地蔵菩薩三国霊験記 2/14巻の10/16
十、或持經者示現を蒙る
鎮西肥前國背振山(福岡県と佐賀県にまたがる脊振山系一帯は、古くは霊山として多くの修行僧が暮らす山岳密教の修験場であったため、その痕跡が多数みられる。「脊振山」は江戸期までは山系一帯にある坊の総称であった。現在の脊振山山頂は「上宮獄」と呼ばれていた。隣山である千石山の中腹(佐賀県側)に今も残る霊仙寺跡(現・吉野ヶ里町文化財)は脊振山中宮に当時あった中心的な坊の一つである。天暦 2年 (948)参籠修行中の性空上人、法華経八巻二八品暗誦した)は往昔性空上人の勤行の地なり。艮に深山絶域の界、古仙同居の場なり。之に因りて長日持經の行人も絶へず。六根通聲の仙侶も久住し玉へるとなん。爰に蔵蓮坊と云ふ多年持經の僧あり。日夜に法華を讀誦し窹寝に地蔵尊を念ず。此れ宿習開発に非ずんば何ぞ。一生の薫修にあるべき行年六十歳にして變易生死の習、無常迅速の観を凝らし本尊地蔵の御前にて涙を流し白さく、願くは我に死期を知らせ玉へと丁寧にぞ祈念しける。一時夢らく小僧一人来りて教勅して曰く、汝若し臨命終を知んと欲せば早く愛宕山に登るべしと云々。覚めて弥よ地蔵菩薩の利済を憑しく思ひける程に感涙面を洗ひけり。弟子怪しみ問けれども答る事もなく一紙に夢想の記を注して梵筐の中に入れ置き密かに忍出て独り彼の白雲の峰にぞ登りける。覚へざるに月の廿四日に頂上に至りし事ぞ大聖の加護とは云ひながら有難くぞありける。角(かく)て独(ひとり)彼の石上に通夜しけり。山上の衆徒之を見て何方より来たり玉ふと問はれければ、答らく、鎮西よりとあれば衆僧も憐憫して我も我もと扶持しけるが其の後廿四日の暁に石上に於いて入滅しけるぞ不思議なれ。山上の衆徒大きに驚きて畸昔(きのふ)まで如是にありしに今入滅のありさま心得られぬ事どもなりと合議して傍を見れば一紙の書あり。大衆一面に列坐して披見するに其の文に云く、背振の示現に因って當山に登り滅尽すと云々。衆徒感嘆して奇異の思ひを成す。是偏に地蔵の應化の身なるべしとぞ白しける。彼の愛宕山は上古地蔵薩埵應化跡なり。白雲の峰は慥かに地蔵尊降臨の地なり。何ぞ疑ことあるべし。又伊豆州熱海の沙弥観日も文和年中に此の相ありと云々。真に以て祈らば命期を示し給はん事如是なるべし。