mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

槍ヶ岳・表銀座縦走(2)花に彩られた大岩の堆積した喜作新道

2019-08-27 19:38:42 | 日記
 
 登る前の天気予報「燕岳のてんきとくらす」では、8/19は曇りのち雨であった。午後3時ころから雨という予報は、夏の山の天気としては当たり前といえば当たり前、いわば夕立のようなもの。では、縦走にかかってのそれはどうか。「てんきとくらす」では三日間は「A」、つまり「適」だったのである。徳澤から上高地に出る最終日がまた、雨になるか。でも、ほぼ平地を歩くようなものだから、残った疲れはあろうが、気分よく、この山行を終えることができると算段していた。
 
 そうして、二日目(8/20)。夜の間に雨は止んだか、東向きの窓が明るい。カーテンを開けて外を覗いていたysdさんは朝陽の昇る方が見えるとkwmさんに囁いている。外へ出てみると、東側にそびえ立つ有明山が、その別称の「信濃富士」と呼ばれる通りに、少し平らな山頂をいただいて黒ずんだシルエットをみせ、その向こうに雲海が果ての方までつづく左の方から上る前の朝陽の輝きが広く空を染めている。5時過ぎ。テーブルベンチとその傍らにたたずむ人の陰が、早暁の清々しさを湛えている。
 
 5時からの食事の席がいくぶん空いているというので、少し早めてもらって朝食を済ませ、出立することにした。天気がいいうちに次の泊地に着ければと、暢気に考えていた。その問い実際の予報は、すでに燕岳は「C」「登山不適」の連続三日間に変わっていたと、後になって知った。5時55分、出発。私たちの前を、テント泊をしていたのであろう大学生の集団が、通り過ぎて先を歩く。その姿はすぐに見えなくなった。西の方の上空には厚い雲がかかり、見晴らしはない。ただ、すすむにつれ、雲が薄まる3000メートルより下の方には陽ざしが入り、高瀬川を挟んで向かい側の裏銀座ルートにある真砂岳から鷲羽岳にかけての山体と谷間が、輝くようにみえる。「あれ、虹」とkwmさんが指さす。朝陽と霧となると、ブロッケンが見えるんじゃないかと私は思ったが、そう都合よくは運ばない。
 
 表銀座と呼ばれる大天井岳へのルートは、広い稜線と、ところどころに立ちふさがる大岩が屹立する。その先は深い霧のなかに溶け込んで、途中までしか見通せない。天気が崩れる予感がする。kwmさんがときどき立ち止まってカメラを構える。目を落とすと、足元の砂地にコマクサが花をつけてぽつりぽつりと佇む。トウヤクリンドウが緑色の穂先を花咲かせようとしている。コゴメグサ、ホツツジ、クロマメ、ヤマハハコ、ハクサンフウロ、トモエシオガマ、ムカゴトラノオ、ヤマリンドウ、カワラナデシコ、イブキトラノオ、アキノキリンソウ、トリカブトなど、花が目を楽しませる。ブルーベリーやイチゴの実もおいしそうに生っている。
 「北ア南部遭対協」の建てた古びた木製表示板が「←大天井岳3.5km」と距離を告げている。砂地以外はハイマツが覆い、西からの強い風に拭かれて、小さな樹々の枝は東の方にしか伸びていない。稜線の東側に踏み込むと途端に風がやみ、気持ちの良いハイキングになる。東の谷の下の方で生まれている雲まで見通せる。標高2700m前後の稜線沿いとは言え、北アルプスは岩の山だとわかる。巨岩のあいだを縫って道が伸びる。
 
 燕山荘を私たちより先に出発した大学生十人ほどのグループが、また休んでいる。彼らは脚は速いが、長続きしない。常念岳の方へ行くという。後期高齢者が二人もいるとはいえ、こちらの方が「トレーニング」の甲斐あってか、休まず長い距離と時間を歩けると、ちょっと誇らしくなる。とうとう大天井の北側の常念岳と大天井ヒュッテの分岐のところでは、私たちの方が先行してしまった。この分岐までほぼ3時間。ぴったりのコースタイムだ。この表銀座の槍ヶ岳へのルート・喜作新道を拓いた小林喜作のレリーフがあるとを地図には記してあったが、気づかずに通り過ぎてしまった。
 
 その喜作新道は、大天井岳が岩山であることを明かすように西岳に向けて山体をトラバースする。それは、岩に足をかけ、手でつかみ、重畳たる岩をへつって西へ向かう。霧が一層深くなり、雨になって顔に振りかかる。先頭を行くkwrさんは、ストックを仕舞って慎重にすすむ。そのゆっくりしたペースがysdさんには好ましい。kwmさんとさして間を開けず、ついていっている。疲れが出てきたかと思う頃、前方の眼下に赤い屋根が現れる。大天井ヒュッテだ。「えつ、小屋ですか? 良かったあ」とysdさんが悦びの声を上げる。
 
 9時45分。大天井ヒュッテに着く。すでに大学生のグループと若い単独行者3人のグループが休んでいる。雨がひどくなる。屋根に落ちたのを集めて樋を越えた雨水が、大きな音を立てて、地面にぶつかる。「こりゃあ、ひどくなったなあ」と出かけようとしていたグループが、二の足を踏んでいる。「ちょうどいい、ここでお昼にしよう」と提案して、少し長く休憩することにした。あと3時間程度で今日の宿泊地に着くと考えると、気分が楽になる。大学生のグループは、すっかりへばっている子がいて、西岳まで行く気力がつづかない。今日はここに宿泊して、明日以降常念岳の方へルートを変更するようだ。それが賢明かもしれない。常念岳へのルートは、技術的にむつかしいところはない。だが、西岳の方へ入ってしまうと、東鎌尾根を辿って槍ヶ岳へ抜けるか、その途次から槍沢小屋の方へ下るか、それしかエスケープルートがない。表銀座の難しいのは、そういうところだ。まして、調子の悪さが高度障害のせいだとしたら、ヘリコプターを呼ぶしかない。
 
 若い単独行者がエスケープルートのことを訊ねたので、そう応えた。彼は山の初心者のようであった。でも、このルートを踏破してみようと、意を決して出てきたのであろう。その意欲やよし、だ。あとで結局彼は、私たちが出発したのを追うように西岳に向かった。私たちはほぼ1時間様子を見て、10時50分頃に大天井ヒュッテを出た。後を追って来た若い単独行者はビックリ平で先行し、ずいずいと歩いて私たちより先に西岳に着いた。砂地のすべりやすいトラバースあり、岩を下り上るところもあり、猟師であった小林喜作が大正時代に整備したお蔭で、燕岳から槍ヶ岳まで3,4日かかっていたところを1,2日で行けるようになった。そんなことを考えながら、歩いた。小屋の中で見ていると大雨にみえたが、外に出て歩いてみると、そう酷くはない。むしろ暑くもならず、冷えもせず、快適ともいえると感じた。
 
 西岳ヒュッテには2時30分頃に着いたか。これもまた、ほぼコースタイム。kwrさんの足取りが着実であったおかげだが、雨と汗のために全身びしょぬれ。それでも昨日ほどには、濡れたことが身に響かず、身体が雨に馴染んできているような、不思議な感じがした。
 
 西岳ヒュッテは小さな山小屋。先着のひと組4人と大天井ヒュッテで出逢った若い単独行者と私たち4人の全部で9人。ゆったり泊まれば全部で32人泊まれる。混雑期にはその二倍の収容人員になるそうだ。山小屋だから、来るものを拒むわけにはいかないから、寝られない状態になることもある。そういう点から考えると、今回の「お盆過ぎ」という山行時節選びは、当たっていたと言わねばならない。先着の4人のグループは、燕山荘に泊まっていて、今朝4時半に出発したという。そうして1時間前に着いたというから、彼らも(休憩時間のとり方はわからないが)コースタイムで歩いたのであろう。お酒を呑みながらにぎやかに話を交わしていた。
 
 東の方は、雲がない。正面に常念岳とそれに連なる山々がどっしりと控え、常念小屋の全景がくっきりと見える。向こうからも見えているのだろうが、どうだろう。昔、常念小屋に泊まった時は、槍や奥穂高ばかりを見ていて、西岳やその小屋を目に止めたことはなかった。西の方は雲のなかであったが、夕食後になって、雲が取れた。すでに床に就いていたkwrさんに、窓の外から声をかけたら、彼はkwmさんのカメラを持って出てきた。槍ヶ岳から南岳、大キレット、北穂高岳、涸沢岳、奥穂高岳、前穂高岳へとつづくパノラマが沈みはじめた太陽を背景にシルエットになって佇んでいる。その下の方に、白っぽい斜面をさらして涸沢が見える。いつまで見ていても飽きない光景と思えた。(つづく)

槍ヶ岳・表銀座縦走(1)いざ、合戦に

2019-08-27 11:14:02 | 日記
 
 穂高駅は閑散としていた。松本で特急あずさから乗り換えた大糸線の普通電車だからだろうか、ザックを担いだ人は私たち以外にいなかったようであった。タクシーは、私たちが予約した一台だけ。すぐに20km余の中房温泉登山口に向け出発した。今朝早くにも登山者を運んだ、今日は二度目だと運転手はご機嫌だ。早朝組は、車を穂高駅付近において北アルプスを縦走し、上高地へ下山後にここに戻ってきて帰途につくいう。
 
 中房登山口1450mは混みあっていた。午前11時過ぎということもあって、ほとんどが燕山荘からの下山者。昨日登り、燕岳へ往復してきた人たちが多いようだ。成就感に賑わっている。件の運転手のご機嫌の理由がわかった。タクシーがつくとすぐに、穂高駅まで行きたいという乗客がやってきて、値段交渉をする。割引きはしないから、そちらでお客さんを4人そろえて来なさいと運転手は待っているだけで、帰りのお客まで用意されるというわけだ。
 
 11時18分、kwrさんを先頭に上りはじめる。すぐに急登になる。今回は4人。kwrさんは高校1年のときに山岳部員に引率されて槍ヶ岳へのルートを歩いたことがあるらしい。それをもう一度歩いてみたいというのが、どういう思いかはわからないが、自分の原点をこの目で確かめたいというのではないかと勝手に推測している。kwmさんもysdさんも、槍ヶ岳は眺める山だったようだ。東側の常念岳からみていたのを、今回登ってみようというわけ。私は、このルートを歩くは4回目になるか。しかし30年以上も前のこと。槍ヶ岳をみながらあるいて、雷鳥にも出逢ったなあ、岩場があり、長い梯子をおりたなあという程度の印象しか残っていない。
 
 薄曇りが深い霧に変わる中、何人かの下山者とすれ違いながら第一ベンチに着く。ちょうどお昼ころ。朝食は早かったのだが、タクシーの中でkwmさんからおやきを頂戴していたから、ここまで心地よく登ってくることができた。文字通り「ベンチ」に腰掛けて食べる。15分くらいだったろうか、kwrさんが出発の準備を始める。私は、サンドイッチが一かけら残っている。「なんだ、もう行くの? まだコーヒーも呑んでないよ」と、いつもの山行でお昼が短いことを訴える山の会の人のことを想いうかべて「私もmrさんになっちゃいましたね」というと、kwmさんが(何を言っているかわかって)笑う。
 
 第二ベンチ1841mに着くころ、霧が雨に変わる。雨具をつける。12時50分、お昼をふくめて1時間半で来ている。コースタイムだ。ペースがちょっと早すぎるかな。でも今日は4時間の歩行だから、少々オーバーペースでもいいか、と思う。第三ベンチに13時26分、出発してほぼ2時間。「←中房温泉口2.7km・2.8km燕山荘→」と看板がある。ほぼ中間点というところか。まことに順調。このルートは「合戦尾根」と呼ばれ、「日本三大急登のひとつ」と謂われている。あとの二つがどこなのか知らないが、それほどの急登とも思われない。「トレーニング山行」と称してこの3月から登って来た「急登」を振り返ると、鷹ノ巣山や朝日山(赤鞍ヶ岳)や丹沢山への登りもけっこう急登でしたよと、kwrさんやysdさんとも話す。コメツガやシラビソの樹林、シャクナゲの群落に包まれたルートはよく踏まれていて、危なげがない。
 
 「富士見ベンチ」を過ぎて20分ほどのあたりから、剥き出しの岩がルートに現れ、足元が砂地になる。この雰囲気は、ぼちぼち合戦小屋が近づいた証か。ysdさんがずいぶん草臥れてきたようだ。さらに10分ほど進むと「合戦小屋まで10分→」と木立に小さな表示が打ち付けてある。少し大きな休憩をとりましょうと合戦小屋まで頑張る。14時50分、小屋に着く。3時間半、おおむねコースタイムであるいている。標高2377m、そろそろ高度障害が出てもおかしくない。
 
 いつもならスイカを食べる登山者、下山者でにぎわう合戦小屋が、静かだ。一組の2人が雨の落ちる外のテーブルベンチに荷をおいて休憩している。私たちは小屋のテーブルを借りる。ysdさんの顔色が良くないとkwrさんが気を使っている。少し暖かいものを飲んでとココアを淹れる。「いや、くたびれたよ」と口にするkwrさんは、しかし、元気だ。私はサンドイッチの残りを口にする。汗に濡れたからだが、少し冷えるように思った。30分ほど休憩して、最後の1時間10分を頑張ろうと出発する。
 
 ここからが、じつは、合戦尾根。背の高い樹林は、ない。森林限界を超えたらしい。ササとナナカマドとハイマツと灌木の間の砂の道を上る。トリカブトの群落が道端を飾る。雲の中から、ぼんやりと燕山荘の建物が浮かび上がる。下を向いて歩いていたysdさんも、顔をあげ元気が出る。丸太で土留めをした階段が広いルートを上へと導く。その砂地の道の上の方に、青、赤、黄色のテントの並ぶのがみえ、kwrさんもkwmさんの足も速くなる。ysdさんも燕山荘の玄関口にたどり着き、「やっと着きました」と悦びの声を上げる。16時半、歩き始めて5時間20分。お昼と長い休憩を除くとほぼ、コースタイムで上って来た勘定になる。標高は2704m。あとで燕山荘のオーナー代表の話を聞いて、私たちのとった休憩が「正解」だったと知るのだが、合戦小屋で1時間から1時間半程度の休憩をとるのが高度障害を起こさないコツなのだそうだ。私はすっかり高度障害のことを忘れていたが、それを気遣わなければならないのだと改めて思った。
 
 燕山荘は賑わっていた。どなたが名付けたのか燕岳を「北アルプスの女王」と呼ぶようになって、わんさと若い女性が押し掛けるようになった。燕山荘がアルプホルンの演奏などをするものだから、名物見学のようにやってくる。4時間かけて登り、2時間50分で下る。燕岳への往復をふくめても、往復8時間の登山は、燕山荘に泊まってコマクサをみる。下山したら中房温泉に入ってご帰還というのは、なかなかオシャレなのかもしれない。ま、そうして山に親しむのは、日本の登山が成熟してきたからかもしれない。
 
 賑わいに応じて燕山荘も、雨に濡れた服装でやってくる大勢のお客さんを手際よく受け容れ、食事の世話をして寝泊まりさせるにふさわしい、機能的な仕組みをとっている。これは、翌日の登山に備えて体を休めるにも、気持ちがいい。二段になった蚕棚のような泊りの寝床も、さほど苦にならない。kwrさんがビールを買ってきて、とりあえず山に入った寿ぎの乾杯をした。強い雨が降っていた。(つづく)

文化の細いきずなとナショナリズム

2019-08-25 07:46:15 | 日記
 
 大澤真幸が「想像の共同体」を梃子にまとめたナショナリズムの五点の特徴をもとに、さらに踏み込んで話をすすめていきたい。
    ① 「知らない者同士」が国民である。
    ② ネーションは「限られたもの」である。
    ③ 共同体を構成するメンバーの平等性
    ④ ネーションは「客観的には新しいのに主観的には古い」というねじれをもつ
    ⑤ ネーションは基本的には文化的な共同体だが、政治的に自立した共同体でありたいと強い欲求を持つ。
 
 ①が「国民」という一体感のベースになるのは、「俗語/口語」の共通性だと前(8/11)に述べた。それは同時に、「共通性」をもたないものを②として排除するモメントをもつ。つまり、②のモメントが発生することによって①が保たれているともいえる。
 
 ところが、中産階層が社会の大多数を占めるようになって③が具現すると、社会的には不安定になる。なぜか。私たちの具体的な関係は、つねにかかわる者同士の優劣をともなう立ち位置が(それなりに)明快であることによって、安定をもたらされているからである。
 
 「子どもがヘンだ」と謂われたときの親子の関係もそうだし、「学級崩壊」が騒がれた教師と生徒の関係もそうであった。つまり、1970年代後半から80年代のジャパン・アズ・ナンバー・ワンと呼ばれた時代を通して、圧倒的多数の中産階層が生み出され、人々がフラットにかかわり始めた。優劣をないがしろにする「かんけい」が蔓延したのである。そのことによって、一人一人の心裡における「関係の定位」は、とても不安定になった。
 
 ことばを換えれば、こうも言えよう。それまでは「関係の優劣」は社会的な「権威」や「仕組み」や「共通規範」によって共有されていた。秩序感覚である。それが崩れて、「関係の優劣」は人それぞれの「かんけい」において、その都度紡ぎ直されなければならなくなった。むろん、家庭においても、企業や学校という社会団体においても、社会関係がフラットになったからといってすぐさま団体内部の「関係」が変わるわけではないから、それぞれの団体の、秩序感覚の弱いところから崩れていったようであった。優劣の存在が我慢ならないことによって、鬱屈が溜まり、噴出する。家庭でも学校でも、「弱い環」がトラブルを起こし、事件になる。そう考えてみると、80年頃に「非行」「家庭内(校内)暴力」や「不登校」や「ひきこもり」が多発し始め、社会問題として取りざたされるようになったのが、その走りだったともいえる。その後、その傾向は強まり、社会的には「多様化」だとか「人それぞれ」と呼ばれ、「優劣」それ自体が「かんけい」において不要なことのように扱われるにつれて、社会的な定位を求める(秩序感覚の)内的衝動は、社会的な共通感覚からはずれ、個々人に委ねられるようになったといえよう。
 
 これは個々人にとっては、事態がますます過酷になったと言わねばならない。能力主義の謳歌もともなって、経済力のあるもの、いわゆる「学校歴」の優れたものや企業や出自の優位な位置にあるものは、自ずと社会的な「関係の優劣」に心煩わせられることなく、振る舞うことができる。小さな社会団体や自主的な(スポーツや趣味や特技の)ネットワークにおいても、優劣の関係が安定しているものは、身をおいても不安定を感じることはないであろう。
 
 しかし、その内部の個々人の「かかわり」における優劣を定める「つなひき」は、頻発するようになったともいえる。むろん、ジェンダーもあるから、家庭における人と人との確執はますます過酷になっていった。それらがすべて、個人的なモンダイとして(社会的に)扱われることが常態になり、ますます弱い環は厳しい環境に置かれたわけである。
 
 それを凌ぐことができたのは、自らを、さしてとりえのない平凡な市井の人と位置づけ、資本家社会のドライブパワーに振り回されることもなく、「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」人たちではなかったか。まさに庶民の伝統的知恵がかろうじて、暮らしにおける「かんけい」の安定を保つ力になっている。だがこれは、近代というよりは、それ以前の中世的感覚に近い。はたして④の「客観的には新しいのに主観的には古い」社会的共通感覚の中軸になるだろうか。
 
 バブルが崩壊した90年代以降は、経済社会のグローバリズムの進展もあって一億総中流の時代が終わり、「格差社会」が現出した。そのことによって、「関係の優劣」感覚が社会的にあからさまになった。つまり社会感覚から③がほぼ消えようとしているのである。①や②の由々しき事土台が揺るぎ始める。ナショナリズムにとって由々しき事態だ。
 
 たぶんそれを体感しているからであろうが、ヘイトスピーチがかしましくなり、⑤の「政治的に自立した共同体でありたいと強い欲求」が周辺国との緊張を緩和するモメントよりも強く表出するようになった。ナショナリズムの一体感を味わうように、かつての「栄光」を再現するドラマや画像が繰り返され、日本人の国際競技における活躍や「クール・ジャパン」を称揚する報道が力説される。つまり(大澤真幸が要約する)ナショナリズムは、間違いなく衰え始めている。
 
 これはしかし、わが身の裡のナショナリズムを、次元を変えて組み換え直す機会であるように、感じる。その次元が「中世的感覚に近い」次元をどう組み込むか、そのあたりが「鍵」になると私は考えている。だが、その広がりや手掛かりはまるで霧中にあって、単なる私の妄念にすぎない。

雨の中の槍ヶ岳

2019-08-23 19:51:42 | 日記
 
 先ほど、5日ぶりに山から帰ってきた。いわゆる表銀座コースをたどって槍ヶ岳を目指素コース。帰るなり「どうして天気のいい日に行かないのよ」とカミサンにいわれた。ひと月も前に山小屋は予約した。台風が来るというのでハラハラしながら見ていたが、四国に上陸して大きく北に回り込んでくれたから、行く前々日まで「槍ヶ岳のてんきとくらす」は、初日を除いて「A」が3日続いていた。徳澤から帰宅する日に天気が崩れるが、ま、雨の小梨平もいいかもしれないと思っていた。ところが、出発当日に「てんきとくらす」をみると、全日「C」になっている。「登山不適」の表示だ。そして予報通り、毎日雨と霧と強風の中を歩いて槍ヶ岳の穂先にも到達し、先ほど帰宅したというわけ。
 
 明後日にはまた、「ささらほうさら」で出かけなければならない。今回の「合宿」では私のレポートも入るから、その準備を明日仕上げる必要もある。そういうわけで、槍ヶ岳の山行記録は、27日以降に詳しくは書き綴ることになる。
 
 じつは、私の山の会の参加した喜寿の一人が、中高一貫校の中学生の時に先輩の高校山岳部員に引率されて、このルートを歩いたことがあったそうだ。でもご本人は、このルートがどんなものであったか、ほとんど記憶にとどめていない。そこを62年後にもう一度歩いて、(たぶん)自分の出発点を振り返ってみたいと思ったのであろう。山の会の山行として起案し、実施の運びになった。
 
 中房温泉から日本三大急登と謂われる合戦尾根を上って入山する。燕山荘で第一泊。

 二日目、槍ヶ岳を眺めながら大天井への稜線を歩く。切通岩のところから大天井岳の中腹をトラバースして大天井ヒュッテを通り、喜作新道を歩いて西岳ヒュッテに二泊目。日没の直前、それまでかかっていた雲が取れ、槍ヶ岳から南岳、大キレット、北穂から奥穂、前穂、涸沢カールの全景が見事に姿を現した。

 三日目、西岳から水俣乗越への大下りを下り、いよいよ東鎌尾根に入る。これは槍ヶ岳そのものへ登っていると言えるほど、岩の山歩きになる。そうして、槍ヶ岳山荘に三泊目。しかしこの三日目の風雨が一番激しかった。風速15mの中、東鎌尾根の細い稜線を通過するときには、飛ばされないように姿勢を低くし、岩にしがみついているということもあった。疲労困憊の様子であった。槍の穂先に登るのは、とりあえず断念。

 四日目朝飯前、霧の中を槍の穂先に挑戦。ついに山頂に到達したが、周りは見渡せず。下から若い学生グループが登ってくる。山頂にある祠を囲んで記念撮影だけして、下山にかかる。山頂への往復ほぼ一時間で山荘に戻り、朝食を摂り、大満足の面持ちで下山開始。若い人が次々と追い越して下る中、喜寿の登頂者を先頭に、景観と花を愛でながら、ほぼコースタイムで歩き下って、徳澤園で第四泊目。登頂の成功が、風雨につきまとわれたコンディションを帳消しにして、疲れを心地よい身体感覚へと変えていったようだ。

 第五日目、「上高地に大雨注意報」という報道があった中、徳澤園をゆっくり出発。上高地のまでのコースタイム2時間の行程を1時間40分で歩く。小雨もその途次に上がり、陽ざしさえ指していた。河童橋から振り返ると、穂高岳と呼ばれる明神岳の西側稜線の向こうに前穂高岳のピークが顔をのぞかせ、一瞬奥穂高岳の山頂もみえたようであった。
 
  上高地から新島々までバスに乗り、松本電気鉄道で松本駅へ出て、全席指定になった「あずさ」に乗って帰ってきた。電車のなかでは熟睡していた。こうして東浦和駅に降り立つと、何と、雨。傘をさして家までを歩きながら、(今回の表銀座山行は、雨の中の槍ヶ岳であったなあ)と、起承転結が決まったと思った。

一つの画期

2019-08-19 05:56:06 | 日記
 
 いまから山へ出かける。山の会の人たちと一緒に、表銀座縦走の槍ヶ岳、4泊5日。ずいぶん余裕の日程を組んだ。何しろ後期高齢者二人と60歳代二人だ。十数人いる山の会の人たちも、着いてくることができなくなった。順調に年をとっているからだが、寄る年波には勝てないと思い込む「壁」が立ちはだかっているように思う。むろんそれはそれで、悪いことではない。身体の調子と心のレベルが見合っていると、事故は少ない。自己判断して参加するのを原則としているから、ほかの方々を頼りにしないのが、いいありようだと私は考えている。
 
 私は、こうした山の一つひとつ、ことに夏に歩く4、5日の山行を毎年、一つの画期と受け止めている。これでへばるようであったら、行き先を考え直さなくてはならないと思案している。今年はそれが、槍ヶ岳になったわけだ。
 
 さて、どうなることか。半分自分をのぞき込みながら、ちょっと心弾んでいる。ではでは。