mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

大きな仕事は、片づけたが、まだまとめない。

2019-04-09 20:56:34 | 日記
 
40年後の暮らしを決められるか

  今住んでいる団地の管理組合の理事長に5月末から就任することになり、2月から現理事会や修繕委員会という専門部会に傍聴で出席している。「傍聴」というのは微妙な立場だ。5月の定期......
 

 去年の今日、上記のようなことを書いた。そしてその一か月半後の総会で新理事長に就任し、一年間務めてきた。一昨日、4月の定例理事会を終えた。5月の通常総会にかける議案書の「最終稿」の承認をとり、印刷所へ回した。今年は10連休が挟まっていたり、元号が分かるためにどこの印刷所も製本屋も、手いっぱい。議案書の入稿が早まり、しかも連休明けにはすぐに「議案書」を各戸に配布しなければならない。つまり、「議案書」を提出したあと一カ月半ほどは、毎月のルーティンワークと、若干の積み残した修繕や樹木の植替えを型どおりに行うことが残っているだけ。残るは、次期理事候補への引継ぎ。ほぼ、理事会の大仕事は終えたというわけである。

 いまここで、一年間の感想をまとめることはできない。こうやって気を緩めるときに限って、思わぬことが出来する。だからやはり、お努めがきちんと終了する、通常総会の終了まで、まとめるのはお預け。だが一つ、こういうことは言える。スタートのとき、OJTでやるしかないと「新理事長挨拶」をした。その通りで、理事の方々がとても積極的に動いた。私はどちらかというと、コーディネーターの役割。皆さんのコミュニケーションを図り、やり取りを仲介し、「今週の動き」として、理事・役員のだれが何をしたか、どう考えているかを、全理事に伝え、それぞれの理事は「みられている」と意識するようになった。この一年の正確な数は数えたことはないが、先月の私が受け取った理事からのメールは、100通を超える。むろんその分だけは、返信している。しかもそのメールの大半は、「コト」に関係する複数の理事と正副理事長とに当てたものだったり、全部の理事に当てたものだから、やり取りが筒抜けでもある。

 こうしたやりとりが間違いなく理事の胸中に(外部の目)を育て、ことごとに丁寧に応対する姿勢を作り出したといえる。ま、この程度にしておこう。任務を解かれたら、暇を見て、この理事長仕事のあれこれをまとめてみることにする。おたのしみに。

 


死者の目線を仮構する

2019-04-09 10:40:08 | 日記
 
 今日、4月9日は弟Jの命日。5年前(2014年)に亡くなった。もし存命であれば69歳。Jよりちょうど10年後に生まれた方が5月から天皇になるから、来年から、Jの生誕の日は天皇誕生日になり、祝日となる。なによそれって、と彼は彼岸で苦笑いしているに違いない。
 
 ふと思い出したのだが、子どもの頃私は、絵が苦手であった。小学生の頃、棲んでいた家の裏を流れる新川という幅20mほどの川の向こうには田圃が広がり、その先に、漆喰塗りの白壁のお屋敷があった。それがつつましく見えるのは、そのお屋敷のすぐ後ろには大きな山が控えて青々と背を伸ばし、その中腹に、お大師堂と呼ばれたお寺の石段とやはり白い漆喰塗りの壁が、その在処を明かすようにポツンと位置していた。それは絵にしたいような美しい風景だった。私の兄二人がそれを絵に描き止めていた。私もそれを真似て、夏休みの宿題か何かで、それを絵に描こうとしたのだが、田圃から描くとお大師堂がはみ出してしまう。山の山頂から描くと田圃もお屋敷も画用紙に収まらない。たしか小学校5年生くらいのときだったと思うが、それがあって以来私は、自分が絵は下手だと自覚し、手を付けようとしなかった。
 
 いま思うと、バランス感覚が悪かったのだろう。ずいぶんのち(1970年代に入ってから)の話になるが、言語学者の大岡信だったか大野晋だったかがアメリカの探訪記を書いていた中に、アメリカ人のポスターの書き方を記したものがあった。日本人ならば、一枚の模造紙に何かの標語を書く場合、その文字数を均等に割り振るように鉛筆か何かで印をつけて置いて一文字ずつを書き留めていくのに、アメリカ人はいきなり書き始め、用紙が足りなくなると、新しい紙をつぎ足すようにしてしあげていくという。文化の違いが人の持つ根柢的なセンスの違いを反映するというのものだった。そのとき私は、やはり絵が苦手な「わたし」を想いうかべて、そうなんだバランスが悪いんだと印象深く思っていた。
 
 一枚の紙に観ている世界を収めようとするときのバランスとは何だろうと、疑問に思った。盆栽でも造園でも良い、一つの世界を限られた場所に収めようとするときに生じる「落ち着き」というか、バランスよく収まっていると感じる感覚は、何に由来するだろう。別様に謂えば、こうも言える。三次元の風景を二次元の紙に描き落とすというのは、立体感を醸し出すようにしておかないと、座りが悪い。そう考えていたころ、建築を学んでいた友人から「遠近法的消失点」をいうことを教わった。彼は設計をすると同時に、完成予想図を仕上げるために透視図をよく描いていたのだが、その要諦が遠近法にあり、それを要領よく安定させるのが、遠近法的消失点だというのであった。
 
 これは、絵を描くときだけでなく、ものごとを考えるときにも関係することではないか。バランスが悪いというのを私たちは、いくつかの要素に分けたものごとが安定的に配置されているかどうかを問うていることが多いのだが、ではその「安定的」という感性は、何に由来するのかまで考え詰めることはしていない。ただなんとなく「座りが悪い」の、「いい具合だ」のと感じてみているだけだ。それを、時間や空間を超えた社会関係のものごとを考えるときの「遠近法的消失点」とは何かと考えると、一挙に氷解することがあった。それが、死者の視線を仮構して、彼岸から、今現在のわが実存の立ち位置をみることではないのか。
 
 同じ年に、弟Jが亡くなり、母が亡くなり、長兄が亡くなったために、一時に彼岸が身近になった。それまでは死者を弔うと考えていたが、以来、死者に見つめられているという感触がわが身の裡に潜むようになった。そのようにして、わが身の裡の外部があらたに誕生したとも言える。
 
 胸中の、あちこちに散乱していたことごとが、だんだん一つに収まって「せかい」をかたちづくっているような感触が、いま、心裡に湧き起りつつある。不惑のころに、一度、「世界のことごとがつながっている」という似た様な感懐を感じたことがある。そのときの感触は、この世界のどこで生きても、ぶつかっているモンダイは同じなんだという感懐だったように思う。いま感じている「せかいが一つに収まる」感じは、また違った感触に思える。収束点というか、遠近法的消失点がほの見えているような感じなのだ。二元論も一元論に、対立的思索がひとつながりに、ミクロとマクロが同じことを探究しているのだということに。でも、ことばにしてみなければなんとも言えない。