して「廃仏毀釈に対する建白」を明治政府に提出しました。これには神仏儒は一体であることがるる述べられています。一部を紹介します「神国に仏教弘通せしめたまふを邪学の者、これを妨ぐることは神道に名を仮て実には皇国の神道を破壊する者なり。」「神とは神妙虚霊の明徳、仏とは覚知と訳す、不昧の本神なり。虚霊・不昧豈に異体ならんや、本佛・本神誰が亳髪を隔てん」.
また高野山へ女人禁制を解く勅使がきたときはこれにただひとり反対して「歴代天皇の詔勅に女人禁制とあるので、わたしは歴代天皇の勅使としてあなた(明治天皇の勅使)の罪を咎める」たので、一山の僧侶が狂人扱いをしてその場を収めたとされます。
56歳、雲照律師の最大の功績は明治4年に途絶えた「御修法」を政府要人へ働きかけて東寺において14年から再興させたことです。
山岡鉄舟、沢柳政太郎等政府要人にも雲照律師の熱烈な支援者は多くいたようです。
56歳で、こういう支援者と「十善会」とつくり十善戒の普及に努めました。支援者として、阿南尚(陸軍大臣阿南惟幾の父)、三浦梧楼(陸軍中将)、伊藤幹一(学習院設立功労者)、鳥尾小彌太、何礼之、沢柳政太郎等の名前がみえます。
73歳、仁和寺門跡となりますが
83歳(明治42年)の今日4月13日目白僧園において遷化されました.生涯、行に明け暮れ、戒律を厳格に守った清僧でした。
当時の新聞に「4.15東朝。前真言宗大僧正釈雲照律師は去る6日来劇症のインフルエンザにかから、治療中なりしが13日午後6時20分小石川目白台目白僧園にて入滅せり。世寿83.葬式は20日ころ当地にて行ひたる上、那須野が原雲照寺に遺骨を納むべし」とあります。