mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

騙す―おちょくられる

2021-06-25 05:34:44 | 日記

 「緊急事態宣言」を出したわがパソコン。でも、まだこうやってみなさんへメッセージを送り続けている。モニター画面が表示されないと言った最初の症状は、解決したのか?
 そうではない。
 じつは、何度か試みていた間に、一度、画面が表示されたことがあった。やったあ、と喜びはしたが、それを閉じるとまた、表示されないってことになった。となると、今度表示が出たら二度と閉じなければいいのかもしれない、と先を読んだ。
 PCを騙すしかない。つまり、PCを閉じるときに「終了」にしないで、「スリープ」にすると、次に起ち上げたときに、画面は表示されるんではないかと、診たてた。そう、やってみた。次に開けると、「スリープ」から起ちあがり、画面は表示される。
 ということは、起ち上げたときの画面が表示されないのは、このコートパソコンの本体部分とモニターの接続のモンダイではないのだ。むしろ、モニターに「表示」命令するソフトの部分に、何がしかのモンダイが生じているのであろうと読んだ。
 そこで、PCを閉じるとき「シャットダウン」にしないで「スリープ」にする。そこからの起動にすると、「表示指示」はすでにセットされているから、うまく表示されると考えたわけ。うまく行った。一昨日からになるが、ずうっと「スリープ」で閉じる。オープンすると、それまでよりは少し時間はかかるが、画面が表示される。PCを騙しているのか、PCにおちょくられているのか、やはりわからない。ただ、11年も使っているから、老体に鞭打って良く働いているねと、ときにはねぎらいの言葉をかけてやらねばならないと思った。
 良かった。
 ただ、これがいつまでもつかは、わからない。いましばらく頑張っている間に、次の後継機の準備とそちらに移しても支障がないような、ソフトやセッティングをしなさいと、少しばかりの猶予期間を頂戴したと受け取っている。
 雨が続くというから、電気屋を経めぐって後継機を物色しなくてはならない。それがめんどくさくなると、もう、PCとはおさらばすることになる。いずれにせよ、私の寿命を勘案すると、最後のお供となるにちがいない。それ程の性能はなくても良いから、さほど手入れを必要としない丈夫なのがいい。


トランプ現象は地球規模のディズニーランド化

2021-06-24 17:17:08 | 日記

  カート・アンダーセン『ファンタジーランド狂気と幻想のアメリカ500年史』の「第4部 狂気と幻想のビッグバン(1960~1970)」は、トランプが登場する素地が、その半世紀も前に合衆国では出来上がっていたことを子細に描いています。しかもその登場が、アメリカ国民の単なる気まぐれではなく、建国当時からの気質によるものという物語とともに提出されています。
 いつだったか、どこかで河合隼雄が、ある婦人とのやりとりを喋っていたことを思い出した。そのご婦人が交通事故で友人がなくなった夢をみたが、そのときその友人が実際に交通事故で亡くなっていたと話し、「こういうことってあるんでしょうか」と河合に問いかけたとき河合が、「そういうことがあったっていうんですから、あったんでしょ」と応じたということだ。つまり「事実」は事実、それが「物語り」として成立するかどうかは、また別のモンダイとあしらった話として聞いていました。
 だが、1960~1970年代にアメリカで起こったことは、「事実」とその「事実」の関係を述べる「物語り」との区別も行われなくなり、ありとあらゆる価値が相対化されていく言説と相まって、当人がそう信じることができればそれは「現実」という、妄想と現実との区別がつけられなくなるほどの「狂気と幻想のビッグバン」が起こったというのである。
 「偽物と本物の融合」「西部開拓時代の戦闘を再現するドラマのようなイベント」「フィクションが日常に入り込む」「アメリカをディズニーランドにする」「ギャンブルとセックス――急増する幻想・産業複合体」という小見出しを掲げて、1960~1970年代に進行した都市と郊外の変容を書き留める。そうして、SF作家のフィリップ・K・ディックの言葉(1970年代)を引用して、現実と非現実とが区別できなくなっていくアメリカ社会への不安を、次のように言う。

《……現実とは何かを定義すること、それは大切な問題であり、死活的に重要な問題でさえあると思う。その中には、本物の人間とは何かという問題も含まれる。なぜなら、まがい物の現実が無数に提供されることで、次から次へと、本物でない人間、偽の人間が生まれている…。それは、四方八方から迫りくる偽のデータと変わらない。……偽の現実は、偽の人間を生む。偽の人間は偽の現実をつくり、それをほかの人間に売り、その人間を偽の人間に変える。その結果、偽の人間が、他の偽の人間に売りあるくことになる。これはいわば、きわめて大掛かりなディズニーランドである》

 そして半世紀たった今、きわめて大掛かりなディズニーランドは世界大に広がり、他の国々の指導者をも、産業関係者をも、「偽の人間」にかえて行ったのである。
 いまや「どちらが偽の人間か」さえ問われているのであるが、そこであなたは、河合隼雄の「事実でしょ」というやりとりから、何を教訓として引き出すでしょうか。あるいは、それをベースに、「偽の人間」「本物の人間」の区別をどうつけるということができるでしょうか。
 何だかカート・アンダーセンの下巻を読まなくても、いま立たされている「せかい」が読み取れるように感じています。こういう、「幻想」の変遷に照準を当てたアメリカ史を読んでこなかっただけに、その写し絵のような日本の移り変わりをどうとらえたものか、立ち止まって戸惑っています。


哲学的な転回点

2021-06-24 07:15:06 | 日記
 
コロナウィルスと向き合う自然観

 予約書の受取りだけの利用だった図書館が、時間は制限されるが書架も見て回れるようになった。ちょっと軽い小説でも借りようとのぞいたら、吉田修一の『怒り(上)(下)』があったので、借り......
 

  この記事におけるアメリカの大衆的狂乱が、昨年11月の大統領選挙によってひとまず終わったかに見えた。だが、昨日まで読んできたカート・アンダーセンの著書は、その「大衆的狂乱」がアメリカの歴史的に形成してきた「モチーフ」だったと言っているようである。その大きな転回点が、1960~1970年代に起こっているというのが、次なる「論点」であり、アンダーセンは、自分自身の青年期と重ねて、壮大な知的転回が起きていたと記している。それは、時代的に(私の)人生確立期と重なって、思い当たることの多い、壮大な思念(幻想)のコペルニクス的転回であったととらえ返せる。

 そうして、哲学的な方向へ私の思いは舵を切ったのだと、哲学の門前の小僧が頷いている。詳しくは、また後にふれる。


理性への傾斜とマス・メディア、著名人の誕生

2021-06-23 09:55:58 | 日記

 カート・アンダーセン『ファンタジーランド狂気と幻想のアメリカ500年史』(東洋経済新報社、2019年)に触発された話を続けます。
 20世紀になって「第2部 理性への傾斜の時代」に入ったとアンダーセンは見立てている。だが、19世紀末までに「幻想・産業複合体の基礎が築かれた」のが、華々しく実を結んだのが、20世紀初頭であった。
 その事例のひとつとして、1910年代半ばに「恥知らずな」クー・クラックス・クラン(KKK)のプロパガンダ映画が上映され、1920年代初頭には、「アメリカ白人の5パーセントがKKKの会員だったと思われる」事態を迎えている。
 またもう一つとして、テネシー州で「科学による怪しい学説を禁じる法律が制定され」、「あらゆる公立学校の教師が、…神による人類想像の物語を否定する学説や、人間が下等動物から進化したとする学説を教えることを違法」としたという。1925年の夏には、テネシー州のデイトンという田舎町の高校教師が訴えられ、これは全国的な注目を浴び、科学派と反進化論派の論争がマスメディアの紙面で取り上げられて、文字通り劇場化裁判の走りとして取り上げられている。判決で高校教師は有罪となり罰金を科されることになった。これは、21世紀になってからも同様な騒ぎがあったことを私も耳にしている。
 つまり「理性傾斜の時代」は、「幻想」が、科学の進展を排除し、電信や写真や社会技術的な進展に伴う時代の変容に「ノスタルジー」をベースに花開く時代と同時進行だったのである。なるほどそうしたことが可能になるのは、アメリカ大陸という「広大な未開地」へ先住民を駆逐して乗り込んだ「フロンティア」だったからかもしれないと、狭い日本の「自然」を私は想いうかべてみている。そうした「自然」は身に沁みたものだ。「広大な未開地」の感触を知らないものが、イメージする「自立/自律」とは、そのスケールにおいても、その運びにおいても、まるで桁違いの進行がみてとれる。それが「自然/じねん」であると得心するには、現地を知る作家のイメージを介在さあえねばならないのだと、わが身を振り返っている。
 ただ結論がどうあれ、裁判までもが劇場化したことは、逆に、すべてを明らかにして公にやりとりする「おおやけ」を構築したことでもあり、そういう意味でアメリカは、大衆が参加する基礎条件を整えたとも言える。そしてそこが、日本の近代的な政治設計と決定的に異なった地点なのであった。古い大陸を見限り、反抗し、棄てられて、「新大陸」へ伸して来た気概が、なおのこと推進力になったことは疑いない。
                                        * * *
 20世紀が「理性傾斜の時代」となったもう一つ大きな要素が、映画、ラジオ、出版であった。アンダーセンの指摘で面白いのは、それらマス・メディアを通じて、アメリカの大衆文化に誕生したのは「セレブ」だったということ。なるほど、そうしたマス・メディアがなければ、大抵の著名人は「知る人ぞ知る」存在に過ぎなかった。
 ところが、マス・メディアが誕生し、それに載せて広告宣伝が行われ、その手法があれこれと創意工夫を重ねていくうちに、映画館も増え、映画の制作本数も増加していく。ラジオは声だけではあるが、無料で情報を届ける。人々は文化を共有し、あるいは共感し反撥して、場を為していく。まさしく週や都市単位であるとはいえ、「ユナイテッド・ステイツ」の土台がかたちづくられていく。新聞や出版の発行部数も、後にそれに載せる広告・宣伝も、商品や出来事の文化として社会的に共有されていく。「19世紀までに基礎がつくられた」狂熱のファンタジーランドの並みに載ったのは、アンダーセンが謂う「セレブ」だけではなく、「コマーシャル」も「デキゴト」も、つまり社会文化のありとあらゆるコトゴトが、「アメリカ人」の共有する文化として「セレブ」として著名化していったのであった。狂熱をベーシックな気質とするアメリカ人にとって、第一次大戦と第二次大戦を経て、「自由社会の自由と人権の旗手」として「理性の時代」を迎えたことが、そのまんま、敗戦を迎えアメリカによって占領された日本に流れ込んできたのであった。
 戦中生まれ戦後育ちの私たちが、「日本国憲法」や「アメリカ」を新しい時代の「希望の指針」と受け取って吸収していったのも、むべなるかなであった。
 その「情報化時代」が、さらにその後、テレビやインターネットを通じて、量も変え、質も変わり、かたちを変えて大衆の自己表現へと移り変わってきたことは、よほど人間を変えてきたと見なければなるまいと、78年の径庭を振り返っている。


愛想の良い検診。

2021-06-23 07:08:04 | 日記
 
かたちは平常に戻る

 昨日は夏至。一年で一番昼間が長い日であったが、あいにくの曇り空。午後5時の日食も、関東地方では見ることができなかった。そして今日は、朝から一日の雨。いかにも梅雨らしい天気になった......
 

 昨日は夏至。一年の真ん中。そうか、昨年は平生が戻ったという感懐があったか。今年は、感染者数や病床の逼迫度は、昨年よりはるかに高いのに、毎日が平生という感触になっている。「茹でガエル」じゃないが、動物的な慣れって、やはりすごい。

 今年は、年に一回の「健康診断」。近くのクリニックへ行く。内視鏡の腕がいいというので、昨 年からこちらにしている。かかりつけ医は、内視鏡などをやらないから、それまでかなり遠くの病院へ行っていた。ご近所の噂をカミサンが美容院で耳にして、こちらにしてみた。「大先生」という親世代が身を引いて、若い息子世代にかわっている。

 愛想のいいお喋りをする。モニター画面を見て、「あっ、キリマンジャロのヒトだ。書いておいてよかった」と屈託がない。診察モニターに私とのおしゃべりを書きこんだりしているのだ。だがキリマンジャロに登った人って、日本に十人くらいいるのか? という質問に驚いた。勉強ばかりしてきたのか、世の中とずいぶんズレている。どんな生き方をしてきたのだろうか。

 内視鏡の腕は、確かにいい。画面を見ながら、解説しながら、「綺麗ですね」とほめながら、さかさかと進む。あとでモニター画面を見て「ここの皺が多いのは、胃が若いってことです」と齢の割りに健康な状態だと言葉を添える。「心臓が強いんですね」と、ぽつりとこぼした言葉が気になる。

 子細は、3週間ほどのちになる。夏至に検診というのも、何だか象徴的だと思った。この後は、だんだん昼間は下り坂。短くなる。そう、人生と同じだね。

 カミサンのおしゃべりは、ちょっと違ったようだ。コロナワクチン接種のことになり、「なんだ言ってくれれば、うちで接種できたのに」と、話が弾んだそうだ。わがかかりつけ医が、「ワクチン接種はルールがなくなってる」といった通りの様相。「もう緑区のクリニックはいっぱいです」と応じた区役所の担当者も、実態がこうなっているとは、思いもよらないのかもしれない。