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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観自在菩薩冥應集、連體。巻2/6・11/24

2025-03-26 | 諸経

観自在菩薩冥應集、連體。巻2/6・11/24

十一勝圓阿闍梨十一面観音霊験の事。

圓城寺修学院僧正勝算の弟子勝圓と云有り。智慧利根にして道心堅固なりき。住山の時節冬厳寒の夜、衣服あまた重ねてめしけれど猶寒く堪がたかりければ、乞食非人の筵かぶりて家にも居ぬ者はさこそ堪へがたく寒からんと深く慈悲を起こして所有衣服の類を悉く持ち出で乞食共に一つ゛つ施し玉へり。さて皆施し尽くして膚衣一つ小袖一つをめして帰り玉ふに谷の底にてうめく聲聞へければ何者ならんと哀れに覚て聲を尋ねて往て見玉ふに荊棘に足かかりておどろ身を纏ふ。かかる所にさて何者なれば倒れて悲しむならんといとど涙を流しからうして其の人の傍に寄り玉ふに、筵の破れたるを纔に腹にばかり当て物をも云はず泣きけり。阿闍梨手を取って、いかにいかにと宣玉ふに、此の上の坊人軒端に臥しはべりつるが今夜の寒さに左右寝直らんとし侍りつる程にすべり落ちて身を打損じ血出痛さと寒さと飢とに苦しめられ喩て云べきやうなしとぞ云ける。實にも哀れと覚へて身に召したる小袖を脱で被せ玉ひければ、乞食申すやう、願はくは其の膚衣をも我に被せ玉へと云ふ。いと易しとて被せ玉ひけり。我が身はさばかり寒きに赤裸にて乞食の手を取り坐しける。かくて夜も明けなんとすれば赤裸なる消息なれば明けぬ先に帰りなん。さて後に人ををこせて汝を哀れまんと宣玉ひけるに、乞食いやいや帰り玉ふべからず、我傍に居玉へ、若し見捨て帰り玉ひなば何までも恨み侍るべしと云へばさこそと哀れに思し召し傍に啼て坐しける程に早や山端白みて寺々の鐘の音も聞へけり。此の乞食さらば我を負て此の上の寺へつれ往玉へと云ければ、とかくして負て往き玉ひぬ。此処におろし玉ひねと云を痛む所もやあるらんとそろりとおろして見帰玉ひければ、故勝算僧正の年頃持尊の十一面観音に我小袖を被せ奉りて負たるなり。こはいかにと思ふ程に目もくれて手を合わせ涙を流して尊容を抱き奉り玉ひけり。處は山の麓と思ひしに即ち自らの坊の内なりけり。やがて三井寺の勝算の坊を安置し玉ひける。嗚呼貴いかな。寒夜堪がたきに深く乞食を哀れみ玉ふ心、實に大悲薩埵の心なれば霊応のありしも理なり。昔は天帝釈羅刹の身を現じて雪山童子を試み(涅槃経にある話、お釈迦様が雪山童子の時、帝釈天が羅刹(鬼)に化身して現れ、過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と童子に向かって半分だけ述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、その身を捨て羅刹に食べさせることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞き終え、その偈を所々に書き付けてから、高い木に登り身を投げた。羅刹は帝釈天の姿に戻り童子の体を受け止め、その不惜身命の姿勢を褒めて未来に必ず成仏すると説いて姿を消したという。)、鷹となりて尸毘大王の菩薩の行を励まし玉ふ事(大乘本生心地觀經等に在る、釈尊の前世尸毘大王の時鷹に身を施したとする説話)、観音の霊像の不思議と同なるものなり。然れども彼は佛の因位、此れは凡夫。彼は上代、此れは末世なり。まことに火中の蓮とも云つべきものなり。今の人寒夜に衣を施す程の事はなくともせめては来たり乞ふ時に残飯を施し、或は施す事叶はずは慈悲の心を生ずべきに却って大に呵責し或いは打つ者あり。自ら省て謹むべし。智度論に曰く、竹を破るに本の大なる節を一つ二つ破ぬれば末の節はざらざらと即ち破するが如く、貪欲を断じぬれば餘の枝末の煩悩は労せずして即ち断ぜざるると(大智度論釋四念處品第十九卷四十八「貪除則五蓋盡去猶如破竹初節既破餘節皆去」)。又法華経には諸苦所因貪欲為本とも説けり(妙法蓮華經卷第二譬喩品第三「諸苦所因貪欲爲本 若滅貪欲 無所依止滅盡諸苦」)。死出の山三途の旅には一銭も我が身に随者なし。何ぞ存命の時に貧民に施し神仏に供せざるや。愚かなるかな悲しいかな。

 

 

 

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